第130話・安否確認
有羽が国境線でアギトと戦い、そして姿を消した次の瞬間から……アウローラは恐怖に襲われていた。
有羽の強さに、ではない。あの超常の強さに畏怖している者は確かにいる。だがアウローラはとっくの昔に有羽の凄さは知っていたし……なにより、徒にその力を振るわない男だと知っている。
無知な信用ではない。二年間の交流の上で築かれた信頼だ。
だからそう。アウローラが恐怖しているのは、あのとてつもない強さとは別のモノ。
(いやだ)
戦士としてではなく、ただ一人の女性として怯えている。
強さなんて関係ない……手の内から零れ落ちそうな喪失に戦慄していた。
(やめて)
思い出す。思い出してしまう。
三年前のこと。喪った人。二度と笑いかけてくれなくなった伴侶。
(おねがい)
希う。
アウローラにはそれしか出来ない。それ以外考えられない。
目の前に居る筈のない、有羽の背中に手を伸ばすように。
(おねがいだから――つれていかないで)
そうして、アウローラは動いた。
顔面を蒼白に変えて、震えを一切隠さぬまま、最低限の、本当に最低限の引継ぎだけ終えて辺境伯領を出発しようとする。
当然の事ながら、引き留めようとする者達が。
アウローラは「帝国への恨みを忘れられない馬鹿な王女」という体で、グラードライン辺境伯領にやってきた。王都の目を誤魔化す為、無為な不安を生ませぬ為に。
だが実際に帝王ウィルトスが、少数とは言え兵を伴って国境線にまでやってきたその時点で……その誤魔化しは、言い訳は消えている。
事実、アウローラが先頭に立ち、大河を挟んで帝王と対峙したのだ。そこに至るまでの間に――明確な指令系統が出来上がっている。
国元にも伝令を送った。その伝令を受けて国王フォルトゥムも、正式な文面も用意した。アウローラが「正当な理由」で、現在国境線にいるという形を。
つまりアウローラは「国の命」を受けて、グラードライン辺境伯領に「国境指揮官」として滞在していることになる。そんな形を整えて、帝国との衝突に備える意味で、国境線に居る。
だからまず動くなら、王都に伝令を向かわせてからの話だ。全てはそこから。
それなのに――アウローラは、ただただ王都へ向かおうとする。
「――お待ちください殿下! 何処へ行かれるのですか!?」
「王都へ戻る!! そして森へ行く! 行かねばならないんだっ!!」
辺境伯の娘、セシリアも追いすがるがアウローラの足は止まることはない。
視線を向けすらしない。噛み合わぬ歯の震えを隠し切れず、震えた声が漏れる。
「指示書は書いた! 後は任せる! 辺境伯に従い、事を進めてくれ!!」
「そんなっ!?」
いかに王族、いかに王女と言えど勝手の全てが許される訳ではない。
確かに、アウローラ直筆の指示書はある。書き殴るように乱暴に纏めた、最低限の書類はある。
だが、あんな文章だけで国の……すなわち、国王陛下の印を無視して、アウローラが「持ち場」を離れる赦しにはならない。
実務的に問題がなかったとしても――「国王命令の無断放棄」など、法的にあまりに重すぎる。
「殿下!!」
「頼む、戻らせてくれ!! 私は――有羽に会いに行かなきゃいけないんだ!!」
それでも――アウローラは王都に来た。
零れ落ちそうな涙を、必死に堪えながら。
「……それで、私は……私は……っ!」
「わかった。わかったわアウローラ。落ち着いて」
事情を話し終えたアウローラは、真っ青な顔で震えている。
そんなアウローラを、恐慌状態の妹を、レジーナは静かに、穏やかに、決して刺激しないように抱きしめる。
自分より何倍も強い筈の妹が、まるで寒さに震える子犬のよう。
そんなアウローラの姿に、胸が抉られそうになりながら……レジーナは冷静に、現状の拙さを認識する。
(正直――対応としては最低の部類)
アウローラが国境線の辺境伯領で取った行動は、最悪の選択に近い。
第二王女アウローラは物見遊山であそこに行っていた訳ではない。国が直々に任せた責任者として赴いていたのだ。
そんな彼女が我を忘れて、手続きの殆どを無視して王都に急行した。
命令系統の一時混乱。
現場判断の遅延。
部隊の士気低下。
そして辺境伯領の将兵の不信。
様々な問題が起きる可能性がある。
個人の感情で国境指揮官を抜ける王女――この評価が痛すぎる。
私情を公務の上に置くなど、王族には許されない。
国の代表が国を無視して、私情を優先したのだ。
無断離任。
守備放棄。
職責遺棄。
軍規違反。
敵に通じたわけでも、国を売ったわけでもないが、明らかな「罪」が残る。
ただでさえ最初「帝国への恨みを忘れられない馬鹿な王女」という建前で押し通したのだ。離れる時まで私情優先は、あまりに拙すぎる。
城の奥から焦ったように追いかけてきた側近……侍女隊や護衛隊も、そのことを理解しているのだろう。これ以上、アウローラが無断行動を取れば立場が悪くなりすぎる。
きっと父――国王フォルトゥムの声さえ振り切ってきたのだ。
最低限の報告だけを済まして。それ以外を全て放り捨てて。
(賢者様は、王国の民ではない……それが今は痛い)
もしも有羽が王国民であったのなら。もしも有羽とアウローラの仲が公認で、例えば将来を誓い合った仲なのだと「書面」で証明できていれば、多少は緩和できた。
恋人、想い人、伴侶の危篤――無論、だからと言って持ち場を無断で離れるのが許されるわけではない。しかし、感情面で多くの味方が作れる。
だがそうではない。
有羽とアウローラの「仲の良さ」は一部の者しか知らない。
この手は使おうにも、前提の段階で使うことができない。
故にレジーナは、最低で最悪の部類だと判断した。
アウローラが今、王都に居ると言う事は、それだけで重い罪が課せられる可能性がある。
本当ならば叱責せねばならない。
第一王女として、同じ王族である第二王女を厳しく対処しなければならない。
それは解っている。
解っているが……レジーナには責められなかった。そんなことはできなかった。
だって。
(――賢者様が死んだら、この子は絶対に壊れる)
それは、アウローラにはあまりに酷な事。
一度経験済みだ……アウローラは一度経験済みなのだ。
姉であるレジーナが味わっていない……味わうことを想像すらしたくない絶望を。
想い人に死なれるという、胸を穿つような最悪の結末を。
それを再び味わえと?
また同じ想いをしろと?
王族なのだから、王女なのだから自制しろと?
言うのは簡単だ。それが正しいということも理解している。
だがそれで、万が一にも有羽を喪ってしまったのならば。
(――アウローラは、もう二度と立ち直れない)
次は終わる、と。レジーナは確かな答えを弾き出した。
今のアウローラの顔が物語る。
この妹は、もう二度と、あの絶望に耐えられない。
「ねぇアウローラ」
「……は、はい」
レジーナは、未だに震えているアウローラと視線を合わせる。
いつも明るく快活に、笑顔を振りまいている愛しい妹が、まるで極寒の空の下に放り出されたよう。その姿を見て、レジーナ自身の顔が歪みそうになるが……押し殺して問う。
「……クロエちゃんの力で確認は出来なかったの? 賢者様との連絡用なのでしょう?」
まず確認するべき点はそこだった。
クロエの力はレジーナも知っている。超長距離の伝令と斥候を可能にする送受信用ゴーレム。
可愛い見た目とは裏腹に、その実情は国家間のパワーバランスを崩しかねない力を有している。
その力があれば、有羽の安否確認くらい容易な筈。もともと、森の中にいる有羽との連絡用に誕生したゴーレムなのだから。
しかし。
「……有羽が消えてから、王都に戻るまでの間……何度も試してきました……」
当然、アウローラも何度もそれは試した。
クロエによる送信。有羽の声を聴きたくて、無事を知りたくて、クロエは何度も「手」を伸ばした。
何度も何度も呼びかけた。
「でも、でも……一度も、返答がなかった……っ」
「――」
決壊しそうな涙を必死に抑えるアウローラ。
その姿を見て、「最悪の結末」を思い浮かべてしまうレジーナ。
何の意味もなく、有羽がクロエの呼びかけに応えぬわけがない。それはつまり、応えないのではなく、応えられない状態にあるということ。
あの強大な力を持つ有羽が、森の賢者が、音信不通になってしまうほどの状態。
考え得る限りで「最悪の結末」しか、レジーナの脳裏に浮かばなかった。
だがそれでも――王族は、立ち止まってはいられない。
意を決し、レジーナは視線をアウローラから外す。
向ける先は、侍女が抱えている小さなぬいぐるみ……クロエの姿。
「……ねえクロエちゃん。あなた……森の様子は見れる?」
ぴくりと、反応する。
つぶらな瞳が、真っ直ぐレジーナを見る。
「ここから、賢者様の家まで、声を届けるのではなく……様子を見る事はできる?」
【……】
クロエは少し考えるような仕草をした後……こくこくと頷き始めた。
どうやら魔境の森の内部であろうと、クロエの「声」だけでなく「目」も有羽の元まで届くらしい。
有羽がクロエの創造主と言う点も関係しているのかもしれない。言ってみれば有羽は、クロエの産みの親だ。魔術的な繋がりのようなものを辿って、様子を伺うのだろう。
レジーナは、一度だけ息を吸い……はっきりとクロエに言った。
「そう。それじゃお願い。見てみて――」
「待って姉上!!」
だが、それをアウローラが制する。
顔を見た瞬間、何を言わんとしているのか、手に取るように分かった。
絶望の涙を滲ませながら、それだけはやめてくれと、顔つきだけで物語っている。
「もしそれで……もしそれで有羽が……有羽が無事じゃなかったら……!」
「……っ」
矛盾したアウローラの言動。
先程まで有羽の場所に赴こうとしながら、その様子は見たくないと恐怖している。
意味が解らない。だが、ある意味もっとも正しい心の動き。
――もう、マトモな判断を下せる状態ではないのだ。
アウローラの心は、既に壊れかかっている。
自分の行動を正せない、制御できない、心に亀裂が入った人間特有の支離滅裂。
そんな状態にアウローラは追い詰められていた。
「……死んでさえいなきゃ、俺が治せる」
――そこに、今まで沈黙を守っていたニクスが声をかける。
ぶっきらぼうな不愛想な態度はそのまま……瞳だけは真剣な眼差しで。
ここでようやく、アウローラが周囲の者のことに気付いたらしい。
ニクスを見て、一瞬だけ目を丸くする。
「――え? 白い、有羽?」
ぽかん、という言葉がよく似合う顔。
絶望の中に生まれた僅かな空隙。その瞬間の表情を見たニクスは、苦笑を返す。
「悪いな王女さん。別物だよ俺は」
自身は有羽と違う。そう言い放つニクスの声は――奇しくも、有羽に似ていた。
気怠そうに見えて、それでも誰かを労わるその仕草は、根っこの部分で。
レジーナはニクスと向き合う。彼の力はある程度知っているが、安易に縋るわけにはいかない。
「ニクスさん。その治せるというのは、何処までを指すの?」
「考えられる限り全部だ。臓器が腐ってようが、手足が無くなっていようが、全部治せる」
思わぬ答えに、周囲は騒然となる。
ニクスの言う治療は、王国内の腕利き治療師でも不可能な領域。
それこそ神の加護を得た高位神官でもなければ届かないような治癒術の極みだ。
驚くのも無理はない。もっとも、あの胡散臭い商人だけは欠片も驚いていなかったが。
そして、ニクスはそのまま――最悪の補足もつける。
「――死んでさえいなければ、だけどな」
端的に重要な一言で締める。
どんなに優れた治癒術でも、死者だけは蘇らない。蘇らせることはできない。
死は終着であり、最期の寝所。そこに辿り着いてしまったのなら、もう後戻りはできない。
どんなに優れた癒しの技でも、引き戻すことなどできない。それがこの世界の理。
だからレジーナは――王女の顔を、アウローラに向けた。
「アウローラ。よく聞きなさい」
びくり、と怯えたように肩を揺らすアウローラ。
これが私的な問題ならば、私的な問題で済む話なら、レジーナは今頃アウローラを力いっぱい抱き締めている。優しく労わるように、姉として妹の心に寄り添っている。
けれど。
「賢者様の容態がどうであれ、私達は確認しなくてはならない。これまでのこと、これからのこと、全てを考える為にも……私達王族は、確認する義務がある」
彼女は王族なのだ。二人は王女なのだ。
凛と胸を張って、国民の前に立つ義務がある。国を支えて万事を見定める責務がある。
人の上に立つと言う事は、そういうこと。
国の中で一番偉いという意味は、決して軽いものではない。
「あなたの気持ちが解るなんて言わない――言える訳がない。軽々しくそんな台詞を言う輩は、私が鼻っ柱へし折ってやる」
本音の言葉。本気の意思。
もしも今のアウローラの心情を、軽々しく口にする者がいれば、レジーナは黙っていない。
文字通りの拳が顔面に炸裂する。姉として、妹の心を踏み躙る者に、容赦なんてしない。
でも。
「でもね……それでも、私達王族は目を逸らす事は許されない。そうでしょう?」
姉として妹は護っても……第一王女として、今の第二王女を正す。
それがどんなに辛くても。それがどんなに苦しくても。
たとえそれで――妹の心が壊れることになったとしても。
アウローラは、頷いた。
小さく、だが確かに頷いた。
壊れそうな心に火を灯し、涙を溢しながら頷いた。
――壊れ果てる覚悟を抱いて、頷いた。
見届けたレジーナは一度目を閉じ、そして開く。
覚悟は決まった。決まってしまった。最悪の結果を見ることも念頭に置いて。
もしも――本当にもしもの時は、全力でアウローラを支えなければならないと決意して。
「クロエちゃん。お願い」
【~~!】
クロエの身体が淡く光る。
超常の瞳が、王国の北――魔境の森の南部に向かう。
皆が固唾を呑んで見守る。クロエの見るその結果に希望を信じながら。
同時に……絶望も予想しながら。
光が明滅する。今、クロエは見ている。目を森の深くまで届けている。
そして、そして――。
【……~~♪】
嬉しそうに。本当に、心から嬉しそうに、クロエの顔が綻んだ。
そのちっちゃな手を伸ばし、その愛くるしい笑顔をアウローラに向ける。
クロエは言葉を話せない。耳に届く音として発声できない。
けど、その様子から、その能力から、これ以上ないほど雄弁に「声」が伝えられた。
――だいじょうぶ。いきてるよ。
――ゆうは、げんきだよ。
アウローラの涙が決壊する。
膝をついて……歓喜のすすり泣きが生まれる。
「よかった……よかったよぉ……」
嬉しさと安堵で泣き崩れるアウローラ。
張り詰めていた緊張も、限界で立っていた王女の矜持も、今は何処にもない。
ただ、溢れるばかりの喜びを、嗚咽と共に瞳から流すだけの女性。
大切な人の無事に涙する、それだけの乙女。
周囲の者達にも安堵の溜息が。
侍女隊の中には、感極まって泣いている者もいる。
レジーナも、ラディウスも、部外者であるニクスでさえ肩の力が抜けていた。
少なくとも、最悪の結果だけは免れたのだ――安堵の息も漏れる。
しばらく、優しくも穏やかな空気が漂っていたが……アウローラは涙を拭いクロエに向き合う。
雲の切れ目からようやく日が差し込んだような、そんな眩しい笑顔を携えて。
「クロエ……私に見せてくれるか? 有羽の元気な姿を」
【~~!】
もちろん、とでも言いたげに、小さな両手をぶんぶん振るクロエ。
だが、有羽の姿を確認したいのはアウローラだけではない。レジーナも微笑みながら……少しだけ怒りを乗せながら、声を上げる。
「私にもお願いできる? 妹をこんなに泣かした戯け者の姿、見てやらないと収まりがつかないもの」
「戯け者って……有羽殿に悪意があった訳じゃないんだから」
思わずラディウスが有羽の援護に回る。
先程のアウローラの話を聞いて、大体の事情は把握した。有羽本人に何か落ち度があったとは思えない。倒れかけた理由までは解らないが、少なくともいたずらに迷惑をかけるつもりはなかっただろう。
しかし――それで治まるほど、今のレジーナの気持ちは大人しくない。
「うっさいわね。これくらい言わせなさいよ。これから、アウローラがやらかしたことに対する処罰とか、辺境伯に対する謝罪とか補填とか、色々考えないといけないんだから」
「あ……」
アウローラが、さあっと顔を蒼褪めて、口に手を当てる。
そう。理由はどうあれアウローラは「持ち場を無断で離れた」。
ただの持ち場ではない。限定的にしろ国境の守りを担う「国境指揮官」という立場を放り投げた形になっている。私情で国境を捨てる王女など、非難の的にしかならない。
そのことをようやく――本当にようやく実感として、アウローラは把握した。
ぎりぎりで保っていた心に安定が生まれて、正しく事態を認識できた。
そして――そこで目を背けないのがアウローラだった。
凛とした眼差しをレジーナに向ける。これから自身に迫る、自身が背負うべき問題を、一つ残さず受け止める顔。
王族としての、いつもの強さを取り戻した王女の瞳を向けている。
「――分かっています。処罰は受け入れる。逃げない。言い訳もしない……改めて辺境伯領に行って頭も下げる。そして――」
そして――再び国のために立つ。
口で言うほど簡単なことではない。かならず不満を持つ者がいる。
守りたい者があるのは王族だけではないのだ。優先したい私情があるのは皆同じなのだ。
それを一番上に立つ王女が破った――きっとアウローラを知らぬ者こそが、大きな不満を抱く。
しかし、それで全てが失墜するとも思えない。そのことを知っているラディウスが、そっと優しい言葉を届ける。
「……裏を返すと、「それほどまでに、王女を動かした相手がいた」と擁護もできる。そしてその相手こそ有羽殿――森の賢者だ。保身に走ったり責任転嫁さえしなければ、取り返しは効くさ」
「流石私の旦那様。良いフォローありがとうね」
「本当のことを言っただけだよ。君の妹は、日頃から部下や周りにちゃんと王族としての姿を示しているし……一度の失態で、全てが御破算になるほど脆い立場じゃない」
稲妻の王女。お日様の王女。アウローラに対する皆の信頼は厚い。
普段から彼女は誠実なのだ。王族としての権威を無暗に振り回さない。下級の貴族や平民にも、同じ人間として接する。
アウローラは民とも距離が近い。時折、王都の街中で、子供達を同じ目線で笑うことだってある。そんな姿を、色んな人々が見てきているのだ。
情を捨てきれないからこそ慕われる。完璧でないからこそ仕え支えたくなる。
瑕疵は避けられないだろう。傷を負うのも確定だ。
それでも――アウローラが今まで築き上げた全てが、逆に崩壊を防ぐ。
それを成し得るだけの実績は、すでに積まれている。
むん、と普段の快活な顔を取り戻したアウローラは、クロエを抱える。
そして柔らかく微笑んで、甘えるように頼み込んだ。
「それじゃクロエ。私に、そして皆にも見せてくれ。心配かけた有羽の姿を」
【~~♪】
大好きなアウローラにお願いされて、よろこんで、とでも言いたげな感情を全身で表現するクロエ。手をバタバタと振って、光が粒子となり、皆の脳裏に映像が届けられる。
――そう。
映像が、届けられた。
なんか有羽が、見知らぬ眼鏡美女と、仲良くカレー食ってる映像が。
「………………」
沈黙。すっごく重い沈黙。
さっきまでの、穏やかで、安心する、ほのぼのハッピーな空気は霧散。
もう欠片も残っていない。
あるのは緊急事態を知らせる、恐ろしいまでの威圧感――というか殺気。
思わずラディウスが後ずさりする。悪魔相手に勇敢に戦った勇者が、逃げ腰になる
無理もない――アウローラとレジーナの美人姉妹の顔がアカンことになっていたのだから。
「……ふ、ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん……」
すんごい声がした。王女二人の口から、すんごい声がした。
二人の額に走る青筋の数が、とても凄い事になっている。
怒り心頭。怒髪天。これ以上の描写は、筆舌に尽くしがたい。
眼光も凄い。真正面から睨まれたら、おトイレ行けなくなるくらい怖い。
「あー……これはまた」
ニクスが、あちゃあとでも言いたげに片手を額に当てる。
王女の様子と、今しがた見た有羽と眼鏡美女の、仲良さげな食事風景を見て……部外者であるニクスですら悟ったのだ。
ああ、賢者終わったな、と。
「これはあれですかねぇ。正妻の居ぬ間に愛人を連れ込んだみたいな」
隣の商人は、また他人事のように――まあ実際、他人事なのだが――とんでもない発言をかます始末。
だがそれは的確だった。これ以上ないほど、今の有羽の現状を言い表していた。
や、別に有羽とアウローラに婚姻は結ばれていないのだが……現状はそうとしか言えない。
「――姉上」
「――分かってるわ」
そして、王国が誇る美人姉妹が動き出す。
冷静、冷徹、冷酷。三拍子揃った途轍もない形相で、レジーナは馬車を指差す。
魔国からの荷馬車。多数の、賢者への贈り物がある荷馬車。
「――そこの馬車に米と稲を積んであるわ。少し持っていきなさい。それを「人質」に事情を全部吐かせてきなさい」
まさかの米を人質に、事の真相を調べてこいとのたまう第一王女。
だが第二王女は異論を発しない。むしろ力強く頷いて――自らの部下に視線を向ける。
「――侍女隊、護衛隊」
静かに、呼ばれる。
まるで戦場の号令だ。一切の緩みがない、情けも容赦もない呼び声。
「はっ」
「準備に取り掛かれ。すぐにでも森に赴く」
「――承知しました」
そして侍女隊や護衛隊も、一切反論せず黙々と準備に取り掛かる。
こちらもこちらで……実は何気に怖い顔をしていた。
そうである。彼女らは、彼らは、長い間アウローラに仕えてきた供回り。
アウローラと共に、喜びも楽しさも苦労も怒りも悲しみも、全て共有してきた戦友のようなもの。身分差があるため、あまりに不敬なため直接口にすることはないが……皆、アウローラの事を主として敬意を抱きつつも、妹や姪のように可愛がっている。
家族と言っても差し支えないほど、皆がアウローラに親愛を抱いている。
そのアウローラを差し置いて。
あれだけしょっちゅうイチャイチャしておきながら。
そして今回、あそこまでアウローラを絶望の淵に立たせておきながら。
スタイル抜群な眼鏡美女と、お前は一体何をしくさってやがるのかと。
少なくとも全員グーパン決める気概である。
誰も止める気が無い。止まる気が無い。有羽のボディや顔面に、無数のグーパンチが炸裂する事はほぼ確定だった。書類に残してもいいくらいの確定事項だった。
準備を進める護衛や侍女を尻目に、レジーナはアウローラに言葉をかける。
後の事は任せておけ、そんな男前な空気を漂わせながら。
「辺境伯への謝罪の段取りは、私が組んでおくわ。あなたは徹底的にやってきなさい」
「勿論です」
「ついでに、あのボケ賢者の脳天殴り飛ばしてきなさいな。むしろキッチリ片を付けるまで帰って来ては駄目よ」
ついに呼称から「様」が消えた。代わりに頭に「ボケ」がついた。
姉が大層お怒りである。この第一王女は、実のところ本当は妹に甘々だ。基本的には猫可愛がりしている。自制心とか王族の矜持をフル稼働して表に出さないだけで……実際はむしろシスコン寄りなのだ。
なので……自然と拳が動く。隣のアウローラも同じように動く。
出発の準備が進む中、美人姉妹の見事なシャドーが空を裂く。その見事なジャブや右ストレートを、一体誰にお見舞いするつもりなのか。
そこで、今まで逃げ腰だったラディウスが待ったをかける。
流石に、このままではいけないと思ったのだろう。
「あ、あのレジーナ?」
「なによ?」
「僕も同じ光景見たから気持ちは解るけど……非難する権利は無いからね? それに有羽殿が国境線で、星髪のアギトなる脅威を倒したのは事実で、一応大きな恩がある状態な訳だから、あまりに無体なことは」
実際そう。
確かにラディウスも見た、有羽と眼鏡美女の浮気現場? には多少言いたいことはあるが、根本を間違ってはいけない。
有羽とアウローラに実際の恋人関係や、婚姻関係はない。二人は言うなれば今はまだ他人。交友関係にとやかく言う権利は無い。
そしてラディウスが言ったように、国境線の危機を実際に救ったのは有羽だ。言わば国の恩人だ。そんな有羽に対して、無体なことをしたらいけないと。
そんな、至極真っ当な事を伝えた。
けど、すぐに黙った。
だってレジーナの瞳が一切揺らいでいない。
聖騎士が思わず、直立不動になってしまうほど、おっかない。
「――ラディウス」
「はい」
「――黙りなさい」
「はい」
もう駄目だった。悪魔を討滅した聖騎士にも、勝てない相手はいる。
特に目の前の、怒れる妻は、過去最高の危険領域だ。死にたくないなら黙っているしかない。
よって有羽は見捨てられる。ラディウスは、我が身が実に大事だった。
「あー……ちょっといいか王女さん」
「なに?」
その時、今まで蚊帳の外に追いやられていたニクスが、恐る恐るレジーナに声をかける。
返って来たのは、槍で串刺しにされそうな眼光。
ニクスの白髪が、別の意味で白くなりそう。
「……俺も、ついて行っていいか? ほら、どうせ行くのなら俺が同行しても問題ないかなって……」
「好きにしなさい。どうでもいいわ」
本当にどうでもよさそうに、吐き捨てる第一王女。
顔を引き攣らせながら、ニクスが第二王女の方に目を向けると……こっちも同じだった。
「勝手にしろ、白い人」
「白い人……」
名ですら呼ばない。素性の確認すらしない。
もう意識はただひとつ。森に住まう、浮気者のボケ賢者をどうしてくれようか、という女の怒りだけだ。こんな時、男は歯向かってはいけない。ただ粛々と赦しを乞うだけである。
「ははは……そ、それじゃ頑張ってきてくださいね、ニクスさん」
その事を知っているのか、胡散臭い商人は苦笑しながらニクスに手を振る。
だがその行為に、レジーナの眉が少しだけ上がった。
「あら? あなたは行かないの?」
「ええ。賢者様に用があるのはニクスさんだけでして……私は居残りです」
「ふぅん。まあ、どうでもいいけど」
やはりどうでもよさそうだった。
目の前の商人が注意対象なことは変わらないが……それよりも誅すべき戯け者がいる。
少なくとも、今のレジーナとアウローラの拳の行く先は、一点に定まったまま動く気配がない。
この場でよく解ってないのはクロエだけだ。
愛くるしいぬいぐるみボディが、無邪気にちょこちょこ動いてる。
そのちょこちょこ動くぷにぷにボディを、アウローラが抱えて……レジーナに手渡す。
「それじゃクロエ」
【~~?】
「姉上のところでお留守番だ。王国に何かあったら連絡を送ってくれ」
怒り狂っていても、そこだけはぶれない。心の平静を取り戻したアウローラは、クロエの「運用」を考えて正しい配置につかせる。
クロエは距離を無視する連絡員。これから有羽の元に行こうとするアウローラが抱えていい存在ではない。アウローラ自身、大好きで放したくないクロエだが……そこは私情で破らない。
アウローラが私情で判断を狂わせたのは、過去を含めて片手で数えるほど。
三年前の戦争。そして今回の有羽の安否。
大切な人を喪った時、喪おうとした時だけ、彼女の心は不安定になっていく。
そして安定してしまえば――あとは恐ろしいほど冷静に、事は進んでいく。
「アウローラ」
「はい」
レジーナがクロエを抱えながらアウローラを見る。
アウローラは、そんなレジーナの瞳に真っ直ぐ応える。
二人は揺るがぬ瞳と、曲がらぬ決意を同じくして――ただ一言を。
「――ヤッてきなさい」
「――ヤッてきます」
首を掻っ切る仕草と共に、全力の誅罰執行宣言。
浮気男に容赦はしない。
有羽の無事が分かったその日。
何故か別の意味で、有羽の命は風前の灯になるのであった。
◇◇◇
「……んー? なんだろ? 今何か、不思議な視線があったようなー……?」
その時、カレーを幸せそうにむしゃむしゃ食べていた探求神スキエンティアは、違和感を感じて天井を見上げた。
何か遠くから、力を持った存在がこちらを覗いたような気がする。
殺意もなく敵意もなく、ただただ心配そうに覗くような……いうなれば小さな幼子が、柱の陰に隠れて顔を出して見るような。なんとも不思議で温かな視線。
有羽も感じていた。出来上がった熱々のカレーをスプーンで口に運びながら……その視線の正体を掴み取る。
「――ああ。クロエの目だ。アイツならここまで見えるだろうからな」
有羽はクロエの創造主だ。二者の間には、親子――ではないがそれに近い繋がりがある。
無論、クロエ自身の力の大きさも関係しているが、その繋がりを辿って、魔境の森と外界への情報伝達を容易くしていた。
よって上位神ですら全容を探れない森の内部も、有羽のところまでならばクロエは眼も声も届けられる。
問題は、何故今、クロエが視線を向けて来たのか。
有羽は一瞬考えて……すぐに思い至った。
「……ってそっか。ろくに事情も説明せず、いきなり森に戻ったから向こうも気になったか」
「しかも数日寝込んでたもんねー……いいの? 連絡取らなくて?」
「うーん……多分怒ってそうだから、ちょっと怖いなぁ。どうしようかなぁ」
どうしようかなぁ、ではない。既にケツに火が点いているというのに、有羽は首を傾げてぼやくだけ。事の重大さを、全く理解していない。
「ま、後で問題ないって送っておくか。突然悪かった、今は元気で何ともないですって」
それで済む筈がない。むしろ逆効果だ。
なにしろ既に、有羽とスキエンティアが呑気にカレー食ってる姿を見られているのだから。
ここで「元気です」とか「何ともない」など言ったところで火に油を注ぐだけ。
有羽は何も分かってない。今の状態は、第三者からみれば美女との密会現場そのものだということを。
勿論スキエンティアも理解していない。
この探求一直線の文化系オタクは、自分の容姿の事を深く考えていない。
時折、美人探求神ティアちゃんとか何とかほざいているものの、基本的に冗談の類だ。真面目に美貌と向き合っていない。
そして何より――スキエンティアはアウローラのことを知らない。
なんか有羽の知り合いに王国の王女様がいる、それくらいの認識で止まっている。
そして有羽も、その程度の軽い説明しかスキエンティアにしていない。
つまり結論は――とても手遅れだった。
何も知らないスキエンティアは、苦笑しながら有羽に話しかける。
「そんな軽い文面でいいのー? 向こうは心配してるかもよー?」
「そうなんだけど……何か怒られそうでさぁ……まあ、次に会った時にちゃんと謝るよ」
「やーいやーい。有羽君の怖がりー」
「なにおう」
二人とも呑気に、実に呑気に談笑している。
カレー食いながら。本当に楽しそうにご飯食べてる。
もう駄目である。お終いである。しかし、それを指摘する者はここにはいない。
唯一、考えつきそうな有羽でさえ……渾身のカレーの出来にご満悦な様子。
この男、カレーでお腹満たされて、脳がマトモに働いていない。
「それにしても、久々のカレーはやっぱり美味いな。うん。作って正解」
「でしょでしょ? カレーをリクエストしたティアちゃんを褒めたたえてもいいのだよー?」
「作ったのは俺だろうが。何でアンタが偉そうなんだよ」
「いいじゃんいいじゃん、細かいことは気にしなーい……あ、ごめん有羽君。パンもう一個取って」
「あいよ」
そして慣れた手付きで籠に入ったパンを手渡し、二人の仲良しこよしなご飯タイムは過ぎていく。
平和だった。実に平和で呑気な二人だった。
――今まさに、迫り来ようとする稲妻の王女のことを、二人はまだ知らない。




