7
薄れゆく意識の中で。オランジュは一つの光景を見た。
どこまでもつづく秋の黄金の麦穂の中。大きな赤い外套をひるがえして、一人の騎士が立っている。
麦穂に似た金色の髪をうしろでしばり、全身を冷ややかな銀色の鎧に包んで、地面に立てた長剣の柄の上に両手を乗せて背筋を伸ばした立ち姿は、とても凛々しい。
きりりとした目元。けれどその秋空のような瞳は慈愛を秘め、視線は遠い空のむこうに思いを馳せて――――
ふたが動く。
隙間から白い光がどんどんあふれて、その強さとまぶしさに亡者は動きをとめ、オランジュも一瞬、死の予感を忘れる。
「ぐああ!!」
まぶしさに耐えかねた亡者が手をふり、オランジュを放して両手で目をかばう。
オランジュは宙に投げ出され、そのままならかたい石の床、もしくは並んだ棺のどれかに叩きつけられて、骨の一本も折っていただろう。
しかし、宙に浮いた、と思った体はかたい何かにぶつかって支えられ、ふわりと床に着地した感触が伝わる。けれど足の裏はまだ床に触れていない。
「大丈夫ですか?」
優しげな、それでいて凛とした声が聞こえた。
オランジュは驚いた。
この墓所には自分と亡者しかいなかったはずだ。
おそるおそる目を開くと、すぐ上からこちらを見おろす顔があって、オランジュは心臓が跳ねた。
色の白い、若々しい顔の中で、二つの青い秋の空のような瞳が、まっすぐオランジュを見つめている。
(この青…………どこかで見たような…………)
「失礼」
相手は、苦悶の声をあげてのたうちまわる亡者にはかまわず、墓所内を見渡すと、オランジュを正面奥の棺まで運んで、棺の上に腰かけさせる体勢で彼女をおろした。
そこでようやく、オランジュは自分がずっとこの人の両腕に抱えられていたことを、お姫様抱っこされていたことに気がつく。
あらためて見ると、突然、現れた相手は武装していた。かたく感じたのは、冷え冷えと輝く銀色の鎧の感触だった。腰にはやや細身の長剣。
青い瞳がまっすぐオランジュを見すえる。
その、きりりとした目元。秋の麦穂色の髪。凛々しい佇まい。
けれどその顎は細く、体は鎧を身に着けていても小柄で、細身で――――
「古の約定、聖なる天上神への誓いにより、今、この地上に復活した。貴女が私の妃か?」
「え、あの」
若々しくも高い声に、オランジュは大きく戸惑う。
(妃って、でも、この人――――)
立派な出で立ちをした騎士は、オランジュの戸惑いにかまわず彼女の前で膝を折ると、血が乾きはじめたオランジュの手をとって告げる。
「夫婦の誓いと血の絆のもと、約束の復活は果たされた。これより私は貴女の夫、貴女はこの地上における私の妻。古の約定が果たされ、あるいは神への誓いが破られぬ限り、我等は運命を共にする身となる。貴女の血が注がれつづける限り、私は復活したこの地で使命を果たすことを、今、この場で誓おう」
「あ、あなたは――――」
「私の名はルカ」
騎士は立ちあがり、朗々と、堂々と宣言した。
「ル・ロア王朝の祖にして騎士ルカ・ル・ロア、ここに参上した!!」
墓所内に咆哮が轟く。
先ほどオランジュを捕らえていた亡者ではない。
新たな亡者が騒ぎに気づいて、墓所に集まってきたのだ。亡者達は打ち砕かれた扉の欠片をまたいで墓所に踏み入り、オランジュの姿を認めて騒ぎ出す。
「ヴィクトリア王女…………オレノ…………王女…………!」
オランジュは短く悲鳴をあげて身をかたくしたが、『ルカ』と名乗った騎士は手甲をつけた手をオランジュの肩に置く。
「ここに。動かないように。すぐ終える」
言うなり、オランジュの返事も聞かずに背をむけると、長剣を抜いた。
一番接近していた亡者が斬られ、右半身と左半身が分かれて、別々の方向に倒れていく。亡者の肉体からは血が流れず、かわりにぼろぼろと屑のような欠片をこぼして床に倒れる。
そしてその頃には騎士はもう、二体目の亡者を霧散させていた。
剣技にはまったくうといオランジュの目から見ても鮮やかな、動きを追うのも一苦労の美技だった。
「すごい…………」
思わず声がもれる。
なるほど、これはたしかに伝説の英雄の再来を名乗ってもおかしくない実力者であり、伝説になってもおかしくない実力である。
しかし。
(ルカ王、って…………あの人、女よね――――!?)
身にまとう銀色の鎧、軽々とふりまわす長剣。秋の麦穂色の髪は頭のうしろで一つにしばり、秋空色のまなざしは鋭く、オランジュに対する態度は礼儀正しい騎士そのもの。
けれどその高い声、細い手足、低い身長に輪郭のやわらかい顔立ちは、やはり女性にしか見えない。それもおそらく、オランジュと同年代だ。
「どういうこと――――?」
オランジュは視線を女騎士の類稀なる剣技に奪われながらも、頭はただ一つの疑問が手放せない。
(ルカ王が女だなんて、聞いてない――――!!)
ルカ王の妃として、オランジュは王の伝説を片端から叩き込まれた。
だが、どの口伝にも書物にも、『ルカ王は女』とは記されていなかった。
(若くして即位したせいか、書物によっては『小柄だった』と記されていたけれど、でも女とは――――)
オランジュが混乱している間も、女騎士は休むことなく剣をふるいつづけ、気づけば十を超す亡者が床にころがって、動く屍から動かぬ屍へと変貌を遂げている。
亡者はつぎつぎ墓所にやって来たが、その数が二十を数える寸前、後続が途絶えた。
女騎士はなおもしばらくオランジュを背に守る体勢で剣をかまえ、墓所の入り口をにらんでいたが、やがて新手の気配がないと判断すると、剣を鞘に納めて己が妻をふりかえった。
「ご無事ですか?」
かすかな金属音を響かせ、オランジュのもとに戻ってくる。銀色の鎧はそれ自体が淡い光を放つかのようだ。
「亡者は倒しました。ここを出ましょう。味方と合流したほうがいい」
騎士はオランジュの手をとり、棺から立ちあがらせた。オランジュは手を引かれるままに墓所を出る。月はないが、星の光で外のほうが少し明るかった。
「ここは王都の外ですか?」
「あ、はい。ルカ王の棺は、王の遺言により、北の丘の上に墓所を建てて、そこに収められました」
「そうですか。みな、私の望みを叶えてくれたのですね…………」
女騎士の口角がわずかにあがる。懐かしむような、ひかえめな笑顔だ。
オランジュは訊ねずにいられなかった。
「あの…………あなたはルカ王…………なのですか? 本当に、本物の…………」
「先ほど名乗ったとおりです」
「でも、その…………ルカ王は、殿方だと…………」
オランジュは無礼を承知でつい、女騎士の鎧に包まれた細身の体や、特に胸元を見つめてしまう。目立たないが、胸部は少しふくらみをもつ形に作られているようだ。
騎士もオランジュの言いたいことを察したのだろう、きっぱりと断言する。
「私はルカです。貴女のいう『ルカ王』がル・ロア王朝初代国王、ルカ・ル・ロアのことならば、あとにも先にも、その名を名乗れる者は私しかいない。二百年前、私は男として鎧をまとい、剣をにぎり、平時も騎士服で過ごして、妻を娶り、妻が産んだ子を我が子として発表しました。周囲は私を男と信じ、私もあえてその誤解を解かずにきました」
秋空色の瞳がまっすぐにオランジュを見つめる。
「民を欺くつもりはありませんでしたが、民を率い、人の上に立つなら、女よりも男のほうがやりやすかった。それゆえ、周囲に誤解されるままにしてきたのです。…………貴女は私を嘘つきだと思いますか? 一国を欺いた詐欺師だと」
「それは…………」
オランジュは困った。なにぶん、衝撃の事実がたてつづけに明らかになりすぎた。
「…………なんとも言えません。わたしはあなたのことを知りませんし、あなたが生きていた頃の周囲のことも知りません。ルカ王の伝説は暗記するほど教えられましたが、ルカ王自身にはお会いしたこともありません。あなたを嘘つきと非難すべきか否か…………わたしには判断する材料が少なすぎます」
オランジュの素直な感想だった。
ルカ王は、ふっ、と笑った。
「貴女は聡明な方なのですね」
「聡明…………ですか?」
そんな表現をされたのは、はじめての気がする。
「聡明な方です。情報が集まらぬうちは判断を下さず、結論が出ぬうちは考えを口に出さない。上に立つ者の条件です」
ルカ王はにこりと笑った。雄々しさを感じさせる笑顔だった。
オランジュは自分の胸のうちが、いや、魂そのものがルカ王の瞳の青に染め抜かれた気がした。あまりにまっすぐで清々しい瞳は、たとえどれほどあからさまな嘘をつかれようと、この瞳で語られればみな信じてしまうに違いない、そう思わせる力があった。
その青い瞳がオランジュに訊ねてくる。
「貴女の名前をうかがっておりませんでした。名を訊いても?」
「あ、オラン…………いえ、ヴィクトリア…………いえ、その」
普段なら、『ヴィクトリア王女』と名乗るよう厳しく命じられており、またオランジュ自身もその命令に従ってきた。
けれどこの夜は、なぜかその名前がすんなり唇から出てこない。
この騎士の前では偽りを名乗りたくないような、この騎士には本当の名を知っておいてほしいような、よくわからない気分にさせられる。
ルカ王は答えをせかさず、ただ首をかしげ、その様子にオランジュは隠しつづけるのが途方もなく重荷で、苦痛に感じた。
相手は自分の秘密を明かしてくれた。
ならば自分もそうすべきではないか?
偽ったことを怒られるかもしれないが、この人に隠し事はしたくない。
「公には、今の国王の娘、『ヴィクトリア王女』を名乗っております。けれどこれは、便宜上のものです」
オランジュは語った。
三年前から月が欠けはじめ、人々は死者の王とその軍勢の復活を恐れて、ルカ王の妻となる乙女が求められたこと。その乙女に自分が選ばれたこと。自分は国王の姪の娘ではあるが嫡子ではなく、婚姻前のお遊びで産まれたこと…………。田舎で養父母と暮らしていたが、急遽、実母に引きとられ、本来のルカ王の妃になるはずだった父親の違う妹に代わって『ヴィクトリア王女』となり、ルカ王に嫁いだこと…………。
「二年間、ずっとこの神殿で暮らして参りました。ルカ王…………陛下の妻として」
オランジュは頭をさげた。
「偉大なる英雄を欺くような真似をいたしましたこと、幾重にもお詫び申し上げます。下賤の娘が御身にふさわしくないとお考えでしたら、そうおっしゃってください。ただ、この件でわたくしの家族や友人に累が及ぶことは…………どうか、田舎の家族や友人達はご容赦いただきたいのです。お怒りになるのであれば、どうぞ罰はわたくしだけに…………」
習った、貴婦人としての礼儀作法を思い出しながら、真摯に頼み込んだ。
この女騎士の力は本物だと思う。
オランジュはたしかに、この女騎士が二十ちかい亡者をまたたく間に倒して平然としている様を、この目でしかと見た。この女騎士はたしかに伝説の英雄だと思う。
だがそれならば、ここでこの王の怒りを買うわけにはいかなかった。
ここでこの王を激怒させ、そのために民から王の守護が失われるような事態におちいれば、田舎の養父も養母も友人達も、みな危険にさらされることになってしまう。
王の怒りはオランジュ一人でうけとめるしかない。
そう、覚悟したのだが。
「顔をあげて」
手甲をつけた手がオランジュの頬にそっと触れて、顔をあげさせる。
目の前に、優しくほほ笑む秋空色の瞳がある。
「私は怒っていません。貴女は本来、むきあう必要のない使命と責任を負って、今日まで耐えてこられたのですね。安心してください、私は貴女に怒ってなどいません。むしろ責められるべきは、私のほうです。私の復活のために、家族のもとで平穏に暮らしていた貴女に余分な重荷を背負わせてしまったのですから」
「そんな」
わずかに細められた目は本気で罪の意識をこらえるようで、オランジュは思わず胸がしめつけられる。
(この人のせいではないのに…………)
ルカ王は再度、問うてきた。
「貴女の名は? 私が呼ぶべき、貴女の本当の名はなんと言うのでしょう? 貴女が決めていただけますか」
そう訊ねられれば、答えは一つだった。
「オランジュ。公には『ヴィクトリア王女』で、前の名は『ブランティーヌ』ということになっていますが、わたしは、私自身の本当の名は『オランジュ』と思っています」
「オランジュですね。では私も、これから貴女をオランジュと呼びます。良い名です」
それは、名を訊いた相手に対する礼儀、誰にでも言うようなお世辞の類だったろう。
けれど、褒められたオランジュの頬はぽっと赤くなった。
「では、オランジュ。味方と合流して――――」
ルカ王の青い瞳がとつじょ鋭い光を放って、庭の片隅へむけられる。女騎士は体ごとそちらにむきなおり、オランジュを背中にかばう体勢をとる。
「何者だ!」
ルカ王は剣を抜き、誰何した。
オランジュの目には、神殿の庭の暗がりに叫んだようにしか見えない。
だが、ひそやかな笑い声が聞こえたかと思うと、その暗がりの中にフードをかぶった人物が浮びあがった。暗がりなのに、なぜかそのフードはきちんと視認できる。
「ふふふ…………長き時を越えての此度の復活、まずはお祝い申し上げましょう、ルカ王」
「――――その気配には覚えがある。死者の王の側近の一人だ」
オランジュは耳を疑った。
今、ルカ王はなんと言った?
「ふふふ…………寝起きというのに、さすがの剣技。二百年前と、まるで変わらない…………せっかく作った亡者達が、完全に徒労でしたね…………」
「彼女を狙った亡者達は、そなたの仕業か」
「ふふふ…………亡き英雄の妃と知りながら、ヴィクトリア王女に邪な思いを抱く不埒な男は、大勢いたので…………」
「ふふふ」という、ひそやかな笑い声は夜風にまじって散る。聞いていると不安をあおられる声だ。
「そなたの狙いは、ヴィクトリア王女か」
「ふふふ…………ルカ王の復活には、妃となったその娘の生き血が不可欠でしたから…………理想は、復活前の排除でしたけれど…………本格的に亡者を作って動かすには、新月の今夜を待つしかなかったので…………間に合いませんでしたね…………」
フードの人物がしゃべるたび冷風が吹きつけてくるようで、オランジュは身ぶるいする。
「失敗したからには、潔く退却しましょう…………ルカ王の復活も確認できましたし…………我らが王も、この新月の晩に復活を果たしました…………軍勢の再建も、あと少し…………すべては、この地上を我等亡者の国土とするために…………」
「そんな…………!」
敵の言葉に、オランジュは心臓を冷たい手でつかまれるような驚きと恐怖を味わう。
ルカ王の手から短剣が飛んで、フードの人物の脳天と思しき箇所に刺さった。
しかし相手は倒れなかった。
なんなく短剣をつかんで、すぽっと抜く。刃には血の一滴もついていない。
「ふふふ…………いずれまた…………ふふふふふ…………」
霧が消えるように、フードをかぶった人物は姿を消した。
「あれが…………死者の王の配下…………」
オランジュはふるえた。夜気のせいだけではなく、全身に悪寒が走る。
「あの人が言っていた、死者の王とその軍勢の復活は…………本当に…………?」
「予言は事実です」
ルカ王は断言した。
「私が復活を遂げたことが、なによりの証です。いずれ、死者の王は軍勢を率いて、この地を攻めてくるでしょう。私は、私の誓いのため、また古に交わした約定のため、彼らをもう一度迎え撃ち、今度こそ永遠の眠りにつかせる使命と義務があります。ただ、その使命を果たすには、貴女の力が必要です、オランジュ」
秋空色の瞳がオランジュを見つめる。
「夫婦の誓いと血の絆により、私が復活を維持するには、貴女の生きた血が必要です。私が亡者の軍勢を退け、死者の王を打ち滅ぼすまで、私のそばにいてください、オランジュ。かわりに貴女は私が守ります。私の名と誇りと、この剣に賭けて」
ルカ王は手甲を外し、素の手をさし出してきた。
青い瞳がまっすぐにオランジュを射抜く。
オランジュは断ることもできたかもしれない。
命が惜しいと、こんな恐ろしい思いはこりごりだと、逃げ出すこともできたかもしれない。
しかしオランジュはおずおずと、自分の手をさし出していた。
騎士というにはあまりに頼りない、けれど長い年月、剣を友としてきた、皮膚のかたい手がオランジュの手を迎える。
薄明りの中、二つの少女の手が重なる。
「ありがとう、オランジュ。貴女は必ず、私が守ります。これからはじまる戦いの終わりまで――――」
朝の白い光が伝説の英雄の背後から射して、秋の麦穂色の髪を金色に透かす。
オランジュには迷いがあった、恐れがあった、不安もあった。対して、自信はなかった。
けれど、その凛々しくも優しい女騎士の、朝日を浴びてほほ笑む様を見たら、迷いのすべては洗い流されるように消えた。
この人と一緒なら大丈夫だ。
どんな闇の中でも、この光を見失うことはきっとない。
伝説に語られるルカ王の仲間達も、こんな気持ちだったのだろうか。
オランジュは重ねた手に、そっと力を込めた。
死後二百年を経て、ルカ王復活。
以後、この国は亡者達との戦いに直面することとなる――――
普通はここで「第〇章終わり」、「次の章に続きます」だと思いますが、続きを思いついていないので、一旦、ここで完結とします。
続きを思いついたら、また連載するかもしれません。
ありがとうございました。