第26話・昼飯作り
結界の外縁近く――。
そこは、森の瘴気と有羽の結界の庇護が、ぎりぎりでせめぎ合う場所だった。
風の流れひとつ違えば、外の魔力がじわりと染み込んできそうな、そんな境界線。
その線をあえて背にして、護衛たちは剣を振るっていた。
とはいえ、抜き身ではない。
振るわれているのは、鞘付きの剣だ。刀身は収められたまま。
しかし、振り下ろされる一撃一撃は、並の兵士なら骨の一本や二本は平気で折れる勢いだった。
「……はっ!」
一人が踏み込み、横薙ぎに薙ぐ。
それを受ける側は、鞘の峰で受け流し、腰をひねってカウンター気味に打ち込む。
打ち合うたびに、鈍い衝突音が、乾いたリズムで続いていく。
一見すると、血の匂いが混じっていてもおかしくない激しさだが――
当人たちの表情は、やけにまったりしていた。
「有羽殿の言う通り、確かにあれは可憐だった……」
受けの体勢のまま、片方の護衛がぽつりと言う。
「俺も胸が締め付けられた」
「おい」
剣を打ち込む側の男が、半眼で睨みながら返す。
「おかしな気を持っているんじゃないだろうな?」
「違う違う」
受けていた男は、軽く剣を払って距離を取ると、肩をすくめた。
「どちらかと言えばだな……姪っ子か妹の、頑張っている様子を見た時のような……」
「それはそれで不敬だぞ」
「まあ、そう言うな」
そう言いながら、再び踏み込む。
鞘と鞘がぶつかり、金具の鳴る音が響いた。
動きは鋭い。視線も、剣先も甘くはない。
だが、内心では全員、さっきの「朝の光景」を反芻していた。
(殿下が、あんな風に顔を赤くして……)
(「可憐だ」などと、森の賢者に言われていたな……)
(殿下も殿下で、「傍に居るだけで嬉しいし」だ……)
思い出すたび、頬が緩む。
口元がにやけそうになるたびに、慌てて引き締め、また剣を振る。
彼らはこの二年で、何度も王都と森を往復してきた。
魔物との戦闘、魔境での行軍、有羽の張った守護結界に頼らない訓練――
それらを経て、今では全員がレベル40を超える域に達している。
その実力は、王都にいれば将軍クラスと肩を並べるレベルだ。
そんな彼らが、談笑しながら「骨を砕ける剣戟」を打ち合っているのだから、もし一般兵士が見れば腰を抜かす光景だろう。
結界内の、もう少し穏やかな場所――ログハウスの周辺では、侍女たちが動き回っていた。
玄関先の土を掃き、
テラスの床板を布で磨き、
軒下の蜘蛛の巣を落とし、
手すりを丁寧に拭き上げる。
「いつもお世話になってますからねぇ……」
一人が、手すりを拭きながらしみじみと言う。
「有羽様の家を綺麗にするくらい、なんてことありませんわ」
「本当は中も全部磨きたいんだけどねぇ」
「ダメよ。今はお二人きりなんだから」
「分かってますって。分かってるんですけどね?」
分かっているが――
だからこそ、気になるものは気になる。
ログハウスの壁に、そっと耳を寄せる侍女が一人。
「……何も聞こえませんね」
「あなた、耳をぴったり付けたって、聞こえたら逆におかしいでしょ」
「努力は大事なんです!」
そんな言い訳をしつつ、もう一人も、じりじりと外壁に近づいていく。
そっと手を突き、指先で木肌を探るように触れ、耳の位置を微調整しながら――。
「あなた達。随分、暇なようね」
背後から、よく通る女の声。
「ひぃっ!」
侍女二人が同時に跳ね上がった。
振り向けば、黒髪をきっちりまとめた三十路の美女――侍女長マルガリータが、微笑を浮かべて立っていた。
笑ってはいる。
笑ってはいるが、目が笑っていない。
「違います! 何もしてません!」
「壁とお話などしていません!」
「嘘おっしゃい」
マルガリータは、すっと視線を外壁に向ける。
「いつから、あなたと外壁は夫婦になったの? ぴったりとくっついて……随分熱愛なのね?」
「お許しをー!」
「離婚しますからー!」
泣き言めいた悲鳴が上がる。
周囲で掃除していた他の侍女たちが、肩を震わせて笑いを堪える中、マルガリータはため息をひとつ。
「さ、手を動かす。お喋りと覗き耳で、床は綺麗になりませんよ」
「はい……!」
叱られた侍女たちは、耳を外壁から引きはがし、慌てて箒と雑巾を持ち直した。
そうして、しばらくの時間が流れた。
森の中の陽光は、少しずつ角度を変えていく。
結界の上から差し込む光が、テラスの床板に斜めの影を描き始める頃――。
玄関の扉が、カチャリと音を立てて開いた。
「おーい」
見慣れた声とともに、有羽が姿を現す。
後ろからは、ワンピース姿のアウローラも続いた。
朝よりは表情が落ち着いているが、その頬にはまだうっすらと赤みが残っている。
「そろそろ昼飯の用意するから、何人か手伝ってー」
有羽が、玄関先から声を張る。
「はーい!」
待ってましたとばかりに、数人の侍女が手を挙げた。
「お任せください!」
「今日も、有羽様の料理を覚えていきますわ!」
「今回はどんな料理なのでしょうか……楽しみですわ」
どたどたと駆け寄る足音。
そのまま、有羽と一緒に台所へと消えていく。
残されたアウローラは、一瞬だけ周囲を見回した。
護衛たちは、訓練の手を緩めることなく剣を振るっている。
ただ、その視線の端が、ちらちらとこちらに向いているのを、彼女は気付かないふりをした。
侍女たちは、玄関周りの掃除をひと段落させ、それぞれの持ち場に散ろうとしている。
その中で――マルガリータだけは、他より一歩下がった位置で全体を見渡していた。
アウローラは、その姿を確認すると、静かに近づく。
「マルガリータ」
「はい、殿下」
呼びかけに応じて一礼する侍女長の横に、すっと並ぶ。
「あなたにだけ伝えることがあるわ。ちょっと」
声は低く、しかしはっきりとした調子だった。
マルガリータは、わずかに目を細める。
「承知しました」
二人は、自然と護衛たちと侍女たちから距離を取るように、テラスから少し離れた場所へと歩いていく。
ログハウスの壁と、大きな木の幹が作る、半分ほど影になった一角。
風が通り抜けるたび、木の葉のざわめきが、周囲の音を適度にかき消してくれる。
そこまで来てから、アウローラはようやく口を開いた。
「王都に帰る前に、あなたにだけ教えておくわ」
真剣な眼差しが、マルガリータを捉える。
「……次の訪問で、姉上を同席させられる許可を得たわ」
マルガリータの喉が、思わず鳴りかけた。
それを、ぎりぎりのところで飲み込む。
胸の内では、驚愕の鐘が鳴り響いていた。
(第一王女殿下を――ここへ……?)
王都の中心、その政治と社交の渦のど真ん中に立つ女。
鋭い感性と、柔らかな笑顔と、小悪魔のような策謀の才を兼ね備えた、侯爵夫人にして第一王女。
その人を、この魔境のど真ん中、森の賢者の住処へ連れて来る。
それがどれほどの意味を持つか、マルガリータは理解していた。
「詳しくは夜にでも」
アウローラの声が続く。
「今は誰にも伝えないで。……態度に出されるのもよくない。有羽の気が変わっちゃうかもしれないから」
そこで初めて、マルガリータは、殿下の表情をじっと見つめた。
そこにあるのは、朝方、ワンピース姿で頬を染めていた「恋する乙女」の顔ではない。
国を背負う者の顔だった。
睫毛の奥の瞳は、真っ直ぐに前を見据えている。
緊張と覚悟を滲ませた、第二王女としての眼差し。
(……ログハウスの中で、何かが動いたのね)
マルガリータは悟る。
詳細はまだ分からない。
だが、有羽とアウローラの間で、ただ甘い時間を過ごしていただけではないことは確かだ。
森の賢者が、初めて外部の人間を――それも王族をもう一人――受け入れようとしている。
それが意味するところを考えれば、背筋が自然と伸びる。
「分かりました」
マルガリータは、静かに一礼した。
「このことは、今は私の胸にだけ留めておきます」
「お願い」
アウローラは、ほっとしたような、それでいてまだ張り詰めた表情のまま頷く。
「……有羽の気が変わらないように、いつも通りに。少なくとも、王都に戻るまでは」
「はい」
マルガリータは答えながら、心の中でもう一度気を引き締めた。
(殿下の「好意」が、初めて「国の動き」と重なった……)
恋と、責務と。
個人の想いと、王家の決断と。
その境目に立っている殿下の背中を、支えられるのは自分たち侍女だ。
今はまだ、昼食前の、いつもの森の一日。
有羽は台所で鍋を振り、
侍女たちは食器を運び、
護衛たちは結界の端で剣を振るっている。
何事も無い顔で、その「いつも通り」を守り続けること。
それが、この瞬間に自分たちへ課せられた、最初の役目なのだろう。
「殿下」
マルガリータは、ほんの少しだけ柔らかい声で呼びかけた。
「お昼の前に、手をお拭きくださいませ。スパイスの香りが残っておりますわ」
「……あ、本当だ」
アウローラは自分の指先を見下ろし、少し照れくさそうに笑った。
さっきまでスパイスをつまんでいたせいか、指の先に、かすかにカレーの香りが残っている。
その匂いを嗅いだ瞬間、ほんの一瞬だけ、朝の甘い空気が胸の中に戻ってきた。
だが、それもすぐに飲み込み、アウローラは表情を整える。
「ありがとう。……行きましょう」
「はい、殿下」
二人は、他の侍女たちと何事もなかったかのように合流し、昼食の準備が進むログハウスへと歩いていった。
◇◇◇
一方その頃。
台所は、すでに人と匂いとで、ほどよく賑やかである。
ログハウスの奥、簡素なつくりの調理場。
壁際にずらりと並ぶのは、木製の棚と食器類。
そして、そこにはこの世界にはまだ「存在しない」はずの文明の利器が、しれっと鎮座している。
有羽お手製、魔導コンロ。
見た目は、黒い板状の天板に、魔法陣のリングが刻まれているだけの、妙に無機質な台。
だが一度スイッチ代わりの魔石を軽く叩けば――リングの部分に淡い光が灯り、その上に乗せた鍋底が、あっという間に熱を帯びる。
異世界風「なんちゃってIHコンロ」である。
「じゃ、火つけるよー」
有羽が、天板の端に埋め込まれた小さな魔石を指先でこん、と叩く。
キュイン、と低い音がして、魔法陣の輪郭が淡く光った。
すぐに、コンロの上に置かれた鉄製のフライパンから、熱気がじりじりと立ち上り始める。
「はい、強火」
もう一度、別の魔石を軽く撫でると、光が一段階強くなった。
「はーい!」
「了解ですわ!」
侍女たちは、もう誰も驚かない。
最初にこの魔導コンロを見た時は、全員が「なにこれ!?」と悲鳴を上げたものだが――
今となっては、アウローラ配下の侍女隊は、世界で一番この装置の扱いに慣れた集団になっている。
フライパンを乗せる位置、熱の入り方の癖、余熱の時間。
全部、身体で覚えた。
しかもこの「コンロ」、現代日本のIHコンロでは絶対に実現できない火力を、平然と叩き出してくれる。
(魔法技術さまさまだよな……)
有羽は、フライパンの様子を見ながら内心で呟く。
(科学技術だけでこの火力は、絶対に無理だ。安全基準がまず通らん)
魔力を熱に変換する魔導式と、コイルもファンもいらない超効率的な放熱構造。
科学と魔法の、いいとこ取りをしたような超技術。
こんなものを本気で量産したら、この世界の調理環境が一気に数百年進むだろう。
それが分かっているからこそ、ここではひっそりと、王女付きの侍女隊だけが使いこなしている。
今、台所に立っているのは、有羽と、選抜された侍女隊数名。
「で、今日の昼は、タンドリーチキンってやつね?」
一人が、まな板の上の野菜を見ながら首を傾げる。
「タンドリー……なんでしたか」
「タンドリーチキンですわ。タンドリーなるものの意味は分かりませんが、美味しそうな名前です。それさえ解れば充分です」
「……いや、それで良いなら、良いんだけどさ」
有羽が、手を洗いながら苦笑。
侍女さん達は最近、美味ければそれで良しの精神で動いている。
言葉の由来とか、あんまり訊ねてこない。
「まあ、肉は、さっき――」
気を取り直して、有羽はちらりと、奥の方を見やる。
そこには、すでに姿の見えなくなったアウローラの残り香が、ほんのりと残っているような気がした。
「王女さんと二人で漬け込んだから……あとは焼くだけなんだけどな」
何気なく言った、その一言。
侍女たちの反応は、爆発的だった。
「お二人で……共同作業!?」
「まあ!」
「仲睦まじいですわね!」
「ですわですわ!」
「漬け込み共同作業……!」
「肉を挟んだ恋の仕込み……!」
「それは言い過ぎですわ!」
一気にボルテージが上昇。きゃあきゃあ盛り上がってる。
有羽は、トマトの箱を持ち上げかけた手を止めた。
「お、お前らなぁ……」
耳のあたりが、じわじわ熱くなる。
(さっきの、あれこれ思い出すからやめろ……)
一時間ほど前。
スパイスとヨーグルトをボウルに入れ、鶏もも肉を揉み込んでいるとき――。
『こうか?』
『もうちょい優しく。破いちゃ駄目』
『む、難しいな……』
そんなやりとりをしていた記憶が、否応なく蘇る。
(あれを仲睦まじいと言われると、なんか余計に恥ずかしい……)
ぶんぶんと首を振って、先程の光景を振り払う有羽。
「ええい、馬鹿言ってないで肉焼くぞ肉!」
有羽は、わざと声を張り上げて話を切り替えた。
「人数多いから、侍女さん達もフライパン持って、どんどん焼くよ!」
「はーい!」
「了解しましたわ!」
「お任せくださいませ!」
侍女たちは、楽しげに笑いながら、各自フライパンを手に取る。
台の上には、さっきから巨大な木鉢が一つ。
中には、漬け込み済みの鶏もも肉がたっぷりと詰め込まれている。
赤みがかったオレンジ色の調味液をまとった肉たち。
よく見ると、その液体の中には、細かく砕かれたスパイスやハーブが混ざり、ところどころに白い残り――ヨーグルトが見えている。
「じゃ、油引いてー。焦げつかない程度にな」
有羽が油壺を掲げ、近くの侍女のフライパンに、とくとくと注ぐ。
「熱くなってきたら、肉入れるよ。あんまり詰め込みすぎると蒸れちゃうから、最初はこんなもんで」
大きめのトングで、漬け込まれた鶏肉を掴み、じゅっと音を立ててフライパンに落とす。
途端に、香ばしい匂いが立ち上った。
スパイスと油と肉の脂が弾け、台所全体に広がっていく。
「……いい匂い……!」
侍女の一人が、思わずうっとりした声を漏らす。
「はい、そっちのフライパンにも。ほれ」
「ありがとうございます!」
見ているだけだった侍女たちも、次々に肉をフライパンへ。
じゅううう、と複数の音が重なり、狭い台所が一気に「戦場」のような熱気に包まれる。
だが、そこは有羽の工房兼台所。
魔導コンロの火力は強いが、換気の魔法陣もきちんと組み込まれている。
煙と蒸気は、天井近くの小さな魔法陣から吸い込まれ、外へと流れていく。
侍女たちは、フライパンから立ち上る湯気と香りに目を細めながら――
同時に、漬けダレの残りにも興味津々だった。
「これ……カレーの素ですわね!」
一人が、木鉢の縁に残った調味液を、そっと指先で掬って匂いを嗅ぐ。
「例のスパイス!」
「でも匂いが違うわ」
別の侍女が、眉をひそめる。
「昨日のカレーの香りと似てはいるけれど……どこか軽いというか……」
「他の材料のせいかしら?」
「いえ、違う。スパイスそのものが……」
鋭い嗅覚で、微妙な違いを感じ取っているらしい。
「これは確か、有羽様が以前出した……ヨーグルト?」
三人目が、木鉢の端に残った白い塊を指差す。
「確か、ミルクを発酵させて作る……」
「その発酵も、国の学者が頭悩ませていましたわね」
別の侍女が、くすくすと笑う。
「『腐ってるのか? いや、違う。これは食べられる腐敗だ……!』とか、延々と言い合っていたとか」
「ホントに有羽様は、難しいものばかり作って……真似する此方の身にもなってくださいまし!」
「そうですわそうですわ!」
「もっと真似しやすいものをお願いします!」
好き放題を言い合いながらも、手は止まらない。
フライパンの上では、鶏もも肉がこんがりと焼き色をつけ始めていた。
片面を焼き終えた肉を、トングでひっくり返す。
裏面にも、じゅっと焦げ目がつき、漬けダレのスパイスが香ばしく焼ける。
「お前らなぁ……」
有羽は苦笑しつつ、手元のフライパンに向き直る。
「……これでも結構、真似しやすいの出してるつもりなんだけどなぁ」
「またまた御冗談を?」
「結構ホント。それに、門外不出って訳でも無いし、説明もちゃんとしてるでしょ?」
「その説明が、いつも長いですわ!」
「そして半分以上、意味が分かりません!」
「メモを書いても読めません!」
「それでも頑張って写しております!」
一斉に突っ込みが飛ぶ。
「ま、だろうな」
有羽は、さらりと認めた。
「でもまあ、こうやって何度も作ってれば、そのうち自分たちなりの『やり方』が見えてくるって」
「……それはそうかもしれませんけど」
「それはそれとして、早くカレーとヨーグルトを完全再現したいのですわ!」
「そうですわそうですわ!」
「殿下が森に来られない日でも食べられるように!」
その言葉には、本気がこもっていた。
有羽は、少しだけ目を細める。
(……まあ、そういう貪欲さは嫌いじゃない)
そう思いながら、フライパンの取っ手を握る手に力を込める。
焦げつかないギリギリの火加減で、皮目をパリッと焼き上げ、肉の中にじわりと熱を通していく。
コンロから立ち上る熱気。
スパイスと肉の焼ける匂い。
侍女たちの賑やかな声。
「そっちはどう?」
「いい感じに焼けてますわ!」
「こっちはもう少しです!」
「じゃあ、焼けたやつからこっちの皿に上げてってー。野菜も忘れんなよ」
隣の台では、別の侍女たちがトマトときゅうり、葉野菜をざくざくと切っていた。
トマト……沢山。
きゅうり……沢山。
葉野菜……適当に山盛り。
シンプルなサラダだが、焼きあがった肉を受け止めるには十分だ。
「にんにくとー、しょうがのすりおろしとー」
有羽は、木鉢の残りの調味液をちらりと見て、頭の中でレシピを確認する。
潰したトマト。
植物油。
カレースパイス。
プレーンヨーグルト。
塩。
粗びき黒こしょう。
それらが混ざり合った液体の中で一時間ほど寝かされた鶏肉たちは、今まさに「タンドリーチキン」へと変貌しつつある。
(……よし)
フライパンの中の肉に、最後の火を通す。
表面の色が、完璧な「こげ色」になったところで――有羽は火を落とした。
魔導コンロの光が、すっと弱まる。
台所には、こんがりと焼けた鶏肉の匂いと、スパイスの刺激的な香りが、これでもかと満ちていた。
「そろそろ、いいな」
有羽は、フライパンを持ち上げながら言った。
「さーて、殿下の反応が楽しみだな」
「わたくし達の反応も、お忘れなく!」
「ええ、殿下に劣らぬ勢いで食べますわ!」
「食べますわ食べますわ!」
「はいはい。全員分ちゃんと焼くから、焦るなって」
笑い声と、じゅうじゅうという最後の音が混ざり合う中――
昼食の準備は、いよいよ最終段階へと入っていった。




