第93話・魔国の華と王国の華
魔国首都ラウルスリム。その王城の一室、談話室でメトゥスとレジーナが向かい合っていた。
談話室の空気は、会議室と呼ぶには柔らかく、私室と呼ぶには硬い。
テーブルには大陸地図が広げられている。
細密な図ではない。線は太く、国境も山脈も、正確というより掴める程度にしか描かれていない。細部を描こうにも、そもそも誰も知らないのだ。北――神聖国の内側などは。
メトゥスは椅子に深く腰を下ろし、指先を神聖国の位置に落とす。
「――元々、神聖国は加護持ちが多い。これは古来より変わってないわ」
淡々とした声が、静かな談話室の内部に響いた。
侍女と従者が数名、壁際に控える。視線を落とし、息も小さい。
口を挟む権利がない場だと、全員が理解している。
ラディウスはレジーナの少し後ろに立ち、地図を見下ろしていた。剣は持ち込んでいないが、彼は武器の有無で危険度が変わる男ではない。海神に認められた聖騎士は、剣が無くとも王国で有数の騎士である。
メトゥスは指先で、北部山脈帯の線をなぞった。
「光輝神ソル・サンクトゥス。かの光の神が神聖国の主神になって以来、北部とは完全に断絶状態。ここまでは南王国も同じ認識だと思うわ」
レジーナは静かに頷き、言葉を継ぐ。
「ええ。北部の山脈に囲まれた、完全独立宗教国家。それがこちらの認識。そして神との距離が、おそらくこの大陸でもっとも近い国」
言いながら、レジーナの声が少し硬かった。
北の情報が入らないのは、単なる距離の問題ではない。
神聖国という名の箱が、意図して蓋をしている。
メトゥスは指を止める。爪先が、峠道の印の上に乗った。
「この峠。ここから来る。来て、戻っていく。過激派はいつも、この道を通るわ」
「――過激派」
レジーナがその単語を口にした瞬間、談話室の空気が一段冷えた気がした。
温暖な気候の魔国で、北部の冷たさが混じったように。
メトゥスは続ける。
「神との距離が近い。それ故に、なのでしょうね。山を越えてくる神官戦士には、必ずと言っていいほど加護保有者が混じっていた。十人に一人、あるいは二人。……本来なら、それだけでも十分に異常よ。加護は「選ばれた印」のはずなのだから」
ラディウスが、ほんの僅かに眉を動かした。
自分が「印」を持つ側だからこそ、神聖国の異常性が解るのだろう。
だが彼は黙ったまま、レジーナの背を守る。
メトゥスの言葉が、新たに牙を剥く。
「……けれど、今回の小隊は違った。全員が加護持ちだった。こんな事は、今までなかったわ」
レジーナは一瞬、呼吸を整えた。
驚いて声が上ずる前に、止める。長く培った外交の癖。
「全員、ですのね」
「ええ。全員」
メトゥスは頷く。
その動作だけで事態の深刻さが伝わってくる。
レジーナは地図の北端を見つめた。
神聖国の細部は描けない。だが、峠道の印がまるでこちらを睨み返してくるよう感じた。
「保護した穏健派の容体は?」
「治療中。怪我は多く、昏睡している者もいるけれど、命に関わる者は――今のところいないわ」
「そう。良かった」
「……ただ、女子供を守って負った傷ばかりだったそうよ」
それは、つまり。
追ってきた側が、守るべき対象に刃を向けたということだ。
幼子にまで刃を向けてきたということだ。
レジーナは瞬きひとつで怒りを飲み込む。
王族が感情で動くことはない。だが、感情が無いわけでもない。
「子供は?」
「生きている。……生きてはいるけど、心の方は簡単じゃない。親を失った子もいる」
メトゥスはそこで一瞬、言葉を区切った。怒りが喉元まで来たのだろう。
レジーナは、感情を押し込めるように指先を組む。
怒りを覚える。胸も痛む。
ただ、国の上に立つ者として、怒りも涙も「使い方」を間違えられない。
「……詳しい話は、まだ聞けていないのね」
「治療が済むまで無理をさせられないわ。情報源としても、人としても」
情と理が同居する言葉。
子を守り抜いた大人への敬意。保護を求めてきた者への義務。加えて、貴重な情報源を失えないという政治の計算。どれか一つだけなら単純だ。だが王の判断はいつも複数の理由を背負う。
ラディウスが、ここで初めて小さく言葉を落とした。
「加護持ちが倫理のない集団になるのは、兵として最悪だ。強い上に止まらない」
「ええ、分かっているわ」
レジーナは頷く。そして視線がそっと移った。
愛情と、確認と、ほんの少しの自慢が混ざった眼差し。
「神の加護は……本来、一廉の人物に与えられるのが常よ。うちの夫みたいにね」
その言い方は軽い冗談のようで、しかし同時に価値観の基準を示している。
メトゥスが小さく笑った。
「そうね。南王国が誇る聖騎士。勇者ラディウス卿。魔国にもファンが多いもの」
ラディウスは、さすがに頬を掻いた。照れる仕草は控えめだが、照れたこと自体は隠しきれない。聖騎士と言えど――美女二人に言われれば、人として照れる。
「……恐縮です」
それだけ言って、再び口を閉ざす。彼は今、場を守る護衛であり、議題に割り込む者ではない。レジーナもメトゥスも、それを理解している。だから安心して喋れる。
メトゥスは笑みを消し、話題を次へ押し進めた。
「そしてもうひとつ。北部の兵が現地に着いた時には――武装小隊は全滅していた」
「全滅……?」
レジーナの声が、僅かに鋭くなる。
加護持ちの小隊が、迎撃されるのではなく全滅。言葉の重さが違う。
「誰かが倒したということ……誰が? どうやって? 加護持ちの小隊よ?」
「分からないわ。現地の調査も、穏健派の治療も、まだ途中。私達は何も掴んでいない」
「穏健派の口から、何か見た者の証言が出る可能性は?」
「あるわ。……ただ、彼らは逃げることで精一杯だったはずよ。何が起きたか、見ていない者も多いでしょうね」
メトゥスとレジーナ。両名は思考を回す。
情報があまりに足りない。治療中の穏健派の、一刻も早い回復を待つしかない。
だがそれだけでは足りない。
メトゥスは、地図の北部山脈帯に小さく指を置いた。
「この峠の警戒を倍にする。今までの過激派想定では足りない」
「でも――表向きの理由が難しい」
レジーナが言うと、メトゥスは小さく息を吐いた。
同意を示す吐息。
現状の備えだけでも、既に国民感情と財政の綱渡りだ。
そこへさらに「北への備え」を新たに重ねる。まともな説明がなければ、受け入れられない。
だからこそ、レジーナは柔らかい声で刃のような案を出す。
「国境の治安強化として組み込みましょう。山越えの密輸、魔物流入、難民の増加……名目は作れます。魔国と王国の安全保障協力の枠に乗せれば、議会も飲み込みやすい」
「……名目は綺麗に作れる。問題は速度ね」
メトゥスの視線が、北部山脈帯から外れない。
速度。つまり、相手が次に動く前にこちらが整える必要がある。
ラディウスが、地図の峠道に指を添えた。
「峠が限られているなら、道を狭める。柵、落石、偽の分岐。通れるように見せて殺す道を作る。いかに加護持ちでも、空を飛ぶには別の才能がいる」
「……あなた、急に物騒ですわね」
「僕は聖騎士だからね。平和のために「暴れる係」になるのも仕事だよ」
その台詞に、レジーナは笑いそうになった。
笑う場面ではない。だが、こういう「遊び」がないと、人は硬くなりすぎる。
ラディウスは聖騎士である前に侯爵領主。緊張をほぐす術も知っている。
レジーナは内心で夫に感謝しつつ、次の段を組み上げた。
「王国側は、人員と補給の線を整えます。山脈帯の前線へ直接は送れなくても、魔国への輸送路を太くする。軍だけでなく、医療と避難の手も」
「穏健派の受け入れも含めて?」
「ええ。……彼らを「戻す」という選択肢は、今はありません」
レジーナの声が、少しだけ低くなる。
この言葉は政治だ。だが同時に、王族としての覚悟でもある。
北へ送り返した瞬間、子供は殺される。大人は拷問される。彼女にはそれが想像できてしまう。
メトゥスは視線を上げ、レジーナを見た。
「同意見。彼らは魔国の保護下に置く。身分も整える。……ただし、口は重くしてもらう」
「当然ですわ。彼らを守るためにも、私達を守るためにも」
守る。
この言葉が、どれほど多くのものを切り捨てるかを、二人は理解している。
だからこそ軽く口にしない。今のように、静かに言う。
話は一周し、また最初の異常へ戻る。
メトゥスは視線を地図に落としたまま、口を開いた。
「加護は本来、勇と徳と責任の証だった。神に気に入られる者は国でも一握り。……少なくとも私達はそう教わってきた」
「南王国でも同じですわ。本来なら小隊規模で用意できるものじゃありません」
メトゥスとレジーナは言い切る。
その言葉は常識の確認だ。けれど同時に、常識に亀裂が生じた宣告でもある。
「出来ない筈のものを、神聖国は用意してきた。それも消耗品のように」
レジーナの声は、いつもより低い。
消耗品――その言葉が現実を刺す。加護持ちが消耗品扱いされるなら、神の加護の価値も、命の価値も、両方が踏み潰される。
「――対神聖国を想定した、大規模な防衛線を引く必要がある。帝国への対応と同時進行で」
メトゥスは頷く。
頷きの速度が、決断の早さを示していた。
「ええ。北の神聖国。東の帝国。……どちらも、こちらの都合で待ってくれる相手じゃないわ」
沈黙が落ちる。
レジーナは、その沈黙の中でふと、胸の奥に冷たい感謝が差し込むのを感じる。
もし自分が今も王国にいたら。
もしこの情報が、数日遅れていたら。
もし――賢者からの手紙という名の口実がなかったら。
背筋が薄く寒い。
(ゾッとするわね。あの日、賢者様の元を訪れなかったら、私は今ここにいない)
アウローラとの交流。偶然の先の訪問。
僅かな糸を手繰り寄せた結果、レジーナは今魔国にいる。
そして神聖国の情報を得た。賢者との――有羽との関わりがなかったら、今頃王国で呑気にお茶でも飲んでいたのかもしれない。揺れ動く世界情勢に気付きもせず。
(そう思えば少しはマシなのかしらね……帰国後の政務を考えるだけで頭が痛くなるけど)
帰国後に考えるべき事。
神聖国と帝国への対応。その同時進行。
言うのは簡単だ。だがそれは、兵糧の配分、兵の移動、工兵の配置、税の調整、貴族の説得、民意の誘導――全てが絡む。国を二つの方向へ同時に引き裂く政務。
そんな――地獄の仕事量を、メトゥスも感じていたのだろうか。
二人の視線が交わる。
政治家の視線ではない。王族の視線でもない。今だけは同じ荷を背負う友人同士の、短い共感。
そして同時に、苦笑が浮かんだ。
「お互い、楽になれそうにないわね」
「ええ。本当に――仕事し過ぎよ、私達」
女王と王女は、笑みを溢しながら地図に向き直った。
美しき華が二輪。
二輪の華が――今だけは、未来を紙の上に押し込めるために。




