百二十四段 さっきの光景とは雲泥の差だ
『……猫の世界ってこんな風だったんだ……』
黒猫ミミルに《憑依》し、セリスの捜索を始めたリセスだったが、それまでの世界とのあまりの違いに面食らっていた。体が小さくなったこともあるし、猫自体視野が広いために町が物凄く巨大に感じ、圧倒されていたのだ。
さらに厄介なのが、遠くの景色がまるで霧でもかかっているようにぼんやりと見えてしまうということ。それが彼女の不安を一層掻き立てているのだ。
猫の体に慣れるのにはかなりの時間を要するように感じられたが、そうなるのを待ってから動く余裕はなかった。ミミルが起きるようなことになればその時点で体をコントロールできなくなる可能性が高いからだ。
『……急がなきゃ……』
ふらつきそうになりながらもリセスは前に進もうとするが、セリスの匂いを辿ろうにも色んな匂いが邪魔してきてスムーズにいかなかった。本能なのか特に食べ物の香りに気を取られてしまうのだ。なのでその匂いからはなるべく遠ざかるようにしていた。
「――お、黒猫っ」
「ウニッ……?」
黒いローブを着た魔道術士っぽい青年が嬉々とした様子で近寄ってきて頭を撫でてきたが、どうしても身を固くしてしまう。とにかく自分と違って大きいからだ。
「警戒するなよ。何もしないから」
『……そう言われても、猫の体にはまだ慣れてないし……。うわ、抱っこまでされちゃった……』
「ウニャー……」
「へへっ。お前、お腹空かせてんだろ? なに顔背けてんだよ。遠慮せずに俺の家に来いよ」
『……』
リセスは困り果てていた。歩く動作が不安定だったためか、腹が減ったことが原因で弱っていると思われたらしい。
「ウニッ」
「……うっ?」
というわけで手に甘噛みしてなんとか青年から逃れた。かなり手加減したつもりだし、どうか悪く思わないでほしいと彼女は思う。
「振られちまったよ……」
そんな声が後ろから聞こえてきて、リセスはさすがに悪い気がして振り返ると手を振ってやった。男も笑顔で手を振り返してきたが、しばらくしてきょとんとしていた。
◆◆◆
「……」
俺は感動のあまり立ち尽くしていた。
それまで息が詰まりそうなほど重苦しい空気だったのが、百十一階層の転送部屋に到着したことで一気に軽くなった。
何故なら、そこは真っ青な空の下、周囲に巨大な雲が漂う天空の町だったからだ。丘の上にあるこの転送部屋から、長閑な町の様子や美しい花々で溢れた公園、聳え立つ塔、煌めく湖や滝が見下ろせる。
とにかく自然と調和していて、至上の楽園を思わせる絶景だった。俺たちは百十階層を攻略した際、ダンジョン管理局の意向で通路に戻されたわけで、ここに来ること自体初めてだったから感動もひとしおだ。
それまで鬱蒼とした暗い森だっただけに余計そう感じるのかもしれないが、いずれ冒険者がここまで来るのが普通になれば、おそらくビーチよりも人気ステージになりそうな気がするな。たまに吹き抜ける風も穏やかで、気候だってほどよいし……。
「俺たちついに天空まで来ちまったんだな。すっげえなあ……」
「素敵……」
「はー、見惚れちゃうねぇ」
ルファス、エルジェ、ビレントの三人が固まって満足げに周囲を見回している。なんか気分が悪くなってきた。さっきの光景とは雲泥の差だ。俺としてはできればこんなやつらと来たくなかったっていうのが本音だが、セリスを人質に取られてるんだから仕方ない。
「汚物さえいなきゃもっとよかったんだけどなぁ……」
「「……ププッ」」
エルジェの言葉でルファスとビレントが噴き出す。それはこっちの台詞だ……。
こいつら、誰のおかげでここまで来られたと思ってるんだろうな。恥を知る心があるならあんな言葉は吐けないはずだが……とにかく俺を不快な気持ちにさせられるのであれば手段は選ばないつもりなんだろう。心が腐っているとはこのことだ。グリフがいないのは残念だが、この三人には腐りきった心に相応しい惨めな結末を必ず用意してやる……。
――丘を下りて町の中に入ったわけだが、当然俺たちのほかに人の姿はない。
ただ、時折亡霊のような透き通った人間が出現したかと思うとしばらく飛び交い、消失するのを何度も繰り返しているのがわかった。みんな天空人っぽい羽衣に身を通している。女の子供から男の老人まで容姿は様々だが、一様に虚ろな表情をしていて俺たちが近くを通っても話しかけても一切反応せず、たまに現れては店や家の中をすり抜けていった。
これは、ノンアクティブモンスターなのか、あるいは障害物や飾りみたいなものなのか……。おそらく前者だろうな。モンスターらしき姿は丘の上からいくら眺めても見えなかったし、《念視》でも見当たらなかった。
「クソッ。鬱陶しいなこいつら……!」
ルファスが斬りかかり、通りがかった天空人の体が三つに分かれるも、すぐに再生して何事もなかったかのように彷徨い始めた。追いかけて何度も斬るがそれでも倒せない。物理攻撃は一切通用しないっぽいな……。
「ち、畜生……。なんだよこいつらはよ……」
「ほんと、邪魔よねえ。まるでそこにいるくっさい汚物みたい」
「「あははっ!」」
「……」
こいつら、まともにダンジョンを攻略する気はないらしい。監視の意味合いもあるのかもしれないが俺を弄ることばかり考えているように見える。どこまで幼稚なんだか……。