第94話・最深奥の万魔図書館①
魔境の大森林、南部。有羽の居住空間の庭。
その一角に鎮座する、ひとつのコンテナ――探求神スキエンティアの個室と化したコンテナハウス。
元は金属の箱に、断熱材と木材の内装を噛ませた簡素な個室だった。だが今や、ここは完全にスキエンティアの城。机の上には謎の工具と謎のガラス瓶。壁には「次に作る家具の設計図」と称した落書き。棚には、どこから持ってきたのか分からない紙束が、分類されたようで全く分類されていない状態で刺さっている。
部屋の内部にいるのは二名。有羽とスキエンティア。
そして、その中心にいる女神は黒縁眼鏡を指で押し上げ、鼻先で得意げに笑った。
「最深奥の万魔図書館」
それは呪文ではなく、宣言。
扉を開ける――あるいは繋げる呼びかけ。
次の瞬間、空間の質感が変わる。
壁は壁のままのはずなのに、奥行きが増える。天井が、音もなく遠ざかる。床が、いつの間にか磨かれた石畳のような光沢を帯びる。コンテナの狭さが消え失せて、現実の支配権が書庫に譲られる。
棚が生えた。いや、生えたというより現れた。
一本、二本、十本。数えるのが馬鹿らしくなる速度で、書架が縦横に並び、通路が伸び、階段がどこからともなく続いていく。視界の端には、上階の回廊が影になって重なっている。紙とインクの匂い。乾いた革表紙の匂い。火も灯していないのに、本の背表紙の金文字だけが淡く読める光を放つ。
有羽は思考が追いつかないまま、ただ息を吐く。
「はあー……女神さん。アンタ本当に女神さんだったんだな」
他に言葉がなかった。眼の前の現象は、魔法というより……現実そのものの改変。人の魔法でどうこうなる規模ではない。有羽でも、この規模の魔法を組み上げるとしたら、相当に手間が掛かる。それ故の感嘆。
スキエンティアは頬を膨らませる。眼鏡の奥の瞳がむっとしていた。
「なにその言い方? ……わたしはちゃんと女神だよっ! 昔から人間を見守ってる女神様だいっ! ちゃんと沢山崇められてるんだからね!?」
「うんうん知ってる知ってる。すごいすごい」
「全然分かってない顔してるー! 本当は、この図書館他人に見せないんだからねっ!? 有羽君だけの特別なんだよ!? ちゃんと理解してる!?」
「してるしてる。うわー、女神様すごいなー」
「もぉおおおおお!!」
地団駄で床を踏み鳴らす。適当でおざなりな有羽の反応が、女神のお気に召さなかったらしい。
ただ、有羽の返事が適当なのは、わざと半分で残りは本気だ。
驚き過ぎて感情が追い付いていないだけ。
最深奥の万魔図書館。
ここは世界の記録が「読める」場所。失われた文明。魔法式の原型。生物の構造。世界で起きた出来事。つまり――神の視点でまとめられた世界のログ。そんなものが、理解できる形で棚に並んでいる。
(……知性の神。探求の神。その名に嘘偽りはないってことか……)
とりあえず何か触って現実を確かめようと、有羽は一番近い棚から本を抜いた。装丁は濃い青。背表紙には波紋のような模様。触れると指先が冷える。海に近い神の本だ。
ページを開く。すると文字が、静かに並んだ。
蒼宙海神サルマリエ
レベル81
海路と港を司る。
領域:海流、潮汐、港町の栄枯盛衰、船乗りの帰還運。
信仰圏:港町、漁村、海軍。
性格、スタンス――
有羽は目を走らせ、眉をひそめる。
「……ん? なんか、思ったより普通じゃね?」
「え?」
「いや、神の情報って言うからさ。もっとこう、禁断の真名とか、世界を揺らす真実とか、そういうやつが――」
ページには、気まぐれで嵐を起こすとか、帰るべき船に追い風を与えるとか、そういう「語り継がれてそうな話」が並んでいる。神殿の神官でも言いそうな内容だ。
顔に出たのだろう。スキエンティアが、呑気に補足した。
「ああ、有羽君。適当に本開いても表面的なことしか見えないよ? ちゃんと索引しないと」
「索引……? 求める知識を意識して検索しろってことか?」
「うん。じゃないと深くは見れない。封鎖もかかってるしね。有羽君なら分かると思うけど、危険な知識も世の中には一杯あるからさ」
語るスキエンティアの右掌……その少し上の空中に、小さな枠が。
光の枠。何かを書き込めるような――索引札。
それを見た有羽は、なるほど、と頷いた。
この空間は「本を読む場所」ではなく、「情報を引き出す場所」。棚はただのインターフェース。索引が本体。有羽の脳内で、かつての過去が呼び起こされる。
(……これ、検索窓だな。インターネットの)
膨大な情報。必要なものだけを引っ掛ける。引っ掛けた後に深掘りする。正しい言葉を入れないと、正しい答えは返ってこない。
そしてスキエンティアは封鎖という単語をさらっと出した。
知は光だけじゃない。
禁忌の研究。
失敗した再現。
破滅を招いた発明。
――有羽は、ここ数日間の共同生活で理解している。
この眼鏡女神は、基本的には善良だ。人に悪意を向けるタイプではない。
だが、善良さと欲求は別物である。知識欲は倫理を軽く跨ぐ。
善良でも危険性は高い。しかも本人がそれを「面白い」と思える性質。
救いは、本人が危険性を理解しているところだ。危険を理解しているからこそ、封鎖をかけている。あるいは――封鎖をかけられているのか。
「わたしも、昔いっぱい怒られたからね! ちゃんと反省して再発防止に努めてるんだよ!」
「……何したんだアンタ。言ってみろ」
「え、えっとね……毒物の研究してた学者の背中を、「いけいけー!」って応援し続けたことがありましてー……」
「で? どうなった?」
「……環境破壊されて、人はおろか魔物すら棲めない場所になっちゃいました。えへ」
「えへ、じゃないわ! 何やってんだボケ女神!!」
「怒鳴らないでよぉー! もういっぱい怒られたんだからー!」
スキエンティアが両手で頭を抱えて、ひんひん泣く。
見目の優れた容姿だけあって、泣き姿を見るだけで罪悪感を抱いてしまう。
とは言え、可愛いから許すが成立する規模ではないのだが。
有羽は深く息を吐いて、気持ちを切り替えた。
ここで怒鳴っても、事態は何も変わらない。精々、見える範囲で手綱を引くしかない。
有羽は、再び蒼宙海神サルマリエの本に意識を向けた。
求めるのは「もう一段深い情報」。手順は、感覚として分かる。キーワードを入力するように、意識を絞る。「表面」ではなく役割の裏側。神同士の相性。
すると紙面の文字が、静かに塗り替わった。
追記――水相神メルフィナと連携して航路の安全度を調整する役。
追記――放浪神ノングラータとの相性は良好。
追記――港の賭博場、怪しげな船荷の取引現場にて、二柱が同席する事例が複数確認される。
追記――人間の選択と逸脱を眺め、嘲笑う傾向あり。
「…………ねぇ」
有羽の声が低くなる。
「海神が放浪神と仲が良いって情報出てきたんだけど……」
「……うん。その、悪い子じゃないんだけどね?」
スキエンティアが、汗垂らしながら全力で視線を逸らす。
「なんていうか、ノングラータと一緒に悪ふざけする時が偶にあって……その、ごめんね」
うちの同僚と部下がすみません、みたいな顔で頭を下げられても困る。
有羽は脳内で南王国の光景を想像した。
港の神殿。蒼宙海神サルマリエを主神として祀る人々。海軍の祈り。船乗りの願掛け。王族の儀礼。
そこに、「実はクソ神のノングラータと賭博場で笑ってます」と言ったらどうなるか。
(……国の民全員が泣く。王族が卒倒する。レジーナさんが白目剥く。アウローラが巻き添えで白目剥く。ついでにラディウスさんが胃に穴開ける)
有羽は本をぱたんと閉じ、何も見なかった顔。
「……まあいい。扱い方は分かった。広めるべきじゃない情報も、てんこ盛りだってことも分かった」
「うんうん。謎は謎のままでいい場合があるからね」
「激しく同意する。なのでとりあえず……このサルマリエさんの本は、元の場所に仕舞っといて」
有羽は本を棚に戻した。
棚に本を戻した瞬間、棚自体がすうっと奥へ引いていく。通路が一つ消える。代わりに別の通路が現れる。まるで本の迷宮だ。無数に織りなす知識の迷宮。
圧倒されそうな光景を視界に納めながら、有羽は一度だけ息を吸い込む。
「じゃあ本題の情報を調べてみるか――あのボケ蛇に関して、何か出てくればいいんだけど」
ボケ蛇。森の外に出た、世界天蛇の情報。
出来る事なら、深く関わり合いになりたくない相手。
調べずに済むなら、手も触れずに眠らせておきたい存在。
それでも――調べないわけにはいかない。
既に、森の外……帝国内部に分身はいるのだ。無視したまま座することはできない。
そして有羽は、索引札――光の板に指先を近づけたまま、いったん止めた。
「……その前に。もう一度だけ確認しとく」
有羽の声は、僅かに硬い。
真っ直ぐスキエンティアに視線を送り、重要な問いかけを行う。
「魔境の森の情報に関しては、神々ですら管轄外。図書館を使っても表面上の情報が精々……だったか?」
問うたのは、単なる再確認ではない。
この図書館は「世界の記録が読める場所」。世界で起きた出来事、失われた文明、魔法式の原型、生物の構造。あらゆるものが本と棚と索引の形に落とし込まれている。
けれど魔境の森――この大森林が何なのかは、分からない。
触れること叶わず、覗き込めず、計測すら限定される領域。
スキエンティアは腕を組んで、仰々しく頷いた。
「うん。そう。……この森は昔から謎に包まれた場所でね。神々の間でも『危険区』にされてるんだ」
危険区。
その言葉が、この図書館の空気を一段冷やした。紙の匂いが強くなった気がする。
「実際、森の四方には上位神と肩を並べる同格存在が配置されてる。だから従属神の子たちからも、極力近寄るなーって言われてるし……神々の間でもね、触っていい場所じゃないって共通認識」
神々ですら、触るのをためらう。
人間から見れば「前人未到の魔境」だ。広大で凶悪なダンジョン。魔物が溢れ、古代遺跡が眠り、誰も奥に辿り着けない森。そんな噂話で溢れている。
だが神々の視点では、少し違う。
立ち入り禁止。禁止区域。触れてはならない領域。
有羽は、息を吐いた。
「でも女神さん、昔に森の西と東にちょっかい出したことがある、って言ってたよな」
「はい」
「……やったんだ」
「やりました」
「……何が起きた?」
「すごかったです」
「……」
「とても、たいへんなめにあいました」
「うん」
「にどといきたくありません」
スキエンティアは、すっと目を逸らした。眼鏡の奥の瞳が、ほんの少し怯えを含む。
神が怯える、というのは相当だ。
「……その顔見れば、大体何があったのか分かる。蛇は勿論、女帝さんも怒るとおっかねぇからな。俺もあの人は怒らせたくないし」
くわばらくわばら、と有羽は両手を合わせて拝む真似をする。森の外の神に祈るような仕草を、森の内側でやる。もはや生存戦略だ。
スキエンティアも、素直に頷く。
「触らぬ神に祟りなし、だよね……」
スキエンティアも同意見らしく、小さく何度も頷いている。神様なのに。
彼女は咳払いして、話を切り替えた。
「そんな訳なので、この図書館を使っても、森の情報は基本的に『表面』どころか『名札』くらいしか見えません」
言いながら、スキエンティアは索引札を軽く叩く。
光の板が波打ち、検索窓のようなものが浮かび上がった。
「有羽君、試しに調べてみて」
「……そうだな、じゃあ女帝さんについて……」
有羽は、索引に意識を落とす。
西の女帝。
魔国の真の支配者。
遥か昔より存在する世界最古のドライアド。
森の番人。
樹。
女王より上の、森の王。
知っている限りの言葉を投げ込む。思いつく限りの関連語で網を張る。
すると索引札が反応した。
光の糸が棚の奥へ伸び、一本だけ選び引き寄せる。
空間が折り畳まれて、一冊の本が有羽の手元に「落ちてくる」。
取りに行ったわけではない。棚から飛び出したわけでもない。ただ、そこにあるべきものが「ここに来るべきだ」と判断されて、配置されたような自然さで。
有羽は無言で、その本を開いた。
そして、絶句した。
そこにあったのは――たった二行。
樹神女帝
レベル95
「……は?」
有羽は、しばらく文字を見つめたまま動かなかった。
脳が遅れて追いつき、ようやく言葉が出る。
「マジか。神様ですら深く調べられるのに、これしか出てこないのかよ」
「そう。どんなに深く調べようとしても、名前とレベルくらいが限界」
スキエンティアは淡々と言う。
こんなときに冗談で誤魔化さないのは、本当に「それ以上は無理」だからだ。
「その名前とレベルだって、西の女帝さんが長く魔国や森の外の国に関わっているから、かろうじて辿れる情報なんだよ」
眼鏡の奥で、彼女の目が少しだけ真剣に細まる。
「わたしが有羽君の信仰心を辿ってここに来た話、初日にしたでしょ? 何かしらの繋がりがないと、この森の主さんは名札すら知ることができない」
有羽は、しばらく黙った。
世界の記録が読める場所。
それなのに、森の主の記録には手が届かない。
(……この森、やっぱり異常すぎるだろ……)
言葉を飲み込み……現実感を確かめるため、ページを軽く指で叩いた。
内容は二行だが、別の恐怖がそこにある。
「……てか女帝さん、レベル九十五もあるのね」
「うん」
「従属神のレベル八十台が儚く見えるなぁ……」
先程見た海神サルマリエはレベル八十一。あれでも人間の感覚では規格外だ。
けれど九十五と並べられると、数字が別世界になる。
有羽の横から本を覗き込み、スキエンティアが困ったように呟く。
「従属神の子たちは基本レベル八十台。これでも十分すごい値なんだけどね……昔からいる竜王だって最高レベルは七十九。生物の限界値を越えた超域の証。それがレベル八十の境界線」
有羽は思わず、口の端を引きつらせた。
(八十で超域。九十は、その「超域」のさらに向こう)
そして、ふと嫌な疑問が顔を出す。
「……ん? てことは、俺のレベルも見れるの、これ?」
「見れるよ?」
スキエンティアが、まるで「見えるに決まってるじゃん」という顔で笑った。
「ほら、これ」
彼女が別の棚から、薄い本を一冊引き寄せる。装丁は妙に簡素で、紙も新しい。古書の匂いが薄い。まるで「最近登録された情報」みたいに軽い。
有羽は、嫌な予感を抱えたままページを覗いた。
そこには、また二行だけ。
森奥隠者
レベル97
「――は?」
有羽の思考が止まった。
止まったまま、口だけが動く。
「俺、女帝さんより上なの?」
「うん」
「……マジで?」
「マジもマジだよ」
スキエンティアはジト目になった。
その視線は問題児を見る瞳。
「だから、わたしが気になって降りてきちゃったんだから。これで分かったでしょ? 有羽君は存在そのものが有り得ないレベルなんだって」
有羽は反論したかった。
だが反論するための材料が、何もない。
八年前に地球から転移した異邦人。
森に根を張り、再起魔法を駆使して暮らし始めた。
そして、今の領域に至ったのは四年前ほど。
つまり、ただの人間が――四年でレベル九十七まで上がった。
そんなもの、あり得ない。本人が一番分かっている。
「ただまあ、この領域――レベル九十台になると、数値の差は誤差だけどね」
スキエンティアは指で空中に線を引く。
九十五と九十七の間に、薄い溝を作るように。
「九十七も九十五も、同じく世界を揺るがす規模。ここまで来ると、数値の差より経験と年月の方が大事かな」
例えるなら、一センチ長い剣と一センチ短い剣。
どちらでも斬れる。どちらでも死ぬ。
大事なのは剣の長さではなく、握り方と振り方――その年月だ。
……そう言われても、腑に落ちないものは落ちない。
有羽は、額を押さえた。
「それでも――やっぱり俺が女帝さんより上なのは異常だろ」
「うん。異常」
即答。
「この辺も、後でちゃんと調べないといけない事だと思うよ。だって、同じ領域にいる『蛇さん』が無関係だとは思えないし」
「……だな」
有羽は、短く頷いた。
目の前の数字は、もはや笑い話では済まない。
レベル九十台の数値は、上位神と同格。つまり世界の均衡に影響を及ぼす。
本人が望まなくても、存在するだけで影響する値。
だからこそ、有羽は順番を決める。
まず蛇だ。
世界天蛇。
東の主。
その分身が森の外へ出た、という異常。
その結果として何が起きるのか。
そして、自分は何をするべきなのか。
有羽は、索引札の前に立つ。
指先が光に触れた瞬間、索引札が微かに熱を帯びる。検索窓が、彼の思考を待つように脈打つ。図書館が「言葉」を欲しがっている。
有羽は、深く息を吸った。
「――順を追う。焦って全部掴もうとすると、こういうのは逆に破滅するからな」
スキエンティアが小さく頷く。
表情が知を扱う者の顔。危険物を扱う者の顔。
「うん。言葉を選んで。大丈夫だと思うけど、引っ掛かった瞬間に深い層に手が届くかもしれないから」
「分かった」
有羽は、ゆっくりと指先を動かした。
索引欄に、単語を落とす。
その瞬間、図書館のどこかで、鍵が回るような音がした。




