第58話・第一王女と聖騎士の見解
油の歌が続いている。
じゅわ、と小さく弾ける音が、ログハウスの空気をやわらかく震わせる。
さっきまで、海老と鱚が主役だった舞台は、今、次の役者を迎えようとしていた。
有羽は鍋の縁で箸先を軽く叩き、衣の落ち具合を確かめる。
温度を見て、泡の立ち方を見て、呼吸の長さまで合わせて――「揚げる」というより「整える」に近い所作だ。
「次、いくよ。……ホタテと、穴子」
その二つの名が口にされた瞬間、レジーナの背筋が少し伸びた。
南王国は海に面している。だから魚介の価値も旨さも、彼女は知っている。
ただ――「揚げる」という調理が、ここまで素材を変えてしまうことを今日初めて理解しつつあった。
運ばれてきたのは、まず小さなホタテだった。
殻ごとではない。身だけ。ひとくちで食べられるサイズ。
衣は薄く、白い身のふくらみがうっすら透けて見える。
「小さい……?」
レジーナがつい漏らすと、有羽が笑って答えた。
「小さいのはね、曲者だよ。逃げ場がないから」
「逃げ場……?」
その言葉の意味は、すぐに分かった。
箸でつまむと、ホタテは軽い。油を吸っている感触がない。
塩をほんの少し――ほんの少しだけ、粒をつける。
そして、一口。
衣が、ほろりと崩れる。
次の瞬間、貝の甘い旨味が、口の中を満たした。
(――甘い……? いえ、甘味だけじゃない。濃い……!)
噛むほどに、旨味が滲み出る。
噛むほどに、香りが増える。
小さいのに情報量が多い。
まるで、凝縮された海。
これは、一口サイズが曲者だ。
大きいと「満足」で止まる。
小さいと「追加」で止まらない。
隣でラディウスが、思わず小さく笑った。
「……これ、危ないな。小さいと、つい手が伸びる。二個目が欲しくなる」
「でしょうね。でも次の具材がお待ちだよ」
有羽はさらりと返し、次の具材へ移った。
今度は、細長い身。淡い色。
「次――穴子」
その言葉で、レジーナの背筋が少し伸びた。
南王国でも魚は馴染み深い。穴子も、もちろん知っている。
煮る、焼く、蒸す――そういう料理はある。
けれど「揚げる」穴子は、未知だ。
油から上がった穴子は、見た目からして厚みが違った。
ふっくらとして、衣の下にしっかりと身の存在がある。
軽さの中に、重厚が見える。
有羽が一言、釘を刺す。
「穴子は、つゆの方が圧倒的におすすめ。塩もいけるけど、これは例外」
断言。
迷わせない。
さっきまで「塩かつゆかは好み」って言ってた男が、ここだけは譲らない。
レジーナは素直に従った。
穴子の天ぷらを天つゆへ。
穴子の端を、つゆに沈める。
衣が濡れて、少しだけ色が深くなる。
レジーナは口に運ぶ。
――じゅわ。
今度は、衣ではなく「中」が鳴った気がした。
身が厚い。
噛むと、穴子の脂と旨味が、つゆと絡んで広がる。
(重厚……。でも、重いわけではない。……むしろ、支え合ってる)
つゆが前へ出すぎない。
穴子が負けない。
つゆは穴子に合わせて深くなり、穴子はつゆに合わせて広がる。
相互に引き立て合う味。
塩で引き出す「素材の主張」とは違う、「調和の極み」だ。
ラディウスが、つゆをつけた穴子を食べて、静かに頷いた。
「……なるほど。これは、確かにつゆだ」
塩も美味いはずだ。
だが塩だと、穴子の「持っている余白」が余ってしまう。
つゆは、その余白を埋めるのではなく、穴子の旨味を引き伸ばす。
難しいことは言わない。
ただ、「食べれば分かる形」で提示してくる。
いつの間にか、満足がじわりと積もっていた。
海老、アスパラ、きのこ、ナス、鱚、ホタテ、穴子。
七種類。
多いのか、少ないのか。
腹は満ちているのに、欲が生きている。
そして、その欲を見抜いたように、有羽が当然の顔で言った。
「で、追加で揚げて欲しいのある? 魚介でも野菜でも、好きなの追加で揚げるけど」
その言い方が、罪。
食べ終わりの余韻に、次の扉を開ける悪魔の囁き。
三人とも、黙っていられない。
レジーナは即答した。
「鱚で」
ラディウスは迷わず。
「僕はアスパラを」
アウローラは勢いで前のめり。
「海老! おっきいの!」
三つの要求。
三つの欲望。
有羽は「はいはい」と苦笑し、鍋の前へ戻る。
レジーナはその間、ワインを傾ける。
優雅だ。
所作は完璧に王女。
ただし視線は、有羽の手元に釘付けである。
優雅な狩人の目だ。
ラディウスが、そんな妻にくすくす笑って声をかける。
「随分気に入ったみたいだね、レジーナ」
「……ラディウスも野菜を気に入ったみたいね。あれかしら? 昼間の『畑王』の血が騒ぐのかしら?」
「昼間の話はやめてくれ。むず痒い……。あんなに熱中するなんて、僕自身思ってなかったからね」
「私もよ」
夫婦は苦笑を交換し合う。
王族の仮面の下で、今日はちゃんと人間をしている。
そして、皿が置かれた。
「はい、お待ち。鱚の天ぷらに、アスパラの天ぷら」
レジーナは鱚を。
ラディウスはアスパラを。
どちらも迷いがない。迷いが出る前に、口が選んでいる。
鱚は相変わらず、雲のようにほどける。
アスパラは相変わらず、青い甘みが閉じ込められている。
同じものをもう一度食べるのに、飽きがない。
むしろ確認したくなる味だ。
「ああ……鱚の天ぷら……やはり最高よ、これは……勲章ものよ……!」
レジーナがつい口にすると、ラディウスが笑う。
「どれだけ鱚が好きなんだい、キミは?」
「そういうあなたこそ」
「……まあね。野菜の美味しさに目覚めちゃったみたいだ」
二人の会話が優雅に流れる――その横で、アウローラが机を軽く叩く。
「有羽! 私の海老はどこだ!?」
「今から揚げる」
「おい! 仲間外れにするな!!」
「仲間外れじゃなくて、時間差! 大きい海老は手間がいるの!」
「むぅ」
有羽が油の温度を見ながら、言い含めるように言う。
アウローラは頬を膨らませながらも、何だかんだ従う。
怒るというより、甘えるに近い声。
そのとき――。
ぐぅぅぅぅ。
家の中にまで届く低音。
分からないほどの――腹の音。
しかも、家の外から。
窓越しに、堂々と。
護衛隊の腹が、ログハウスに「抗議」を届けてきた。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、全員が吹き出した。
「……っ、ふふ……っ」
レジーナが笑い過ぎて目尻を拭いながら言う。
「いいわいいわ。賢者様、皆の分も作ってあげて。私達のお腹はもうだいぶ満たされたし……それにこれ以上我慢を強いるのは、暴君の治世になっちゃうしね」
王女の言い回しが、やけに的確で、さらに笑いが増える。
護衛の腹の音ひとつで国家が傾くのはどうなんだ、と誰かが言いかけて飲み込んだ。何はともあれ、早く飯が食いたい。
有羽は「助かった」とでも言いたげに頷いて、侍女隊へ声を掛ける。
「台所にうどんもあるから、順次茹でて配るぞー。侍女さんたちも手伝ってー。じゃんじゃん揚げてくから、回して回して!」
「はい、了解です!」
若い侍女が元気よく返事をして、すぐに動く。
別の侍女が器を並べ、別の侍女がつゆを用意し、塩を補充する。
流れ作業のようでいて、息が合っている。
この森のログハウスが、臨時の厨房戦場になった。
次々と揚がる天ぷら。
皿が運ばれ、箸が動き、うどんが茹で上がり、湯気が立つ。
外の護衛にも、順番に湯気の立つ椀が運ばれていく。
うどんを啜る音が、まず外から聞こえた。
それが合図のように、家の中でも啜る音が増える。
揚げ物の香りと、出汁の香りが混ざって、空腹を優しく殴ってくる。
「……しあわせ……」
誰かが漏らした声に、周りが笑う。
護衛も侍女も、王女も聖騎士も、今だけは立場が同じだ。
旨いものの前では、人間は平等になる。
有羽は鍋の前で、追加の海老を油に沈めた。
今度は大きい。
泡が少しだけ激しく立つ。
じゅわぁ、という音が今日一番「食欲」の形をしている。
◇◇◇
夕食の余韻が、まだ家の梁に残っていた。
油の香りはすでに落ち着き、代わりに木の甘い匂いと、石鹸の清潔な匂いが、夜の空気に溶ける。
新設された客間は、静かだった。
静かなのに、満ちている。
灯りは柔らかく、影が角を立てない。窓の外では森が黒く息をしているだけで、風も今夜は大人しい。
今夜だけは、ここが南王国の第一王女と聖騎士の「安全地帯」になっている。
ソファに深く腰を落としたラディウスは、背もたれに身体を預けたまま、しばらく天井を見上げていた。
戦場でなら、こういう無防備な体勢はまず取らない。取れない。
それでも今は、立ち上がろうという意欲が湧かない。
反対側。
レジーナは、ふかふかのベッドに沈むように転がっていた。王女としての矜持も体裁も、さっきの湯船に一緒に沈めてきたかのように、すっかり溶けている。
侍女達と共に堪能した、賢者の造った「浴室」。その余韻がレジーナの身体に。
枕に頬を当てたまま、片手で自分の髪を梳く。指が引っかからない。するり、と音を立てそうなほど滑らかに流れる。
どちらも、入浴後の「良い疲れ」が抜けきっていない顔。
戦場帰りの疲労ではない。
温泉街で骨の芯まで温められた疲労に近い――いや、それよりも質が悪い。
「……ねぇ、あなた」
声に芯がない。
普段の彼女なら、言葉の端に必ず意図を乗せる。だが今のそれは、素直な吐息の延長だった。
「……なんだい、レジーナ」
ラディウスも同じだ。
声が低く、柔らかく、どこか呆けている。気を張る必要のない夜、というものを久しく忘れていた男の声。
「……お風呂、すごかったわ。あれ……あれは何? 湯船はもちろん、あの雨みたいな……上から降ってくる水。しかも温度が安定していて……」
レジーナは言葉を探す。
王都で幾千の贅沢を見てきた舌と目が、いま目の前の「生活の贅沢」に敗北していた。
「シャワーだよ。あの賢者殿、当たり前みたいに言ってたね。……当たり前じゃないのに」
ラディウスは、指先で自分の髪を摘まむ。
軽い。指が通る。
髪が「まとまる」。
それだけで人はこんなにも快適になるのか、と、いまさら理解する。
「シャンプーも……リンスも……凄いわ。泡立つのに、きしまずに、香りが強すぎない。香料で誤魔化していないのに……綺麗になる」
レジーナは枕に頬を押し付けたまま、まるで夢を語るように続けた。
髪を梳くたび、さらり、さらり、と絹糸が落ちる。
ごわつきがない。べたつきがない。
洗い流したはずの湯の感触が、まだ肌に残っている気さえする。
「見るだけで分かるよ」
ラディウスはソファの肘掛けに頭を預け、半眼で笑った。
「レジーナの美貌が倍くらいになってる」
「……やめて。今の私、褒められると本気で嬉しくなっちゃうから」
口調は軽い。
だが、その軽さの中に「本当」が混じっているのが、ラディウスには分かった。
レジーナは、ここに来てからずっと、自分が「王女」ではなく「一人の人間」に戻っている。
レジーナは身を起こし、客間の隅に置かれた鏡をちらりと見る。
曇りがない。歪みがない。光が滑る。
金属板を貼っただけの粗悪品とは違う、完璧な鏡面だ。
「鏡も……すごいのよ。あれ、王都で買うとなったら……金貨百枚でも足りないかもしれない。いえ、そもそも売ってない」
王都の工房をいくつも思い浮かべる。
鏡は高価で、歪みは当たり前で、曇りは手入れが悪いせいにされる。
だが、ここでは「曇らない鏡」が当たり前のように置かれている。
ラディウスは視線をソファに落とす。
布地。縫い目。沈み込みの配分。
背中を預けても、腰が痛くならない。
身体が自然に「休んでいい」と理解してしまう。
「このソファも凄いよ……立ちたくないソファなんて、僕は初めて座ったかも」
「こっちのベッドは……もっと凄いわ」
レジーナはベッドに手をつき、指で布を押す。
沈む。けれど戻る。
沈み込みが重さを受け止め、反発が身体を支える。
柔らかいのに、身体が楽。
寝返りを打っても、沈みに引きずられない。
「沈むのに弾力があるというか……このまま寝たら……絶対、朝まで世界が終わっても起きない気がする」
「世界が終わっても起きない王女、伝説になりそうだね」
「その伝説、私は嫌だわ」
ふ、と二人で笑う。
その笑いは、昼間の「勝負の笑い」ではない。
剣を抜いたことも、外交文書を交わしたこともない、ただの夜の笑いだ。
「料理も……最高に美味しかったわ」
レジーナが天井を見ながら言う。
昼のカレー。夜の天ぷら。
口の中で残る香りを思い出すだけで、胃がほんの少しだけ動く。
「昼のあれも、夜のあれも……王都で食べられない。味だけじゃない、調理が違う。発想が違う」
「ああ」
ラディウスも頷く。
言葉にすると腹が鳴りそうで、彼は少しだけ声を落とした。
「どちらも絶品だった。王都の料理人が劣っていると言いたいわけじゃない。……方向が違う。技術の系統が違う。何というか、同じ「美味い」でも別の世界だ」
軍の野営料理も知っている。貴族の晩餐も知っている。
だが、有羽の料理は、そのどちらとも別の系譜に属している。
「……こんな快適空間に、アウローラはずっと通ってたのね」
レジーナの声が少しだけ低くなる。
嫉妬ではなく、現実的な理解と羨望。
そして若干の、姉としての不服。
「そりゃ何度も行く訳よ。私だって今回限りとか嫌だもの。定期的に来たいわよ」
王女が、隠しもせずに言い切る。
ラディウスは笑いかけて、しかし笑いきれずに息を吐いた。
笑いが落ち着くと、結局そこへ戻る。
王族と騎士は、楽しさの余韻に浸りながらも、現実の重さを忘れられない。
「……ここは、危険だね」
「ええ」
レジーナはベッドに仰向けになり、片腕で額を覆う。
声が、さっきより冷たくなる。
溶けた理性が、少しずつ形を戻していく。
「この力……安易に他国には渡せないわ」
言葉が、誓いのように落ちる。
それは「独占したい」という幼稚な欲ではない。
国の未来を測る天秤の言葉だ。
「魔国へのカレーは仕方ない。あれはもう、諦めるしかない。でも――賢者様との縁だけは、絶対に他国に渡せない」
縛るのではない。
強制するのではない。
彼の関心と、信用と、好意を繋ぎ留める。
奪うのではなく、失わない。
ラディウスが、ゆっくりと首を傾げた。
「どうするつもりだい?」
レジーナは答えるまで少し間を置いた。
考えているのではなく、既にある考えを言葉に変換している間。
「……今日だけで、ある程度の輪郭は掴んだわ」
そして、淡々と並べる。
観察と結論。
外交官の習慣。
「彼は思慮深いけれど、閉鎖的な人。そもそも「見返り」を求めていない。礼や勧誘を重荷に感じている。基本的に単独行動を好んでいるし……それを可能にする力と知恵がある」
目を閉じると、あの男の背中が浮かぶ。
鍋の前で揚げ箸を回す背中。
笑っているのに、距離を測っている眼差し。
親切に見えて、境界線がある。
「人当たりはいい。善性の人よ。力に溺れて暴れる無頼じゃない。でも……」
レジーナはそこで言葉を切る。
切ってから、あえて続けた。
「他人を信用していない。アウローラが「例外」なだけよ」
レジーナが静かに言い切る。
嫉妬が混じる余地はない。
むしろ、そこに希望があるからこそ、冷静になれる。
「本当なら誰にも関わらずに、この森に引きこもっていたに違いないわ。今日のように一緒に遊んだり、料理を作ってくれることが稀。アウローラが居るから、間接的に恩恵を味わえた」
ラディウスは、その言葉の重みを理解していた。
自分が今こうして客間で休めているのも、アウローラが扉を開けたからだ。
王族の権威でこじ開けたのではない。
積み上げた「時間」で開けたのだ。
「もしもアウローラの頭越しに彼へ要求したら……きっと完全に王国との縁を切るでしょうね」
レジーナの声が、少しだけ硬くなる。
「彼は良識と良心を持ち合わせた優しい人……でも、その優しさは誰にでも与えられる訳じゃない。対応一つ間違えたら、王都に呼ぶどころか――王都を「敵」と見なされる可能性だってある」
破壊される、とは言わない。
それでも、言外の意味は十分に伝わる。
敵と見なされるだけで、国は終わる。
それが、彼女の読み。
ラディウスは反論しなかった。
むしろ、胸の奥が冷えた。
自分は戦える。守れる。
そう思って生きてきた。
だが、今日この家で感じたものは――戦う以前の問題だった。
ラディウスは、ソファの背から身体を少しだけ起こし、真剣な目で言う。
「僕からもひとつ」
その声に、レジーナも目を向ける。
夫の声音が、戦場のものに戻っているのが分かる。
「賢者殿は、かつて僕が倒した魔界の悪魔より遥かに強大だ。断言する」
静かな断言。
誇張ではない。
かつて悪魔を、死闘の末に打倒した「勇者」が悟ったのだ。
聖騎士の直感と経験が、戦闘を忌避している。
「国の力を全て集結させたとしても……多分、勝てない」
言い終えた瞬間、客間の空気が一段重くなった。
森の夜が、急に大きく感じられる。
レジーナはゆっくり息を吐いた。
怖がっているのではない。
理解している。
この理解は、恐怖よりも厄介だ。
恐怖は逃げる理由になるが、理解は選ぶ責任になる。
「……だからこそ、方法は一つしかないわ」
レジーナはベッドの上で体を起こし、髪を肩に流す。
絹糸みたいに落ちる髪が、今の言葉の冷たさと不釣り合いで、妙に現実味を増した。
「縛れない相手なら、縛ろうとした瞬間に終わる。求めるべきは拘束じゃない。信頼。関心。……そして、彼がここに留まる理由を増やすこと」
ラディウスが静かに問う。
「その理由に、アウローラを使う?」
レジーナは少しだけ目を開いた。
灯りが瞳に宿る。
「使う、なんて言い方はしないわ。あの子はあの子で大切。……でも、現実として妹が鍵になるのは否定しない」
レジーナは、今日の光景を思い出す。
名前で呼ばれただけで、あれほど嬉しそうに笑う妹。
あれは宝物だ。
同時に、危うい。
「アウローラが例外なら、その例外を壊さないこと。例外を「制度化」しないこと。王国の都合で形にしない。彼が嫌うのは、きっとそこ」
レジーナは指を折って整理する。
賢者は礼を重荷に感じる。
なら礼は「形」を変える必要がある。
賢者は勧誘を嫌う。
なら勧誘ではなく「頼り方」を変える必要がある。
「そして何より――王国の人間が、彼を利用対象と見る目を持った瞬間に終わる」
ラディウスが頷いた。
彼も同じ結論に辿り着いている。
剣で守れるものは限られている。
剣で斬れないモノもある。
「……でも、難しいね」
ラディウスが小さく笑う。
皮肉ではなく、疲れた正直。
「君の妹は、距離を縮めたがる。あの子の願いは、王国の最適距離とは一致しない」
レジーナの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
姉の顔だ。
「ええ。だから……私達がやるべきは、二つ」
彼女はゆっくり言った。
「ひとつは、王国としての正しい距離を守ること。もうひとつは、アウローラの願いを折らないこと」
簡単に言うが、両立は難しい。
外交の最適解と、妹の幸福は、しばしば喧嘩をする。
ラディウスはソファに沈み直し、天井を見上げた。
「……やれやれ。今日だけで、僕たちは随分贅沢な問題を抱え込んだね」
「贅沢で、危険で、甘い問題よ」
レジーナはベッドに再び身を預ける。
さっきほど溶けてはいない。
けれど、完全に硬くもない。
「でも――逃げられない。だって、もう知ってしまったもの」
快適さも。
美味しさも。
そして、有羽という存在の重さも。
窓の外で、虫の音が小さく鳴った。
森は静かだ。
だが、その静けさの中心に、ひとりの賢者がいる。
レジーナとラディウスは、客間の灯りの下でしばらく言葉を失っていた。
溶けかけた理性と、王族の責務と、家族の願いが、同じ布団の上に並んでいる。
――眠りは近い。
だが、眠りが来ても、答えはまだ来ない。




