第71話・星髪の顎③
夜明けの天幕は外の冷気を薄皮一枚で隔てて、肌寒い空気を纏っていた。
布に染みついた酒の匂い。干し肉の脂。焚き火の煙。湿った土の気配。
それらが混ざり合って、頭痛持ちには最悪の香りに仕上がっている。
ウィルトスは、まず自分の腕の重みで目を覚ました。
左手に抱えていた酒瓶が、ひんやり冷えている。
いつの間に寝たのか解らない。ただ覚えのある頭痛がウィルトスの頭を攻め立てる。
「おぅ……」
声を出した瞬間、頭の中で鐘が鳴った。
痛い。痛すぎる。戦場で受けた打撲より痛い。酒の打撃は魔法より厄介だと、皇帝は心底思う。
二日酔いは――帝王の頭に、容赦なく痛みをもたらす。この痛みばかりは、どんな権力でも防ぐことが出来なかった。
ゆっくり起き上がろうとして、天幕の天井が少し揺れる。
外は既に明るい。布の隙間から淡い光が差し込み、浮遊する埃を金色に見せている。
その光の中、ひとりだけ妙に清潔な気配がいた。
ハガネだ。
すでに身を起こし胡坐をかいて、こちらを見ている。顔色ひとつ変わっていない。寝起きの気配も薄い。人間というより、研いだ刃物みたいな男。
「寝過ぎだ馬鹿者。しかも、でかいイビキをしおってからに……」
「ぬぅ……いかんな、呑み過ぎた。なんだ、ハガネ。お主は無事なのか?」
「当然だ。ザルだったのは貴様と蛇娘の二人だけよ」
ハガネが鼻で笑う。
ウィルトスは酒瓶を置き、腹をぼりぼり掻きながらあたりを見回した。
昨夜、天幕の中央で盤上遊戯を散々ひっくり返し酒瓶を増やし、最後は「次は負けない」とか何とか宣言した相手がいない。
「アギトめはどこへ行った?」
「外に出た。空気を吸ってくると言っていたぞ」
「ふむ」
ウィルトスは立ち上がり、首をこきりと鳴らし肩を回した。
身体は動く。二日酔いでも、鍛えた肉体は裏切らない。裏切るのは頭だけ。
布をめくって天幕を出る。
朝の空気が、肺の奥まで刺さった。
渓谷の水気を含む、冷たく澄んだ匂い。岩と苔と、川の霧が混ざった匂い。
既に兵士達が起床し、朝食の準備を始めていた。
僅かに届く汁物の香り。豆や干し肉を煮た、野営ならではの朝の匂い。
兵達の動きは相変わらず機敏。百の精鋭達だ。皆、動きに無駄がない。
けれど――その顔に怯えがある。
ちらちらと空を見上げる者。逆に下を向いて絶対に見上げない者。
行動は真逆だが、心理は同じ。どちらの動きも空に怯えている。
(止むを得まい。アレを見て怯えるな、という方が無理があろう)
ウィルトスは責めない。責められる訳がない。
むしろ、誰も騒がず叫ばず動けているだけで上等だ。脆弱な兵では起き上がる事すらできなかっただろう。今動けているだけで精兵の証なのだ。
天を突く蛇が消えたわけではない。
見えなくなっただけだ。
見えない天蓋ほど、兵を縛るものはない。視界の外で見下ろされているという感覚が、背骨の内側を冷やし続ける。
その沈黙の真ん中に、ひとつだけ場違いな光景があった。
星空が、立っている。
いや、星空の髪を持つ少女が、拠点の端で朝の空気を吸っている。
アギトだ。
朝日が当たっても、あの髪は「夜」のままだった。黒ではない。濃紺とも違う。星の粒子が混ざった深い宙色。
風に揺れるたび、星座の線が一瞬だけ浮かんでは消える。誰かが必死に見ようとすればするほど、指の隙間からこぼれるように見失う不思議な美しさ。
兵たちはなるべく見ないようにしている。
見れば魅入ってしまうし、魅入った瞬間に「昨日の恐怖」が蘇るから。
ウィルトスの気配に気づいたのか、アギトが振り向き、手をぶんぶん振ってきた。
笑顔がやけに健康的で、昨日の天蓋の瞳と同じものだとは思えない。
「おじさん、おはよー。随分でっかいイビキだったよー? お爺ちゃん眠りにくそうだったんだから」
「うわっはっはっは。いや、すまんな。お主は平気だったか?」
「あれくらいの音なら、ね。こう見えても蛇の一部ですので」
片目を閉じて、軽くウインク。
その仕草が、妙に腹立たしいほど可愛いらしい。恐ろしい存在と知りつつも。この愛嬌は反則の部類。街中を歩かせれば、何も知らぬ者達は確実に目で追ってしまう美しさ。
ウィルトスは一歩近づき、声を落として聞いた。
兵に余計な震えを与えないための配慮でもある。
「何をしていたのだ?」
「ん? ……ちょっとね。遠くからずっと見ているおばさんが居るなー、って思って」
ウィルトスは瞬きした。
意味がわからない。わからないが、わからないまま聞き流すのは危険だと、昨日から身体が学んでいる。
「おばさん……?」
「うん。西の」
それだけ言って、アギトはまた空気を嗅いだ。
鼻先を少し上げて、獣のように。彼女の感覚器官は、人間のそれではない。
ウィルトスは話題を変えた。わからないところに突っ込んで、相手の機嫌を損ねるのは得策ではないし……兵を守る者として問わねばならない事がある。
「ところで……我等の張ったこの拠点は残しておいても大丈夫なのか? お主の、その、本体にとって不快ではないのか?」
「別に? どっちでもいいよ。全部撤収しても、残しておいても――結果は変わんないし」
「変わらない?」
「ここ、本体の通り道。次来た時、どっちにしろ変わってる」
淡々とした言葉だった。
そして淡々としているからこそ、残酷だった。
砦の構想を描いていた昨日の自分が、馬鹿に思えてくる。
天幕も、柵も、橋も、階段も。
あの巨体が通れば、岩肌すら削れる。人の工夫など、砂の城と同じ。
ウィルトスは苦笑するしかなかった。
「なら撤収だな。そして昨日の約束通り――アギト。お主を我が帝国に案内しよう」
「いえーい。やったね。楽しみにしてるよ、おじさん」
満面の笑み。
その笑みが向けられるたび、兵の肩が強張るのが見える。誰もアギトに敵意を向けない。向けられるわけがない。
恐怖が膨れ上がる前に、ウィルトスは指示を飛ばした。
「撤収を優先。置けぬものは捨てよ。火種は残すな。道を壊すな。戻るための線は保て」
「はっ!」
返事が短く揃う。精鋭の返事だ。
ただ、その声にいつもの熱がない。熱を出せるだけの心が、今は無い。あるいは一時的に壊れているのだろう。だから皆、冷たく素早く動く。
撤収作業は迅速に始まった。
軍は早い。鉄則がある。森の中では、留まるほど危険が増す。拠点を維持せず、帰るべきと判断した以上、その速さはより最短で。
荷車が組み直される。魔術兵が結界札を回収する。盾兵が列を作り、周囲を警戒する。
警戒の対象は敵ではない。空だ。森そのものだ。
ウィルトスは指揮官たちへ短い命令を飛ばし続けた。
声量は抑える。だが語尾は揺らがない。皇帝の声は、静かでも兵を動かす。
そのとき、天幕からハガネが出てきた。
手には一本の鉄剣。
見慣れた支給品。どこにでもある、帝国歩兵の標準装備。
「帝王。一つ借りるぞ」
「おお、それで良いのか? 歩兵用の支給品だぞ?」
「構わん。剣は剣だ」
短く言い放ち、ハガネは剣を構えた。
周囲の兵が、思わず視線を向ける。剣聖の所作をまじまじと見る機会など滅多にない。
それにハガネの刀は折れ、今手にしているのは兵と同じ剣だ。
果たして、自分達と同じ装備でどれだけの剣を繰り出せるのか。
ハガネは呼吸を一度だけ整え、足裏で地面を「確かめる」ように沈めた。
次の瞬間。
「――ふっ」
抜き打ち一閃。
音が遅れて来た。
風が裂ける、ひゅ、と細い音。剣が鞘から出た瞬間を見れた者はいない。気が付いたら剣が外にある。鞘に収まっていたかどうかすら曖昧になる。神速の抜刀。
兵もウィルトスも、ハガネの動きを完全に見失っていた。
視認できたのはただ一人。星髪の少女、アギトだけ。
「ひゅう」
口笛ひとつ。
感嘆の感情を含みつつ――少しだけ真面目な顔。
評価している。たとえそれが、出来の良い子供の芸を眺めるような評価だったとしても。
天蓋の蛇が驚く程度には、ハガネの剣は人間の域を超えていた。
ウィルトスは感心したように頷く。
「流石は剣聖よな。武器を選ばずか」
「武器を選ぶような剣士は二流よ。剣士は棒振りを極めてこそだ。剣の良し悪しは後付けにすぎん」
ハガネは鉄剣をもう一度だけ振り、刃の重みを確かめるようにしてから腰に戻した。
神鉄の刀を折られ、いま帯びるのは凡庸な鉄。
それでも彼の背中は揺るがない。武器ではなく、技が彼そのものなのだろう。
兵の視線が、ほんの少しだけ戻ってくる。
剣聖の動きは、恐怖に対する薬になり得る。
人間の中にも「人間を超えたもの」がいるのだと、錯覚できるからだ。錯覚でも十分。恐怖には、現実よりも錯覚が効く。
撤収は最終段階に入った。
杭が抜かれ、布が畳まれ、荷が括られる。
最後に残ったのは、人の足跡と、踏み倒された草と、そして――昨日生まれた道。
ウィルトスは、その道の先を見た。
森の奥からここまで切り開いてきた線。
誇りでもあり、愚かさでもある線。
その隣で、アギトが指をぱちんと鳴らした。
何も起きない。
少なくとも、ウィルトスの目には。
だが、ウィルトスの肌の上を見えない風が撫でる。
自分の背後――空の遥か上が、一瞬だけ「薄く」なった気がした。
「? 今なにかしたのかアギト? 余の目には何も映っておらんが……」
「気にしなくてだいじょーぶ。こっちの話だからさー」
アギトは軽く言う。
安心させるように、肩をぽんと叩いてくる。皇帝の肩を、軽く叩く存在。普通ならその場で首が飛ぶ。
だが、今それを咎める意味はない。咎めるつもりもない。
咎めたところで首が飛ぶのはウィルトスの方なのだから。
ハガネが隣に立ち、ぼそりと言った。
「帝王。あやつの話を全て理解しようとは思うな。見た目が少女でも、中身は化生。こちらが測れる範疇を越えている。気にせんことだ」
「うむ。だが、だからと言って全てを無視はできんのでな。余は帝国の王なれば」
苦い現実だ。ウィルトスは周りの兵のように、全てを見なかったことには出来ない。
どんなに恐ろしく感じても――アギトと向き合う責務がある。
そして軍が動き出す。
先頭は盾兵。次が槍兵。軽装兵が側面を固める。弓と銃は中段。魔術兵はさらに後ろ。衛生兵と料理番が続き、最後尾をまた盾兵が締める。
森の中の行軍隊形が、そのまま撤収隊形に変わった。
兵たちはアギトを見ない。見ないようにする。見れば視線が吸い込まれる。
ただ、彼女の存在は行列の中に「空白」を作った。
誰も彼女の近くを歩こうとしない。
剣聖ですら距離を取る。
それでもアギトは気にしない。
軽快に歩き、時折くるりと回っては、星の髪を揺らして楽しそうに笑う。
「ねぇねぇおじさん、帝国って朝ごはん何食べるの?」
「帝国は芋が主だな。何せ沢山採れる」
「芋かー。芋もいいね。知ってる? 蒸かした芋にバター乗せると最高だよ」
「祭りの定番だな。屋台でよく出るメニューだぞ」
「お祭り? ねぇねぇ、帝国に行ったらお祭りある?」
「今の時期は……無いな。そもそもあれば、余は森に来ておらん」
「ちぇー。どうせならお祭り見てみたかったなー」
呑気な会話を続ける、アギトとウィルトス。
恐ろしい存在と対等に会話をする皇帝を見て、兵達の士気が少しだけ戻る。
大事なことだ。兵の上に立つ者が、怯えていては話にならない。
ウィルトスは示す。どんな時でも、王としての姿を全身で。
その時、アギトはふと立ち止まり西の方角へ視線を送った。
兵にも皇帝にもわからない、遥かな「何か」を見ている目。
そして、小さく呟く。声量は風にすら負けるほど。
「それじゃ、アタシは出てくるから――おばさんはそこにいてね。だいじょぶだいじょぶ、ちょっと遊んでくるだけだからさ」
呑気な言葉。
けれど、その口元には意地の悪い笑みが浮かんでいる。
それが向けられている先に何がいるのか、ウィルトスは知らない。
知らないが――知らないままでは済まない予感だけは、確かに胸に残った。
ウィルトスはその横顔を見て、思う。
この美しい娘は、止まらない。
止め方も、止める権利も、人間にはない。
ならば――せめて「向き」をこちらが握る。
皇帝にできるのは、それだけだ。
「行くぞ」
ウィルトスが短く言うと、軍が一斉に歩調を揃えた。
森の中に響く足音が、昨日より重い。
恐怖の重さ。責任の重さ。未来の重さ。
アギトはその列の横で、まるで遠足に向かう子供のように跳ねる。
星の髪が揺れ、朝の光の中で夜空が踊った。
森から離れられないはずの蛇が、離れられる肉体を作って外へ出る。
裏技で、反則で、ありえない逸脱。
それでも世界は、それを「事実」として受け取ってしまう。
帝国軍の撤収行軍が、森の奥へ伸びる道を逆に辿り始めた。
そしてその列の中に、笑う星髪が混ざっている。
大陸が揺らぐ音は、まだ誰の耳にも届いていない。
だが、確かに今――揺れ始めていた。




