第95話・最深奥の万魔図書館②
探求神スキエンティアの秘奥――最深奥の万魔図書館。
現実空間に、世界の知識を「図書館」として創造する神の技。
棚の列がまるで生き物のように広がる。しかし実際に動いているのではない。動いているのは、この図書館に踏み入った者の「理解」の方。目の前に並ぶ無数の背表紙が、読むべき順番を主張し合う。世界の記録はいつだって、読む者の心を試す。
紙の匂いが濃い。古いインクの甘苦さが鼻の奥に残る。
索引札の光が、淡く脈打っている。検索窓が、言葉を待っている。
有羽は指を置いたまま、わざと一度、深く息を吐いた。
スキエンティアが、有羽の背から覗き込むように視線を向ける。眼鏡の奥の瞳が、有羽の手元に張りついている。危機感と、好奇心がぐちゃぐちゃに混ざった目。危険な探求の目。
「……東の蛇。森の東の番人」
有羽が言葉にすると、索引札の光が僅かに強くなった。反応する。つまり、繋がりがある。完全な領域外なら、ここまで手応えは出ない。
世界天蛇という存在を知っている者は少ない。森の東で眠り続ける天災。あの巨大な本体が身じろぎするだけで、周囲の魔力の流れが変わる。森の外に出たことは、記録上一度もない。
知る機会がない。だから知られない。知り得ない。
けれど、ゼロではない。
かつて帝国の冒険者が、蛇の領域にまで踏み入れた。帰ってきた者が無事かどうかは別として、踏み入れた「記録」は残る。そして――蛇はリザードマンを眷属としている。あるいは、リザードマン側の一方的な信仰かもしれない。それでも縁は縁だ。信仰もまた、情報の糸になる。
最後に、帝国の軍団が百人あまりの規模で蛇の領域に辿り着いた。
そして分身が、帝国軍に付いて行って森の外に出た。
この事実は「森の外」に触れている。外界に出た瞬間、記録は世界側に染み出す。神の図書館に引っかかる可能性が上がる。――そこに狙いを定める。
有羽は索引札に、言葉を落とす。
世界天蛇。分身体。外界。帝国軍。同行。
何度目かの入力。手応えのない検索を繰り返し、索引の光が無駄に棚を照らしては消え、照らしては消え――その度に、有羽の心臓が嫌な跳ね方をする。
失敗するほど、蛇の巨大さが実感される。
そして――ようやく。
「……よし、引っかかった。蛇の分身についての情報が出てきたぞ」
有羽の口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
勝利の笑みではない。溺れかけた先で、指先がようやく水面に触れた時の笑み。
スキエンティアが、有羽の背後から身を乗り出す。
眼鏡がずり落ちそうになって、慌てて押し上げる。
有羽の手元に落ちてきた一冊の本。装丁は奇妙に淡い。白い紙に、薄く星屑のような模様が散っている。触れた瞬間、ページがひやりと冷たい。
有羽は慎重に表紙を開く。
そこにあったのは、まず「名札」の層。
星髪のアギト
世界天蛇の分身体
レベル85
本体の権能を「地上に落とし込める範囲だけ」切り出した器
世界に干渉するための「手」
そして、世界天蛇という概念が、地上の言語と感情を使って話すための「口」
読み終えた瞬間、有羽は本を閉じそうになった。
反射。危険なものを見た瞬間に、目を逸らす人間の本能。
だが閉じない。閉じたら、ここまで辿った意味がなくなる。
「……こいつ、結構やばくね?」
「うん。結構アカン性能してるねこの子……」
スキエンティアの返事も、軽い言葉に見せかけて深刻だ。
軽口の後ろに、神としての危機感が潜んでいる。
問題は「レベル」ではない。
もちろん、レベル八十五は従属神級。この数字だけでどれほど狂っているかは解る。
だが、さらに恐ろしいのは次の行。
本体の権能を「地上に落とし込める範囲だけ」切り出した器。
――切り出せるのか。
――落とし込めるのか。
――本体にはまだ「残り」があるのか。
そして「手」と「口」。
世界天蛇という概念が、地上の言語と感情を使って話すための「口」――つまり、分身は単なる端末ではない。概念が、人間の尺度で世界に触れるためのインターフェース。自我を持った子機。
有羽は、思わず唇を噛んだ。
この情報だけで、分身の危険度は跳ね上がる。
もしも暴走したらどうなる? いや、暴走という言い方は間違いだ。分身にとっては「本体の意志を実行する」だけ。ただそれだけ世界が壊れる。
スキエンティアが焦ったように有羽の肩越しに囁いた。
「有羽君、有羽君。もっと詳しく探れない? 大本の蛇さんなら無理でも、外界に出た分身なら結構探れるはずだもの」
「ちょい待ち。今やる……権能の詳細。分身体ができること。できないこと」
有羽は索引札に指を置き、必要な言葉を少しずつ足す。
権能。
境界。
範囲。
干渉。
規模。
性質。
索引札が唸るように光った。棚の奥の奥で、鍵が外れる音がした気がした。気がしただけかもしれない。だが、有羽の背筋に冷たい汗が走る。
ページの中に、文字が増えていく。
最初は空白だった行間に、墨が滲むように情報が書き足されていく。スキエンティアが「索引しないと深く見れない」と言っていた意味が分かる。これは検索というより、鍵だ。正しい問いを立てた者だけに、扉が少しだけ開く。
そして、浮かび上がる。
分身体に可能な事象。
境界系の干渉「閉じる・縫う・噛む・切る」
異界由来の侵食の除去
局地の時間・地形の固定
魔力圧による制圧
分身体に不可能な事象。
大規模な世界線の再構築
本体が噛み留める継ぎ目そのものの移動
読み終えた瞬間、二人の動きが止まった。
「……」
「……」
沈黙が、図書館の空気を押し固める。
有羽は、まず「出来る事」の最後だけを見た。
魔力圧による制圧。
「魔力圧による制圧は……まあ、分かる。俺も似たようなこと出来るし」
「そこはわたしも。神様だからね……圧で制圧するのは簡単」
有羽とスキエンティア。二人は理解できる部分に、安心を抱く。
魔力を高めて、他者を威圧する――人間にだって可能な事。二人に可能な領域は、途方もない規模だが、実際に発生する事柄としては理解の範疇。理解できる範囲に逃げたい。
次に、局地の時間、地形の固定。
時間。地形。固定。
「局地の時間、地形の固定……これもまあ、出来ると言えば出来る」
有羽は言いながら、脳内で必死に「普通の魔法」へ落とし込もうとする。時間を止めるのではない。遅くする。加速する。局地限定の結界的なもの。
分子運動の停滞。地形固定も、土を固める、崩れないようにする――そういう「規模の小さい理解」に押し込められる。
「わたしもまあ……可能かどうかで言えば可能だよ。だからうん。ここまでは納得」
スキエンティアが頷く。その頷きは、震えている。
その先の紙上の言葉が、彼女の想像する「可能」の範囲を超えているのが分かっているからだ。
そして――二人は、視線を上に戻した。
境界系の干渉「閉じる・縫う・噛む・切る」。
「境界系の干渉……は? 何言ってんのコイツ? 意味が解らんのだが……?」
有羽の声が、思わず荒くなる。
境界とは何だ。国境のことではない。結界のことでもない。
もっと根源に近い「何か」を指している。
閉じる。縫う。噛む。切る。
まるで、傷口の処置の動詞。
何の傷口だというのか。
世界天蛇――世界――世界の傷口?
そして次。
異界由来の侵食の除去。
「異界由来って……何だ? 境界系の干渉と関係あるのか?」
「異界……異世界? 蛇さんは異なる世界に干渉できる?」
「……アイツの牙は尋常じゃない。世界を噛めるほどに――噛む? 境目をか?」
「たぶん……近い。世界ってね、完全に一枚岩じゃないんだよ。『層』がある。『境』がある。そういうのを、蛇さんは……触れるんだと思う」
触れる、という言葉をスキエンティアは慎重に選んだ。
だがそれよりも見逃せない「続き」をスキエンティアは見てしまった。
分身体が「出来ない事」の方を見てしまった。
彼女は眼鏡のズレを直しながら、冷や汗をひとつ。
「有羽君……その下……出来ない事の方が異常だよ……大規模な世界線の再構築って……世界線の再構築!? それってまさか――創世のやり直しってこと!?」
スキエンティアが半歩後ずさった。神が後ずさる。普通ならあり得ない光景。
有羽の脳が、理解を拒んだ。
世界線を再構築。創世のやり直し。つまり、最初から書き換える。
それが「分身にはできない」こと。
逆説が、喉元に突き刺さる。
分身にできない。なら――本体は?
有羽は、声が上擦りそうになるのを、歯で噛み殺した。
そして最後の行に目を落とす。
本体が噛み留める継ぎ目そのものの移動。
「本体が噛み留める継ぎ目……『継ぎ目』って何? アイツ、森の東で『何を』噛んでるの? 何を目的に、とぐろ巻いて眠ってるの?」
沈黙。
スキエンティアも、すぐには答えられなかった。答えられないのが答えだ。神ですら「推測」しかできない領域に触れている。
「……有羽君」
スキエンティアが、珍しく慎重な声で言った。
「『継ぎ目』って言葉が出るの、すごく嫌……さっきも言ったけど世界ってさ、ひとつの板じゃない。層があって、境界があって、繋ぎ合わせて成立してる部分がある。……その繋ぎ目を噛み留めてる、って書き方は」
彼女はそこで言葉を切った。続けたら、封鎖に触れると直感したのかもしれない。あるいは、言葉にした瞬間に「推測」が確定するのが怖かったのか。
有羽は、代わりに言った。
「……世界が裂けるのを、あいつが噛んで止めてる、みたいな」
「うん……」
スキエンティアは頷いた。顔色が悪い。神なのに顔色が悪い。いや、神だからこそ顔色が悪い。人間よりも「その意味」を知ってしまうからなのか。
有羽は、本の端を握り直す。
手が冷たい。紙も冷たい。全部が冷たい。
「……分身が出来る事に『異界由来の侵食の除去』があるのも、同じ文脈だよな」
侵食――異界から染み出してくる何か。
境界を縫う、閉じる、噛む、切る。
時間と地形の固定。
世界線の再構築。
「つまり、あいつは『縫い手』でもあり、『封印具』でもあり、『留め金』でもある……世界が壊れないように、世界そのものを押さえ込んでる存在ってことになる」
自分で言って、笑いそうになった。
笑えないのに。壮大すぎて脳が勝手に逃げようとする。
「……そんなのが、森の外に『手』を伸ばした」
スキエンティアが小さく呟いた。声が震えている。
有羽は本を閉じた。閉じた瞬間、図書館の空気が少しだけ戻った。紙の匂いが薄くなる。棚の圧が僅かに緩む。蔵書に、蓋がされた感覚。
だが、蓋をしても現実は変わらない。
分身は外にいる。帝国にいる。
世界の外側へ伸びた手が、地上を歩いている。
「……対応を考える前に、まず前提の理解が必要だな」
有羽は言う。自分に言い聞かせる。
「アギトとかいう分身がやばいのは分かった。けど、こいつが『何を目的に』動くかが分からないと――」
言いかけて、止まる。
目的。
もし目的が「継ぎ目の維持」なら?
もし目的が「侵食の除去」なら?
もし目的が「固定」なら?
それはきっと、人間の都合とは無関係に実行される。
森の外で、外界のどこで実行されるのか――何も解らない。
スキエンティアが、唇を噛んで言った。
「……有羽君。これ、もう一段階、索引できるかもしれない。でも……その先は、封鎖に触れる可能性が高い。わたしの権能で開けられるかどうかも分からないし、開けられたとしても――読むべきじゃない情報が混ざるかも」
「……分かった。落ち着く。順を追う」
有羽は、苦笑した。
「対象を分身に限定しよう。どこまで干渉できるか。何に反応するか」
「うん。そこなら、まだ安全圏だと思うよ」
有羽とスキエンティアは乾いた笑いを漏らし、索引札に向き直った。
次に入れるべき言葉は、慎重に選ぶ必要がある。
アギトの「目的」。
外界に出た理由。
帝国軍に付いて行った経緯。
図書館が静かに息を潜める中で、有羽は言葉を選び、選び、選び――
深い深い、検索の旅が始まった。
◇◇◇
棚は果てがない。
背表紙の列が遠近感を歪ませ、視線が滑った先に「まだ棚がある」という当たり前を、当たり前として受け入れられなくなる。知識の量が現実感を削る。世界の記録を「本」という形に落とし込んだのは、理解のためだと言っていた。けれど有羽は思う。これは理解のためであると同時に、理解を諦めさせるためでもあるのだと。
有羽は、アギトの本を開いたまま、眉間を押さえていた。
世界天蛇そのものの検索は叶わない。
ならば外側から――分身の情報から、本体の輪郭をなぞるしかない。
そう決めて、索引を繰り返し、鍵を選び、正しい問いを投げ続けた。
……投げ続けたのだが。
よく笑う。
冗談も言う。
酒が好き。酔っぱらう。へべれけ。ザル。うわばみ。
酒場に出没した過去あり。蜂蜜酒が好き。甘いお菓子も好き。負けず嫌い。
「って、どうでもいいわ、んなことーー!!」
有羽はそのまま、本を床に叩きつけた。
凄い音。
世界の知識を収める図書館に、ばちーんと軽快な音が響く。
スキエンティアが慌てて両手を振った。
「わ、わぁ!? お、落ち着いて有羽君! どうどう!」
「誰が馬だ、誰が!? この情報、誰得なんだよ! 蛇の分身の酒豪エピソードとか、んなモン求めてねぇんだよ!!」
怒鳴りながら、手がわなわなと震えている。
先程から出てくる情報の全てが、どうでもいい裏話ばかり。
蛇の分身の趣向とか、そんなものばかり目に映って怒りがタップダンスしている。
スキエンティアは床の本を拾い上げ、きらきらした目でページを追った。
「あ、有羽君見てみて。分身ちゃん、昔港町の酒場で告白されたことあるみたいだよ! ひゅー! 百年以上前のラブロマンスだ! 胸がドキドキするね!」
「しねぇよ!!」
有羽は即答した。
そしてスキエンティアの頭を掴んで、ぐわんぐわんと揺らす。
拳骨落とさないだけの理性と良心は、まだ在る。
「なんで蛇の分身の恋愛話で盛り上がらないといけねぇんだ!? 恋愛話読みたくて検索した訳じゃねぇんだぞ!!」
「あああああ、頭が揺れるよぉ……眼鏡がずれるぅ……!」
「揺れてろ! 今の俺も頭が揺れてんだよ! というか最初から揺れてんだよ!!」
スキエンティアは頭部を揺らされながら目を回す。
有羽は手を離し、深く息を吐いた。
ここで女神に当たり散らかしても事態は改善しない。今はひとまず深呼吸。
ようやく解放されたスキエンティアは、若干ふらふらしながら――肩を落とす。
「……でもさぁ、有羽君。思いつくキーワードは粗方入力済みだよ? 分身ちゃんの権能、できること、できないこと、帝国軍に付いて行った経緯、外界での行動ログ……それっぽいのはもう洗った」
「……だよな」
有羽も分かっている。直線的に、正面から、蛇を調べることはできない。だから外側の分身を叩いた。それでも、出てくるのは「雑談のネタ」ばかり。図書館が悪いというよりも、問いに対して「出せる範囲」で答えを表示しているだけにすぎない。
スキエンティアは拾った本のページをめくり、ふと真面目な顔に戻る。
「あ、でも……これは少し有用かも」
「え?」
有羽が反射的に身を乗り出す。スキエンティアは得意げに指で行をなぞった。
「分身ちゃん、変わった格好で過ごすことが多いみたい。で、その理由が……世界の縁を噛むことで、世界天蛇の中に『別世界の情報』が流入する。偶々流れ込んだ物の中で『気に入った服のデザイン』を再現している……だって」
有羽はその瞬間だけ、怒りを忘れた。
別世界の情報が流入する。
服のデザインが流入する。
つまり――世界天蛇は「外側」と接続している。そして接続しているだけではなく、情報が流れ込む構造を持っている。
「あー……つまり本体の蛇は『異世界の知識』を多少知っているってことか?」
「多分ね。分身経由でしか探れないから断言はできないけど……世界の「縁」を噛むってのが比喩じゃない。物理でも魔法でもなく、概念の縁を」
スキエンティアの声が少し低くなる。
神の声。探求神が「構造」を見ている。
有羽は黙ったまま本に視線を落とす。
世界の縁を噛み続ける世界天蛇。森の東に座したまま動かない蛇。
あの蛇が森に座する理由は? 世界の境目を何故噛み続ける?
そもそも――この森は何だ?
「……この森そのものを調べたことはあるか?」
スキエンティアの表情が、露骨に曇った。
「もちろんあるよ。で、これがその結果」
彼女が差し出した本は、やけに薄かった。
装丁も簡素で、背表紙に文字すらない。
そこに書かれていた文字を見て、有羽は動きが止まる。
――解析不可
たった一行。
有羽は目を閉じた。
閉じた目の裏側に、今まで見た単語が浮かぶ。
世界線の再構築。継ぎ目。境界干渉。解析不可。
「……神様の力でも探れない。さっぱり判らん。何だよこれ。何が何やら」
有羽は頭を押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
スキエンティアは腕を組んで唸り始める。
「手詰まり感、あるよね……。蛇さんを直線的に調べるのは無理そう。少なくともこの森にいる限りは」
有羽は唇を噛んだ。悔しさよりも、恐怖感の方が若干多い。
神の図書館が解析不可と示す――それはきっと、ただの「情報不足」ではない。
情報を得る事を拒否している。触れることを、世界が拒絶している。
「一旦、蛇から離れて考えるべきかもな」
有羽が言うと、スキエンティアが頷いた。
「うん。せめて、いつ頃生まれたのか分かれば探りようがあるんだけど」
「蛇が生まれた時期、ねぇ……女帝さんは『世界が生まれたその時からいるかも』とか言ってたけど」
「うわー。真面目にありえそうなのがやだなぁ」
スキエンティアが素直に「嫌」と発言する。
神がそう発言してしまうくらい、目前に広がる現実が終わっている。
「有羽君も会った事あるんだよね。どうだった? 何か感じた?」
「感じたも何も……すぐ殺し合い一歩手前の戦いになった」
「わたしと同じじゃん。わたしもすぐ噛まれそうになったから一緒だね。いえーい」
「何も嬉しくないんだが」
有羽は、ふと前の記憶を掘り返す。
蛇と会ったとき。あれは会話の場ではなかった。交渉でもなかった。目が合った瞬間に、世界が「圧」で歪んだ。言葉にする前に「殺し合い」に片足が突っ込んだ。
溜息を吐き、頭の中の時代感覚を無理やり整理する。
女帝は、人が洞穴で暮らしていた頃に生まれたと言っていた。それだけでも途方もない。
蛇はそれ以上。
「女帝さんが生まれたのは、人が洞穴で生活してた頃とか言ってたっけ……これでも途方もないくらい昔の話なのに、蛇はそれ以上か」
「年代を突き止めるのは無理そうだね。そもそも本人も、生まれた時代を明確に自覚してないと思う。いつの間にか発生して、いつの間にか噛んでた――そんな認識じゃないかな」
桁が違う。
万年単位で生きる神の「昔」が、すでに人類史の霞だ。
言葉が追いつかない太古。
有羽は、手元の本を流し読みする。もう腹を括って、出てくる雑談情報も「手掛かり」として扱うしかない。そう割り切りかけた瞬間、ふと疑問が浮かんだ。
「そういや女神さん。東と西に行ったことあるって言ってたけど……北は行かなかったの?」
スキエンティアは、きょとんとした顔をした。
「北? ……いや、その頃は北の番人なんていなかったからさぁ」
「へ? それっていつ頃の話」
「んーとねぇ……すんごい昔。まだ人の国が出来てなかった頃だよ」
「アバウトすぎる。幅広すぎるんだよ」
有羽が呆れた声を出すと、スキエンティアはぷくーっと頬を膨らませた。
「そんなこと言ったってさぁ、わたしだって万年単位で生きてるんだから、昔のこと詳しく覚えてないよ……というか覚えてたら、こんな図書館必要としてないし」
「確かに」
有羽は広大な図書館を見渡した。
神ですら全てを記憶できないから、世界の記録庫が必要になった。
けれど、そんな世界の記録庫ですら解析できない森がある。
――もしかしたら詰んでいるのかもしれない。
そう思いかけた瞬間、スキエンティアが指を立てた。
「でも、北に番人が生まれた時期なら大体分かるよ。丁度、転換期でもあったしね」
「転換期?」
「そ。世界の転換期。あれはそう――人の国が生まれた頃だね」
人の国が生まれた頃。
国家という枠組みができ、道徳観や宗教観が形作られ、争いが「喧嘩」から「戦争」へ変わった時代。交易が広域化し、群れが社会に変わった転換点。
世界の構造が変わった時代だ。
有羽は、その言葉の重さを噛みしめる。
「……そうか。その頃か……『あの竜』その頃に生まれたのか」
「あ、北の番人って竜なんだ」
「ん? 知らなかったの女神さん?」
「知らないよ。見た事も行った事もないし……しばらくこの森はトラウマだったし」
「余程、女帝さんに痛い目に合わされたようで」
「ホントにね……」
探求神がさめざめと泣く。
神が知らない。言葉にするとおかしいが、今はむしろ納得できる。
ここは神々の管轄外。危険区。触れることすら許されない。知らなくてむしろ当然だ。
スキエンティアは顎に指を当て、視線を本棚の彼方に投げる。
「……ねえ有羽君。だったらその北の番人経由で、出来る範囲を探ってみたらどう? 蛇さんに直線で行けないなら、別の番人の情報から森の構造を推測できるかもしれないよ?」
「いや、俺もあいつの名前とか知らないし。何をどう検索すれば……」
「駄目じゃん」
苦笑が交差する。
笑っている場合ではないが、笑うしかない状況。
結局、分かったことは多いようで少ない。
アギトは「手」であり「口」。境界に干渉し、侵食を除去できる。世界線の再構築という言葉が出るほどのスケールが背後にある。別世界の情報が流入する構造がある。森そのものは解析不可。
そして――北の番人は、スキエンティアの記憶の中では「途中で生まれた」存在。人の国が生まれた転換期に。
これは、重要だ。
森は永遠不変ではない。番人は増える。
――何の為に?
その言葉が浮かんだ瞬間、有羽は胸の奥が冷えた。
更新される仕組み。増える番人。
それはつまり、世界が「仕組み」を増やしたのか。
それとも――。
「……あー、一旦飯にしよう。頭使い過ぎて疲れた」
「さんせーい。わたしも疲れたから、有羽君のご飯食べたーい」
有羽が本を棚に仕舞うと同時に、スキエンティアが指を鳴らす。
瞬時に、図書館が遠ざかっていく。現実が、神の書庫からコンテナハウスに交換される。
あるいは元に戻る。数回の瞬きの後、視界に映る光景は女神の個室だ。
スキエンティアが一度大きく伸びをして、甘えるように声を掛けてきた。
「有羽くーん。今日のご飯なぁに? わたし、天ぷら食べたーい」
「面倒だから却下。今日は適当に肉炒めて、焼きうどんな」
「えー? そんなぁ」
「文句があるなら食べなくてよろしい」
ぶーぶー文句を言う女神を引き連れて、コンテナハウスの外へ。
頭を使えば腹は減る。腹が減れば作業効率は落ちる。だから今は食事の時。
当たり前と言えば当たり前の理に従って……二人は台所へ。
次に本が開かれる時――腹を空かせる余裕があるかどうかは解らないが。




