第69話・星髪の顎①
渓谷に張られた天幕の列は、帝国軍の手際の良さを示していた。
森に道を穿ってきた者たちだ。緊急の状況であればあるほど、訓練された身体は勝手に動く。
杭を打ち、縄を張り、布を広げ、地を均し、火を起こす。
声を荒げる者はいない。叫びが必要なほど混乱していない――ということではない。
むしろ逆だ。
誰もが「声を出すのが怖い」。
余計な音で空気を揺らしたくない。
余計な動きで、あの「何か」の機嫌を損ねたくない。
天まで突く巨体は、今はもう見えない。
雲を塗り替えていた瞳も消えた。
まるで幻のように。
けれど兵たちは知っている。
見えていないだけだと。
あの「視線」の重さが、まだ皮膚の裏に残っている。
耳の奥に、空間が軋むような感覚が残っている。
魔術兵などは特にひどい。術式を組もうとするたび、世界の線がずれる予感がして、指先が止まる。
精兵であるがゆえに、厄介だった。
鈍い者なら「見えないなら大丈夫だ」と無理やり忘れられる。
だが戦を生き残ってきた者ほど、見えない気配の方が怖いことを知っている。
そして、その恐怖を裏打ちするように――ある天幕の外を通りがかった兵が、妙に明るい声を聞いた。
「まだ居るからねー。オイタはしないように」
軽い。
あまりに軽い。
それを言ったのが、天幕の中にいる少女だと知って、兵は胃の底が冷えた。
その天幕には、三人しかいない。
帝王ウィルトス。
剣聖ハガネ。
そして、星髪の少女――アギト。
酒瓶が並んでいる。干し肉、乾パン、塩漬けの豆、硬いチーズの塊、干し果実。
行軍用の保存食。豪華とは言い難い。
だが今は「豪華かどうか」ではない。
餌ではない。
供物だ。
ウィルトスは改めて頭を下げる。
「すまんな。行軍中ゆえ、そんなものしか用意できん」
「だいじょぶだいじょぶ! 充分味するからおいしーおいしー……ぐにににに」
アギトは干し肉を噛みちぎりながら、子供みたいに頷いた。
口調が可愛い。
仕草も、年頃の少女そのものだ。
ただ、少し前に剣聖の刀を素手で砕いた少女でもある。
美しい。
星空を織り込んだような髪。
皮膚は白く、目は定まらず、動きは軽い。
肉体の起伏は女性らしさに満ち、笑えば傾国の美と呼ばれるだろう。
だが、天幕の空気は冷えていた。
美しいものほど、怖いときがある。
ハガネは黙っている。
折られた刀は外で保管されている。刀身の破片はまだ集めきれていない。
破片ひとつですら「神鉄」だ。帝国の技術者が見れば発狂する価値がある。
だがいま、その価値に触れる余裕はない。
価値の次元が違う相手がここにいる。
ウィルトスが口を開く。
言葉を丁寧に選び、噛んで飲み込んでから吐き出すように。
「改めて詫びる――すまなかった。無断でお主の領域に踏み入った。心より詫びる」
「ん? ……にゃはははは……いやー、まさか人間に頭下げられるなんてねぇ……よく考えると初めてのことかも。今まで全員、トチ狂ったように攻撃してくるのばっかりだったからねー」
その言葉は軽く、そして残酷だった。
今まで全員――つまり、この場所に来た者は例外なくそういう末路を辿った、ということ。
非難する事はできない。
何故なら当然の事だからだ。
領地に無断で足を踏み入れ、尚且つ攻撃を仕掛ける輩――そんなものはウィルトスの常識から言っても処断一択。見逃す慈悲など存在しない。
人間の王である彼ですらそうなのだ。
遥か天蓋の怪物が、不届き者をどう処分するのか――問う事すら恐ろしい。
ウィルトスは改めて頭を下げ、名乗った。
「余は東の帝国・現皇帝ウィルトス・ゼノ・ウァリエタースである。こちらはハガネ。今は帝国の客将となっておる剣聖だ」
ハガネもわずかに頭を下げた。
剣士の礼。無駄な棘を立てない最小限の敬意。
アギトはぱちぱちと手を叩いた。
「うんうん。さっきの刀、凄かったねー。びっくりして手が出ちゃったもん。あ、折っちゃってゴメンね? でも先に攻撃してきたのそっちだから、文句言わないでよねー」
「承知している。こうして命があるだけで僥倖だ」
「分かってればよし。てかホント、イカしてたよ? もうちょいでかすり傷くらい付けられたかも」
アギトは自分の手をまじまじ見ている。
そこには傷などない。赤みすらない。
そも、剣聖の一閃を「かすり傷」と言う尺度が、もはや人とは隔絶している。
ウィルトスはひとつ咳払いをした。
「それで……お主、アギトと言ったな。お主はどういう存在なのだ?」
アギトは腕を組み、うーんと首を傾げた。
思案顔が、年頃の少女そのものだ。
思案する仕草は可愛い。だがその可愛さの中に、恐ろしい牙の光がある。
「うーん……どう説明すれば解りやすいかなぁ……まず、おじさんたちが最初に見た蛇ね。あれがアタシの本体」
「……本体?」
「そ。ずーっとここに留まってるやつ。で、アタシはその本体が伸ばした手」
「……手?」
理解が追いつかない。
皇帝として様々な物を見てきたウィルトスでさえ、言葉が惑う。
「んー、何て言うかー……アタシと本体は一緒だけど一緒じゃないっていうか……意識は共有してるけど、別っていうか……説明むずかしいよ。お酒もう一杯!」
アギトが空になった瓶を突き出す。
ウィルトスは苦笑しながら新しい酒瓶を開けた。
その様子を見ながら、ハガネが低く言う。
「……つまり、記憶は同じだが自我――自意識は別なのか。あの巨大な蛇はお前の『脳』であり『体』。そしてお前はそこから伸びた『手』……何故、手に自我があるのかは分からぬが」
アギトはぱっと表情を明るくする。
星が輝くような笑顔。
「そうそうそれ! そんな感じ! いやぁ、お爺ちゃんすごいねぇ。よく理解できるねぇ。やっぱ年の功? あと自我云々に関しては――頑張ったから! としか言えないね!」
頑張ったから。
言葉が軽い。
しかし、その軽さの裏にあるモノは人間では判別できない。
超越者の尺度。思考すら無意味な領域。
アギトは干し果実を口に放り込みながら続ける。
「それで、じゃああの『本体』は何なのか――おじさんたちが聞きたいのはそこでしょ?」
ウィルトスは誤魔化さず頷いた。
彼の中の勘が告げる。
この存在に対して、小賢しい駆け引きは死を呼ぶ。
「まあ、な」
アギトはにんまり笑った。
その笑みが一瞬、天空の蛇の瞳と重なる。
「本体の名前は世界天蛇――世界の境界を噛み続けている、永遠の蛇」
天幕の中の空気が、さらに薄くなる。
言葉が音ではなく、重力になって落ちてくる異質な感覚。
ウィルトスもハガネも、意味を掴めない。
だが掴めないまま、背筋が理解してしまう。
その名は、説明ではなく宣告だ。
ウィルトスの口から出たのは、疑いではない。
純粋な問いだった。
「いつから……ここに?」
アギトは肩をすくめる。
「気が付いたら。ホント昔だよ――まだ言葉が造られる以前から」
皇帝の脳裏で、歴史書が音を立てて崩れた。
国家の誕生など、塵より軽い。
アギトは天幕の支柱を指でつんつんと叩いた。
「本体の役目はたったひとつ……そうだね。この天幕の支柱と同じ」
柱があるから天幕は張れる。
柱が折れれば、天幕は崩れる。
「崩れないように噛み続けろ――簡単に言うと、それだけ」
ぞっとする言葉。
何が崩れる?
森か? 空か? 大地か?
それとももっと別の何かか?
ウィルトスが口を開こうとした、その前に。
アギトは先回りするように、くるりと酒瓶を回した。
「確証は無いよ? でも多分……本体が噛むのをやめたら世界がひっくり返る……なんとなくだけど、そんな気がするんだー」
ウィルトスの顔が強張った。
覇王の顔ではなく、ひとりの人間の顔になる。
国を存亡を考えた事はある。国の行く末を憂いた事もある。
だが――世界の滅亡など、想像もしたことがなかった。
ハガネは、視線だけでウィルトスを諫めた。
これ以上踏み込みすぎるな、と。
だが、皇帝は踏み込まざるを得ない。
踏み込むのは危険だが――無視はそれ以上に悍ましい。
「……この森は何だ?」
アギトはニヤリと笑った。
悪戯染みた笑み。幼子が遊戯の際に浮かべるような、無垢な笑み。
「ふっふっふ。それはねぇ……」
ウィルトスもハガネも、息を呑む。
渓谷の外の音が遠ざかる。
まるで世界がこの答えを待っているように。
「わかんなーい!」
天幕内の空気が、ずるっと滑った。
ウィルトスもハガネも、一瞬本当に崩れ落ちそうになる。
アギトは悪びれもせず続けた。
「ほんとにわかんないんだって。最初からあった、ってしか言えないし。西の女帝も南の隠者も、そのへんは分かんないと思うよ」
「西? 南?」
帝王の頭は速い。
僅かな単語だけでも掴めるものがある。
特に、方角を言って貰えれば、戦場に生きる王はすぐに答えを導き出す。
ここは東。蛇の領域。
ならば森の四方にも――
「まさか――この森の西や南にも、お主と同じような存在がいるのか?」
「いるよー。西は樹のおばさん。南は海の引きこもり。どっちもアタシと同格かな?」
アギトは人差し指を立てて、子供っぽく数えるように言う。
ウィルトスが言葉を飲む。
樹のおばさん。海の引きこもり。
ふざけた呼び方だが、アギトが「個人」として認識している。
同格。アギトと……あるいは本体である蛇と同格。
その時点で、ウィルトスの手が届く範囲ではない。
アギトはそこで、急に顔を近づけてきた。
星屑の髪が揺れ、天幕の薄い光に淡く瞬く。
ウィルトスの鼻先に、酒の匂いと、どこか冷たい夜空みたいな匂いがかすめた。
「北は――あっちはノーコメント。おじさん達は興味すら持っちゃ駄目だよ?」
声は可愛い。
しかし言っていることは、命令より重い警告。
ウィルトスがゆっくり頷く。
己の誇りより重視しなければならないモノがあると、明確に悟った。
「……承知した」
アギトは満足そうに頷き、干し肉に戻る。
緊張が一瞬だけ緩む。
その隙に、ウィルトスは問いを重ねた。
「しかしなぜ……余らを殺さぬ? 帝国は侵入者だ」
アギトは干し肉を噛みながら、片目だけ上に向けた。
その表情は、答えを楽しんでいる顔。
「んー。理由はいくつかあるよ? でも一番デカいのはね」
彼女は酒瓶を机に置き、指でとんとん叩いた。
まるで拍子を取るみたいに。
「おじさんが、ちゃんと頭下げたから」
ウィルトスは息を止める。
頭を下げた。
それが、生死の境界を分けた。
「あとさー、面白かった。本体に酒勧めるとか、普通やらないもん。てゆーか、見た事ないよ? 本体が人間にお酒勧められたの、生まれて初めてだよ?」
くすくす笑うアギトは、本当に可憐な姿だった。
心底愉快そうに笑ってる。
ウィルトスはその姿を見て、ようやく自覚した。
あの時の命乞い。一か八かの酒宴の誘い。
あれが、万分の一の奇跡を掴んだのだと。
ウィルトスは、背筋を伸ばした。
「寛大な配慮に感謝する。そして理解した。帝国軍は、ここで一切の破壊行為をしない。撤収するまで最低限の行動に留める」
皇帝が、ここまで明確に誓うのは珍しい。
だが、誓わねばならない相手がいる。
アギトは満足げに頷いた。
「うん、それならいーよ」
その瞬間、天幕の外の空気がほんの少しだけ軽くなる。
見張りの兵が、ようやく息を吐いた気配も。
誰もが、見えない何かの許可を感じ取っている。
「で、その代わりと言ってはなんだけど――」
「ん? 何だ? 余に出来る事なら可能な限り、答えるぞ?」
「お酒、もっとちょうだい。こんなんじゃ全然足りないよー」
陽気な少女の、頬を膨らませた素朴なお願い。
しかし、そのお願いはこの場において、何よりも重い。
ウィルトスは充分それを理解していたから――。
「――承知した」
苦笑しながら、新たな酒瓶を開ける。
目の前では、アギトが干し肉を噛みながら、星屑の髪を揺らして笑っている。
この酒宴は帝国軍にとって勝利の酒ではない。
しかし敗北の酒でもない。
――世界に許された、帰還の杯だった。




