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水煙

 溶けそうなくらいに暑い田園地帯の道路を二五〇のオートバイで走っていると、交差点の脇に『水煙の発生に注意』と白地に赤い文字で書かれた看板が目に入った。

 こういう所では『農耕車に注意』の看板ではないのか?と思うと、走行風とは別に、冷たい風が吹いてくるのを感じた。一抹の心地よさの後、進行方向先にたっぷりと水気を含んだ鉛色の雨雲が、目の前の青々とした水田の向こうに広がっているのが見えた。あれは雨を降らせる雲だと思っていると、また湿った冷たい風がバイクに乗る僕に向けて吹き付けてきた。

 これは雨になるだろうと思うと、一時停止の標識がある丁字路で僕は停まった。照り付けられた路面から熱気が立ち上っているのが判った。上空を見上げると、先程の鉛色の雲は大きく広がり、僕の頭上当たりにかかろうとしていた。五分も経たないうちに雨が降り出すと思って、丁字路を左折した瞬間、熱気で生暖かくなった雨粒が僕の左腕に堕ちてきた。

 二〇〇メートルも走らない内に、辺りはあっという間に大雨に覆われてしまった。普段なら何とか走り切ってしまうのだが、今回の雨は急に強くなって、視界が効かない程までの水煙が発生してしまったので、僕は道路脇にあった小さな神社に入って、境内で雨が弱まるのを待つことにした。

 神社の前にバイクを停めて、エンジンを切って境内に入る。大雨だったが、ヘルメットを脱いだ後一礼して鳥居をくぐると、拝殿の前には僕と同じように大雨から逃れて来たらしい、地元の壮年の男性と、小学校三年生くらいの少年がいた。

「ちょっと失礼します」

 僕は雨水を滴らせながら、先に雨宿りしている二人に一礼した。二人も小さく僕に一礼を返してくれた。

 雨はさらに勢いを増し、神社の中であっても大声を出さないと会話が出来ないくらいの雨音に包まれた。遠くの方では雷が鳴り、うかつに水田の方に出たら雷に打たれてしまうというのが感覚で判った。神社の外では道路と水田の間にある用水路から茶色く濁った水があふれて、道路と水田の境目が判らない状態にしているだろう。そんな状態でここから出るのは危険だった。

「すごい雨ですね」

 僕は小さく呟いた。僕の言葉が聞こえたはずの男性と少年はぼんやりと雨雲を見上げていたが、しばらくすると、男の子がこう口を開いた。

「これじゃあ、しばらく家に帰れないよ」

「本当だねえ」

 少年の言葉に、男性が答えた。この雨は通り雨的な物だと思っていたが、この辺りの地域では長時間続く雨なのだろうかと僕は思った。

「この後、水煙が立ち込めるでしょ、そうしたら晴れるまで出れないよ」

「そうだねえ」

「水煙が出たら、親に迎えに来てくれとも言えないし、困ったよ」

 少年は諦観したような言葉を、雨雲に向かって呟いた。雨が続いて親に迎えに来て欲しいという心情は理解できたが、〝水煙が出たら迎えに来てもらえない〟とはどういう事だろう?と僕は思った。

「迎えに来てもらえないと言うのは、近くの川が氾濫してしまうとか?」

 僕は少年に向かって思った疑問を口にしてしまった。すると質問を向けられた少年に代わって、僕の言葉に気づいた壮年の男性がこう答えてくれた。

「そうじゃないんです、この辺りは大雨が降ると、水煙が発生して視界が効かなくなるんです」

 男性は神妙な面持ちで、少年に代わって説明をしてくれた。水煙が発生して視界が効かなくなり、氾濫した用水路に落ちてしまう事故が何回かあったのだろう。だがそれと、親が迎えに来ることが出来ないというと、どう結びつくのだろうか?

「転落事故があったとか?」

「いいえ、水煙に飲まれてしまうのです。そうして消えてしまうのです、痕跡も何も残さずに」

 男性はなおも神妙な面持ちで答えた。先ほど目にした『水煙の発生に注意』という看板の意味が理解できたが、水煙に消えるというのは、怪異にさらわれるという事なのだろうか?

「おじさん、水煙にさらわれた事があるの?」

 傍らで様子を伺うように、僕と男性を見つめていた少年が質問した。

「私ではなく、私の友達がね。ちょうど君くらいの歳の頃、今日みたいに暑い夏の日に、自転車に乗った友達がさらわれたんだ」

 男性は遠い過去の記憶を淡々と語った。少年もその言葉に何か感じたのか、遠い目になった。

「だから悪い事は言わない。水煙が晴れるまでここに居なさい」

「でも、僕はそうはいきませんよ」

 少年に向けられた注意の言葉を遮るようにして、僕は口を挟んだ。男性は僕を見て、失望したような眼差しを送ってきた。僕はその視線にたじろいだが、先程より雨脚が弱くなっているのを確認して、大丈夫だと自分に言い聞かせた。

「悪い事は言いません、水煙が晴れるまで待った方が良いです」

「僕はこの辺りの人間ではありません。ですから、悠長に神社で雨宿りなんてできません」

 くだらない地元の人間の言い伝えなんかに付き合っていられるか、と僕は自分に言い聞かせて、雨脚が弱くなった神社を後にした。僕の背中に向けられた二人の気味の悪い視線を感じたが、気にしない事にした。

 境内を出た僕は鳥居に一礼して、ヘルメットを被って雨に濡れたバイクに跨った。跨った瞬間、雨と雲で日差しが遮られた事で周囲の空気がかなり冷えこんでいるのに気づいた。先ほどの男性と少年の会話に出てきた水煙の事と、雨が降り出す前に見た看板の文字が思い起こされたが、地元の人間のたわごとに付き合っていられないと、僕はエンジンを掛けた。

 雨が小降りになった道路は、看板や会話の通りに水煙に包まれていた。だが足元の道路と白線は見えたので、運転にさほど支障は無かった。

 何もないじゃないか、と僕は勝ち誇ったような気分になった瞬間、先程まで見えていた筈の足元の道路と白線が、水煙に覆われて見えなくなった。そんな馬鹿なと思ってバイクを急停車させると、足を着いたはずの地面がそこには無く、バランスを失ったバイクはそのまま倒れこんで、僕と共に何処かへと落下した。

「あっ!」

 僕は小さく悲鳴を上げたが、水煙が何処までも広がる空間に、僕の声は届かなかった。


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