08:おわりに‐もうひとつの結論‐
その夜、アリスは自分の部屋のベッドの上で、オーガスタの肖像画の裏から落ちてきた包を開いた。
中から出てきたのは、本だった。
別の本から切り取られたと思われる、数枚の古ぼけた紙も挟まっていた。
署名には”マリーナ”とだけある。
「王妃マリーナ?」
なぜニミル公爵夫人オーガスタの絵の裏に、王妃マリーナの本が隠されていたのだろう。
マリーナの産んだ第二王子が二代目ウォーナー侯爵となった縁だろうか?
読んでみれば、それはマリーナによる自筆の告白本だった。彼女が当時、宮廷で見聞きした話。
「オーガスタさまってやっぱり……」
殺していたのだ。
王を。カール・ブルクハルトを。サビーナを。
オーガスタは自身の凶行を決して悟られないように最後まで振る舞い、なんの証拠も残さなかった。だが、それに気づいた者がいた。それが王妃マリーナだった。そして彼女は、オーガスタのように秘密を隠し通すことが出来なかった。耐え切れず、本に書き残したのだ。
さらにページを捲ろうとするアリスの耳に、控えめなノックの音がした。
「誰?」
「――私です」
それだけで、扉は簡単に開いた。
今度もシュミットが苦笑した。
「いけませんよ。こんなに無警戒に扉を開けては」
「あら? そうして欲しかったのでしょう?」
早く入って。誰かに見られたら困るでしょう。
アリスはそう招き入れたが、マリーナの本がベッドの上に出しっぱなしになっているのに気づいて、慌てて、乱暴に包み直し、ベッドの下に突っ込んだ。
「……見た……わよね?」
あからさまに怪しかった。
「あなたがあの部屋から何かを持ち出したのは気づいていました」
あの緊急時に、アリスが自分のバッグや財布などに拘るような性格ではなかったからだ。
「事件とは関係ないものよ。うちの家のもの」
ベッドの上に座ったアリスの前に、シュミットが立つ。
「気になる?」
決して動かしてはいけない肖像画。その言い伝えが破られる時、それはオーガスタの威光が失われた時だ。その時こそ、彼女の秘密は明らかになるのだった。
今回は偶然、絵の裏から落ちてしまったに過ぎない。
でもそうだろうか?
アリスは思う。オーガスタは自分の罪が暴かれたと知って、白状する気になったのかもしれない。あの肖像画には不思議な気配を感じる。
「私がベッドの下に隠した秘密を、知りたいと思う?」
オーガスタの気持ちを量りかね、アリスはシュミットに聞いた。これは彼にも関係のある話だ。
「オーガスタさまの秘密を見つけたの。それから、カール・ブルクハルトにまつわる新事実も……」
「そうですね……」
シュミットの声がかすれた。
「知りたい気もあるのですが……」
アリスはシュミットの、あの緑色がかった灰色の瞳に、ある種の欲望の色が灯るのを見た。
夜で、若い娘の部屋に男が居て、二人っきりだ。
「今は、ベッドの下にある秘密よりも、ベッドの上の秘密を暴きたい気分だ」
シュミットの片膝がベッドの上に乗ると、重みでギシッと音を立てた。
「なんか台詞がおじさん臭い」
思わず身を引いたアリスに、シュミットはがっくりと項垂れた。
「実際、おじさんなんですよ」
「ハンスさんのお兄さんですものね。
……えっと、お幾つ?」
「三十三……」
「あらまぁ」
想像以上におじさんだった。
「ギリ二十台かと」
「お嫌ですか?」
「……そうね。
あなたはイザーク・シュミット」
「はい」
枕の方まで後退したアリスを、シュミットは追わなかった。端にちょこんと座っている。ちょっと可愛い。
「そしてベルトカーン国の大使館員」
「はい」
「他に私に隠していることはない?」
その問いかけに、シュミットは頷いた。
「あります」
「何?」
「あなたのことを一目見た瞬間から、恋に落ちていました」
「それは……隠し事じゃないわね……知ってた」
アリスはわざと足を崩した。今日も薄いナイティから、滑らかな白いふくらはぎが露出する。
「私もあなたが好きよ。
あなたのこと、一目見た瞬間から」
「知っています」
シュミットの視線が、むき出しになった足に釘付けになる。
アリスは自分がベッドの上で、男を誘っていることを自覚していた。しかし、誰にでもそんな振る舞いをするはしたない女だと思って欲しくは勿論、ない。
「だからキスも許したってことも、知っている?
誤解されたくないから言っておくけど、私、いつもはこんなんじゃないわ。
あなただから、許すのよ」
「光栄です。ウォーナー嬢」
露わになったふくらはぎに、シュミットの唇が落ちた。
顔を上げた男の顔に、不安がよぎる。
「アリス、右手を出して」
え? と、アリスは思ったが、意を決して手を出すと、それは震えていなかった。
「怖かったでしょう」
「……ええ」
慈しむようにシュミットがアリスの右手を取る。
「キスしても?」
「多分」
嫌悪感はなかった。
「大丈夫そう!」
アリスはシュミットに抱きついた。
確認すべきことは全部、確認した。あとは愛を確かめ合うだけだ。
「アリス……」
シュミットも彼女の背に手を回す。
「あ……もう一つあった!」
「何?」
ベッドの上で向かい合った男の顔が焦れていた。
「大事なことなの」
アリスが壁に目をやった。そこには役作りのために飾ることにした、あのニミル公爵夫人オーガスタの肖像画の複製があった。
「どう……?」
「私には……普通の絵に見えます」
「私もよ」
複製だからなのかもしれないが、そのオーガスタには、どこまでも慈愛に満ちた微笑しか感じられない……と言うことにしておこう。
「では……」
これ以上、辛抱出来なかったらしい。シュミットはアリスを押し倒した。
「ねぇ、イザークって呼んでもいい?」
「構いませんよ……アリス」
***
イザーク・シュミットは満足して眠っていた。隣には愛しいアリス・ウォーナーがぴったりと寄り添っている。
それなのに、段々と息苦しくなってきた。
誰かに首でも絞められているようだ。
まさかアリスが自分のことを殺そうとしているというのだろうか。
しかし、そうではないことがすぐに分かる。
鼻腔をくすぐる長い髪の毛は黒。アリスは短くて栗色の髪の毛なのだ。
「誰だ……」と問う声も出ない。
『見つけた。ブルクハルト……私を穢した男。
殺してやる……殺してやるんだ……』
脳内に響く言葉は、"花麗国"語のようだ。
こんな時なのに、「ああ、俺はやっぱりあの男の子孫だったんだなぁ」とシュミットはガッカリした。
ハンスと二人、その話を聞いたのは、まだ弟が幼い頃だった。
なぜ先祖代々、この話を子どもに聞かせるのだろう。こんな誰も喜ばない話を、どうして伝えていくのだろう。
父親は言った。「ほらみたことだ。カール・ブルクハルトの子孫だから、極悪人なのだと言われないように生きていくように」と。
弟はそれに衝撃を受けた。歴史を学び始めたのも、そのせいだ。もしかしたら、極悪人ではないかもしれない。同情すべき点があるかもしれない。その証拠を必死になって探した。
「だけど、ハンス。
カール・ブルクハルトはやはり極悪人だったようだ」
二百年経っても、恨みを残して彷徨う女の幽霊がいるほどに。
このまま呪い殺されるとしたら、アリスはどうなるだろうか。
朝、起きて、隣で寝ていた男が死んでいたら、彼女の人生に大きな影を与えてしまう。それでなくても、フォルクナーの事件はスキャンダラスで、面白おかしく取り上げられているのに。
「恨みは分かるが、お前に殺される訳にはいかない」
シュミットは覚醒した。渾身の力を込めて、女を避けようとするは、元から実態がないものをどうしようもない。
「くそっ、どうすれば?」
『あなた、アリスは好き?』
突如、全然、別の女の声がした。
息苦しさが薄れる。
「誰だ?」
『質問に答えなさい。この愚図』
「……好きです」
『もしも、”また”エンブレア王国にあだなすような真似をしたら、今度”も”私がお前を殺すわ。いいわね、ブルクハルト』
女はそう言うと、怯えたように隅に行った黒髪の女の幽霊の元に行った。
そして、持っていた扇で、思いっきり横っ面をぶっ叩いたのだ。大の大人のシュミットですら、ドン引きの勢いだった。
それまでどこか靄がかかったようなくぐもった音だったのに、そこだけは、ぱぁん! と、いやにリアルな音が響いた。
『あなたもいい加減にしなさい!』
一喝すると、髪の毛を掴んで、引きずって行く。
シュミットはたまらず叫んだ。
「俺はブルクハルトじゃありません!」
『そのようね』
黒髪の女の髪の毛を握ったまま、その女は微笑んだ。それはとても慈愛に満ちた――。
そこでシュミットは目が覚めた。
『こえぇえよ……ハンス、あれを敵に回すの、やめようよ』
ベルトカーン語で呟くと、隣のアリスが気恥ずかしそうに顔を覗かせた。
「どうしたの?」
「いや……怖い夢を見たもので」
「……私がいるのに? いやだ、どうしたの?」
「何?」
首に赤い痣が付いている。
アリスにそう言われて、シュミットはぞっとした。
『夢じゃなかった……』
「――イザーク、どうしたの?」
「ごめん。怖いから、抱きしめてくれる?」
くすくすと、アリスが笑った。「子どもみたい」
そこでもぞもぞと起き出したアリスだったが、あることに気づき、青ざめ、そして、あの完璧な腹式呼吸で発声した。
「きゃー!!!!」
叫ばれたシュミットは、アリス以上に顔面蒼白になった。
すぐさま、朝の早いバーサが、お嬢さまの危機と知り、駆けつける。
男と二人、裸でベッドに入っているお嬢さまを見て、バーサは叫ばなかった。
扉を閉め、後から来た使用人に、「アリスお嬢さまが怖い夢を見たそうです。それだけです。持ち場に戻りなさい」と追い返した。
まさしく”ばあや”の鑑だった。
「どういうことですか?」
シュミットと同衾するのは、もう仕方がない。二人は惹かれあっていたし、怪しい男は、ちゃんとした身分の、そこそこまともな人物だった。
けれどもアリスが叫んだ以上、なんらかの合意なしの行為が行われたと考えざるを得ない。
もしもの時は、刺し違えてでもアリスお嬢さまの名誉を守る、とばかりに詰め寄った。
「違うの。見て!」
シーツを巻きつけたアリスが、自分が昨日、無造作に外してサイドテーブルに置いた”呪いのアメシスト”のネックレスを指差した。
それを見たバーサは、アリスも驚くほどの大声で――叫んだ。
結局、アリスとシュミットが一緒に居るところを多くの人間に見られてしまった。
その上、シュミットは警察から事情聴取を受けることになった。フォルクナーの件で、まだ何人か残っていたのだ。
「合意の上です」
エンブレア王国侯爵家の令嬢にして、人気女優のアリスを寝取った男として、刑事は最初から厳しかった。
「本当に? ウォーナー嬢が昨夜の酒に酔っているのをいいことに、無理矢理部屋に侵入したのではないですか?」
「そのようなこと口にしない方が良いですよ。ウォーナー嬢のためにもなりません」
シュミットが冷静に言うと、刑事は舌打ちをしつつ、納得した。
大体、問題はそれではなかった。
「夜中、誰か侵入したことに、気づかなかったのですか」
「……気付きませんでした」
「おやおや、ベルトカーン大使館屈指の切れ者が、情けない話ですね」
「とても気分良く、寝ていたものでね」
実際は、幽霊に殺されかけた。それを説明しても納得はされないだろう。警察も調べれば分かる。あの部屋には、アリスとシュミット以外、誰もいなかった。
「ではなぜ、ウォーナー嬢のアメシストが割れていたんですか?」
「……見当もつきませんね」
アリスの持つ”呪われたアメシスト”が、真っ二つに割れていたのだ。
それでアリスが叫び、バーサが叫んだのだ。
「誰かが侵入して叩き割ったとして、それになんの意味が?
盗んだ方がいいのでは?」
シュミットの言葉に、刑事が「嫌がらせの可能性も考えている」と答えた。コレットも事情を聞かれているらしい。申し訳ない気分だ。
「わざわざ男と一緒に寝ている時に部屋に侵入するなんて、そんな危険な橋、渡りますかね?」
「じゃあ、誰が、一体、あのアメシストを叩き割ったんだ!」
刑事が語気を荒げたが、知らないものは知らない。
ニミル公爵夫人オーガスタが、あのアメシストに取り憑いた女の幽霊を叩いた時、一緒に割れたのだろうと思うのだが、弟の論文以上に、証拠がなかった。
分かることは、あのアメシストはもう”呪いの”ではなくなったと言うことだ。
ようやく刑事から解放されると、アリスが待っていた。
「イザーク!」
アリスを抱きしめ返す。
昨夜の甘美な記憶が甦って来て、どこかにしけこみたくなる。
「大丈夫?」
「これを見たら、誤解も解けると思うよ」
シュミットは刑事の前で、アリスにキスをした。
あんまり熱烈で、長いキスを見せつけられた刑事たちが、二人を追い払う。
アリスとシュミットは手を繋いで、『夕凪邸』を歩いていた。
「ねぇ、付き合って欲しい所があるの」
「いいよ」
愛しいアリスの誘いなら、地獄の果てまで一緒に行こうと言わんばかりの同意の声がシュミットから出て、我がことながら驚く。自分が一人の女性にここまで入れ込む人間だったとは、思いもしなかったからだ。
行き先が人気の無い”魔女の部屋”と知って、シュミットはアリスに手が伸びそうになる。が、そこはオーガスタの肖像の前。やめた。
アメシストに取り憑いていた女はいなくなったが、肖像画にはまだ、何か強烈な力を感じたからだ。
アリスは小脇に抱えていた包を、オーガスタの肖像画の裏に隠した。
これまた警察の実況見分が始まる前に、バーサに押し付けたのだ。「これを持って行って。絶対に見つかっちゃ駄目」
バーサはアリスの言いつけを、忠実に守ったのだ。
迷ったが、アリスはこの歴史的大発見を隠ぺいすることを選んだ。
あのハンス・シュミットならば、『不動のオーガスタの肖像画』の謎に気付くかもしれない。気付かないかもしれない。
「あなたは、いつこの秘密が暴かれるか、ずっと恐れてここにあり続けるのだわ」
そう語りかけたものの、それはアリスにこそ言えることだった。
いやだ。秘密を抱えるって、こんなにも大変なことなのね。
王妃マリーナが書き残したくなる気持ちが分かる一方、何事もなかったように一生を過ごしたニミル公爵夫人オーガスタの精神力を怖れた。
だが、そこにエドワードが顔を出す。
「なんだ、お前も元に戻すのか?」
「え?」
「その秘密、結構、みんな知ってる」
アリスは笑い声を上げた。そう言えば、本を包んでいた防水紙は新しかったじゃないか。アリスも新しい防水紙で包み直していた。埃も、そんなについていなかった。
『夕凪邸』の当主が、オーガスタの肖像画の年に一回の公開日に合わせてこっそり曝書をし、善良なる人々には”秘密の無いオーガスタさま”に会わせているのだと、後から聞いた。
どうりで、当代のニミル公爵夫人が平然としている訳だ。彼女もまた、幼い頃から『夕凪邸』に出入りしていた親戚だった。
オーガスタの秘密が明らかになるのは、彼女の威光が失われた時――。それとも、これは罰なのかもしれない。
シュミットが怪訝な顔をする。
「なんなのですか?」
「駄目よ。
あなたはベッドの下の秘密よりも、ベッドの上の秘密を選んだの。
得られる秘密はどちらか一つよ」
悪戯っぽく微笑みながら、指先で胸元をなぞる。
「あー、エドワード・ウォーナー?
ちょっと、外してくれないかな?」
シュミットの申し出は、丁重に断られた。
「さぁ、お茶の時間だ。アリス、行くぞ」
兄に連れられて、アリスは出て行った。
シュミットも続く。最後に扉を閉めようと振り向くと――オーガスタは変わらぬ微笑で彼を見ていた。




