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『月読』ともう一体の化物

 寿太郎らが場を覗き込む下で、うずくまる新兵衛はその顔を見上げた。夜目に慣れてしまったので飛び込んでくる陽光にぎくりとする。皆既日食だったのだ。眼を細め、汗を拭う仕草でさり気なく目に影を作る。

 もともと保馬なぞは恐ろしい顔つきをしていた。半平太の介錯をして以来、顔面神経痛を患っていたのだ。だが、異様なことに他の者もそれと大して変わらない。怒っているのか、笑っているのか、左右対称ではない目鼻立ち。皆、顔が歪んでいるようだった。

「なんだこれはーっ!」

 弥太郎が叫んでいる。

 その一方で助太郎、多司馬、楠次と起き上がろうとしていた。その間、先に目を覚ました弥太郎が、これは豪次郎、そっちは小笠原さま、弟御までと撲殺死体を右往左往行き来している。

 寿太郎らはそれをぼーっと眺めていた。それが気に入らなかったのか、弥太郎が言った。

「答えろ!」

 癇癪を起して詰め寄ると今度は蓮台の担ぎ棒と平行に横たわっていた焼死体に驚く。「もしかして、乾さんか!」

 それを聞いて助太郎ら三人も慌てふためく。大変なことが起こったのは必至。「何があった!」

 卒倒していたそれぞれが蓮台の周りに集まってくる。その騒ぎに、やっと目が覚めた安吾とたえも頭を抱えながら身を起こす。そして多分に漏れず、焼死体一つと撲殺死体三つに気付く。

「小松さん!」と二人。

 新兵衛は静かに首を振る。「もう少しで終わりじゃ」

 鵺の鳴き声に気を失っていた者らはみんな、そこで初めて気付く。

 残るは一枚。

 寿太郎が言った。「願い事が叶うんだと」

 弥太郎らは一斉に空心を見た。

「その通りじゃ」 そう答えた空心を遮って、寿太郎が言った。「後醍醐帝は討幕を、高野山は信長の死を、吉宗は将軍職を願った」

 弥太郎は、はっとした。「親政!」

「な、討幕はいかんじゃろ」と寿太郎。

 確かにと弥太郎は思った。それで後醍醐帝は失敗している。鎌倉を倒したと思ったら足利氏が幕府を打ち立てた。

 ということは、と考えた。血まみれに横たわっている三人は生粋の攘夷派。それも幕府を倒してメリケンのようにしたい奴ら。ならば己らと対立するのは至極当然。どうせ『月読』の終わりとともにみんな消えて亡くなるのだ。命を惜しむなんてことがあろうか。それにも増していまここに存在する、そして消えていく『我』に意義を感じずにはいられない。

 それはだれもが一緒だっただろう。そう思うからこそ話し合いなんて時間の無駄はせず、手っ取り早く殺し合いをし、強いだれかが願いをかなえる。だからこそ、血まみれの三人は何も知らない早い段階で、いや、抵抗できない状態で除かれた。

 そもそも寿太郎や助太郎、楠次は乾に加担するよう中岡慎太郎に説得されて仕方なしに乾の一党に加わった。裏を返せば生粋の勤王。その寿太郎らが乾一党となれば勤王党員全体が乾になびく。そして弥太郎はというと、わしゃぁ、ばかだったと思う。気付かぬうちにそう仕向けられた。そしてあの鵺の鳴き声に寿太郎がよくぞ気を失わなかったと心底、胸をなで下ろす。

 弥太郎が言った。

「なら、それじゃぁいかん。“永遠なる”親政。“永遠なる”じゃ」

 そうじゃ、そうじゃと賛同の声が蓮台を囲む中から沸き立つ。悦に入る弥太郎だが、そうなれば焼死体が気になってくる。乾にしてはぶざまじゃないか。

「なんで、乾さんは?」

「たぶんな、今から思えば新兵衛にたえが捲った札を教えようとしていた。ほれ、新兵衛は鞍馬天狗と戦っていただろ」と孫次郎。

 そうだったと思い出す。鵺の鳴き声で弥太郎は記憶があやふやになっていた。それにしてもさすがは乾と言わざるを得ない。

 場が落ち着いたところで寿太郎が言った。

「さ、再開だ。新兵衛」

 あまりの恐ろしさに安吾、たえは硬直していた。手を膝の上に置き、唇をギュッと結んでいる。新兵衛はというと気力でなんとか命を長らえているといった風である。背骨は稲穂のごとく前のめりに垂れている一方で、目だけがぎらぎらしていた。

「分かっているな。わしゃぁこの子達には手を出したくない」と寿太郎。

 豪次郎らを殺したときから正気を失っているとは思っていた。もしかして寿太郎たちとやり合うことになるかもしれんと覚悟を決めて、新兵衛は最後の一枚を捲った。


 円形に並べられた三十個の満ち欠けした月と『月読』。


 水を打っていたところへ突然、馬のいななきが辺りに響き渡ったかと思うと蹄の乾いた音が向かってくる。みな、固唾を呑んで空を見上げる。それは明らかに空から発せられていた。

 宙を馬上で駆ける貴公子。

 それが新兵衛の前に降り立った。手綱を引いて馬を止めるその姿は他の化物と一線を画し、『月読』の支配者たるに相応しい圧倒的な存在感を醸し出す。太刀を佩き、紫衣をまとい、袴を膝下で縛る足結の緒には金糸が織り込まれている。頭部には満月とそれを支える二匹のシャチホコの冠がきらめき、耳元で束ねた髪が吹かぬ風にゆらゆら揺れていた。その面差しはというと色白で切れ長の目に、薄いが血色の良い唇の美青年。そう、その顔は空心に瓜二つ。

 といえども驚くことはなにもない。明らかに空心はこの月読がどのような姿をしているかまで知っていた。そしてその喋り口調から向うの世界の空心は老齢であろうとだれもが思っている。その空心が思念体としてこの世界に入り込んだとき選んだ姿がこれだったのだ。

 馬鹿にしているのか、あるいは挑戦的なのか。だれもがそれを考え付いた空心の人格を疑い、唖然とする。当の本人はというとご満悦である。にたっと歯を見せて食い入るような目つきで月読の言葉を待っている。

 その月読が言った。

「願いを言うがよい」

 ただ、それだけだった。ぶっきら棒というか、そっけないというか。ややもするとその言葉になんの重みを感じさせない。願いを叶えることなんて難しいことでもなんでもないのだ。息を吸ったり吐いたりするようになんでもやってのけてしまうのだろう。

 そうと思うとそれがなおさら月読の非日常性、超人間性を感じ、戸惑わせる。馬上にいる化物はまるで神なのだ。

 固唾を呑む皆を尻目に、空心が言う。

「願い事とはつまり、進むべき時間空間を望む方向に捻じ曲げるということ。それには想像を絶する強大な力が必要じゃ。丸一日でも大変な力なのに今回貯められたのは四日分。喜べ、月読はそれをつかうんじゃ。向うの世界はどのようにでもなる。つまりじゃ、望みはなんだって叶う。未来を変えるなんて朝飯前。進むべき先どころか過去の事実さえ変えられるのじゃ。ということはじゃ、死んだ人間だって生き返らせる」

 みな、息を呑んだ。

 世迷いごとではないことは神々しいまでの月読から十分すぎるほど分かるし、後醍醐帝がわざわざ数千の軍勢を要したのも時間をかけるための人身御供とみていいだろう。肝心なのは苦しみの量なのだ。最低限、願いを叶えたいなら化物を一体たりとも端折ってはならない。とんとんと終わらせたらいけなかった。苦しんで苦しみ抜けという。なんとえげつなく、恐ろしい『遊び』であるか。だが、幸か不幸か、偶然にもどんな願い事でも叶えられる資格を得た。問題はこの記念すべき一瞬をだれの言葉で迎えるかということだ。

 弥太郎はもちろんわしじゃと思っていた。首領の武市半平太がいないいま、土佐勤王党の席次は弥太郎が一番上なのだ。

 それにもまして半平太を首領にすえることから企画し、いまや日の下の隅々にまで聞こえる土佐勤王党にしたという自負がある。だれもが弥太郎さんにというに決まっている。余裕綽々であった。

 一方で、新兵衛はというと妻のゆきを想っていた。体が弱くて苦しんでいるのを治すことが出来る。いや、そんな事実さえ消してしまえる。とするならば子がいたといてもおかしくない。人生自体も大きく変わっていよう。竜馬といっしょに神戸で、長崎で軍艦を操っていたかもしれない。

 もしそれを願ったらどうだろう。向こうの世界で目が覚めたら、首や腕にまとわりついてくる子供たちがいる。そしてその子の産まれてからの葛藤やら事件やらで当たり前のように人並みの思い出に酔う。

 あるいは竜馬と大海原で潮風に吹かれている。乗り越えた冒険の数々が二人を一心同体にし、語らうことなく互いに相手の気持ちが手に取るように分かる。

 ゆきが元気であれば、わしも大海原に出ていた。竜馬が死ぬことだってなかったのかもしれない。

 だが、そんな思いも寿太郎の一言できれいさっぱり吹き飛ばされてしまう。それは弥太郎もいっしょだった。

「武市先生を生き返らそう」

 一同、それこそ時間が止まったように固まった。よくよく考えればそう言い出すのも分からないわけでもない。寿太郎と保馬は親戚ということもあったが、半平太の息の根を最終的に絶ったうしろめたさがあるはず。それはそれでむごいとは思う。だが国の礎になったのだ。武市先生も本望だろう。それに腹切りの介錯は他でもない寿太郎、保馬なのだ。これ以上のことはない。なにをいまさら、と硬直していた弥太郎は一転、猛烈に反対した。

 対する寿太郎は真っ向からそれに戦う。

「お前の言うことを聞く義理はない! 普通なら弥太郎! おまえがわしらの首領になっていいものを、あえて慎太郎は乾をわしらに紹介した。どういう意味か分かるか? おまえは慎太郎に呼ばれもせんかった。分かったか! そういうことじゃ」

 弥太郎は顔を真っ赤にした。自尊心が傷つけられているのはまぎれもない。そこに保馬が追い打ちをかけた。

「それもこれもおまえが不甲斐ないせい」

「なんだと!」と腰に手をかける。が、太刀がない。あわてて木刀を拾う。

「やめましょ、大石さん」

 そう言ったのは楠次であった。慎太郎と会談した折、その場にいた。「ほんとは武市先生がいなくなってよかったのでしょ。本来なら軍備役なんてものは武市先生がお勤めする役目。棚からぼた餅とはこのこと」

 孫次郎も黙っていない。「そうなのか、弥太郎。だったらわしらはどういうわけで地獄を見たんじゃ?」

 弥太郎のために拷問を耐え抜いたわけでもないし、その家族も困窮を受け入れたわけでもない。返答によってはその頭をかち割ってやろうと思った。

 そこを弥太郎は察した。むやみに刺激しない方が無難だとばかりに言った。「わしも武市先生の復活は賛成じゃ。じゃが、よくよく考えてみい。それで武市先生は喜ぶか? きっと永遠なる親政となぜ願わなかったかとお怒りになる。違うか?」

 ふふふと保馬が笑った。というか、それは定かでなく顔面神経痛の顔は怒っているようにも見える。

「土佐七郡の代表が城下に集まったとき、牢屋を襲撃し武市先生らを他国に逃がそうとだれだったかが言ったよな。それにおまえは反論した」

「あんときも武市先生が喜ぶか? とか言っていたよな。それで武市先生は他国へなんぞ逃げないとも言った」と寿太郎。

「ますます怪しいな。弥太郎ーっ」と孫次郎。

 固唾を呑む弥太郎。

 不穏な空気が流れる中で孫次郎と同じ獄につながれた万寿弥が言った。「それは言いがかりというもんじゃろ!」

 それに続いて助太郎が言った。

「この場面で私事を言うやつに、逆に私事だと難癖をつけられ、そのうえ咎められておる。どうかしているぞ、おまえら。弥太郎もしっかりせい、親政はなんも間違ってはおらんというに」

 助太郎は弥太郎と同じ家塾で漢学を学んでいる。古くからの知り合いで弥太郎が半平太に取って代わろうとか、私情に流されるような男ではないことをよく知っている。

 寿太郎が言った。

「上げ足の取り合いはもうやめようじゃないか。金三郎、多司馬。おまえらはどっちにつく?」

 勤王党弾圧の折、井上という男を殺害したとして金三郎は獄につながれた。井上は下士で半平太が暗殺した参政吉田東洋にその能力が見とれられて下横目役に抜擢された男だった。因みに下横目とは不正を摘発する横目付の補佐である。

 獄につながっている間も井上がそんなに悪いやつだったかという思いは金三郎にはあった。乾に出会ってからはというとさらにその思いは強くなる。それにもましてあれほど憎んだ吉田東洋にも理があったと思え、逆に半平太を恨むようになっていた。それが生き返ってくる、いや、生きていたとなればそれこそ向う側の己の人生も危ぶまれた。もしかしてすでに向うの己は死んでしまっているかもしれない。

「わしぁ、弥太郎さんに賛成じゃ」

 どいつもこいつもぶっ殺せばよかったと寿太郎は思う。「よし、分かった。多司馬はどうじゃ」

「わしゃ、どっちでもいい」

 唖然とした。多司馬という男はこんな軟い男だったかとだれもが今初めて思う。それもそのはず、半平太にかわいがられた弟子の一人であった。江戸へ剣術修行に出た際もお付きとして同道しているし、東洋暗殺にも一枚かんでいる。それがこの言いぶりである。その多司馬がさらに続ける。

「両方とも結局おなじことじゃ。んなことより、新兵衛をなんとかした方がいいんじゃないのか。やつの嫁は病弱でいつ死んでもおかしくない」

 この場面で、だれもがよく気が付いたと感心した。新兵衛に勝手に願い事されれば元も子もないのだ。それでなくても空気のような存在なんだ。やはり多司馬は半平太にかわいがられるだけあると逆に感心させられる。

「殺してしまおうか」と保馬。それに寿太郎が異を唱えた。

「さっきも言ったじゃろ。坊主が全部を言っていない以上、なるべく状況を変えない方がなにかと対応できる」

「よし。わしが見張ろう」と多司馬。 

 そして落ちていた洋式銃を手に新兵衛、安吾、たえら三人の後ろに位置する。「声を一言でも上げれば打ち殺す。子供とて容赦はせん」

 といってもその新兵衛は見た目ほとんど虫の息であり、見張るまでもない。だからこそなのだ。新兵衛とは十中八九、命のやり取りはないし、もっと大事な理由がある。銃を構えるすぐ横に空心がいる。うまい具合に言い逃れしてきたが、このくそ坊主め!と多司馬は内心罵る。

 朦朧とした意識の中で、みなのやり取りを聞いていた新兵衛であるが、ある意味寿太郎の言い分には理解ができた。そしてならばと思う。

 龍馬を生き返らせる。

 それの方が間違いはない。そうであるなら己の人生はなんの変化も起こらないだろう。それでもいい。あいつが生きていたると思うだけでも世の中ぱっと明るく見えるし、だれ気がねなくいままで通り暮していける。

 いや、それでいいのか?

 八日の未明、家を出るときゆきが言った。

「わたしは死にません」

 それはどういうことか? わしの墓守をちゃんとするから思い切ってくださいってことじゃなかったのだろ? 

 唐突に、竜馬の笑顔が浮かんだ。あの鞍馬天狗との戦いの最中、思い浮かんだまんまの顔だった。

 そうじゃのう、それでおまえが喜ぶはずはないか。それをいえばゆきだって同じか。わしゃ、いまでも十分幸せじゃ。それを変えるとなれば不幸せだったってことになるんじゃからな。そんなこと、欠片も思ったわしゃぁ罰当りじゃわ。

「武士らしく戦って決めよう」

 寿太郎が手製の槍を手元でぐるりと振り回した。「銃はなしじゃ。ありゃ、武士の得物ではない」

「受けて立とうじゃないか。どうせみな死出の道連れじゃ。だが、悪いが先に行ってくれ。わしらは後から追い付いていく」

 弥太郎も振り感を確かめるように木刀を片手に振ってそれに応じた。

 数の上では四体四。寿太郎、保馬には孫次郎、楠次がつき、弥太郎には万寿弥、助太郎、金三郎が味方した。それが気勢を上げ、互いに打ちかかった。

 さっそく弥太郎は頭をかち割られる。この様だから土佐勤王党の首領なぞ到底無理なのだ。悪いやつでないのはいいとして、弥太郎には優等生然としたところがある。言い換えれば太平の世の残り香がぷんぷんするのだ。その言いっぷりだけが武骨なだけで内面からにじみ出るものは時勢にそぐわない。

 そして倒したのは寿太郎。悪いが弥太郎! といの一番に突っ掛った。繰り出した突きは苦も無くその胸にのめり込む。うずくまったところに高々と振りかぶった槍を振り下ろし、頭を難なく粉砕した。

 一方、万寿弥は鍔ぜり合いの最中、保馬に足を払われあおむけに倒されていた。そこに馬乗りに体を押さえつけられて、何度も振り下ろされる木刀の柄頭で頭を打ち砕かれた。

 金三郎の足には孫三郎がしがみついている。それに狂ったように木刀を打ちつけていた金三郎であったが、弥太郎を仕留め返す刀で駆けつけた寿太郎に喉を突かれる。即死だった。

 金三郎に全身打たれた孫次郎はというと、あちこちの骨が砕かれて風前の灯である。だがここで終わるわけにはいかないと喘ぐように楠次の援護に向かう。目前ではすでに寿太郎と保馬が助太郎と戦っているが、もともと助太郎と戦っていたのは楠次。すでに助太郎に肩口に強烈な一撃を食らってうずくまっていた。ありぁ、だめだなと孫次郎は思う一方で、わしもだめじゃなと覚悟を決める。何も考えずに寿太郎と保馬の間を割って入り、助太郎に覆いかぶさる。

 いきなり思いもよらない孫次郎の動きにぎょっとしたものの、助太郎は故郷富家村で講武場を開く腕前の持ち主である。上段からその脳天に木刀を落とした。ところが孫次郎は片腕を盾にそれを受け止めた。太刀なら腕から頭蓋骨まで両断しされたはずである。といっても打たれた腕の先はあさっての方を向いているのだが。

 思えばこれが運命を分ける一撃であった。孫次郎に抱きつかれて身動きが出来なくなってしまった助太郎はしくじったと思った。そして手にあるのが木刀だったのを思い出す。確かに太刀なら斬り下げるので間違いはない。それなら二の手三の手と繋げられて、複数人と戦うにはむしろ振り回すべきなのだ。ところが逆にそうはせず、太刀で敢えて突いたとしたならどうだろう。貫通でもしてしまったら堪ったものではない。抜くのにも一苦労だし、その間に新手の攻撃も受けるだろう。あるいは刺した相手が生きてでもしたら目も当てられない。抱き着かれてそれで終わり。だがこの場合、得物が太刀でなく木刀なのだ。間違っても貫通はしない。相手を一撃で葬るならまだしも、寄せ付けないためにむしろ助太郎は突かなければいけなかった。それに気付いた時には後の祭りで、あれよという間に頭を保馬にかち割られた。

 終わってみれば寿太郎と保馬が立っていた。順当と言えば順当だが、身を呈した孫次郎の働きが大きかった。よくやったと二人は心の内でほめちぎったものの、孫次郎はその場でこと切れてしまう。うずくまっていた楠次もその後を追うように逝ってしまった。

 二人は互いにたがいの目を見る。それで通じたのか、寿太郎が願いを言うことになった。一歩一歩勿体ぶるように進み、正面の月読に向かうと二礼二拍手一礼をした。

 月読の顔に変化もないどころか蝋人形のごとく視線がどこに合っているのかも知れない。しかし何者も相手にしない風なところが逆に圧倒的な威圧感を生むし、恐れを抱かせる。そんな相手に向かって寿太郎は言葉を発しなければならない。保馬も新兵衛ら三人も固唾を呑んで見守る。

 寿太郎は大きく息を吸い、吐いたかと思うと新兵衛らの頭越しに言った。

「武市半平太を蘇らせたまえ!」

 しかし、月読は寿太郎を相手にしなかった。初めからそんな風であったがまさか本当にそうするとは予想だにしない。拍子抜けどころか、あの寿太郎にめずらしく鳩が豆鉄砲を食らったようなきょとんとした顔を見せる。と思ったや否な、怒りをぶちまける。

「坊主! こりゃぁどういうわけじゃ!」

 言われた方もほうで空心はえっとした顔を見せる。「なんじゃ、わしこそおまえが願いを言うとは思ってもなかったぞ」

「どういう意味じゃ!」

「『遊んでいる者』ではないじゃろ、おまえは」

 ということは! と寿太郎と保馬は思った。

 そうきたか、とため息ひとつ新兵衛はつく。半平太を蘇らせるという気持ちはわかるが、賛同はできない。だがそんなことはもうどうでもいい。どうせ関係ないのだ。あちらの世界で目が覚める。すると半平太が藩を牛耳っていて、みな右往左往している。

 それは尋常ではないだろう。長州藩のように攘夷を実行していたのかもしれない。城下は丸焼けになって、ゆきと二人でエゲレスの船から発射される大砲の弾から逃げ惑っているのかもしれない。あるいは幕府軍が押し寄せ、土佐藩は全滅しているのかもしれない。

 いや、よそう。

 寿太郎の願いを代わりに言ってやろうじゃないか。どうなってもしるまい。

「わかった」

 その言葉を聞いて寿太郎らはほっとひと安心する。反抗されることも念頭においていた。それがこのざまである。気持ちが落ち着けば快諾してもらっているはずの新兵衛が不甲斐なく思える。弥太郎の方のが骨があったな。武術は家に引き継がれる。人間としてはやはり軟弱だった。そして新兵衛を一瞬でも恐れた己が馬鹿だった、と自嘲する。

「新兵衛殿、『月読』を終わらせたのはお主だが、いっしょに進めた者らもいたんじゃないのかな。その者らを無視するのか?」

 空心が口をはさんだ。そしてそう言う一方で傍らの多司馬にも囁く。「いましばらくは待て」

 それを聞いて多司馬はほっとした。約束が果たされようとしている。そしてそのために洋式銃を持ち、新兵衛らの後ろに回ったのだ。約束を守れと空心に圧力をかけるために。ところがだ。

「はぁ? 不甲斐ない新兵衛はいいとして、いまのは聞き捨てならんな、坊主」

 頭だけ振り向いて、己の肩越しに寿太郎が言った。「それで多司馬、なにを喋っていたんじゃ。おまえらつるんでおるのか?」

 多司馬はぱっと後ろに飛びのいた。手には洋式銃があり、その銃口は寿太郎に向いている。「言ったじゃろ。両方ともおんなじことじゃとな」

「おんなじなら、なんじゃ、その銃は?」

「願いを言ったところであの世行きってことは変わらんのじゃろ。わしは生き残る」

「そういうことか。坊主なんぞにたぶらかされよって、情けないやつめ。じゃがおまえにかまっている間はない。生きるならそうせい。わしらの邪魔するな」

 そんな諍いを尻目に、新兵衛は脅えきったたえを見ていた。空心の口から褒美の話が出たとき、安吾は自分には望みがない、たえねえちゃんの望むことをやってほしいと言った。

 それはそうだろうなと新兵衛は思う。たえを姉のようにしたっていたのではない。安吾がたえを守ろうとする気持ちは尋常でないのだ。

 女として見ていた。

 それをおねえちゃんと呼ばなければならない安吾のやるせなさ。そしてこの春、嫁に行ってしまうというつらさ。

 そもそも安吾なぞ、たえの眼中にはなかったのだ。安吾はそれをよく分かっている。それでもたえの幸せを願っていた。間違ってもたえを自分のものにしようなぞと望んだりはしない。それがたえの幸せでないことを知っているのだ。安吾の純情。だからこそ、そんな安吾に報いたい。願いを叶えさせてあげたい。

 だがその想いもすでに遅かった。新兵衛は手も足も口さえも、何もかも動かすことが出来なかった。視力さえ失っていた。

「新兵衛、早く言え」

 寿太郎が催促した。

 新兵衛は答えない。それもそのはず、こと切れていた。







     十二月六日




 目を覚ますと見慣れた庭が広がっていた。といってもこじんまりとした敷地に数えるほどしか植え込みがない。唯一の楽しみは山躑躅だが見頃はまだ何か月も先である。

 あえて言うなら、いまは苔がいい。枯れ木ばかりのところに形の悪い石があり、まずそこが目につく。もっそり生えていて、それから目を配ると日当たりが悪いのがよくよく分かる。刈り込んだ芝のように見える緑はすべて苔なのだ。

 まぎれもなく我が家。それで六日の昼間はまさにこんな風に庭を見てうたたねしていた。

 戻ってきたか、と新兵衛は思ったその矢先、背中に綿入れがかけられた。傍らにゆきが立っていて、あって顔で見ている。「起こしてしまいました」

 新兵衛は飛びつくようにゆきを抱いた。もう何日も会っていないような気がする。いや、事実そうなのだ。ぎゅっと抱きしめ、その感触、その温もりを感じる。

「どういたしました?」

 戸惑っているゆきであったがそんなことはかまいない。抱きしめたい。

「あなた、新兵衛さん、新兵衛さんてば」

 ゆきは苦しそうだった。それにもまして新兵衛のこの行動になにか怖さを感じたようだ。おびえ始めているのに気付くとぱっとゆきを離した。そうだ、言わなければならない。

 あの樋口真吉が訪れた夜、といっても『月読』の中の今夜になるのだが、ゆきが言った。「なぜ、お友達のお誘いをお断りなさっていたのですか?」

 新兵衛は端座し、ゆきの手を引いて座るようにうながす。

 二人は真正面に見合う。あまりの急に、ゆきは身構えていた。

「いやいや、別段小難しい話しではない。夢に龍馬が出てきたんだ」

「お友達の?」

「そう、文をよく送ってくるやつじゃ」

「その御方は亡くなったのでは?」

 ゆきの顔は青ざめていた。それはそうだ。ゆきの墓の前で腹を切るんじゃなかろうかと思い詰めている。

「そうじゃ、そいつがな、おれに悪戯をした。それが愉快でな。そのおかげでわしは家伝の奥義を習得した」

 ゆきは何を言いたいのかよく分からないようであった。きょとんとしている。

「つまり、あいつはあの世で楽しくやっているちゅうこっちゃ」

 そう言うと新兵衛はげらげら笑った。

「心配すんな。わしは幸せじゃ。おまえもそうだろ?」

 ゆきはえっとした顔をしたが、すぐに目が潤んできているのが見て取れた。

 言いたいことが伝わった。それに安心した新兵衛はまたゆきを抱きしめた。するとその温もりからか、急に眠気に襲われた。実際この肉体で戦っていたのではないけれど、心底くたびれた。「ゆき、膝を貸してくれ」

 その膝を枕に新兵衛は寝入った。


 目を覚ますと、縁側は夕日に染まっていた。

 あっと新兵衛は思った。飛び起きてみるとまだ、ゆきはいた。ずっとその膝を使っていたのだ。

「きょうは帰れんかもしれん」

 着流しの上に羽織をかぶり、袴に足を入れるのと袖を通すのとを一緒にしたが、いっぺんにというには無理がある。身の釣合を失って、ぴょんぴょん飛ぶ。

 それにゆきが笑った。

 新兵衛は驚いた。驚きすぎて硬直した。ゆきが声をあげて笑っている。そんな姿、連れ添ってこの方見たことない。驚かないのがおかしい。

「なにがおかしい?」

「あなた様は急にお変りになりましたね」

「わしが?」

「いつも庭を見てばかりでした。さみしそうに、ずっと」

 そうだったのかと思った。ゆきは新兵衛のその背をずっと見てきていたのだ。

「すまなかった」

 ゆきを追い詰めていたのは己であったと新兵衛は気付いたのだ。「じゃが、わしは急がなければならん」

「どんな御用が?」

「友達が待っておる」

 ゆきが満面な笑みを見せた。「そのようなことを言うのも初めてです」

「そうじゃったな。わしゃぁ友達がいなかった。いや、いまはいる。安吾っていうんじゃ」

 袴の紐をあわただしく結んで、

「じゃ、いってくる」と新兵衛は屋敷を飛び出した。「お気をつけて!」

 ゆきのことは安心したが、心配なのだ安吾とたえだ。死んでから後、どうなったのだろうか。弘瀬村へ向かって懸命に走る。


 辺りが暗くなり、どれもこれもいっしょに見える小作らの家の中で、安吾のところはすぐ分かった。こうこうと明かりが漏れる家があり、そこから酔った男の歌声が聞こえる。そしてその家の前には馬が繋がれていた。

 新兵衛はその馬を知っていた。致道館で借りたあの利口な馬だった。鼻筋を撫でながら馬に問う。「だが、なぜ」

 それに応えるわけでもなく結局、新兵衛は恐る恐るその家を覗き込む。

「やはり来ると思ったぞ」 引き戸をがばっと開けて乾が現れた。

 安吾も顔を出す。「おそいよ。小松さん」

 え? なんで乾さんが? 戸惑っているところを二人に押されるまま家に入る。

 囲炉裏端には盛りつけられた皿や汁の入った椀が並び、鍋の周りには魚や海老や餅の串が所狭しと刺さっている。酔っているのは安吾のおやじさんなのだろう。酒を片手に、うるめイワシの丸干しで空いている席を指す。

「小松さんじゃろ? さぁ、座った座った」

 上機嫌である。それはそうだろう。大監察の乾がわざわざ息子の安吾に会いに来たのだ。

 その一方で、苦笑いで頭を下げる女、安吾のかあちゃんだろう。その横の五つ六つの子は安吾の弟か、父親がどんなに乱れようともおかまいなしである。片手には餅、もう一方の手には車海老の串、口を膨らませてもぐもぐやっている。食うのに遮二無二なのだ。

 新兵衛は腰を落ちつけると、はたと大皿のひとつに気付く。うつぼのたたきである。噛んだ瞬間、ふわっと甘みが口いっぱいに広がるが、それがしつこくなくていい。大好物であった。

 そしてもう一つ、好きなものが酒盗である。鰹の胃と腸の塩辛で、これがまた、酒が進む。舌触りはとろーりで噛むとしこしこ、コクと旨味が口いっぱいに広がる。それを酒か焼酎で洗い流すと微妙に味が口に残る。それでまたコクと旨味が恋しくなって口に放り込む。因みに舌を洗うのは酒か焼酎でないといけない。酒を盗んででも飲みたくなると名付けられたゆえんである。それが小鉢に盛り付けられていて、茜雲をすくってきたようだと新兵衛に思わせた。

 そんないまにもよだれを垂らしそうな新兵衛に、安吾が目ざとく言った。

「小松さん、たたき! 好きなのかい。これ全部、乾さんが持ってきてくれたんだ」

 乾が気を利かせたというわけでもない。うつぼのたたきも酒盗も土佐者はだれでもが好物なのだ。安吾がつづける。

「ほら、お米も」

 土間にどかっと二俵並んでいる。『月読』での褒美なのか、それとも安吾に対する敬服の印なのか。乾のことだから後者の方であろう。とはいえ変わっているお人、いや、気持ちいい御仁じゃと新兵衛は思う。そんな想いもつゆ知らず、おやじさんが言った。

「乾さんは上士にしておくのはもったいないお人じゃ。そう思うじゃろ? 小松殿」

 それは褒めているのか、けなしているのか。いずれにしても答えかねない。新兵衛のつくった笑顔は苦い。

 とはいえ、解せない。なぜ褒美なのか、敬服なのか。乾は知らないはずである。『月読』のことは。

「ま、飲め飲め」と満面の笑みの乾。

 戸惑いながらも、乾の差出した茶碗を手に取る。そこになみなみと酒が注がれる。「駆けつけ三杯だ」

 新兵衛は言われるがまま三杯飲み干す。一挙に酔いがまわったところへ今度は茶碗を取り上げられ、ちりめんの風呂敷包みを手渡される。ずしりくる重さとその形。

 スミスアンドウエッソン。

 にこっと笑みを見せた乾が言った。

「君が手渡す方が洒落ているだろ」

 やっぱりこの人はなんでも知っている。だがそんなはずはないと新兵衛は思った。

「どうした、小松君。早く」

 言われるがまま、安吾に手渡した。

 渡された方も即座になにか分かる。これ以上ない笑みを見せた。「ありがとう。小松さん」

「ぜったい他人に触れさすな。あの時は痛かったぞ」とすかさず乾。

 そう言われた安吾が「言わなきゃよかった」と苦笑いする。すでに二人はあの『月読』での出来事をすべて把握している。わしもすべて、最後まで知りたい。「乾さん、なぜ?」

「小松君、ちゃんと話すがそれは後だ。いまは飲め飲め」

 乾や安吾にじゃんじゃん酒を注がれる。進められて飲んでいるうちに楽しくなってきた。何もかも忘れて喋り、歌った。

 やがて夜も更け、新兵衛は乾に起こされる。寝入っていたようだ。申し合わせたように二人はそっと家を抜け、満天の星の下に腰を下ろす。

「君はあの後のことが知りたかったんだろ?」

 そう切り出した乾に新兵衛はこくっとうなずいて見せた。

「僕も安吾君に聞いて考えさせられるものがあったよ。想いは同じでも結果的に明暗分かれることがある。そう思うと安吾がいなかったら今夜のような酒は飲めなかっただろうな」

 そう切り出すと続けた。多司馬が銃で寿太郎と保馬を打ち殺したという。空心に新兵衛の空いた席を取れとそそのかされたそうだ。決まりにはこうある。



 一、『遊んでいる者』が死ねば入れ替わることが出来る。


 多司馬は新兵衛の遺骸を押しのけ、空いた席に着いたという。そしてもう一つ、決まりにはこうある。



 一、完結すれば遊んでいた時間は失われる。ただし『遊び』に参加した者はその限りではない。


 多司馬は、己がその『遊び』に参加した者となったと思ったようだ。狂ったように笑っている。そのうえでなんでも願いが叶うとなればその喜びもひとしおであろう。だが、それに空心が茶々を入れた。

「お主、なかなかのひきょう者じゃの。かえってわしの方のが気がひけるわ」

「気にすることはない」

「気にすることはないって? 相手は木刀じゃぞ、弥太郎らだって正々堂々と戦ったのに。いきなり撃つとは思わなんだし、寿太郎だってそう思ったじゃろう。それでも仲間か? ぬしゃぁ」

「昔はな」

「昔って、昨日今日のことじゃろ。最後のさいごで迷いがあるやもしれんから、わしゃぁお主に気を使ったんじゃぞ。新兵衛と寿太郎らを戦わせて共倒れさせようってな」

「ふん、恩着せがましく言うな。とっくにおっ死んでるってぇの」

「因みに聞かせてくれんか? お主は何を望む」

「決まっている。この国で一番偉い男になる。将軍か、天皇か」

「そう言うと思った」

「ああ? 分かっていて訊いたんか?」

「お主は抜け駆けして助かろうとするひきょう者じゃ。その身が助かるとなればそれくらいの望みは言うであろう?」

「つくづく嫌味なやつじゃのぉ、おぬしは」

「嫌味ついでにいうが、しばられて背に腹は代えられんかった。じゃが、そんときゃそれでよいもと思った。いまはお主に困っている」

「利用しといてか? 黙って返すわけにはいかんのう、坊主」

「まぁ聞け。わしゃ、幕藩体制をこのまま維持したいのじゃ。そうなれば誰かが将軍になってもらうのが良いにはよいが、それがお主となるとそこがまた問題じゃ」

「なぜじゃ」

「人間がなっていない」

 それを聞いて多司馬はげらげらと笑った。「こりゃ笑えるわ。確かにそうじゃ。だが、望みは叶えさせてもらう。わるかったな」

「呆れたわい」

「呆れついでにひとつ教えてやろう。わしゃぁな、好きこのんでここに来たわけでない。だってそうだろ。化物と戦わなければいけないんだ。そんな危うい思いはしたくないし、ずっと逃げてるつもりじゃった。ここにきた目的が他のやつらと違うでの」

「ほう、どんな目的じゃったんじゃ?」

「野中太内という男に命じられてきた。乾を殺せとな」

「それは昇進が目当てか? それとも金か?」

「土佐勤王党弾圧の際、命と引き換えにやつの使われ者となった」

 半平太の弾劾にあたって野中太内はその急先鋒であった。その男がこの年の十一月、乾を弾劾する訴えを容堂に起こした。時勢が不安定というのもあるだろうし、乾が容堂のお気に入りということもあった。それが受け入れないと見るや一転、太内は行動に出る。十二月七日、乾の屋敷に向かっていた多司馬の本当の目的は乾の暗殺だったのだ。あの刀鬼が起こした混乱。それに乗じてことを起こせとの野中の命令であった。

 だがちょうど幾之介と清平に出くわし、乾邸には樋口もいた。それでことを成し遂げられず、その上ここにくる羽目となった。今日の今日まで人生ずっとこの調子だと己の不運を嘆いていたが、人間万事塞翁が馬とはこのこと。いまは有頂天である。

 空心はというと、『卑怯者』が『裏切り者』だと明かしたのにおかしくてたまらなかった。「傑作じゃ、こんなやつが将軍だとは」と言って笑った。

「何とでも言え。よし! 決めた! わしぁ将軍になる」

 多司馬は月読に向けて言った。

「この阿部多司馬を将軍職に就けたまえ」

 だが、月読に変化がない。寿太郎のときとおんなじなのだ。なにが足りないのか。空心に聞かねばならない。振り向くとその姿はない。縄がだらしなくとぐろを巻いている。あちらの世界に戻ったのか?

 ところがである。空心はカラスに姿を変えていた。そしてその嘴で、その爪で多司馬に襲い掛かる。

 油断していた多司馬はその目をくちばしでえぐられてしまう。必死に追い払ったが後の祭りであった。喚き散らし、やたらめっぽう洋式銃を発砲しているとその弾が月読に当たってしまう。

 神の怒りとは恐ろしいもので、どこに向いているのか分からないその視線が多司馬に合ったかと思うと多司馬の顔は皺くちゃになり、髪の毛は白くなったかと思うと一本残らずもう無い。歯はぼろぼろと抜け落ち、骨が縮んでしまったのか背も低くなっていく。あれよあれよと老けていき、抜け殻のように骨と皮だけになって、しまいには土か、灰か、粉になって風に吹かれて消えてしまった。

 カラスは高笑いしているかごとくに鳴いていた。それが寿太郎の遺骸に舞い降りたかと思うと桐の箱を掴んで飛びたつ。そして安吾とたえの頭上で旋回し、人の言葉を発する。

「入れ替わっても札を捲ってない者は『遊んでいる者』と認められず、願い事は叶えられない。そりゃ当然じゃ。多司馬はただ単に『遊んでいる者』が座っていた席に着いたに過ぎない。で、この場合じゃが安吾にその権利は移る。上がった者が当然勝者じゃが、それが死んでしまった以上、それはない。決まりによると代わって勝者となるのは死んだ者以外で最も札を獲得した者」

 安吾は息を呑んだ。

 願いはあるにはある。新兵衛にもそう言った。だがだれもが空心に二度までも騙されている。尻込みしているとまたカラスが言った。

「さぁ安吾。たえの願いを叶えてあげろ。どうせなら上士ではなく、願うからにはもっと派手にな、たえの夫には馬廻りとか中老とかその辺の職がいいんじゃないかな。一つ付け加えるなら具体的するのとあとは、たえの子々孫々に至るまでとかをそのような文句の前につけた方がなお良いじゃろ」

 とどのつまり、幕藩体制の維持である。一方で、たえの顔は蒼白であった。月読が恐ろしいのに願いどころではない。もうちょっとも耐えられないといった風である。


「それで安吾はどうしたと思う」 そう乾に尋ねられて、新兵衛は固唾を呑んだ。

 にこっと笑って、乾は言った。

「『月読』でのたえの記憶を消してくれって願ったそうだ。空心のやつを思うと傑作だろ?」

 安吾ならあり得る。たえのことが好きなのだ。その相手を思ってこそ、この願いだと新兵衛は思った。そして乾が同じ想いでも明暗あり、安吾がいてよかったといった意味が分かった。半平太復活も友情、あるいは家族的な愛情がその根底にあったのだ。しかしそれは深く暗い。新兵衛も一瞬、寿太郎らと同じようなことを考えたのは確かで、もしそうしていたらと思うと己の考えに身震いがする。乾は続けた。

「きっと僕らは、化物にだってなれる。あの『遊び』はそこに問題があった。それで所有者は手放すことになる」

 将軍吉宗は『月読』を高野山に返却せず、一旦は自身を所有者にして土佐に隠したのだろう。山内家は辺境にありつつ徳川とは深いつながりがある。六万石弱の小藩が土佐一国を得たのはひとえに徳川家のおかげなのだ。

「じゃが、桐の箱は?」

「今日の昼、たえが箪笥の上にないと言って安吾に食って掛かったらしい。当然、安吾は知らないと答えた」

 かわいそうに。

 安吾はたえに嫌われたに違いない。思えば切ないが、それがたえのためだったのだ。

 それにしても空心。『月読』はやつの手の内にある。

「やつの狙いはなんなのだろう」

「一番は国学の消滅だったのだろうな。国学は儒教の影響を受けているのだが、儒教が隆盛になると仏教は迫害の憂き目を見る。その消滅なんてことを土佐勤王党に言わせるのはそれこそ天地がひっくり返っても無理だろうな。で、幕藩体制の維持。今の社会体制を変えさせない。これは間接的にどうにでもなる。都合よく願い事をさせるのさ。自ら手を下せない空心は一番を諦めてこの二番を狙ったのだろう。ついでに言っておくと討幕の急先鋒薩摩などは国学が盛んで、多分に漏れず寺は破却され国内に全くなくなったという。まさに今、仏教界は危機に面している」

「では空心は必ず『月読』を行う」

「中岡君の創った陸援隊に田中光顕という男がいる。中岡君亡きあとその隊長となっているのだが、彼に頼んで高野山に出張してもらう。表向きは紀州公威嚇だが、田中君は信用にたる男だ。その辺はちゃんと文にしたためておくよ」

 空にある月はほぼ半月に近かった。海中にいるかのように月光が辺りを青く染めていた。川近くに部落、山の手にたえの屋敷、棚田に段々畑。のどかな風景である。だがあの世界ではそれとはまったく違う様相を呈していた。月も新月だったが、心象に残るその姿はむしろ闇にぽっかり空いた穴だった。

「ところで乾さん。どうしてあなたはここへ? なんで記憶があるんです?」

「雷に撃たれただろ。あれで『遊び』に参加したことになるんだ。高野の坊主が札に触って消えたのを見てそれが分かったんだ。それをみなに教えても良かったのだろうが敵前逃亡されてもかなわんし、実のところ僕も雷に撃たれるつもりなんてこれっぽっちもなかったしね。最後まで見届けたかったんだ。でも、あれでよかったのかもしれん」 そこで乾は口ごもった。そしてうつむき続けた。

「君には本当のことを言わなければなるまい。僕はあるいは寿太郎と変わらなかったかもしれん。新月の迷信が頭によぎったときから正直、揺らいでいたのさ。中岡君を生き返らすかどうかでね。その証拠に最後を君に託した。もしかして君なら坂本君を生き返らすかもしれない。ほら、坂本君も中岡君も最後は一緒だったろ。君がそうすれば中岡君も助かるかもという計算が咄嗟に働いたのさ。でもね、それはよこしまな考えだったよ。西森君が教えてくれた。運命は己で切り開くんだ。それこそ『月読』の札の絵ではないけれども、時を刻むように一歩一歩まだ見ぬ先に向けて歩んでいく。帳尻合わせのようなことをしてはいけない」

「己で切り開く」 自分はそうしてないと新兵衛は思った。いや、むしろ逃げている。

 その想いを汲んだのか、乾が言った。

「実はだれも知らないことだが、土佐藩が幕府に建白した大政奉還を発案したのは坂本君らしい。でも参政がその事実を伏せたようだ。中岡君から聞いたから間違いない」

 新兵衛は息を呑んだ。龍馬がそんな大それたことをやってのけたとは。だが妙に納得する。鞍馬天狗との戦いの折、浮かんだ龍馬の笑顔を思い出す。それはいたずらっ子がしてやったりという顔であった。あいつはそういうやつなんだ。

「君はだれもが国事国事と騒ぐ中、ひとり黙々と剣の修行に励んでいたのだろ。伏龍とはまさにこのことさ。天下をここまでしたのは坂本君で、高野山の連中はそれを無にしようとしていた。図らずとも君はそれを阻止したことになる。自分を卑下することはない。日々研鑽したその腕が役に立ったんだ」

 耳を疑った。わしが龍馬の手助けをした? 

「そろそろ大戦が始まりそうだ。徳川との戦いだ。一筋縄ではいかないだろう。そう言えば君は臆病者で通っていたね。僕はそういう男は嫌いだ。君は僕の軍には入れない、ということにしとこうじゃないか」

 えっと思った。

「君ら夫婦はこれでもう、だれにも気が引けることもない。ふたり静かに暮すんだ。それが君らふたりの本当の望みだったのだろ?」

 そうなのだ。抑えていた感情がぱっと弾けた。新兵衛は涙が止まらなかった。







   十二月十日




 高野山金光院を取り囲む兵はアリの這い出る隙間さえなかった。


 さる八日、朝廷より内勅を受けた侍従の鷲尾隆聚の隊は陸援隊を主とする数十名の浪士のみであった。それが高野山に着くまでに千人にも膨れ上がる。世に言う高野山義挙である。

 それは紀州藩への牽制だったとか、高野山そのものへの攻撃であったとか、あるいはその両方か、後世に伝えられるかぎりでは定かではない。だがそれも当然、真の目的は知られてはならない。

 時刻を確認した田中光顕は高野山金光院に火を掛けるよう命じた。朝四つ。安吾が月読に願いを言った時刻であった。ちなみに空心らだが、思念体で異空間を移動していた。本体は現空間での時間の流れの中にいる。したがって戻ってくるのには乾や新兵衛らに後れをとらざるを得ない。


 放たれた炎は瞬く間に燃えあがり、やがて院は僧もろとも灰燼に帰した。







明治五年  十一月

 



 新兵衛は釣りに行くと告げた。頭にちりよけの手ぬぐい巻いたゆきが箒片手に言う。

「はいよ」

 その声は弾んでいる。満面な笑みのところからしても、きっと釣果を期待しているのだろう。それもそのはずである。しまあじ、いさぎ、ぐれ、はまち。新兵衛は何でも来いであった。自分自身、そんな才能があるとは思いもよらなかった。

 才能といえば乾さん。いや、いまは板垣と改名しているが、戦が始まると、薩摩の西郷隆盛や大久保利通がしり込みする中、甲州、北関東、会津と下士を率い瞬く間に宿敵を屠っていった。戦が短期で終わったのは板垣さんのおかけだと感謝するし、改めてその才能にも感心する。

 太刀を佩かずに魚籠の紐を腰に括りつけ、竿を肩にかける。門を潜って通りに出た。ふと、見知った顔に気付く。

 たえ。

 三つ四つの小さな男の子の手を引き、背中には赤子がいた。時折、身を低くして子に語らいながらこっちに向かって歩いてくる。それを新兵衛は固唾を呑んで見守っていたが、見向きもされず通り過ぎていったのに、胸をなで下ろす。

 よくよく考えれば当然だ。たえは新兵衛のことを知らないのだ。ふふっと笑い、ザンギリの頭をかいた。

 小春日。

 たえだけではない。それに誘われて、通りはいつもより多く人が出ていた。急ぐ者。立ち話する者。何人か連れだって歩く者達。こころまで暖かくなって往来を眺める。

 

 ふと、その人ごみから子供二人が現れる。人を縫うように走って来たかと思うと新兵衛の前を笑顔いっぱいで通り過ぎ、振り向けば、笑い声を残し二人は雑踏の中に消えていった。










《 了 》



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