小川からの怪異。
土曜日、珍しく早起きした僕は中古で買ったレクサスに乗り込み、高速道路を使って栃木県と茨城県の県境に向かった。理由は東京都内で部屋に籠って暑い夏に耐えるのはつまらないと思ったこと、二つ目は夏の山々の景色が観たくなったからだ。
東京都内から栃木県の中心部当たりに来ると、僕は高速道路を降りて、三桁の国道を東へと向かう。気温は暑かったが、狭苦しい東京都内とは異なり、青空に浮かび上がる山々のシルエットが美しく、開放感があった。
田畑や牧場などがある場所に来ると、近くに小さな神社がある事に気づいた。普段なら無視してしまうのだが、今回ばかりはどういう訳だか気になったので、立ち寄ってお参りすることにした。エアコンの効いた車内から外に出ると、青空と美しい風景に囲まれた栃木と茨城の境目は、東京都心とさほど変わらない暑さだった。日陰はあっても、自動販売機と冷房の効いた建物は手に入らない。この状態で何時間も屋外で活動してしまったら、熱中症で倒れるのは間違いないだろうと思った。
訪れた神社は石の鳥居と本殿がそれぞれ一つあるだけの、神社としてはかなり簡素な神社だった。こういう神社は、地域の安全を守護しているよりは、何か悪い者が地域に逃げ出さないように、何かの固定ピン、境界線として機能させる神社なのだろう。僕は鳥居をくぐったあと、ニ礼二泊一礼の参拝を済ませて、周囲には何があるのかを観察した。
青々とした田畑の間には、水を送るための用水路があり、流れる水は太陽の光を反射して輝いている。見た目に反して生暖かい水だろう。田畑の向こうには、小規模な牛を飼っている牧場があり、飼料を牛舎に送り込むためのサイロが横付けされている、冷たいシャワーも浴びる事が出来ず、狭く暑い牛舎に押し込められて商品として出荷されるのを待ち続けていると思うと、僕は牛たちが可哀想に思えた。
そんな事を考えながら、駐車場にあった色あせた自動販売機でコーラを買おうと思い、鳥居をくぐって境内から、出ると、無地の赤いTシャツにチャコールグレーのハーフパンツ姿の、八歳前後の少年が僕を見ている事に気づいた。僕は彼の事を見ると、何か困った事があったのか、大人に助けを求める眼差しで僕の事を見つめていた。視線が合った瞬間、少年は小走りに僕の元へと駆け寄ってきた。
「どうかしたの?」
僕は少年よりも先に声を掛けた。
「ちょっと助けてくれませんか?」
少年は自分に出来る精一杯の敬語で僕に答えた。自分では解決できないから大人の力を借りたくて心細かったのだろうか、声が少し弱々しかった。
「何かあったの?」
「来てください」
少年は僕の質問に答えず、問題が起きた場所へ来るように促した。僕は何だろうかと思いながら、少年の後に続いた。
少年に続いて二〇メートル程歩くと、用水路とは別の水深の浅い小川にたどり着いた。周囲の木が作ってくれる木陰のおかげで日向より気温が低く、流れる川の音がそこだけ涼し気な空間を作っていた。ここで起きた少年を困らせる事というのは、けが人が出たか、あるいはもっと別の問題が起きたのだろうか。
小川の傍には、少年の友人らしい同年代の少年少女五人が僕の到着を待ちわびていた。僕は彼らに向かって「何があったの?」と訊いた。
「これを見つけたの」
子どもたちの一員の少女が口を開いた。僕は少女が指差した先を覗き込むと、そこには人間の潰れた顔面を持った、奇妙な形状の手足が生えた怪異がいた。大きさはフナより少し大きい程度で、グロテスクだが人間を襲うような存在では無さそうだった。
「ああ、大人の人が来てくれた」
怪異は僕に訊きとれる言葉で声を掛けた。
「あなたは?」
僕は怪異が人間の成れの果てである事を見抜いて、落ち着いて声を掛けた。
「私はこの地域行きで小さな牧場を経営していました。しかし地元の産廃業者と町議会議員とグルになって、不法投棄の手引きをしました」
人間だった怪異は自分の事を語り出した。不法投棄に関わったという事は、地元の人間の恨みを買ったのだろうか。
「丁度この用水路がある源流に、産廃を不法投棄したのですが、警察に通報されて、地元の恨みを買ってもうこの地域では生きて行けないと思って、家で首を吊ったのです。そうしたら、気付いた時にはこのような姿になっていました」
情状酌量を乞うように、怪異は今の姿になるまでの経緯を話した。首を吊った後にこのような姿になったという事は、この地域の祟り、この地域を納める神の怒りを買ったのだろう。
僕は怪異の話す言葉の内容に一ミリも同情できないまま、怪異から僕を見つめている少年少女たちを見た。彼らは地元の人間だろうから、この怪異について何か知っているはずだろう。
「この人間だったものは、何なんだい?」
僕は少年少女たちに質問をした。
「これは悪い事をした人間が、追い詰められて自殺すると、水の神様に怒られて化け物にされてしまったやつなんだ」
僕を案内した少年が答えた。祖父母から聞いた話をそのまま話したのだろう。
「それで、どうすればいいんだい?」
僕はまた少年たちに質問する。
「このままでは、この姿のまま死ぬ事が出来ないんだ。だから、どうすればいいのか出来なくて」
少年はさらに続けた。この言い伝えにある怪異を見つけて、困り果てた末に、近くに居た僕を呼んだのだろう。
「そうなのか」
僕はすべてを理解したように呟いた。
「お願いです、助けてください」
怪異は僕に懇願したが、僕は構わずその怪異を靴で思いきり踏みつけた、人間の肉体よりも、はるかに柔らかい肉と脆い骨が潰れる感触が靴底に伝わる。体重を掛けてさらに踏みつぶすと、脆い肉体の中にある小さな心臓らしきものが破裂する感触があり、それで完全に怪異の息の根は止まったようだった。僕がとった行動に少年たちは少し驚いた様子だったが、異論や悲鳴は出なかった。
「これで、もう大丈夫なはずだ」
僕は足をどかして、怪異の息の根が終わった事を確認した。ただでさえグロテスクだった怪異はさらにグロテスクな姿になって、その姿を無残に僕たちに晒している。地面で靴底に付いた血糊を地面で払ったが、黒いフロアマットに怪異の残った血糊が付いてしまうかもしれなかった。
「ありがとうございます」
僕を案内してきた少年は感謝の言葉を簡潔に述べた。僕は構わないよ、と小さく手を振って、駐車スペースに停めたレクサスへ向かった。




