第70話・星髪の顎②
天幕の中には、酒の匂いと、乾物の塩気が混ざった空気が漂っている。
外では、兵たちが渓谷に小さな拠点を作っている最中。杭の音、縄の擦れる音、鍋の煮える音。規律正しい音が、淡々と続く。
けれど天幕の中心――その静けさだけは、別世界だった。
遊戯盤が置かれている。
木製の枠に区切られた升目。白と黒に塗られた駒。形は――現代地球のチェスに似ている――が様々な兵種の意匠。多様な駒が並んでいた
歩兵、槍兵、弓兵、騎兵、魔術兵、そして騎士に、中央に置かれた「王」。ただしこの遊戯では、王を守るだけでは勝てない。陣地の制圧、補給線を断つ、背後を取る――盤上で戦場の理屈を再現する遊びだ。
その盤を挟んで、帝王ウィルトスと、星髪の美少女アギトが向かい合っていた。
酒瓶が二つ、卓の端に転がっている。干し肉が入った木皿。乾パンの欠片。塩漬け豆。
豪華ではない。だが、酒は酒だ。
酒があると、人は口が軽くなる。いつもの戦場なら、ここで武勇談が始まるだろう。
しかし、この天幕では違う。
ここにいるのは、酒で緩むような相手ではない。
それなのに――ウィルトスは笑っていた。
アギトは眉間に皺を寄せている。
「ほぅ……やるなアギトよ。余もそれなりに自信があるのだが」
「おじさんこそね……ぬぬぬ。騎兵を動かすと騎士は取れる。だけど陣地の守りが……ぬぬぬぬ」
アギトが駒を摘む指は、年頃の少女らしく細い。
だが、その指が一度動けば、剣聖の神鉄の刀を折った「手」でもある。
そんな恐ろしい手を持つ彼女は、盤面を睨み舌先を少し出しながら、駒をすっと滑らせた。
騎兵が、斜めに切り込む。
ウィルトスは、酒をひと口飲んでから駒を動かした。
受けの一手。相手の狙いを読むための一手。
戦場の指揮と同じだ。敵が本当に狙っている場所は、目に見えるところとは限らない。
その瞬間、天幕の端に座っていたハガネが、深い溜息を吐いた。
「……帝王よ。貴様、正気か?」
剣聖の声は低い。疲労ではない。呆れだ。
「うん? 何がだ?」
「何がもくそもあるまい……何を遊戯に耽っている。そやつが人知を超えた存在だと解ったばかりだろうが」
ハガネの視線が、アギトに向く。
アギトは「アタシ?」という顔で目を輝かせ、わずかに首を傾げた。
その仕草だけなら、無邪気な姪にしか見えない。
ウィルトスはどっかりと地べたに腰を落とし、アギトはちょこんと座り込んでいる。盤上を挟む二人の距離は近い。
事情を知らぬ者が見れば、親戚の団欒だ。
――だが現実は違う。
帝国の皇帝と、天蓋の蛇。
本来ならば、同じ空間に居る事すらありえない組み合わせ。
ウィルトスは豪快に笑う。
「うわっはっはっは! 何を言うハガネ! だからこそ、だ! 太古の時を生きる者との知恵比べ! こんな機会は滅多にないぞ! ならば試すのが我が覇道!」
「そんな覇道があってたまるか……まったく」
やれやれ、とハガネは首を振った。完全に呆れ果てた顔。
目の前の現実に対して、追求することを諦めたハガネは天幕の端から二人の傍まで歩み寄る。
そしてゆっくり腰を下ろし……彼の目が盤面に吸い寄せられた。
互角。
いや、互角以上に危うい均衡がそこにある。
ウィルトスは大胆に見えて、守りの線を何重にも張っている。攻めに見せかけて、相手の手を縛る配置。
一方アギトは直感が鋭い。複雑な規則を理解しているというより、盤の「気配」を読んでいるような手つきだ。妙に嫌なところへ駒が滑り込む。
ハガネの口元が、ほんの僅かに上がった。
「ほう……ほぼ互角の戦いだな。実力伯仲とはまさにこのこと」
「だろう? いやはや、アギトは想像以上の難敵よ! これでも帝国では指折りの実力だと自負していたのだがなぁ……世界は広い!」
「ぬぬぬぬ……ちょっと遊んであげるだけのつもりだったのに……今の人間達ってこんな頭使った遊びやってんの?」
アギトは盤から目を離さず、酒をあおった。
飲み方が豪快だ。喉仏もないのに、酒が消えるのが見える。
そして飲みながらアギトは一手。鋭い攻め口だ。
ウィルトスは受けの一手を指しながら、にやりと笑う。
「おうとも。人の歩みは日進月歩。常に成長しておる。遊びだけではない。食も、酒も、文化も、武器も――人の歩みは止まらぬ。そして余は、常に前進する『進撃帝』である!」
「で、アタシの本体のとこまで来ちゃって大ピンチだったんだよね」
アギトの一言が、ぐさりと刺さる。
ウィルトスの勇猛が、無謀に変わった瞬間。
今日の出会いがまさにそれだった。穴が有ったら入りたい。
だがウィルトスは、すぐに笑い直す。
笑いで場を支配するのが帝王だ。
悔いも過ちも胸に抱えて――ウィルトスは前へ進む。
ただし、反省だけはちゃんとしながら。
「……うむ。何事も進み過ぎはよくないのかもしれんな……そら、これで詰みだ」
ウィルトスは話しながら、駒を打った。
何気ない動き。
だが、盤面が凍りつく。
アギトの目が見開かれる。
「え!? 嘘!?」
彼女の視線が盤を走る。左端、中央、右端。自陣、敵陣。
そして気づく。逃げ道がない。
今すぐ詰みではない。だが、逃げても逃げても最後に必ず王が取られる筋が見える。
「えっと、次はあそこに打って、それでアタシがこう受けて、それでおじさんが攻めるでしょ? それで……うわー、ホントだ。二十四手先で詰むじゃんアタシ」
天を仰いで、アギトが仰向けに倒れた。
星髪が天幕の布に広がり、微かな光が散る。
ウィルトスは腹を抱えて笑った。
「うわっはっはっは! 力勝負では勝ち目は無いが、知恵比べでは余の一勝だのう?」
「うー、悔しい悔しい悔しい! 最初に余裕かまして無駄な手を打ったのが痛すぎたー!」
「獲物を前に舌なめずりは愚策中の愚策。永劫の時を生きたお主が、僅かに見せた序盤の隙。この帝王は見逃さんぞ」
アギトは唸りながら起き上がり、盤を睨みつけた。
頬が膨れている。可愛い顔ではある。
だがその可愛さの裏に、世界の境界を噛む本体がある。
ハガネは苦い顔をしながらも、盤上を覗き込む。
そして思わず感心してしまう。実力伯仲だからこそ生まれた盤面。
アギトは急に真顔になって、ウィルトスに問いかけた。
「……おじさん、さっき『帝国で指折りの実力』って言ったよね?」
「うむ。余以外にも、帝国には腕自慢が多く居るぞ。余は自他ともに認める強者だが……こと盤上遊戯に関しては、余以上の強者がいる。いわゆる『王者』という奴がな」
ウィルトスは誇らしげに言う。
帝国の都には、遊戯の名手がいる。
貴族のサロンにも、軍の参謀室にも、名人がいる。
勝つために人は知恵を磨いた。その歴史の頂に立つ者がいる。
「…………」
アギトが黙る。
笑いも消える。酒瓶を持ったまま、唇を尖らせて考え込む。
思考が、彼女の髪の星座を少しだけ揺らすような錯覚があった。
その沈黙が、天幕の中の空気を重くする。
眉が動き、唇が動き、何かを決める顔になっていく。
その顔は、渓谷を見下ろす巨大な瞳に似ていた。
軽くて無邪気で、しかし意思決定が恐ろしく速い。
そして、ぽつりと。
「よし決めた。アタシ、おじさんに着いてくから」
天幕の中の音が、止まった。
外の鍋の煮える音すら、遠く感じるほどの静寂。
ウィルトスも、ハガネも、言葉を失った。
盤上遊戯の駒が、木の上で静かに光る。
まるで、今の発言が「次の一手」だと示しているみたいに。
「…………は?」
ウィルトスの口から漏れた声は、帝王の声ではなかった。
人の声だった。理解が追いつかない者の声。
アギトは、当然という顔で頷く。
「このまま負けたままなんて納得できない。人の街に行って勉強する! ぬー……絶対に勝つ。勝ち逃げなんてさせないからね!」
「…………」
ウィルトスは、ようやく声を出す。
「ま、待て待て。本気か? 本気で言っとるのか!?」
「? そだけど? 何か問題ある?」
問題しかない。
世界を揺るがす存在が、帝国に来る。
それも「遊戯で負けたから」という動機で。
ウィルトスは必死に理屈を掴み直す。
「いやいやいや……お主が言ったのだろうが。ここで噛み続けるのが、ここに留まり続けるのが役目なのだと」
「それは――『本体の役目』だよ」
彼女は自分の胸を指差し、次に天幕の外を指差した。
外――見えない空。
そこに本体がいると、誰もが理解する。
「アタシが『何のため』に、この身体を創ったと思う? 『自由な身体』が欲しかったからだよ?」
言葉が、天幕の布を薄く震わせる。
本体は噛み続ける。
世界が崩れないように。
だから手を伸ばす。
外の世界を歩くための「手」という身体を創り。
蛇ではなく、少女の形で。
アギトはくるりと回って、両腕を広げて見せた。
「体は噛み続ける。だから手を伸ばす。外の世界を歩く為の『手』という身体を。ね? 合理的でしょ?」
「合理的……?」
ハガネが呆然と呟く。
合理的という単語が、今ほど無力に響く場面はない。
アギトは続けた。
「久しぶりに人の営み見るのも面白そうだしねー! おじさん、さっき言ってたじゃん。人って、食も酒も文化も武器も成長するって」
「うむ……言ったが……」
「じゃあ見たい。触りたい。覚えたい。遊びもね。盤上遊戯、もっと強くなりたい」
その動機は、幼い。
だが、幼いからこそ止められない予感がする。
子供の好奇心を止めようとした大人が、どうなるか。
ウィルトスはその結末を何度も見てきた。
ただし今回の子供は、天蓋の蛇の手だ。
ウィルトスは必死に話を戻す。
「だが……お主が帝国に来れば、国が揺れる。兵が怖がる。民が恐れる。下手をすれば暴動だ」
「へー」
「へー、ではない! 余は皇帝だぞ! 国を守らねばならん!」
「じゃあ、守ればいいじゃん」
あまりにも素朴な返し。
ハガネが頭を抱えそうになる。
ウィルトスは言葉を選ぶ。
強く言えば、逆鱗を撫でるかもしれない。
弱く言えば、押し切られる。
その間を探すのが帝王の仕事だ。
「……本体はここを離れられぬのだろう。お主が離れれば、本体に何か支障が出るのではないか?」
「出ないよ」
「なぜ言い切れる」
「だってアタシ、何回も手を伸ばして遊んできたもん。たまーに。ほんと、たまーにだけど」
ウィルトスの脳裏に、噂話が蘇る。
森に挑んで戻った弓使いが口走った、意味不明な言葉。
星髪の顎。
つまり今までにも「アギト」は現れていた。
「……うわっはっはっは。困った娘よ、本当に」
ウィルトスは思わず笑ってしまった。
笑うしかなかった。
受け入れても終わる。
拒んでも終わる。
終わり方が違うだけだ。
だがそれでも――選べる。
ならば帝王の道は変わらない。
ウィルトスは盤上遊戯の駒をそっと元に戻し、卓の上を整えた。
遊びを終わらせる仕草。
だが、次の遊びが始まっている。
「よかろう。条件がある」
「条件?」
「余の許可なく勝手に人前に出るな。余の側を離れるな。兵と民に危害を与えるな。恐怖を撒くな。これを守れ」
「うんうん」
「そして――盤上遊戯の勝負は、帝国の『王者』に挑む前にまず余にもう十局勝ってからにせよ」
「え、それも条件に入れるの? でもいいよ! 絶対勝つし!」
アギトがにやりと笑う。
ウィルトスもにやりと笑う。
その笑みは、戦場のそれだった。
ただし相手は国ではなく、世界。
帝王は今、とんでもない相手と戦おうとしている。
ハガネは頭痛を堪えるように眉間を押さえた。
「……帝王よ。貴様は本当に正気か」
「正気だ。だからやるのだ」
「理屈が破綻しているぞ。奴は貴様が御せるような存在ではない」
「分かっておる。そもそも、何者も操るつもりで国を治めた訳ではない。余の歩く道に国が出来ただけのこと。覇道とはそういうものだ」
ウィルトスが豪快に言い切る。
そして小さく、しかし確かな声で付け足した。
「それに――ここで死ぬよりは、遥かにマシだ」
ハガネはその一言を聞いて、少しだけ目を細めた。
元々、選択肢など無い。
ならば僅かでも生き延びる道を選んだけのこと。
天幕の外では、兵たちがまだ怯えながらも拠点を整えている。
天幕の中では、帝国の皇帝が世界天蛇の手と条件を交わしている。
その光景がどれほど異常か、誰にも説明できない。
だが確かなのは――ここでひとつ、盤上の駒が動いたということ。
そしてその駒は、帝国の中枢へ向かおうとしていた。




