第57話・夕飯は天ぷら②
油の鍋は、テーブルの端に据えられていた。
台車から降ろされ、火加減を調整され、表面が静かに揺れる。
音は小さい。匂いもまだ薄い。けれど、その「静けさ」が逆に期待を煽る。
有羽は箸を二本――いや、揚げ物用の長い箸を手に取り、衣の器の前に立った。
動きは早いのに雑さがない。焦りが残っているはずなのに、ここだけは譲れない、という意地が見える。
テーブルの側では、レジーナ、ラディウス、アウローラが豆腐を口に運びながら待っていた。
豆腐の優しい甘みが舌を落ち着かせる。けれど、落ち着きは長く続かない。油の気配がそれを許さない。
外の護衛は……見ていない。見てはいけない。
見れば心が折れる。折れたら任務が折れる。
窓の外の気配が、妙に真面目すぎた。
侍女隊は、ほぼ壁際に整列していた。
視線は鍋。表情は平静。背筋は一本。
なのに、目だけが「食わせろ」と言っている。
うっかりその目線を真正面から受けると、命の危険が。
「……じゃ、まずはこれから」
有羽が言って、手元の皿から縞のある具材を持ち上げた。
衣はさらさらで、重たさがない。
油の面へ滑らせるように落とすと、そこから一気に音が立ち上がる。
じゅわぁぁ――。
火花のような泡が、具材の周りで弾ける。
音が「鳴る」というより「歌う」に近い。
その音を合図に、三人の背筋が自然と正される。
有羽は揚げ具合を見て、すっと引き上げた。
余分な油を切る仕草が美しい。
皿に置かれたのは――からり、と色づいた海老。
海老の天ぷらが三つ。
各自の皿へ、ひとつずつ丁寧に置かれていく。
そして、もう一皿。
海老の頭――殻の部分だけを揚げたものが、同じように三つ。
まるで当然のように並べられて、ことり、と落ち着いた。
レジーナは目を瞬いた。
海の国の王女として、海老は食べ慣れている。
けれど、頭を食べる習慣はない。
まして殻を揚げるなど、発想がそもそも無い。
(殻は捨てるもの……そう決めつけていた?)
自分の常識が、いとも簡単に揺らぐ。
料理は文化で、文化は価値観で、価値観は――誇りに繋がる。
レジーナはほんの少し、背筋の奥が痒くなるような気持ちで、その小さな殻の天ぷらを見つめた。
そこへ、皿が二つ追加される。
白い粒が盛られた小皿と、艶のある茶色の液体が入った小皿。
「塩と、つゆ。どっちでも好きな方で」
有羽が茶目っ気のある口調で言い、肩を軽くすくめる。
「素材の味を楽しみたいなら塩。旨味を堪能したいなら、つゆ。……まあ、好みだね」
この「選ばせる」という行為が、妙にくすぐったい。
料理は押し付けではなく、対話だと言われている気がする。
レジーナは、一拍置いて塩を選んだ。
「では……まずは、こちらから」
海老の頭の天ぷら。
恐る恐る箸でつまむ。軽い。
箸が少し震えるのは、緊張ではなく期待だ。
箸の扱いは問題ない。
この二年で王都にも箸文化が浸透し始めている。
賢者の知識が、こんな些細な所にまで染み込んでいた。
フォークも置かれていたが、今日は箸だ。
食べ方から、学びたい。
塩をちょん、と付けて口に運ぶ。
さくっ。
軽い音が頭の中で鳴った。
噛んだ瞬間、殻が砕けるのに痛くない。
さらさらとほどけていく。
塩気が先に立って、そのあとに海老の香りが追いかけてくる。
香ばしいのに重くない。油っこくない。
むしろ、澄んでいる。
「……っ、軽い……!」
思わず漏れた言葉は、驚きの吐息だった。
油で揚げているのを目の前で見た。
なのに、口当たりは軽い。
上品な菓子のような食感。
塩気が舌をきゅっと締め、海老の香りがふわりと広がり、衣がそれを一瞬で消していく。
(……なんて勿体ないことを……)
殻を捨てていた過去の自分が、遠くに見える。
それは王族だからではない。
海老の頭を「料理として完成させた」発想に、ただ悔しくなる。
隣を見ると、ラディウスも目を見開いていた。
聖騎士の「戦場の目」ではない。
純粋に驚いて、世界が広がった時の目だ。
「……信じられないな。殻で……この味になるのか」
言葉が、少し遅れて出る。
理解が追いつくまで、数秒必要だったのだろう。
「じゃ、身の方もどうぞ」
有羽の声に促されて、レジーナは海老天へ箸を伸ばす。
こちらも塩。
まずは素材の味を、と決めた。
さくり、と衣が割れる。
そこから現れる海老の身は、濃厚で、熱くて、弾力がある。
噛むと、甘みが弾ける。
海老の旨味が、衣の薄さと釣り合っている。
衣が主張しない。海老が主役だ。
それなのに衣は、舞台を整える役目を完璧に果たしている。
(口の中で、花が開いてる……?)
口内で、味がぱっと広がる感覚。
香りと甘みと塩気と油の温度が、同時に咲く。
レジーナは一瞬、まばたきを忘れた。
次はつゆ。
つゆにくぐらせた瞬間、衣がわずかにしっとりする。
だがそれは「しんなり」ではなく、「まとわりつく」に近い。
つゆの香りが衣に乗って、海老の旨味を別方向へ運ぶ。
口に入れた瞬間、世界がもう一段階深くなる。
海老の甘みが、つゆの旨味で押し上げられる。
塩が「素材の真髄」なら、つゆは「旨味の社交」。
海老が礼装を纏うように、味が整う。
「……これは……」
レジーナは、口の中の余韻を確かめるように黙った。
甲乙つけ難い。
むしろ、両方が正解だ。
そして、海老が一つでは足りない。
もう一つ欲しい。欲を言えば二つ欲しい。
欲望が、上品な顔をして席に座っている。
その瞬間、有羽が次の皿を出す。
「次は野菜ね。アスパラ」
緑の細長い野菜が、薄い衣に包まれている。
揚げたての艶と、衣越しに透ける緑。
見ただけで「軽い」と分かる。
レジーナは塩を付け、恐る恐る口にする。
噛んだ瞬間、アスパラの香りが立ち上がった。
草の青さではなく、甘みを含んだ香り。
火が通っているのに、瑞々しさが生きている。
熱だけが通り、旨味が閉じ込められている。
ラディウスが呆然と呟いた。
「素晴らしいな。野菜とは、これほど美味だったのか……」
戦場で語る勇者の言葉ではない。
台所の奇跡を前にした、素直な人間の声だ。
有羽は淡々と揚げ続ける。
きのこ。
ナス。
ひとつずつ、丁寧に。
揚げるたびに、油が短く鳴いて、静かに黙る。
きのこの天ぷらは、香りが先に来た。
口に入れた瞬間、森の匂いがふわっと広がり、次いで旨味がどっと押し寄せる。
油が香りを抱えて、舌の奥まで運ぶ。
ナスは、逆に静かだった。
衣を割ると、じゅわ、と中から熱い汁が出る。
それが口の中でほどける。
噛むほどに、とろけるほどに、甘みが増していく。
どれも間違いなく「きのこ」で「ナス」だ。
なのに、今まで食べていたものが別物に思える。
素材を極限まで高める――その言葉が、ただの誇張ではないと理解する。
レジーナは箸を置く暇もなく、けれど言葉も出ないまま、ただ頷いた。
アウローラは、嬉しそうに頬を膨らませて食べている。
わんこは今、幸せで忙しい。
そしてレジーナは、ぽつりと本音を落とした。
「これは確かに……王都の試作品は「冒涜」ね」
食べていないのに、断言できる。
見ただけで分かる料理がある。
それが本物だ。
言った瞬間、アウローラが深く頷いた。
侍女たちも頷いた。
王女の言葉ではなく、経験者の判決として場に落ちる。
有羽は揚げ箸を持ったまま、少しだけ口角を上げた。
「さて……次は魚、いくよ」
にやり、と。
その笑みが、いちばん怖い。
意地悪ではない。
絶対に美味いものを出すと決めた人間の笑み。
「覚悟しておいて」
レジーナは思わず背筋を伸ばした。
楽しみと、ほんの少しの恐怖が混じる。
野菜だけでこれだ。
海老であの完成度だ。
魚となれば、どうなる。
ラディウスは、呼吸を整えるように小さく息を吐いた。
戦場前の癖ではない。
ただ、期待で胸が詰まりそうなのを落ち着かせている。
アウローラは、わくわくと椅子の上で揺れた。
次が来る。
それだけで世界が明るい顔だ。
油の面が、ふっと揺れた。
有羽が次の具材を手に取る。
そして、音がまた生まれる直前――。
レジーナは、塩の皿とつゆの皿を見比べる。
どちらで迎え撃つべきか。
そんな贅沢な悩みを抱えたまま、彼女は箸を構えた。
◇◇◇
有羽の揚げ箸が、鍋の上で静かに舞う。
油の表面は、さっきまでの賑やかな泡を一度落ち着かせ、次の主役を迎えるための「間」を作っていた。
そこへ――白い身が、薄い衣をまとって滑り込む。
じゅわぁ……。
音が立ち上がる。けれど、海老の時とは少し違う。
香りが軽い。海の匂いが柔らかい。
それが、妙に不穏だった。期待が不穏、という意味で。
有羽は油の泡の具合を見て、ほんの数呼吸の間を置き、すっと引き上げる。
油を切る所作に、無駄がない。
そして皿へ。
開かれた白身魚の天ぷら――鱚。
からり、と黄金の衣をまとっているのに、中の純白が透けて見える。
その「透け」が、薄さと軽さを証明していた。
レジーナ、ラディウス、アウローラの前に、ひとつずつ。
ひとつずつ。その配り方が憎い。
食べたら終わる、と思わせておいて、食べ終える頃に次が来る――その手口が、親切の顔をした拷問だ。
レジーナは皿を見つめたまま、思わず喉の奥で息を飲んだ。
小ぶりな魚。南王国なら馴染み深い部類の白身。
しかし、この揚がり方は見たことがない。
衣が薄い。
薄いのに、破れず、剥がれず、形が崩れていない。
熱と旨味を閉じ込めるための膜として、最適化された衣。
「さ、食べてみて」
有羽が笑って言う。
「俺の中で、天ぷらの主役は海老と鱚の二つって思ってるから」
その言い方が、ずるい。
これが自信作ですと言うのではなく、これが基準ですと言っている。
つまり、失敗という選択肢が存在しない宣言だ。
ラディウスが、わずかに口角を上げる。
「主役を二人も立てるとは……贅沢な劇だね」
「舞台が強いと、主役も映えるんですよ」
二人の会話を聞きながら、レジーナは塩の皿へ箸先を向ける。
最初の海老で理解した。
この料理では、塩は簡略ではなく正攻法。
鱚の端を、塩へちょん、と触れさせる。
ほんの少し。
欲張りすぎたら、繊細さが消える気がした。
そして、一口。
――さく。
衣が軽く割れる。
次の瞬間、口の中で「白身」がほどけた。
泳いだ。
確かに、泳いだ。
レジーナの脳裏に、海の青が浮かんだわけではない。
ただ、舌の上でふわりと身が動いた。
噛む力が足りないのではない。噛む必要がないのだ。
ほぐれる。ほどける。溶ける寸前で、ちゃんと魚として立っている。
(……なんて柔らかな……ふんわりとした……雲……?)
思わず目を閉じた。
音が遠のき、時間が薄くなる。
感嘆の声さえ邪魔に感じる。
味を受け止めるのに、言葉は要らない。
鱚の旨味が、静かに広がる。
濃いのに、重くない。
深いのに、沈まない。
海の底へ引きずり込む旨味ではなく、海の中で浮かび上がらせる旨味。
口の中が、開放される。
胸の奥が、少し軽くなる。
料理で、そんなことが起きていいのか。
今まで食べていた白身魚の概念が、上書きされてしまった。
隣でラディウスが小さく息を吐く。
「……これは……」
言葉が続かない。
続けるのが野暮だと、本能が止めている。
聖騎士としての言語能力ではなく、食べ手としての礼儀が沈黙を選んだ。
アウローラは――言葉より先に二口目へ行っていた。
むしゃむしゃと、幸福を隠しもしない。
感想は顔面に全部書いてある。
レジーナは次に、つゆを試す。
衣の先を少しだけ浸す。
浸しすぎると、軽さが沈む。
その一線を守る動きが、王女の所作ではなく勝負師のそれだった。
口に入れた瞬間、旨味が輪郭を持つ。
鱚の甘みが、つゆの奥行きに引き上げられる。
塩が「鱚そのもの」なら、つゆは「鱚を包む物語」。
どちらも正しい。
正しすぎて困る。
(……困るわね。本当に)
レジーナは、真面目に困った。
王都へ帰ったら、これを思い出してしまう。
いや、帰らなくても困る。
今ここで、もう一つ欲しい。
皿に一つずつ、という慈悲の無さが憎い。
美味の配分に、慈悲はないのか。
その時。
「あー……レジーナさん?」
有羽の声が、やけに慎重に届いた。
「ご満悦のところ申し訳ないのですが……ワイン、いります?」
レジーナはぱちり、と目を開いた。
いつの間にか目の前にワイングラス。
ラディウスが肩を揺らして笑っている。
どうやら、レジーナが完全に鱚に攫われた時間があったらしい。
頬が熱い。
王女が料理で我を忘れるなど、外交の席でやったら事故である。
こほん、と咳払い。
背筋を戻して、優雅に頷く。
「……いただきます」
「はい。どうぞ」
有羽は笑みをこぼしながら、グラスへ赤い液体を注ぐ。
その色が濃い。深い。
香りが、少しだけ森っぽい。果実の甘みの奥に、木の影がある。
手作り。
魔境の森の果実から作った、自家製のワイン。
レジーナは照れ隠しに、ワインを一口。
――瞬間、舌の上に柔らかな酸味が咲く。
甘いだけではない。渋いだけでもない。
香りが遅れて追いかけてきて、喉の奥で森の匂いに変わる。
「……っ」
強さはある。
けれど荒くない。
果実の甘みが主張しすぎず、酸が輪郭を整えている。
飲み込んだ後に、喉の奥が温かい。
揚げ物の油を流し、口の中を「次」へ整える役割まで果たしている。
レジーナは、ゆっくりとグラスを置く。
そして、唐突に隣の妹を見た。
「……アウローラ」
「え? どうしました姉上?」
アウローラは鱚をむしゃむしゃ食べている最中だった。
口を動かしながら、きょとんと顔を上げる。
その無邪気さが、今は罪に見える。
レジーナの目は――笑っていなかった。
「……あなた、今まで……こんな美味しい物を食べて、こんな美味しいワインを飲んで……それを約二年間繰り返していたの……?」
言葉は穏やか。
声も丁寧。
だが内容が、刃だ。
「え!? え、ええっと……まあ、それなりに……」
アウローラの尻尾が見えるなら、今ここで縮んでいる。
「ふ、ふふふふ……昼間の遊戯の怒りが、また込み上げて来たわ」
レジーナは、指先でグラスの縁をなぞりながら続けた。
「そう。そうなのね。こんな絶品を食べるために、真面目な顔で『賢者様のスカウト行ってきます!』とか言ってたわけね……」
「う、嘘は言ってませんよ!? 私は有羽のスカウトをずっとやってます! ただ有羽が頷いてくれないだけです!!」
アウローラは慌てて有羽へ視線を投げる。
助けを求めるように。責任を押し付けるように。両方だ。
視線を向けられた有羽は、にへら、と笑って言う。
「スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します」
「ほら、これだ! いっつもいつも! 毎回こうなんですよぅ!」
わいわいぎゃあぎゃあ。
いつものやり取り。いつもの温度。
さっきまで王族の威厳だの外交の駆け引きだのがあった気配が、油の音と一緒にどこかへ飛んでいく。
ラディウスは、苦笑しながらワインを口に運んだ。
この空気が、妙に羨ましい。
砕けているのに、壊れていない。
馴れ合いなのに、甘え切っていない。
距離感が絶妙で、だからこそ笑える。
レジーナは、そんな二人を見ながら――真面目に悩んだ。
(……本気で、専属料理人として雇いたいわ……)
賢者?
助言?
外交の切り札?
(……いやもう、賢者とかどうでもいいから、この料理を王都でも食べたい。切実に食べたい……)
心の中で、王女としての自分が「落ち着け」と言う。
美食を求める自分が「落ち着けない」と返す。
勝負は、完全に後者が優勢。
その時、有羽が揚げ箸を持ち上げた。
油がまた、期待の歌を鳴らし始める。
「はいはい。揉めるなら食ってからやって。次、いくよ」
レジーナは、箸を構え直した。
鱚の余韻がまだ残る。
ワインの香りが喉に残る。
そして、次が来る。
今日の夕飯は――胃袋だけでなく、王族の理性まで試しに来ていた。




