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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第三章

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第42話・帰宅する隠者


 有羽とメトゥスの話し合いは、ひとまずの決着を見ていた。


 女帝のオアシス、その木陰。

 簡素な卓の上には寸胴鍋が一つ――半分ほど、中身を残したまま鎮座している。

 カレーの海は、なおも濃厚な香りを放ち、熱気とともに空気をくすぐっていた。

 その鍋の前で、メトゥスはまだ釈然としない顔をしていた。


「本当に……『ソレ』が、有羽様の求めるモノなのですか?」


 問いには純粋な困惑と、ほんのわずかな警戒が入り混じっていた。

 さきほど、有羽が条件として望んだ「何か」。

 それは物品でも、財貨でも、土地でもない。


 魔国のとある情報だ。

 扱いを誤れば国を揺らしうる。しかし魔国と王国との関係性、そして有羽と王国の王族との付き合いを考えれば、時間さえかければ必ず手に入る種類のものでもある。

 決して、米と引き換えなければ得られない秘中の秘――という訳ではない。

 メトゥスとしては、どうにも腑に落ちていなかった。

 対する有羽は、どこか肩の力を抜いた笑みを浮かべた。


「これで合ってるよ。それに重要度で言えば、間違いなく大事だし」

「ええ。渡した情報なのが「重要」なことなのは私も理解しています……少なくとも、有羽様でなければ容易く渡すことは出来ません」

「でしょ?」


 そう言って、鍋の縁をとんと指先で弾く。


「だから俺個人としては、カレーの残りで交換しちゃうのが申し訳ないくらいだったりするけど?」

「……カレーは魔国に無い、新しい料理の概念です」


 メトゥスはきっぱりと言い返した。

 指先で耳の先を軽く押さえながら、真摯な眼差しを向ける。


「香辛料が名産の我が魔国で、新たな名産品が産まれる可能性を秘めたもの。重要度はこちらの方が高いかと」

「ま、その辺はお互いの認識の違いってことで、ひとつ」


 有羽は、肩を竦めて笑う。


「それにさ、俺から言わせてもらえば、カレーはそんな簡単に盗める味じゃないしね」


 彼は握りこぶしをひょいと掲げて、空中でくるりと回してみせた。


「配分、比率、種類……全部当てられる人が居たとすれば、もう完敗だ。素直に負けを認めるよ、その時は」


 冗談めかした軽口。

 だが、その底には奇妙な自信がある。

 この世界にはまだ、スパイスの組み合わせを突き詰めた職人などいない。

 一皿のカレーから、使われた香辛料の種類と比率を寸分違わず言い当てられるような、狂気じみた舌も、積み上げも、存在していない。

 ――少なくとも、今のところは。


「……どのような結果になるにせよ、『米』の準備はしておきます」


 メトゥスは小さく頷き、言葉を続ける。


「有羽様のお求めに、いつでも応える事ができるよう」

「それ、本当に助かる。マジでありがとう」


 有羽の顔に、さっきまでとは質の違う、真剣な安堵が走る。

 冗談でも大げさでもなく――彼にとって米は、魂に近いところを抉る問題だった。


「……ああ、コメ、コメ、コメェェェェ……」

『メェメェメェメェ喧しい。山羊かお主は』


 女帝の木人形が、伸ばした枝でぺしん、と有羽の頭上を軽く叩く。

 有羽は反射的に片手を上げ、その枝先を「ぺしん」と払いのけた。

 間髪入れず、別の枝が延びてくる。


 それも弾く。

 さらに増える枝。

 ぺしぺし、ぺしぺし――


「ああ、さっきから鬱陶しい!! なんだ!? やるか!?」

『お? そっちこそ? やるか?』


 二人は何故か向かい合って、じりと距離を詰め――

 有羽は肩を回し、足を引き。

 女帝の木人形は、枝をぐわんと広げる。

 どう見ても、上位存在二柱の喧嘩前。一触即発のファイティングポーズ。

 ただし、内容は完全に子供の口喧嘩である。


「お、御二人とも、その辺で……」


 メトゥスは、額にじっとりと汗を浮かべながら、そっと間に声を差し挟んだ。


「私の心臓が、持ちません……」


 最後の一言は、ほとんど独り言のように小さな声で。

 こめかみがずきずき痛む気がする。


(この二人が本気でやり合ったら……国どころか、大陸の形が変わるかもしれない……)


 それが誇張ではないと理解しているからこそ、笑い話にならない。

 有羽は「ちぇっ」と舌打ちじみた音を立てて、ふいと背を向けた。


「はいはい冗談冗談。こちとら、まだ死ぬつもりはないんでね」

『まあ、今日のところはやめておいてやろう』

「いや、やめるのは俺の裁量なんだけどね?」

『何を言う。こっちの台詞じゃ……ま、我もまだ眠るつもりはないでな』


 女帝も、あっさりと枝を引っ込める。

 その気楽さが、逆に恐ろしい。

 世界を終わらせる喧嘩をするつもりも、今は無い――というだけの話なのだ。

 場の空気が少しゆるんだところで、有羽は大きく伸びをして、肩の筋をほぐした。


「さて、と。そろそろ帰る準備するかな」


 背負っていた特製背嚢を調整し、空になった水筒をひっくり返して確認する。


「女帝さーん。水貰ってくよー」

『おう。好きに持っていくが良い』


 気軽なやり取りを交わしながら、澄んだオアシスの水を、水筒に入れていく有羽。

 この光景を、魔国の重鎮が見たら卒倒すること間違い無しだ。

 カレーの寸胴鍋は、先ほどの約束通り、卓上に置いたまま。

 鍋の内側に、ゆっくりと黄色い油膜が浮かび上がり、夕陽の赤と混ざってきらきら光っている。

 次の西部訪問をいつにするか――有羽が、頭の中の予定表を組み直そうとしたその時だった。


『隠者』


 女帝が、不意に名を呼ぶ。


「ん?」


 振り向いた瞬間。

 緑色の宝玉が、ふわりと宙を舞った。

 とっさに、有羽は手を伸ばす。

 丸いそれは掌に収まり、ひんやりとした感触と共に、内部からぼんやりとした光を透かしていた。

 押し固められた光と樹の気配が、まるで心臓の鼓動のように、かすかに脈動している。


「なにこれ?」

『魔力を込めてみよ』


 女帝の木人形が、どこか得意げに顎をしゃくる。


『以前、お主が言っておったであろう。『てれびでんわ』とかいう、よく分からぬ代物を』

「あー……あれ?」


 有羽は、一瞬だけ過去の会話を思い出して頭を掻いた。

 日本で、スマホ越しに見たビデオ通話。離れた相手の顔が表示され、声がリアルタイムで届く技術。それらを、ぽろっと女帝に話したことがあった。

 電波塔だの、画素だの、回線だの。

 女帝が「ふむふむ」と、興味半分・遊び半分の顔で聞いていたのを覚えている。


「いやいやいや、まさか本当に作るとは……」

『作ったぞ』


 女帝は、誇らしげに胸――の位置にある樹の節をとんと叩く。


『試してみよ』

「はいはい」


 有羽は、宝玉を両手で包むように持ち、そっと魔力を流し込んだ。

 次の瞬間――

 世界の色が、ぐわりと濃くなる。

 メトゥスの視界に、眩い緑の光が爆発した。


「……っ!」


 思わず目を細め、片腕で顔を庇う。

 魔導師としての感覚が、即座に警鐘を鳴らす。


(濃度が……おかしい)


 凝縮された魔力の奔流。

 普通の魔導師が一生をかけても練り上げられないほどの密度の魔力が、一点に集められ、宝玉の中心で渦巻いている。

 有羽の側も、女帝の側も、それを当たり前のように受け止めているが――


(今の一瞬だけで、魔導師百人……いや千人分はありましたよね……?)


 腰が抜けそうな感覚を、メトゥスは必死に飲み込んだ。

 やがて、目に刺さるような光は静まり、宝玉の表面に淡い像が浮かび上がる。

 それは、オアシスの別の一角。

 豊かに伸びた樹々の枝。

 木漏れ日。

 そして――同じような宝玉の前に立つ、別の女帝の木人形。


「うお!?」


 有羽が、目を丸くする。


「すげー……おお、マジで動いてるじゃん!」


 宝玉の表面に浮かび上がった像は、平面ではない。

 立体感を帯びた、半透明の樹の姿が、空中に浮かんでいる。

 角度を変えれば、見える枝ぶりも変わる。

 まさに、空間そのものを切り取って繋いだような「窓」だった。

 そこから、女帝の声が響く。


『どうじゃ? そちらからも我の姿が見えておろう?』

「見えてる見えてる。立体映像までやってのけるとか何それ、怖。え、なにこれリアルタイム!?」

『うむ。こちらの宝玉から見える景色も、そちらの宝玉から見える景色も、我の本体を通じて繋いでおる。少々ラグはあるが、会話に支障はあるまい』

「ラグとか言い出すあたり、もう色々諦めるしかねぇな……って俺の顔も見えてるの?」

『当然であろう。ここから見れば、お主の顔もそのまま見えておるぞ』

「へぇ、すげぇ。――あ、今、顔変な角度になってない? ちゃんとイケメン補正入ってる?」

『補正の必要は無かろう。お主、十分に人の形はしておる』

「微妙にディスってね?」


 呑気な口調のまま、つまらないことで口喧嘩を始める二人。

 だが、その実用性は、魔国女王の目から見ても背筋が寒くなるほどだ。

 メトゥスは、ただただ呆然と、その「会話の窓」を見つめる。


(……この技術……)


 森の別の場所と、顔を見ながら会話ができる。

 距離も、魔力の減衰も、障害物も――ほとんど関係ない。

 それはすなわち、戦場の前線と本陣を、伝令なしに繋ぐことができるということでもある。

 しかも、有用なのは戦場だけではない。


(これがあれば……国同士の使者を行き来させずとも、直接やり取りが――)


 瞬時に、外交上の応用が頭をよぎる。

 山脈を越えさせる必要がない。森を抜ける必要も、海を渡る必要もない。

 ただ、こうして宝玉越しに、相手の顔を見て言葉を交わすだけでいい。


 王宮と遠地の砦。

 魔国と他国。

 使い方次第では、世界の軍略と外交を根底から変えかねない技術だ。

 それを、たった一つの宝玉に封じ込めている。

 世界のどこにも存在しない、異様な魔道具。

 だが、当の二人は――


『これで我と隠者は、いつでも対話が可能ということよ』


 女帝の木人形は、実に満足げな表情で言った。


『暇になったら、此方からも連絡するでな』

「おい!」


 有羽が、素で叫ぶ。


「こっちにも生活ってもんがあるんだからな!? 夜中とかにかけてくんなよ!? 早朝とかも駄目だかんな!」

『けちけちするな。減るものでもなし』

「減るの! 色々と! 睡眠時間とか、心の準備とか!」


 有羽は、宝玉を軽く振りながら抗議する。

 宝玉の中の女帝が、それに合わせて「ぶるん」と揺れるのが妙に面白い。


『女々しい男よ。些細なことでぐちぐちと』

「些細じゃねぇ! 女帝さんだって休憩中とかに声かけられたら嫌だろ!?」

『そらもう、蔓を伸ばして締め上げるが?』

「だったら俺の生活も考えろ! このマネキン!!」


 ぎゃあぎゃあ。

 人の領域を越えた存在同士の会話とは思えない、実に人間臭い言い合いが続く。

 メトゥスは、ただ呆然とそのやりとりを眺めていた。


(……これで、「いつでも繋がる」のですか)


 森の真なる守護者と。

 森に棲む、もう一柱の怪物と。

 そして、その「窓」が、今は自分の目の前にある。


「……でもまあ、いいや」


 しばらく愚痴をこぼした後、有羽は諦めたように肩を落とし、それでも少し楽しそうに笑った。


「じゃあこれ使って、行くときになったら連絡するね。そうすれば女帝さん経由でメトゥスさんにも伝わるだろうし」

『ぬ? 我を中継するでない』


 女帝が、むっとしたように枝を揺らす。


『我は森の主ぞ。伝言板ではないわ』

「いいじゃないの。それこそ減るもんでもなし」

『減るわ。我の威厳が』

「え? あるの? 威厳?」

『お主な……我は魔国の創立から見守る樹であるぞ。そりゃあるに決まっておろう』

「でも女帝さん。アンタ、基本的に森から離れないで姿見せてないんでしょ? 多分無いよ。威厳」

『……我、威厳無いのか?』

「そういうのは、ちゃんと民草の前に出ないと得られないから……俺だって森に引きこもってるから、偏屈な森の賢者ポジションだし」

『そうかー……我、隠者と同じ扱いかー……』

「だからさ。何でさっきから、微妙に俺をディスるの? ねぇ?」


 宝玉から映し出される立体像の前で、賢者と女帝は好き放題に言葉を投げ合う。

 どこかの酒場の常連同士の掛け合いと言われても信じてしまいそうな空気。

 その中心に、世界の均衡を左右しかねない力が二つ。


(……この二人は、本当に「そこ」に留まってくれているのですね)


 メトゥスの胸中に、かすかな戦慄と、奇妙な安堵が同時に湧く。

 女帝は森から離れない。

 有羽は森の中に引きこもっている。

 だからこそ、今の世界の形はかろうじて保たれているのだろう。

 もし、この二人が揃って外へ出る日が来たら――その時、大陸はどうなってしまうのか。


「……とりあえず」


 有羽は宝玉をくるりと指先で回し、そのまま内ポケットの奥にそっと仕舞い込んだ。


「これで、俺から女帝さんに『次行くよー』って連絡できるし。そうすりゃ、女帝さんからメトゥスさんにも『賢者が行くぞ』って伝えられるでしょ。取引の続きとか、米の段取りとかさ」

『……ふむ』


 女帝は、再び見えない胸をとんと叩く仕草をする。


『まあ良い。今のところ、我もお主と女王のやり取りを見ておくのは嫌いではない。枝の成長を見るのは楽しみだからな』

「枝扱いしないであげて。国なんだから」

『国も枝ぞ。長く伸びすぎれば折れるし、腐っておれば切り落とす』

「……程々にしておいてやりなって」


 有羽はちらりとメトゥスを見やる。

 彼女の背筋が、ほんの少しだけ強張る。

 それでも、瞳の中の光は消えない。


(そうだ……私たちは「枝」)


 女帝の言葉は、残酷なまでに正しい。

 森にとっての価値を見失えば、容赦なく剪定される。

 だからこそ。


(私は、この国を「切り落とすには惜しい」と思わせなければならない)


 魔国は、香辛料の宝庫だ。

 だが、それだけでは足りない。

 森の賢者と、新たな技術と、米。

 すべてを繋ぐ線の上に、自国を置く必要がある。

 メトゥスは、静かに息を吸った。


 そして、改めて有羽を見る。

 強大な力を持った、女帝の同格存在。

 他を圧倒する力を持ちながら、こちらと交渉しようとしてくれる人間性。


 ――人の形をした怪物は、それでも良識と良心を失くしていない。


 そこにこそ、付け入る隙があり。

 そこにこそ、救われる余地がある。


「……では、有羽様」


 メトゥスは、一歩前に進み、改めて丁寧に頭を下げた。


「本日は、貴重な時間と料理をありがとうございました。魔国としても、全力で『米』の準備を進めます」

「うん。よろしくね、メトゥスさん」


 有羽は、いつもの気の抜けた笑みで返す。

 その笑みの裏に、さきほど交わした「秘密の条件」がひっそりと息づいていることを、この場の三人だけが知っていた。

 有羽は、女帝とメトゥスに軽く手を振り――


「じゃ、またそのうち」


 そう言って、森の空を見上げる。

 風が、静かに吹いた。

 緑の海の上、枝葉の隙間から差し込む光の向こうへ――

 森奥の隠者は、再び自分の住処へと帰っていった。





 ◇◇◇





 風が、ひとつ尾を引く。


 樹々の梢をなぞり、香辛料の残り香をさらい、湿った土の匂いへと混ぜ込んで――そのまま南へ、一本の見えない道を引いていく。

 世渡有羽の姿は、その道の先で、ひどくあっさりと小さくなった。


 最後に一度だけ、有羽が肩越しに振り返った気がした。

 そこには、樹神女帝の分身である木人形がいる。樹皮の肌に、深い緑の瞳。根を張る者の揺るがぬ気配。

 その隣に、銀髪のエルフの女王が立っている。アメジストの瞳はまだ熱を孕み、辛味で火照った頬が、ほんのわずかに色気を帯びて見えた。

 有羽は何も言わない。

 ただ、風が軽く鳴り、次の瞬間には森の影へと溶けた。


 ……見えなくなるまで、数呼吸。

 それでも、空気の『重さ』だけがしばらく残った。

 深海の水圧が、陸に滲み出しているみたいに。

 メトゥスは、喉の奥に残った香辛料の余韻を、静かに飲み下した。

 辛い。熱い。なのに――この熱は、恐怖の熱に似ている。


 落ち着け、とメトゥスは自分に命じた。

 自分は女王だ。魔国随一の魔導師と呼ばれることもある。

 恐怖に飲まれて膝を折るのは、似合わない。


 ……それでも。

 メトゥスには、有羽の『輪郭』が見えてしまった。


 底すら見えない深海に揺蕩う、壊れた残骸。

 その残骸が継ぎ接ぎのまま、動き続け、深海を操っている。

 人の心を容易に食いつぶす、途方もない知識の海を手中に収めて。


 とても、人の精神構造とは思えなかった。

 規模が違う。密度が違う。

 彼は「人の形」をしているだけで、本質は何か別のモノにしか見えない。

 その輪郭は、樹神女帝のそれと、同位相に触れていた。

 同格――あるいは、同じ棚に置かれるべき上位存在。


 もし戦えば。

 勝てる、勝てない以前に、戦いとして成立しない。

 そう理解できるのは、理解してしまうのは、恐ろしい。


 メトゥスは唇を開きかけた。けれど、言葉が喉の途中で引っかかった。

 正体を問うことが、無遠慮な手を深海へ突っ込む行為に思えてしまったのだ。

 だから、問いは形を変える。

 遠回しに。なるべく柔らかく。


「……女帝陛下。彼は、一体……」


 声が、わずかに震えた。

 自分でも分かるほどに。

 女帝は、木人形の首を傾けた。

 その表情には、警戒も緊張もない。

 むしろ――穏やかな親しみだけがあった。

 そして、実ににこやかな笑顔で、女帝は言った。


『うむ。中々に健気な芽よ。あやつが、森の南部の番人じゃ』


 番人。

 その単語が、メトゥスの背筋を撫でた。

 森の南部の番人。つまり、南の大国と森の境界を、あれが()()()()()()ということだ。

 この森を、国境線の外に置いてきた世界の仕組みが――今日、形を持って現実味を増した。


 メトゥスは、息をするのを忘れそうになった。

 女帝が見えていないはずがない。

 自分が捉えた有羽の「輪郭」を、女帝は当然のように捉えているはずだ。

 女帝の知覚領域は、メトゥスのそれを遥かに凌駕している。

 分からないはずがない。

 女帝も、あの無惨な残骸を見ているはずだ。

 壊れ果てた人の果てが、それでも動いている様を――理解しているはずだ。


 それなのに。

 それを見てなお()()と評するのか。


 メトゥスは、背中の内側で冷たい汗が流れる感覚を覚えた。

 自分の「恐怖」が、女帝の「慈しみ」と決定的に噛み合っていない。


(……やはりこの方は……我々とは価値観が、違い過ぎる……)


 断言できる。女帝に悪意はない。

 本当に、有羽に対して親しみしか抱いていない。

 近所の友人。

 少し口の悪い、けれど手のかかる後輩。

 あるいは、歳の離れた弟。

 そんな、あたたかい情を向けている。


 ――残骸のまま、蠢くように生きているものへ。


 女帝の時間は、万年単位で流れる。

 苦痛の形が違う。壊れ方の尺度が違う。

 だからこそ、あれは女帝にとって「苦しくとも懸命に生きる一個の生命」なのだろう。


 メトゥスは、喉の奥で小さく唾を飲み込んだ。

 今、自分は笑うべきなのか、頭を下げるべきなのか、黙るべきなのか――判断がつかない。


 女帝はというと、木人形の指先で空中を軽く弾いた。

 その拍子に、風がひゅるりと鳴る。まるで、森が相槌を打ったみたいに。


『お主、怖い顔をしておるぞ。辛味が強すぎたか?』

「……いえ。料理は、素晴らしく……」


 メトゥスは反射的に答え、次の瞬間、自分の返答がずれていることに気づいて顔の筋肉が引きつった。

 違う。聞きたいのは料理の配合ではない。

 だが、女帝にとって()()()()は、そこなのだ。

 メトゥスは震えを押し殺し、王としての声色に戻そうとした。


「女帝陛下。あの者と……これから、我らは長く関わることになりますか」

『うむ。米も香も、縁も根も、伸びれば絡む。絡まれば、切るより結ぶ方がよい』


 女帝は当然のように言う。

 切るより結ぶ。

 それは、樹の論理だ。

 枝を折れば傷が残る。ならば添え木をして、また伸ばす。

 森はそうやって千年単位で姿を変える。


 だが、人の国は違う。

 結んだ縄は、いつか首を絞めることもある。


 メトゥスの脳裏に、さきほどの交渉が蘇る。

 米と、カレーと、情報。

 等価交換のようでいて、どれも「等価」と呼んでいい代物ではない。

 しかも相手は――深海そのものに見える番人。


(慎重に、動かねばならない)


 気を緩めることなく話をしなければならない。

 取引の形を整え、礼を守り、王としての線を引き、同時に――あの者の逆鱗に触れないように。


 恐怖は、理性の裏に畳み込む。

 見せてはいけない。悟られてはいけない。


 彼の怒りに触れたら。

 きっと魔国は消えてなくなる。

 女帝が居ても変わらないだろう。

 戦いの余波に巻き込まれるだけで――跡形もなく消える。


 メトゥスは、視線を南へ向けた。

 もう、有羽の姿はない。

 ただ、風の道だけがほんの少し名残惜しそうに、森の葉を揺らしている。

 女帝は、ふと笑った。


『案ずるな。芽は、芽のやり方で根を張っておる。壊れておろうと、折れておろうと、伸びるものは伸びる』


 その言葉が、優しさであることは分かる。

 分かるからこそ、メトゥスは背筋が冷えた。

 女帝の優しさは、人の尺度では測れない。

 人の恐怖の形を、同じ形で理解はしない。

 だから、メトゥスはただ頭を下げる。

 王の礼として。

 そして、自分の心臓を守るために。


「……承知いたしました、女帝陛下」


 風がまた一度、ひゅるりと鳴った。

 森が笑ったのか、警告したのか――それすら判別できないまま。


 メトゥスは静かに息を吐き、胸の奥に言葉にならない誓いを沈めた。

 次に会う時は、もっと上手く呼吸しよう。

 もっと上手く笑おう。

 もっと上手く――深海の縁で立とう。


 米とカレーの先にあるものが、どれほどの波になるか分からない。

 だが、波が来るなら、女王は溺れない。


 そうでなければ、森奥隠者と()()()()()()など、到底できるはずがないのだから。



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