百二十五段 笑えば笑うほどお前たちは自分自身も傷つけていく
『びしょびしょ……』
付着した水を飛ばし、リセスは跳躍して塀の上に登った。間一髪だった。
「――こりゃあ! こんのクソネコがぁ!」
塀の下では赤い顔のおじいさんが箒をブンブンと振り回し、リセスに対して怒鳴り声をあげている。
『なんにもしてないのに……』
リセスはセリスの匂いを辿ってどこかの家の庭に入っところ、この猫嫌いの老人に水を掛けられ、さらに箒を持って追いかけられたのだ。それでも彼女は猫の体にも大分慣れてきていたのでなんとか逃げ切ることができた。
肝を冷やしたものの、リセスはかなりセリスに近付いていると感じている。匂いが徐々に強くなってきているのだ。ただ、ほかの匂いも混ざっているので慎重に行く必要があった。
時間を掛ければ見つかるのは確実だが、もう少しで夕方なので急がないといけなかった。ミミルは日が暮れてしまうといつ起きてきてもおかしくないのだ。
『……あ……』
リセスは片方の耳をぴくぴくと動かした。今、セリスの声が聞こえたような気がしたのだ。おじいさんがいなくなるのを見計らって庭に飛び降り、その方向にダッシュするとまた聞こえてきた。セリスが確実に生きていることがわかった瞬間だった。
『……セリス、生きてたのね。よかった……』
リセスは自分の中に熱いものがこみあげてくるのを感じて涙が出て来るのかと期待したが、寸前で引っ込んでしまった。人間の体ではないというのもあるんだろうが、最後の最後まで何が起こるかわからないから常に感情の起伏を抑えるようにという義父から叩きこまれた殺し屋としての教訓や、涙は普通の人が流せる崇高なものという思い込みが魂に染み込んでいるのだとリセスはこのとき実感していた。
◆◆◆
「もー、マジどうやって倒すのよ、こいつらぁ……」
「疲れたぁ……」
エルジェとビレントがぐったりと天空人のほうを見やっている。彼らによる怒涛の魔法攻撃でも、天空人は誰一人倒せなかった。もちろん、俺の《微小転移》でもだ。一体どうやって倒すんだろうな……。諦めの悪いルファスでさえ攻撃するのを止めてその場に座り込む状況。雰囲気は最悪だった。
「……」
ねっとりとした絡みつくような視線をひしひしとやつらから感じる。本当に嫌な空気だ。
「おいシギル、無視してんじゃねえよ」
「……なんだよ」
「なんだよじゃねえよ。立場わかってんのかゴミ。何か面白いことやれよ」
こういうとき、いつもグリフが標的になってたんだろうな。それが俺に変わったということか。冷静になろうとしても怒りがこみあげてくる。かつて俺にあれだけのことをしておきながらそれでも飽き足らず、まだ玩具にしようというのか……。
「さっさとやりなさいよ汚物!」
「ほらほら、早くやろうよ、シギル先輩っ!」
「……」
面白いと思えることならなんでもいいんだろう。というわけで、爪先立ちでただくるくると踊り子のように回ってやった。
「……ああ? なんだよそれ、舐めてんのかシギル。つまんねえんだよ」
「ほんっと。汚物ってギャグセンスも最底辺ねえ」
「シギル先輩、せめて笑おうよ!」
「……」
あえて目をこじあけて凄みのある顔で笑ってやる。やつらは笑うどころか青ざめていたが。
「……おい、お前いい加減にしろよ。セリスがどうなってもいいのか?」
「セリスって子、あんたのせいで殴られちゃうかもねぇ? 恨まれてもいいの?」
「うっわ、セリスちゃん可哀想……」
「……じゃあ何をやれっていうんだよ」
「その言葉遣いから改めろってんだよ! 糞シギルのくせによ!」
「そうよ、汚物がタメ口きいてんじゃないわよ」
「シギルせんぱーい、その態度は僕もちょっと生意気だと思うよ?」
「……わかりました。すみませんでした」
深々と頭を下げる際、眩暈がしてバランスを崩しそうになり、それが受けたのか笑い声が上がった。頼む、リセス……早くセリスを見つけ出してくれ……。
「なあ、本当に反省してるんだったら全裸になれよ、シギル」
「えー、こんな汚物の裸なんて見たくないわよ!」
「僕は見たいなー」
「二人ともホモ!?」
「あほか、エルジェ。俺だってこんなゴミの裸なんかみたかねえよ。けどプライド高いやつにはこれが一番なんだよ」
「僕もそう思う。二度と逆らえなくなるくらいに徹底的に辱めてやろうよ」
「そうねぇ。それもいいかもね……。あたしは薄目で見るけど……」
「……」
こいつらの精神年齢は十代前半で止まってそうだ。別に脱いでやってもいいがな。もうすぐ33歳になるおっさんの俺の裸でも見て惨めに笑えばいい。笑えば笑うほどお前たちは自分自身も傷つけていく。いつかお前らが親になり、赤子を抱いたときに思い出すだろう。お前たちの醜悪な姿を……。
「早く脱げよ糞シギル!」
「とっとと脱ぎなさいよ汚物!」
「ほらほら、シギル先輩、恥ずかしがらずに早く早くっ!」
「……」
……ん? 脱ごうとして、近くで二人の天空人が交差したのが見えたわけだが、そこで俺は倒す方法がわかってしまった。
「今、天空人を倒す方法がわかりました」
「「「は!?」」」
やつらの驚いた声と仕草が心地よい。精神的におかしくなりそうだったが、これで少しは時間を稼げそうだ……。