第55話・決着
午後のログハウスは、もはや「森の賢者の家」ではなかった。
歓声と悲鳴と、理不尽への抗議が飛び交う――小さな戦場である。
テーブルの中央には、王国と魔国を描いた大きな地図。
その上を四つの駒が駆け、硬貨の玩具がじゃらじゃらと流れ、札がめくられ、ルーレットが回り、サイコロがテーブルで転がる。
窓の外には護衛隊。
中には侍女隊。
どちらも完全に「観客」だった。控えめに、しかし真剣に見守る。
「殿下、そこは赤です! 赤ですって!」
「行け! そのまま行け! いや待て、黄色だ! 黄色踏めぇ!」
「ノングラータが近いぞ! 逃げろぉ!」
前言撤回。観客は大盛り上がりだった。全く控えめではない。
そして――盤上の主役は、当然ながら四人。
勝負は、色々酷かった。
とりわけ姉妹が、酷い。
アウローラとレジーナは、目的地へ向かうという「本筋」を、平然と見失う。
勝ちたいのではない。
儲けたいのでもない。
ただ――放浪神ノングラータを、相手に擦り付けたい。
「姉上、覚悟!」
「来るなと言っているでしょう!」
レジーナが名馬カードを握りしめる。
アウローラも名馬カードを握りしめる。
互いに名馬で互いを追い、追いついて重なって、神を押し付け、押し返し、押し付け、押し返し――
そのたびに、目的地から遠ざかる。
そして遠ざかった姉妹を尻目に、有羽かラディウスが淡々と目的地に到着し、褒美を得る。
その瞬間、盤上の規定で「遠い者にペナルティ」。つまりノングラータが再び姉妹どちらかに降ってくる。
見るに堪えない。
護衛達は腹を抱えて笑い、侍女達は口元を隠して震える。
だが姉妹だけは笑っていない。笑えるわけがない。神が憎い。
「どうして! どうして私達の旅は! いつもこうなるのだ!」
「あなたが来るからよ、アウローラ」
「姉上が逃げるからだ!」
「逃げていないわ、回避よ」
「同じだ!」
喧嘩は美しい顔で行われるほど、逆に醜い。
盤面が修羅になっているその横で――有羽は淡々と金を回し、淡々と物件を買い、淡々と「勝ち筋」を作ろうとしていた。
だが、世の中は甘くない。
「よし、黄色マス。魔法――……豪商の魔法、来た」
有羽が「お」という顔をしたのも束の間――アウローラの手番で跳ねた。
「黄色! 私も黄色! 魔法! えへへ……えへへへ……」
嫌な笑いをし始める。
「……何引いた?」
「強奪!!」
全員が「うわ」と言った。
護衛が外で「うわ」と言い、侍女が「うわ」と呟き、ラディウスが「うわ」と肩を落とし、レジーナが「うわ」と微笑んだ。最後の王女は酷すぎる。
有羽は、頭を抱えた。
「……なんでお前、俺がいいの引いた時だけそれ引くの」
「運命だな!」
「運命って言葉を雑に使うな!」
有羽は豪商の札を指で挟み、眉間を揉む。
「……やられた。これ、次のアウローラの番までに使わないと、奪われる」
「使えばいいじゃないか」
「今いる近隣の町が、全部微妙なんだよ……」
盤面を指でトントン叩く。
町札が出ている。どれも収益3割、2割。魔道具屋、服屋、酒場。
豪商で買っても、旨味が薄い。
本来なら温存したい。王都の宝石店などに使いたい。
だが温存すれば、奪われる。
有羽は歯を食いしばるように言った。
「……くそ。買いたくもない物件を、豪商で買う羽目になるとは」
「商いは妥協ですわね」
「レジーナさん、煽らないで」
結局、有羽は「買いたくもない」収益3割の魔道具屋を、豪商で買った。
十分の一で買うのに、心が痛むという矛盾。
だが、地獄はそれだけでは終わらない。
ノングラータが同行中のレジーナが、黄色マスで手に入れたのは――会議の魔法。
全員を、同じマスに集める。
ノングラータ持ちの第一王女がこれを持った時点で、平穏な未来は消滅する。
レジーナは、微笑みを崩さずカードを掲げた。
「では皆様。お集まりくださいませ」
「やめろ」
「やめて」
「やめてください」
三方向から止める声。
だがレジーナは慈愛の笑みで、容赦なく発動した。
――盤上の全員が、一箇所へ集結。
テーブルの上に駒が密集し、硬貨が揺れ、札が散る。
観客が「うわぁ」と声を漏らす。
そして、次に起こることは誰もが理解していた。
ノングラータが、誰に付くか。
この場合の裁定は、サイコロ。
「1~2、俺。3~4、アウローラ。5~6、ラディウスさん」
有羽が淡々と割り振りを読み上げる。
レジーナは笑っている。目だけが、獲物を見る目だ。
「さあ、振りますわ」
ころころ――
止まった目は、3。
「……っ!!」
アウローラが凍った。
次いで爆発した。
「姉上ぇぇぇぇ!!」
「私は振っただけですわ。神が選びましたの」
「絶対に違う! 絶対に違う!! 神がそんなに都合よく姉上の味方するわけがない!」
その瞬間から始まる、美人姉妹喧嘩・第二幕。
醜い。実に醜い。
美人二人が、揃って「王女がしていい顔」を捨てている。
観客は沸く。
護衛隊は窓の外で腹を抱え、侍女隊は口元を押さえ、ラディウスだけが「いや、本当に仲が良いね」と感想を漏らす。
全ては神が悪い。
そして――その混沌を、さらに混沌へ落としたのが有羽だった。
有羽は自分の手札を見下ろし、静かにカードを置く。
「……暴風、使うわ」
「え?」
暴風の魔法。
ルーレットを回し、自分がランダムな町へ飛ぶ。
一見すると運任せで、目的地から遠ざかる可能性もある。
だから「弱い」と思われていた。
だが有羽は、違う視点で見る。
「今ここにいると、ノングラータ押し付け合いに巻き込まれる。俺は去る。じゃ」
「逃げるな!! 卑怯者!!」
アウローラが吠える。
レジーナの目が、凶眼になる。
王女がしていい眼ではない。
ラディウスだけが、深く唸った。
「なるほど……「位置そのものを変える」のは、距離争いだけじゃなく「神の擦り付け合い」から逃げる手でもあるわけか。盤上の戦争だね」
「戦争って言わないの。遊びだよ遊び」
有羽は笑いながら言うが、その目は真剣だった。
この遊戯は、遊びの顔をした駆け引きだ。
だからこそ――盛り上がりは止まらない。
やがて、ゲームは終盤へ。
二年目の終わりが近づく。
そこで発覚したのが――序盤でラディウスが泣く泣く買った「畑」の思わぬ強さだった。
ラディウスは、姉妹喧嘩の巻き添えでノングラータを押し付けられ、あるターンで「物件売却」の災いを引いた。
皆が思う。「畑が売られる」と。
だが――売られない。
「……ん?」
侍女の一人が冊子を覗き込む。
護衛の一人が「おかしいな」と呟く。
有羽がページを指で叩いて言う。
「畑は売れない。例外」
姉妹が同時に立ち上がった。
「どういうことだ有羽!? こんなのは横暴だ!!」
「そうよ! 許されていいことではないわ!!」
すげぇ剣幕。
美人が怒ると迫力が増す。
侍女隊が慌てて二人を抑える。抑えきれない。
有羽は肩を竦め、淡々と説明した。
「ノングラータの逸話、知ってるでしょ。賭博や商いで失敗した時に「ノングラータのせいだ」って言われる神。でも農家を祟ったって話はない。地道に、懸命に働く人のところに、放浪神は来ないって言い伝えがある。だから畑は対象外」
観客――侍女と護衛が、なるほど、と納得する顔になった。
「確かに聞いたことがある」
「畑に祟りはない」
「旅の神は怠け者に付く」
そんな囁きが広がる。
姉妹だけが納得しない。出来ない。
だって納得したら負けちゃうから。
「ぐぬぅ……!」
「ぐぬぅ……!」
王女が出しちゃいけない唸り声が二重奏になる。
けれど言い返せない。二人は道理を知っている正しい王族だから。
言い返せないから余計に悔しい。
拳がぷるぷる震えて、最後は渋々、机の上に降りる。
ともあれ。
畑は、じわじわと金を生んだ。
派手さはない。
だが確実に、盤上の資産を支えた。
そして最後の三か月。
ラディウスが運良く引いたのが――豪商の魔法。
「……これを、ここで引くのか」
ラディウスが静かに呟く。
声は穏やかだが、目が「勝負師」のそれになっている。
彼は迷わなかった。
目的地ではない。
盤上で最も高価で、最も収益の強い王都の物件。
王立劇場。
普通なら買えない。高すぎる。
だが畑の収益で積み上げた資金がある。
そして豪商で値が落ちる。
手が伸びる。
札が取られる。
硬貨が支払われる。
畑王が、劇場主に。
物語みたいな流れだ、と侍女の誰かが小さく漏らした。
護衛隊が窓の外で拍手を。
アウローラは悔しそうに唇を噛み、レジーナは目を細めた。
そして――三年が終わり、総資産の計算が始まる。
硬貨を数え、札の価値を足し、収益を見込み、最後に借金を引く。
有羽は早い。
数字を扱うのが得意な手つきで淡々と計算し、結果だけを並べた。
「はい。結果。一位ラディウスさん。二位俺。三位レジーナさん。四位アウローラ」
静寂。
次いで。
「……っ」
レジーナとアウローラが、同時に遠い目を。
三位と四位の争いは、勝負ではなかった。
地獄の底で、互いの足首を掴み合う儀式だった。
結果、二人とも借金まみれ。
マイナス金貨1000枚越え。
王女が二人揃って、借金取りの幻を見る顔をしている。
「……やはり、足の引っ張り合いはよくないわね、アウローラ」
「……ええ。私も姉上も、大事なことを見失っていました。意味のない争いは、無意味な結果しか生まない……当然と言えば当然なのに……私達は、愚かでした……」
しみじみと反省する二人は、絵になる。
美しい。哀愁がある。
だが――そこに至るまでが、あまりに酷い。
ラディウスだけが、救われたように笑う。
「それにしても……まさか序盤の畑が勝敗を分けるなんてね」
笑みは柔らかい。
勝者の余裕、ではなく、純粋な楽しさの笑みだ。
「ふふ。野菜が好きになってきたよ。根菜畑か……やはり農業は国の土台なんだね」
「いや、ゲームでそんな「真理に至った」みたいな顔しないでくださいよ」
有羽が突っ込むと、ラディウスは素直に笑った。
「ははは。ごめんごめん……でも、本当に楽しかったからさ」
その言葉は本音だった。
盤上の勝利以上に、「心の勝利」の声だった。
そして勝者は――楽しさだけで終わらない。
(この遊戯は……教育に転用できる)
ラディウスの視線が、地図の上を滑る。
地理。産業。街の位置関係。名産。収益。
遊びながら、覚える。
これほど「吸収」が早い教材はない。
(だが……このまま王都に広げるのは危険だ。経済情報が丸裸になりすぎる)
黄昏れているレジーナも、同じことを考えているはずだ。
これは劇薬であり猛毒。
扱いを誤れば、国の上澄みだけが握っていた情報が、笑い声と一緒に広がってしまう。
有羽は、そんな空気を読んだように――いや、読んでいるのだろう――静かに言った。
「……この遊戯。俺は量産するつもりないので。この家の中で遊ぶ為だけに造ったものです」
少しだけ、間。
「……もっとも、真似て作る分には、俺は何も言いませんが」
その言葉は、安堵と恐怖を同時に運んだ。
知識は渡す。
扱いは任せる。
それは、金鉱脈の地図を渡すようなものだ。
莫大な富と、凄惨な争いの種を、同じ封筒に入れて手渡す行為。
ラディウスは、笑みを崩さぬまま内心で息を吐いた。
(怖い人だ……森の賢者。彼は、王都に引っ張り出すべき者じゃない)
必要な時だけ森へ。
距離を守り、礼を守り、過剰に縛らず、過剰に期待しない。
国として最良の距離は、きっとそこ。
だが――その距離は。
アウローラにとっては、望みの叶わぬ距離でもある。
ログハウスの中で、借金王女が二人、まだ遠い目をしている。
護衛と侍女は「次は私も参加したい」と言い始めて。
盤上の旅は終わった。
けれど、盤の外の「距離」は――まだ、誰も動かせていない。
◇◇◇
そして有羽は――少しだけ離れた場所から、皆を眺めていた。
テーブルの上にはまだ地図が広がり、硬貨の玩具がいくつか転がっている。札はきちんと束ねられたものもあれば、熱に浮かされたまま放り出されたものもある。ルーレット盤は片付けられずに端に寄せられ、次の戦争を待つ兵器みたいに黙っていた。
護衛と侍女は観客のくせに顔が赤い。
勝ってもいないのに勝者のように語り、負けてもいないのに負けた人間のように嘆いている。あの熱量は、もはや「見物」ではない。巻き込まれている。
ラディウスは、いつもより肩の力が抜けている。
剣を握る時の指ではなく、少年みたいにサイコロを摘まんで転がす指。運命に祈る顔。出目に一喜一憂して、思わず笑ってしまう顔。――国を背負う者が、ああいう顔をできる瞬間は、そう多くない。
レジーナとアウローラの姉妹は、相変わらず感想戦を続けている。
負けたのに、負けていない。次は勝つという前提で話している。
「魔法の使い所が甘かったわ……次はもっと計算します」
「赤マスを怖がって遠回りするのは、必ずしも正解ではありませんでしたね、姉上」
「……ええ。だからこそ次は――」
負けず嫌いという性質だけ、姉妹で完璧に一致しているらしい。
有羽は、その声を聞きながら、小さく息を吐いた。笑いではない。安堵に近い。
皆が楽しめた。
国の地理も、産業も、数字も、知っている者たちが、現実を忘れるほど夢中になれた。
それはつまり――盤の上の数字が、ただの作り話ではないという証明でもあった。
(齟齬は、少ない)
リアルさがあるからこそ、遊戯は熱を持つ。
もし数字が荒唐無稽なら、途中で誰かが冷める。笑いながらも「嘘だ」と思う。
だが誰も冷めていない。熱中し、悔しがり、次を考えている。
有羽は、胸の奥でそっと答えを出した。
(魔国女王メトゥス・ラウルスリム……うん。良かった。あなたは信用できる)
森の西部で見た姿が、脳裏に浮かぶ。
銀糸のような長髪。淡い紫水晶の瞳。深い森色のローブドレス。
整いすぎた美しさが、逆に警戒を誘う。絵画の中の女王。けれど絵画にはない重さが、彼女にはあった。
米と、カレーのレシピ。
取引の餌は甘く、そして危険だった。
だから有羽は、レシピを即答しなかった。
代わりに、カレーの現物と「ある情報」を交換した。
魔国の経済情報。国の血管を覗くような数字。
本来なら、有羽には無用だ。
森に引きこもる男が持っていても、何の利益も生まない。
どこにも売れないし、誰にも誇れない。脅しにもならない。使い道がない。
だからこそ、差し出せる。
そういう情報だった。
だが、欲しかったのは数字ではない。
欲しかったのは、数字を差し出す相手の手つき。
誤魔化すのか。盛るのか。隠すのか。薄めるのか。
あるいは、まっすぐに渡すのか。
もし、いい加減な誤情報だったなら。
その時点で縁は切れていた。二度と会わない。取引もしない。
無論、嘘を吐くつもりがなくても数字が揺れている場合がある。
だがそれはそれで、魔国の王がその程度だと理解するだけだ。
国を束ねる者が、国の数字をどれほど自分の中に持っているか。
それで王の力量は、だいたい測れる。
――初対面の女王を、その場で信用するほど、有羽は甘くない。
アウローラが何度も何度も何度もやって来て、結界の外で叫び、泣きそうな声で笑い、危険をくぐってなお諦めず――
そうして初めて、彼は扉を少しだけ開けた。
その少しの重さを、他人は知らない。
知る必要もない。
だが有羽は、知っている。
有羽は他人を信用しない。
信用しないことで、自分を保っている。
信用した瞬間、奪われるものが増えるから。
レジーナが賢者が信頼しているのは基本的にアウローラのみと判断したこと。
それは正しい。
例外があるとすれば、アウローラだけなのだ。
(だから今日の遊戯は、試金石)
メトゥスの誠意。
そしてレジーナの誠意。
この家で、盤を広げる理由。
楽しませたい、だけではない。
笑わせたい、だけでもない。
盤は、嘘をつかない。
人は、盤の上でつい本音を出す。焦り、欲、計算、そして――理解の速さ。
レジーナが、あの冊子を見た瞬間に凍ったこと。
それを隠し、笑い、観察し、飲み込んだこと。
そして、最後まで「場」を壊さなかったこと。
その全部が、答えだった。
(取引していいくらいには、信用できる相手だったね)
メトゥスも。
レジーナも。
有羽は窓に目をやる。
夕焼けが差し込んで、床に長い影を作っている。硬貨の玩具の端が淡く光り、地図の線が少しだけ赤く染まって見えた。
この光の中では、すべてが穏やかに見える。
けれど穏やかさは、油断とは別物だ。
彼の警戒心は、癒えてはいない。
閉鎖的で、病的で、しつこい。
森で八年――ただ引きこもっていたわけではない。ただ漠然と森で過ごしたわけではない。
孤独を嗜好として磨き、警戒を癖として固め、距離を生存戦略として身体に馴染ませた。
西部の樹神女帝が、ただ力が強いだけの者を気に入るはずがない。
「強い」は森では当たり前だ。
森で長く生きる者は、強い。
それだけでは、生き延びることは出来ない。
大事なのは、強さの使い方だ。
知識の出し方だ。
距離の取り方だ。
そして、他者の誠意を測るときの冷たさだ。
誰かを信じるとは、手綱を緩めること。
手綱を緩めるとは、いつでも噛みつける牙を、しまうこと。
有羽はまだ、牙をしまいきれていない。
だから微笑む。
穏やかに。柔らかく。
――けれど、それは温度のある笑みではない。
夕焼けの光を浴びながら、彼はただ静かに、次の一手を心の中で並べていた。




