第133話・上位存在の話し合い②
有羽、女帝、探求神。
部屋の中の三名はというと、どうしようもなくやさぐれていた。
ログハウスの窓からは朝の光が差し込んでいる。明るく穏やかな日差しだ。森の木々は朝露を弾き、葉擦れの音は優しく、空は穏やかだ。
なのに――そんな清々しい外の様子を、誰ひとり気に留めていない。
有羽は机に突っ伏している。頬を机に押し当てたまま、魂が半分抜けている顔。
宝玉の向こうの女帝は、枝で頬杖でもつくような格好で考え込んでいるが、半分以上は上の空。
そしてスキエンティアだけが、椅子の背もたれに体を預けつつも、なんとか知性の体裁を保っていた。顔つきは仏頂面そのものだったけれど。
「……一旦、有羽君の役割とかは置いとこうよ」
女神が、疲れた声でそう言う。
「たぶん現状、情報が足りない。考えるための土台そのものが、まだ足りてないんだと思う。枝葉をいくら拾っても、根っこが分かってなきゃ答えは出てこない」
机に顔を押しつけていた有羽が、のろのろと顔を上げた。
宝玉の向こうの女帝も、ゆっくりと視線を戻す。
どちらも、まさに渡りに船と言わんばかりの様子だった。これ以上「南の番人とは何か」だの「北の竜の役割」だのを考え続けても、答えが出ないことは嫌というほど分かっている。
そこで、スキエンティアは最後の問いを口にした。
「一番大事な最後――そもそも、この森の役割は何?」
静かな一言だった。
だがその言葉は、この場にあるあらゆる疑問の根を、まとめて掴み上げるものだった。
そう。結局のところ、すべての始まりはこの「魔境の大森林」だ。
東の天蛇、西の女帝、北の黒竜、南の有羽――番人たちの役目をいくら追っても、その全てを支えているのは結局この「魔境の大森林」そのものだ。
ならばまず問うべきは、番人ではなく森になる。
『森に、明確な意思はない』
最初に口を開いたのは女帝だった。
『これは蛇の奴も言っておった。命じられた覚えも、縛りつけられた覚えもない。あれほど長い時を森で過ごしても、明確な「誰か」の意志を感じたことは一度もない、とな』
女帝は、世界天蛇のあの妙齢の女の声を思い出す。妙に理性的で、妙に達観していたあの存在。
確かに天蛇は言っていた。誰かに命令されたわけではないと。ただ、そこに在り、在り続けた結果として、役割の輪郭を噛み砕いただけだと。
有羽は顎に手を当て、呟き始める。
「意思はない……でも、意図はある。でなきゃ俺が日本からここに来るわけが……いや、まあ、俺がこの世界に来たのが完全に偶然って可能性も、一応ゼロじゃないとは思うけど」
以前、スキエンティアが口にしていた可能性だ。
世界渡り。異なる世界の狭間を、何らかの事故で零れ落ちるように漂着する事例が、理論上あり得るのだと。
だが、その言葉を。
『それは無い』
「それは無いよ」
女帝とスキエンティアが、同時に否定した。
知性の探求神が、前言を撤回したのだ。
有羽が眉を上げる。
「断言する、その理由は?」
問われたスキエンティアは、指を一本立てて言葉を選ぶ。
「有羽君が最初から持ってた力だよ。八年前、この森に落ちてきた時点で使えていた魔法。あれは、偶然この世界に来ただけの人間に備わるものじゃない」
「……」
「森が与えたのか、森じゃない何かが与えたのかはまだ断定できない。でも少なくとも、「何らかの意図」があって、有羽君に魔法の才を付与した。それだけは確か」
有羽は黙って聞いている。
そうだ。
本物の世渡有羽の時点で、既に異様な数の魔法の才は存在していた。
作り替えられた後に最適化された部分はあるにせよ、土台の時点でおかしかったのだ。偶然、森に落ちたにしては、初期装備が良すぎる。
『偶然お主がこの世界に来たのなら、とうの昔に魔物に食われて死んでおる』
女帝が低く言う。
『お主が後に作り替えられた経緯は別としてもな。八年前の時点で、何らかの役目を与えられていた……あるいは、与えようとしていたのは確定じゃろう。そうでなければ、「死ぬことすら許されぬ」などというふざけた真似はせぬ』
その一言に、有羽の顔が僅かに歪む。
七年前に死んで作り替えられたことより、もっと前。八年前、この世界へ落ちたその時点で、既に何かが始まっていた。
だからこそ、「最初の有羽」を再利用してまで「今の有羽」が生まれた。
スキエンティアは真っ直ぐ前を見据えたまま、ぽつりと呟く。
「それでね。有羽君の身に起きたことと、女帝さんの誕生経緯を並べて考えていくと……どうしても、あいつの名前が浮かんじゃうんだよ」
視線が上がる。
天井を越えて、遥かな空のさらに向こうを、見るように。
「上位神――覇皇神ヴェルミクルム」
有羽がその名を口にすると、スキエンティアが小さく頷く。
「そう。わたしの同僚。盤面の神。調整と安定だけを優先する、この世界の監視者」
女帝の顔に、不快そうな色が浮かんだ。
『善悪を感じ取れん。我も、人の子が言う善悪を完全に理解しているとは言い難いが……それにしても、あやつは遠すぎる』
「遠いんじゃなくて「無い」んだよ」
スキエンティアが即座に返す。
「善も悪も、快も不快も、最初から思考領域に入ってない。ただひたすら合理。ひたすら盤面の最適化。それだけ」
有羽は大きく溜息を吐いた。
「……最悪の兄弟だな。現実にこんな人間いたら、総スカンだぞ」
心の底からの感想だった。
世界を変数でしか見ない兄。
森という管理機構でしかものを見ない弟。
確かに兄弟みたいだ。しかも、かなり質の悪い部類の。
情けもない。デリカシーもない。いや、デリカシー以前に、他人の心に対する基本姿勢そのものが存在しない。現実にいたら、関わる奴全員から距離を置かれる類の性質である。
だがその「兄弟」という言葉に、スキエンティアがぴくりと反応した。
「……兄弟」
「ん?」
「兄弟……兄弟?」
そして、ぽつりと呟く。
「――兄弟機?」
その響きに、有羽も女帝もはっとしたように顔を上げた。
似ているのではない。
考え方が同質なのではない。
もしかすると、そもそも本当に「同じ系統」なのではないか。
「……天界はヴェルミクルムで、地上はこの森?」
スキエンティアがゆっくりと言葉にする。
「最初からそういう「世界設計」だった……? いや、でもそれなら、なんで森なんて形に」
『地上だから、じゃろう』
女帝が、すぐに答えた。
『天界と違い、地上には形が必要だ。無形のままでは干渉しきれぬ。木も、獣も、人も、魔物も、全て地に足をつけて在る。ならば、調整する側もまた「世界に触れる何か」でなければならぬ』
その言葉に、すとんと腑に落ちるものがあった。
天にある監視者は、無形でもいい。
盤面を俯瞰し、変数の揺らぎを見るだけなら、それで足りる。
だが地上は違う。
ここでは命が育ち、朽ち、争い、増え、狂い、歪む。
それらに実際に触れ、押さえ、巡らせ、噛み砕き、維持し続けるためには――触れる「器」が必要だ。
有羽は、ぽつりと結論を口にする。
「――地上の盤面を調整するための「管理装置」。それが、魔境の大森林の本質か」
言葉にした瞬間、それは奇妙なほどすんなりと納まった。
情緒はいらない。
尊厳も、個の人生も、考慮しない。
必要なのは、世界を壊さず、揺らぎを吸収し、必要なら駒を用意し、管理し続けること。
そのための「地上の機構」。
「……そうなると見えてくるな……北の竜が生まれたのって確か」
「人の国が生まれた頃。わたしの記憶だと、その辺りだね」
『我の記憶でもそうだ。あの竜と、人が国を建て始めたのはほぼ同時期だった筈』
ぽつり、ぽつりと。
有羽、スキエンティア、女帝の順に言葉を重ねていく。
魔境の大森林が、地上の盤面を調整するための管理装置だと仮定するなら。
番人たちは、必要になった時に必要な機能として配置されたと考えるのが自然だ。
世界の境界を留めるために、東に天蛇。
森そのものの維持管理のために、西に女帝。
ならば、人の国が生まれ始めた時期に新たに必要になった「何か」とは。
有羽は思考を巡らせる。
国家。共同体。集落が村になり、村が町になり、そしていつしか国になる。
人が群れ、法を定め、秩序を欲し、対外的な線を引き始める。
何が正しく、何が間違いか。
何を赦し、何を罰するのか。
そうした価値基準が、原始的な世界から、社会的な世界へと変化していく時代。
森には、それがなかった。必要なかった。
少なくとも、合理だけで回る管理装置としての森には。
だが世界に生まれた。必要になった。
新たに調整しなくてはならなくなったもの。
その名は。
「――善悪」
有羽がぽつりと呟いた。
その一言に、空気が少しだけ変わる。
「物事の善悪が大きく動いた。道徳観、宗教観、その根っこにあるもの。何が善で、何が悪なのか。それをはっきりと「形」にし始めた時代が来た」
かつては単純だった。
強い者が生き、弱い者が死ぬ。奪える者が奪い、守れる者が守る。それで終わる弱肉強食の世界。
だが、人の社会はそれでは済まなくなる。
個人の強弱だけでは回らない。集団が、秩序が、正しさと間違いの共通認識が必要になる。
「となると……北の竜さんって、善悪を管理するような存在ってこと?」
スキエンティアが、そろりとその続きを口にした。
その理屈でいけば、北の番人の役目は「善悪の調整」になる。
けれど、その仮説を聞いた有羽と女帝は、そろって何とも言えない顔になった。
「あいつがかぁ?」
『アレは違うじゃろぉ?』
揃いも揃って、ひどく渋い顔だった。
スキエンティアが苦笑する。
「なんか……凄く微妙で複雑そうな顔してるけど。どんな感じなの? 北の竜さんって」
彼女は黒竜を直接見たことがない。
何か森の北に、とんでもない番人が居るということは知っていても、その実態までは分かっていない。
だが、有羽と女帝は違う。
四年前、実際にぶつかった。当時の光景は、今も二人の中に強烈に残っている。
「……四年前は、なんかゲロ吐いてたよな?」
『うむ。きったないの、そこら中に吐き散らかしておったぞ』
ひどい言い草だった。ボロクソな感想だった。
スキエンティアが顔を引き攣らせる。
「え、ええと……北の竜さんの話をしてるんだよね?」
「してる」
『だが実際に見た感想は「黒くて臭い吐瀉物製造機」じゃ』
「言い方ひどくない!?」
「いやだって実際ひどかったんだよ」
『うむ。あの時は本当に酷かった』
どうやら四年前の黒竜の第一印象は、有羽と女帝の中では「吐瀉物を撒き散らす黒い何か」でほぼ一致しているらしい。
「で、俺と女帝さんが揃って「何かくせぇ!」ってことで現場に赴いて……」
『実際に足を運んだら、酷い有様でな。悪性の膿のようなものを、至る所へ広げておった』
女帝の声音が低くなる。
ふざけた表現をしてはいるが、その時の惨状が笑い話で済まないことは、二人の顔を見れば分かった。
森が腐る。
土地が汚染される。
命という命が、悪意の泥に呑まれていく。
そして何より、その「膿」めいたものを撒き散らしながら、黒竜はなお強かった。
有羽と女帝、二人が本気で動いた。
その二名が揃ってなお、黒竜は完全には倒れなかった。
それがどれほど異常か、スキエンティアにもよく分かっていた。
有羽が、当時の戦いを思い出しながら呟く。
「……あの時、蛇のやつ、後ろで動かなかったけど……今思えばあれって」
『うむ。あの膿で世界が崩れるのを留めていたのじゃろうなぁ』
女帝の言葉に、有羽も頷く。
当時の認識では、世界天蛇はただ傍観しているように見えた。
だが今なら分かる。蛇の役目を知った今なら、あの場で何をしていたのか推測できる。
おそらく、戦いの余波で世界そのものが揺らぐのを、境界を噛むことで押し留めていたのだ。
それほどまでに、あの戦いは危うかった。
スキエンティアは小さく身震いをする。
「じゃ、じゃあ善悪っていうよりも……」
「どっちかっつーと「悪」一色?」
『明確に悪の塊じゃな。あのまま放置しておったら、森が壊れる程度では済まなかったぞ』
女帝が断じる。
四年前、有羽と女帝が動いたのはそのためだ。
放置できなかった。放置すれば森だけではなく、もっと広い何かが崩れると直感した。
だから二人は盟約まで結んだ。次にあれが動いたら、再び力を合わせて止めると。
だが、そこで話はまた行き詰まる。
問題は、北の竜が何を「管理」しているのか、という点だ。
善悪を司る存在にしては、あまりに様子がおかしい。
善悪の均衡を見る番人というより、悪そのものが肥大化して暴れている怪物にしか見えなかった。
合理だけを求める森が、意味もなくそんな存在を配置するとは思えない。
そして四年前、なぜ暴走したのかも、結局まだ分かっていない。
つまり。
「結論は――本人に訊かんと分からん!」
『そしてあの竜に、訊く耳は持っておらん!』
「つまり!?」
『何もかもお手上げ! 何も分からぬわ!!』
有羽と女帝が、ほぼ同時に項垂れた。
スキエンティアも、遅れて両手で顔を覆う。
「あと一歩で届きそうなのに、そこだけ霧がかかってる感じなんだよねぇ……」
森の南の番人。
森の西の番人。
探求の女神。
これだけの面子が揃って、机を囲んで、世界の根幹に迫るような話をしているというのに。
結局最後は「わかんない」で終わるのだった。
あと一歩。
あと一歩で掴めそうなのに、答えは逃げる。
いずれにせよ、謎はまだ深い。
有羽は机に突っ伏し、女帝は宝玉越しに枝をだらんと垂らし、スキエンティアは天井を仰ぐ。
日の光だけが、そんな三人を容赦なく照らしていた。




