第49.5話・異世界の神様
ランチョンマットを、指先でそっとなぞる。
繊維の密度は高いのに、手の温度は逃がさない。不思議な触感だ。硬いのではなく、詰まっている。布というより、薄い地層みたいな手応えがある。
有羽はそれを眺めたまま、ほんの思いつきのような口調で訊ねた。
「そういえば、海向こうの異国が信仰してる神様って知ってる神様だったの?」
質問自体は軽い。重いのはこの世界における「神」という単語の方だ。
地球で言うところの神様は、概念だったり、信仰の像だったり、あるいは人が作った物語の中心だったりする。
だが、この世界では違う。神は「いる」。それも、わりと生々しく。
有羽の頭に、つい余計な比喩が浮かぶ。
(この世界の宗教の違いって、流派の違いみたいなもんだよな。塩か醤油か味噌か豚骨か──)
そこで思考が止まる。
比較対象として最悪すぎるものを、例えにしてしまった。
(……いや、それ戦争起きるわ。違う違う。例えが悪い。ここでラーメン出すな、俺)
心の中で自分にツッコミを入れている間に、アウローラがあっけらかんと答える。
「ああ、向こうの信仰してる神様は『田園母神セリアナ』様だったぞ。なんでも昔、牛を伴って降臨されたことがあったらしく……それからずっと牛は神様の従者、って立場みたい」
「へー……でも別に、あの神様って牛が特別って訳でもないよね。土と収穫と食卓の神様だし」
「うん。なんなら農耕用の動物が全部セリアナ様の眷属みたいなもんだし……食用の家畜も眷属みたいなもんだし」
アウローラの声は明るいが、端々が危険な単語。
それを感じ取ったのか、有羽は即座に釘を刺す。
「そこは深堀りするな。宗教、深く踏み込まない。これ鉄則。いいね?」
こくこく、とアウローラが頷く。
つられて侍女隊も、控えめに頷く。
レジーナとラディウスは、苦笑いのまま視線を交わし合い、同意の気配を見せた。
宗教の話は、当人たちが語る範囲を越えて踏み込むと、突然大火災になる。
しかもその火災の火種は、相手だけじゃなくこちらの足元にも埋まっている。
だからこそ――知らないふりが最も高度な礼儀になる場合がある。
有羽はランチョンマットを、そっと包み紙に戻しながら思う。
(にしても……セリアナ神、ね。確かこの異世界の『従属神』だったよな……)
知識としては、押さえている。
森に引き籠って八年。人付き合いは壊滅的でも、情報だけは不自然なくらい集まった。アウローラ一行が運んでくる王都の噂、侍女が持ち込む書物、護衛が語る戦場の伝承。
そして何より――西の、暇を持て余した樹神女帝という「生きた図書館」。
この世界には、十柱の「従属神」がいる。
正確には、人々が「上位神」と呼ぶ存在の傘下、あるいはその一角として「機能」している神々だ。
名と司る領域は、おおむね整理されて伝わっている。
戦槌神バルグラント。戦の神。戦場の技術と決断、そして撤くべき時に撤く勇気を司る。
蒼宙海神サルマリエ。海の神。海路と港、潮の気分、そして帰還の祈りを司る。
鍛炎神グラン=ハンマル。鍛冶の神。炉と鉄と、職人の頑固さを司る。
田園母神セリアナ。農の神。土と収穫と、家族の食卓を司る。
詠楽神リュディアス。歌の神。音楽と物語と、場の空気の流れを司る。
火相神フラガリオン。火の神。炎と炉と、破壊衝動を司る。
水相神メルフィナ。水の神。雨と河と、記憶の流れを司る。
風相神ゼフィリア。風の神。移動と変化と、噂話を司る。
土相神ガルドレーン。土の神。大地と鉱脈と、重さを司る。
市場守神メルカヴィ。商業と取引の神。損得の帳尻合わせを司る。
これらは、情報としては確かに存在している。
神官の祈りの言葉にも出てくるし、各地の祭りの由来にも登場する。
神様の話題は、いつだって空気の温度を少しだけ変える。
けれど、アウローラはどこまでも素直で――だからこのログハウスの中だけ、信仰の話が「怖いもの」ではなく「生活の話」として座っていた。
「確か南王国では……一番は、海の神だよねぇ。やっぱり」
有羽が思い出すように言うと、アウローラは胸を張って頷く。
「うん。サルマリエ様が一番信仰されてるな。海と王国は、切っても切れない間柄だ!」
言い切る声が、やけに誇らしげだった。
海を背負って生きる国の王女の声だと、有羽は思う。
ラディウスは笑って、少しだけ補足を添える。
「港町の漁師たちは、船に乗る前に必ず祈りを捧げるしね。サルマリエ様への信仰は、祈りというより朝の挨拶、または契約に近い。やって当然の行いだよ。……それでも他の神々への祈りを否定しない辺り、我が国のことながらおおらかだなと思う」
「色んな交流があったからよね」
レジーナが、茶を口に含んでから続ける。
「海って、嫌でも外の世界と繋がってしまう。だから受け皿も育つの。異国の言葉、異国の布、異国の香辛料……価値のあるものも厄介なものも、全部潮の匂いと一緒に流れ着くでしょう?」
そこまで言って、レジーナは少しだけ苦笑した。
「受け皿の広さが、逆に海向こうの異国とは相性が悪かった……皮肉ね。こちらは色々あるのが普通でも、相手は守るべき型がある」
アウローラがうんうんと頷く。
侍女隊も、どこか苦い顔で同意する。あの晩餐会の一件は綺麗に片付いたぶん余計に、紙一重の恐ろしさだけが記憶に残っているのだろう。
有羽は指先で机を二回軽く叩く。
「海の神、って言うとさ。恩恵の神ってイメージがあるけど……実際は違うんだよね?」
問うと、ラディウスは頷いた。
視線が遠くなる。港の風景を思い出している顔だ。
「サルマリエ様は、海の優しさを保証しない。保証するのは、もっと現実的なものだ。帰るべき船が帰る可能性と、帰れない船が帰れない理由。……慈悲というより、審判官に近い」
言葉が淡々としているのに、内容は重い。
海の神が、海そのものの性格を宿すならこうなるのだろう。
レジーナが、その「重さ」を薄く笑って受け流すように言った。
「気まぐれに見えるけれど、筋は通っているのよ。荒れる日は荒れる。凪ぐ日は凪ぐ。人の都合に寄り添うとは限らないけれど、理不尽に蹴落とすわけでもない。……ただし」
そこで、笑みがほんのわずかに深くなる。
上品なまま、妙に怖い。
「見栄の借金の取り立てに、海は厳しいので」
有羽は反射的に、ランチョンマットを抱え込むようにしてしまった。
借金取りの話に弱いわけではない。弱いはずはない。
ただ、海の借金取りは破落戸より怖そうだ。
「……それ、具体的にはどういう祈りが見栄の借金になるんだ?」
有羽が半ば恐る恐る聞くと、レジーナは指を折って数える。
「サルマリエ様への祈りは、大きく分けると四つね。帰還の祈り。航路の祈り。野心の祈り。虚栄の祈り」
彼女はそれぞれを、まるで帳簿の項目みたいに端正に並べた。
「帰還の祈りは、生きて帰りたい。航路の祈りは、商いを通したい。ここまでは比較的通りやすい。……問題は、野心の祈りと虚栄の祈り」
ラディウスが、肩を竦めて補足する。
「勝ちたい、奪いたい。見栄を張りたい。格好をつけたい。名声を得たい。……そういう祈りは、通るときは通る。運が良ければね。でも大体、高くつく」
「高くつく、の意味が怖いな……」
有羽がぼそっと呟くと、レジーナは「怖いの」と同意して、軽く頷く。
「港には、祈りが叶った人がいる。だから皆祈る。でも同じくらい、祈りが叶いすぎた人もいるの。虚栄で船を出して、虚栄で酒樽を積んで、虚栄で旗を増やして――そして帰ってこない。戻ってきても、旗だけ戻る」
淡々と語られるのに、妙に生々しい。
有羽は思う。これはきっと、レジーナが実際に見た「貴族の海の失敗談」だ。
外交官は、成功譚より失敗譚をよく覚えている。次に同じ穴へ落ちないために。
話が重くなりすぎる前に、ラディウスが話題を「作法」へ移した。
海の神の信仰が、南王国では祈りというより契約に近いという話。
「船出前は、船首に神官から貰った塩と酒をかける。これは海へ「借りる」印だね」
「借りる?」
「借りる。航路の安全を、港の機嫌を、波の許しを。……で、帰港後に同じ量を神官に返す。借りた分を返す。これが基本。コップ一杯とか塩一つまみとか、そんな量だけれどね」
有羽は、思わず笑いそうになった。
契約と帳尻合わせ。なんだそれ。神様というより商会の会計だ。
だが、海を相手にするなら、むしろその方が筋が通る。
ラディウスは、もう少し細かい話に踏み込む。
「護符も面白いよ。乾いた布じゃなくて、わざと潮に濡らして干した紐を結ぶ。海の一部を持ち歩くという発想だ。船乗りたちはね、乾いたものは嘘をつくって言う」
「それ、迷信っぽいけど……妙に説得力あるな」
有羽が頷くと、アウローラが「港の古い爺さん達がよく言う!」と元気に乗ってくる。
「潮で濡らして干した紐は、船の梁に結ぶんだ。あと、新しい船の初出航の時は、船底を撫でながら祈るんだぞ。船に名前をつけるのも、サルマリエ様の神像前でやる」
「名前つけるのが神前……それはまあ、分かる。名付けは重要だもんな」
有羽がぼそっと言う。
名を持つと、世界に引っかかる。
それは魔法でも同じだし、物語でも同じだし、現実でも同じだ。
レジーナが、禁忌の話を受け取って繋ぐ。
「禁忌もあるわ。よく破られるけれど」
そのよく破られるに、アウローラが気まずそうに視線を逸らした。
多分、破った人を何人か知っている。あるいは、見送ったことがある。
「海上で虚偽の誓いを立てる。難破者の荷を奪う。帰還祈願をしておきながら、帰る気のない出航をする」
レジーナの声が少しだけ硬くなる。
「これ、神様は嫌う。すごく嫌うわ。……帰還の祈りは「帰る意思」が前提だから。意思が無いなら、契約違反でしょう?」
ラディウスも、深く頷いた。
「船乗りたちは言うよ。サルマリエ様は、嘘が嫌いだって。波は揺れても誤魔化せないからね」
有羽は、茶を飲み干した。
渋みが喉に残る。変な話だが、その渋みが「現実」に引き戻してくれる。
「……なるほどなぁ。海って、ほんと生活そのものだな」
「そう。だからサルマリエ様は国民神に近いのよ」
レジーナが、ここで少しだけ話題を広げる。
海が主でも、他の神が消えるわけではない、と。
「港湾部は特に濃いけれど、船の部材を作る鍛冶師はグラン=ハンマル様に祈るし、商会はメルカヴィ様に帳尻を頼む。海軍の古株はバルグラント様に戦の冴えを求めることもある。……皆、使い分けるの。都合が良いと言えばそうだけれど、現実ってそういうものよね」
「現実ってそういうものだよね」
有羽は、何となく同意してしまった。
現実は理想通りに回らない。だから人は、複数の祈り先を持つ。
そして祈り先が複数ある国は、だいたい強い。
そこでレジーナが、にこりと笑って「提案」を差し込む。
「賢者様。もしご興味があれば、我が王国の港へ。祈りの作法も、潮の護符も、実際に体験できますよ?」
声は優しい。表情も柔らかい。
だが、有羽は分かる。これは外交官の笑顔綱引きだ。
こちらが一歩でも踏み出したら、次の一歩の石がすぐ置かれる。
「いえいえ大丈夫です。森の引きこもりは、海に用事がありませんので」
有羽も同じ笑顔で返す。
綱は緩めない。
「まあ。海の神のお話を、これほど興味深く聞いてくださったのに?」
「興味はある。でも行かない。行ったら色々面倒になる予感しかしない」
あっさり言うと、レジーナが楽しそうに目を細めた。
「面倒が嫌いなのに、どうしてそんなに面倒な知識をお持ちなのかしら」
「面倒が嫌いだから、事前に面倒を避ける知識が必要なんですよ」
有羽が涼しい顔で言い返すと、ラディウスが堪えきれずに吹き出した。
侍女隊も、堅い礼儀の境界の内側で、笑いを飲み込むのに必死な顔をする。
アウローラだけは、純粋に感心していた。
「なるほど! 面倒を避けるための面倒な知識!」
「その理解、正しいんだけど正しくないんだよな……」
有羽は頭を押さえた。
わんこの素直さは、たまに鋭い。たまに痛い。
レジーナは、最後にもう一度だけ、港の誘いを軽く置く。
「港へ来なくても良いの。せめて、海の風を一度嗅いでみるだけでも。……森に海があると聞きましたけれど、それは「海の形をした何か」でしょう?」
有羽は、心の中で「当ててくるなぁ」と唸った。
森の小さな海。見た目は湖で、匂いは磯で、味は塩辛い。海の成分そのもの。
だが、港の海とは違う。人の営みが乗っていない海は、別物だ。
「……まあ、そのうち気が向いたら。多分、百年後くらいに」
適当に逃げると、レジーナは「百年後でも構いませんわ」と引かない。
有羽は苦笑した。綱引きが続く音がする。笑顔のまま、ぎりぎりと。
その横で、アウローラがふと、思い出したように手を挙げる。
それは第二王女の「素直すぎる一撃」。
「なあ、有羽は……なんの神様を信仰してるんだ?」
その問いは、矢のように真っ直ぐで、裏がない。
だからこそ、刺さる場所に刺さる。
レジーナは心の中で、静かに拳を握った。
よくやったわ、アウローラ。今のはすごくいい。
外面は崩さない。微笑みも崩さない。けれど内心では、社交界で見せないガッツポーズが決まっていた。
――この森の賢者の輪郭。
技術、性格、嫌うもの、求めるもの。
どれだけ丁寧に礼を交わしても、どれだけ穏やかな会話を重ねても、最後は「根」の部分を掴まなければ、交渉は水面下で漂うだけ。
信仰は根だ。思想の背骨だ。価値観の起点だ。
そして同時に、有羽にとっては一番答えづらい質問でもあった。
(……信仰、ね)
有羽は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
苦い顔――というほどではない。だが、ちょっと噛み砕きづらい飴玉を口に放り込まれた顔になった。
地球生まれの少年は、どの神も信仰していない。
正確には――信仰という形で「特定」をしてこなかった。
神社に行けば手を合わせる。墓前で祈る。道端の地蔵に目礼する。
けれどそれは「この神に帰依する」というより、暮らしの端々に宿る気配へ頭を下げる感覚だった。
八百万の神。
万物に宿るものへの畏れと、礼。
この世界の「実在する神々」の体系に、そのまま載せるには、危うい。
説明すれば説明するほど、余計な線が増える。線が増えれば、引っ張られる。
とくに今は、第一王女が目の前にいる。
レジーナの微笑みは柔らかい。
柔らかいが、視線は刃物の背に似ている。斬らない。けれど逃がさない。
ラディウスもまた、剣の人らしく静かに見ていた。彼は「攻め」ではない。だが「守り」の人間は、相手の嘘に敏い。
侍女長マルガリータは、さらに静かだった。
傍に控えていながら、部屋の空気の変化だけを読む顔。
アウローラだけが、いつも通りだ。
疑問は疑問として、まっすぐに待つ。
(……まあ、こういう時は「嘘をつかない嘘」だな)
有羽は、頭の中で世界をひとつだけ並べ替える。
この世界で、彼の気質――技術、作り方、理解の速度、そして「作りたがる癖」を一番それらしく包む名。
異世界の人々が聞いても受け入れやすく、それでいて余計な追及が発生しづらい神名。
有羽は、視線を上げて言った。
「……俺はそうだなぁ。探求神スキエンティア様、だな」
その一言で、場にふっと納得の息が広がった。
木が風に撫でられるみたいに、さわ、と。
「スキエンティア様……なるほど、納得だ」
アウローラが、まるで長年の疑問が解けた子供みたいに頷く。
「有羽の作ったものを見れば、これほど納得できるものはない!」
探求神スキエンティア。
知性と才能、創造と研究、工夫と発明――「何かを生み出す行為」そのものを祝福する女神。
職人、鍛冶屋、学者、魔導研究者、料理人、医術師。
創作と研究に関わる者なら誰もが一度は口にする名。
従属神のさらに上――上位神の位に属する、五柱の大いなる存在。
とはいえ一般の人々にとっては、従属神も上位神も同じ「天上の神々」だ。
村人からすれば、貴族も王族も「遠い上の人」なのと似た感覚で、区別を強調する方がむしろ不敬になる。……それどころか、厄病神扱いされてる上位神がいるくらいで。
だから場に漂ったのは、反発ではなく納得と尊敬だった。
侍女隊も小さく頷く。
うどん。寝袋。化粧品。結界石。
そして今このログハウスの中に当たり前のように存在する、湯と熱と快適さ。
彼らにとって、有羽のやっていることは「奇跡」ではなく「創造」に見える。
神官が祈りで降ろすものではなく、職人が手で作るものに近い。
ラディウスは、少しだけ目を細めた。
「学者や職人、魔導師だけでなく……料理人や医術師も、よくスキエンティア様の名を口にする。創作や研究を行う者すべての守り手……確かに、賢者殿の在り方に合っている」
言葉が丁寧だが、そこには「確認」がある。
――その神を選ぶのなら、あなたは探求の人だな?
――探求の人なら、こちらは交換を提案できる。
レジーナはにこやかに頷き、同意の形だけを出した。
「ええ……とても自然な答えですわ。賢者様の手から生まれるものは、どれも「知」と「工」の結晶。スキエンティア様の名は、しっくりきます」
その声は柔らかく、褒め言葉そのものだ。
だがレジーナは、褒めているだけではなかった。
有羽が言ったのは俺は。俺の国はではない。
その差に気づいたのは、レジーナとラディウス、そして侍女長マルガリータだけだった。
三人とも、表情を動かさない。
動かさないのが、宮廷の強さだ。
(……国の信仰を語れない。あるいは、語らない)
レジーナは内心で、いくつかの可能性を並べる。
異国人。亡国の者。漂泊の学徒。
あるいは、宗派が混ざりすぎた土地の出身者。
どれもあり得る。どれも今は断定しない。
ただ、ひとつだけは確かだ。
彼は「個人」の信仰で語った。
王族が「国」で語るのとは真逆の方向だ。
その瞬間、レジーナの脳裏にもう一つのスキエンティアが浮かぶ。
文明形成期から信仰が確認され、古代遺跡に碑文が残り、学都の塔の頂上に紋章が刻まれ、職人が槌を振る前に名を唱える――この世界で最も親しまれる神のひとつ。
だが、王族は「光」だけを習わない。「影」も学ぶ。
文明崩壊の跡地。
焼けた石床。
錆びた歯車。
毒のような霧が残る谷。
そういう場所にも、同じ碑文がある。
――探求が過ぎた証拠。
賢者や歴史家は、よくこう言う。
『スキエンティアの加護は光だが、背後にはかならず影が生まれる』
創造と探求は、必ずしも善を生まない。
技術は、便利さと同じ速度で武器にもなる。
環境を削る。
労働を縛る。
思想を閉じる。
軍事に変える。
そして偶然生まれた危険な技術が、流出する。
レジーナの視線は、有羽の手元へ流れる。
その手は、茶碗を持つだけの手に見える。
だが同時に、世界の形を変える道具を作る手でもある。
(ある意味……正しい探求神の信徒)
彼は、森に引きこもっている。
それは逃避ではなく、封印でもあるのかもしれない。
――自分が生み出せるものを、自分が一番理解している。
――理解しているからこそ、外へ出さない。
――出せば壊れると、知っている。
だから森にいる。
だから「賢者」なのだ。
そんな輪郭が、薄く、しかし確実に浮かび上がってしまう。
レジーナはそれを口にしない。
ここで言えば、綱引きが綱引きではなくなる。
有羽の「警戒」を一段階上げてしまう。
代わりに、レジーナは微笑みだけを深めた。
「……素敵なお答えですわ。賢者様」
それだけ。
それだけで、十分だった。
アウローラは、話が難しくなったことに気づかず、純粋に嬉しそうに頷いている。
「やっぱり有羽は、そういう神様だよな!」
「……そういう神様って何だよ」
有羽が苦笑して肩を竦めると、アウローラは首を傾げた。
「え? すごいの作る神様!」
「雑だなぁ……」
ラディウスが小さく笑い、侍女隊の緊張も少しだけほどける。
マルガリータだけは相変わらず静かだが、その静けさの質が変わった。
観察の静けさから、警戒の静けさへ――ほんの少し。
そして、有羽は心の中でだけ、小さく息を吐いた。
(……スキエンティア様。名前だけ借りた。ごめん。あと、余計な「加護」はいらないからね。ほんとに)
適当な祈り。
けれど、今の有羽にとっては割と本気の祈りだった。
この森で、静かに。
余計なものに触れずに。
嵐を呼ばずに。
それが叶うかどうかは――探求神よりも、目の前の第一王女の微笑みの方がよほど現実的な試練に思えたのだった。




