第122話・昔話②
北の大地に光の神が降りてから、その国は目に見えて変わっていった。
寒さに閉ざされ、痩せた土に喘ぎ、白い息ばかりを吐いていた民の暮らしに、少しずつ余裕が生まれたのだ。
作物が育つようになった。
凍てついた風に枯れるばかりだった草木に、緑が増えた。
獣の毛皮を重ねるしかなかった衣は、布へと変わり、さらに工夫が加えられた。
家の壁は厚くなり、炉は長く燃え、子供たちが寒さに震えながら夜を越える日も減っていった。
暖かな太陽の日差し。
それは、まぎれもなく人々の生活に潤いを与えた。
光の神の恩寵は、奇跡というより、日々の暮らしの中へ静かに染み込むものだった。
朝に凍えず起きられること。
畑に芽が出ること。
冬を越えた先に、春が来ると信じられること。
そうした一つ一つが、北の民にとっては十分すぎるほどの救いだった。
だが、光があるからこそ見える影もあった。
まずひとつは、山脈である。
北の大地を囲うようにして、険しい山々が連なっていた。
東も西も、石と雪の天然の壁が行く手を塞いでいる。
人が越えるにはあまりに過酷で、あまりに遠い。
人の足で辿り着ける場所など限られており、多くの民はその一生を、山のこちら側だけで終えた。
それが、悔しかった。
光の神の教えは正しい。
この暖かさは真実だ。
この救いは本物だ。
ならば、何故それを北の地だけに留めておかねばならないのか。
いずれ、その思いを抱いた者達が現れる。
少数だった。
けれど、確かにいた。
必ず神の教えを広げてくる。
必ず我らの正義を外へ示してくる。
そう言って、山を越えようとした者達がいた。
彼らは祈りを受けて送り出された。
残る民は、火を囲み、膝をつき、白い息を吐きながら願った。
どうか彼らに神の御加護があるように、と。
どうか神の光が、険しい山の向こうにまで届くように、と。
そして人々は、次に南へ目を向ける。
そこには、山脈に塞がれぬ道がひとつだけあった。
広大な森。
大陸中央へと繋がる、深く果てしない森。
あの森を越えれば、外界へ行ける。
そう考える者が現れるのは、自然な流れだった。
だが、それもまた上手くいかなかった。
何故なら、森には黒竜がいたからだ。
巨大で黒く、空を覆うような翼を持ち、咆哮ひとつで人の心胆を凍らせる竜。
恐ろしいのは、その見た目だけではない。
北の大地で最も強いと謳われた戦士でさえ、その爪の一振り、一踏みで終わる。
勇気も、鍛錬も、信仰も、あの竜の前では何の意味も持たなかった。
勝てない。
太刀打ちできない。
それは、認めたくなくとも認めざるを得ない現実だった。
民は神に祈った。
あの竜をどうにかできないものかと。
どうか、あの黒き邪悪を退けてほしいと。
光の神は困った。
助けてやりたい。
救ってやりたい。
その思いは本物だった。
だが、黒竜は強すぎた。
あまりにも古く、あまりにも大きい。
光の神でさえ、その力は及ばない。
神は民を護ることはできる。北の大地の中に留まる限り、暖かさと祝福を与えることはできる。
けれど森へ踏み込み、あの竜を屈服させるには届かない。
だから神は言った。
森へ行ってはならない、と。
この国に留まるなら、自分が護ってやれる。
だが森に出たなら、護れないのだと。
その言葉に、民は悲しみながら従った。
光の神に逆らうことはなかった。
神は暖かさをくれた。
神は救いをくれた。
神に返せるものなど、信仰と服従以外に何があるというのか。
民は祈った。
神の教えに従った。
神が喜ぶとされることを、何でもした。
そうして、また長い歳月が流れる。
ある時だった。
森で異変が起きた。
あの忌々しい黒竜が、苦しんでいる。
理由は分からない。
何故なのか、理屈は誰にも分からない。
だが確かに、黒竜が苦しんでいるのだ。
北の民はざわめいた。
最初は恐れた。
何か別の災厄の前触れではないかと。
だがやがて、その変化にひとつの意味を見出す者が現れる。
自分達が神の教えに従い、善行を積めば積むほど――竜は苦しむ。
そう見えたのだ。
祈りが届いたのだ、と人々は思った。
光の神への百を超える年月の信仰が、ついにあの邪悪な竜を焼き始めたのだと。
神の正しさが、森の奥に届いたのだと。
竜は森から出てこない。
それはこれまで忌々しい事実でしかなかった。
だがその時、人々は初めてそこに感謝した。
森に留まり続けるのなら、そのまま焼き続ければいい。
祈りで、善行で、信仰で。
北の地に留まり、神の教えを積み重ねることで、いつかあの黒竜を滅ぼせるのだと。
ますます民たちは光の神に祈った。
ますます教えに従った。
神が喜ぶというなら何でもやった。
祈りは熱を帯び、熱は信仰となり、信仰は国そのものの形を変えていった。
そうして、また月日が流れた。
ある日。
森の南部に、新たな気配が生まれる。
それは獣でもなければ、竜でもなかった。
まして北の民の知る人間とも少し違う。
異界より訪れた異邦人。
この世界の理から僅かに外れた、どこか異質な何か。
光の神は、その気配を掴んだ。
遠い森の奥で。
長く閉じていた盤の上に、新たな駒が置かれたことを知ったのだ。
それが何を意味するのか、その時点ではまだ誰にも分からない。
だが、北の神は見逃さなかった。
森に、新たな番人が生まれた。
◇◇◇
「――待ちなさい」
レジーナの声は静かで――けれど断ち切るように鋭かった。
向かいに座る商人が、ちょうど次の言葉を口にしかけていたところ。にこやかな笑みもそのまま、目だけを少し丸くして首を傾げる。
「はい? どうしました? ここからが本題なのですけれど?」
「……今のは、何?」
言葉の途中で切り込まれた商人は、相変わらず穏やかな顔をしている。
だがレジーナの方はそうではない。王族の優雅さを保ちながらも、視線の鋭さだけは隠していない。
先程まで商人が語っていたのは、神聖国に伝わる昔話――あるいは神話の一節。
気になる話ではある。むしろ先が聞きたい。
だがそれ以上に、無視できない単語が幾つか混ざっていた。
商人は小さく肩をすくめる。
「何、とは? 私は王女殿下ではありませんので、正確に言っていただかないと」
「……っ……まずひとつ」
レジーナは息を整え、言葉を選ぶ。
「少数の者が山を越え始めた、と言ったわね? それはまさか――」
「はい。その通りかと」
商人はあっさり頷く。
「これが、おそらく外界で「闇ギルド」を創設した者たちなのでしょう」
「――――」
馬車の中の空気が一瞬止まる。
レジーナは、目の前の男をじっと見据えた。
声音は軽い。態度も軽い。
だが、口にした内容はまるで軽くない。
「詳しくは解りませんが、最低でも数百年前から――山を越えて外の大地を見た者が、情熱をもって闇ギルドを創り上げた」
「情熱ですって……?」
レジーナの声に、はっきりと棘が宿る。
王女の威厳ではなく、王族として国家を背負う者の怒りに近い。
「あなた、闇ギルドの活動を知っていて、そのような言い方をするの?」
「だからこそですよ」
商人は笑った。
そこだけ見れば、むしろ穏やかですらある笑みだった。
「苦しく厳しい大地から、ようやく山を越え、初めて外の世界を見た彼ら――その胸に湧いた感情が、歓喜だとは到底思えないのです」
「…………」
「おや?」
商人は、レジーナの顔色を見て目を細めた。
「王女殿下も思い至りましたか?」
「……」
「ええ、きっとその通りです。山を越えて、初めて「他国」を認識した彼らは――きっと、憎悪したことでしょう」
その言葉は、静かだった。
静かなのに、重かった。
北の大地は寒い。
ただ寒いのではなく、生きることそのものが削られていく種類の寒さだ。
神の加護が降りた後ですら、なお厳しい。
ならばその前はどうだったのか。
それはきっと……子が冬を越すかどうかが運任せで、春になった頃には、泣きすぎて声も枯れた親たちだけが残るような土地。
そんな地獄から山を越えた先に、違う世界がある。
寒さはあるが、致死ではない。
作物は育つ。
交易が成り立つ。
飢えと凍死が前提の世界ではない。
その光景を、初めて見た北の民がどう思うか。
国同士の争いがある?
だから何だ。
魔物の被害がある?
それがどうした。
話し合いで済むことではないのか?
力を合わせれば退けられることではないのか?
これだけ恵まれた土地と食と人の数と文明を持ちながら、お前たちは何を、そんな「くだらないこと」で揉めているのだと。
その理不尽。
そのやるせなさ。
その怒り。
それは確かに――歓喜では済まないかもしれない。
「私もニクスさんも神聖国の土地は見ました。肌で感じました」
商人の声は続く。
「確かに――確かに、その点に関してだけは、神聖国の言い分に多少の理はあります。神の加護あってなお、あの土地は寒い。光の神が降りる以前は、一体どれほどの地獄だったのか」
「……」
レジーナは口を開かなかった……開けなかった。
その土地を見たことがない。
その寒さを、肌で知ってはいない。
知らぬことを、知った風に語るのは彼女自身が嫌うところ。
「もっとも、最初この昔話を聞いた時、山越えが闇ギルドの創立に繋がっているとは、私も夢にも思いませんでしたがね」
商人は肩をすくめた。
「精々、外で布教活動でもしていたのだろうと」
「そうね……」
レジーナはゆっくりと息を吐く。
「私も、先の事件で闇ギルドの影が見えなければ、線では結ばなかった」
「でしょう? 本当に北の国は根が深い」
商人は、どこか遠いものを見るように馬車の天井を見上げた。
「どこまでも太く、奥底まで張っている。神が降りた年月から考えれば、千年分の根深さです」
「……」
その言葉に、ニクスは何も言わなかった。
けれど窓の外へ向けていた視線が、ほんの僅かだけ冷えた気がした。
レジーナは、その変化を見逃さなかったが、今は追及しない。
商人の話を遮った理由は、もう一つある。
「次、ふたつめよ。森の南部に、新たな番人が生まれた――と言ったわね?」
「ええ。言いましたよ?」
「……それはつまり、遥か昔から賢者様は森にいた、ということ?」
一瞬だけ。
レジーナの声に、王女としてではない別の感情が混じった。
もしそうなら、話が変わる。
国と国の問題ではなく――アウローラの問題として、ひどくまずい。
有羽の見た目は二十そこそこ。
アウローラと大きく離れた年には見えない。
だがもし、長命種だったり、あるいは姿だけを若く保つ類の存在であったなら――それは姉として、笑って見過ごせる類の話ではなかった。
商人は、そんなレジーナの内心に気づいたのかどうか。
小さく手を振って笑った。
「――ああ。いえいえ、違いますよ。すみません、誤解させてしまいましたかね」
「……」
アウローラの想いを、レジーナは知っている。
真っ直ぐに有羽を見つめる妹を見てしまった以上、相手の年齢が「実は何百歳です」「寿命が違います」みたいな悲劇は、姉としていただけない。
そういう意味で、ひとまず安堵した。
だが同時に、新しい違和感が生まれる。
「では、どういうこと?」
今の昔話は、神聖国の伝承で語られているという。
ならば、今しがた出た「森の南の新たな番人」という記述は、どの時点の話なのか。
「はい、それは簡単です」
商人はあっさり答えた。
「神聖国の伝承は、現在進行形で書き足されているからです」
「……え?」
「お忘れですか?」
笑みを深める。
「あの国は唯一、神が実在している国なのですよ。後世に伝えるための昔話は、常に執筆中なんです」
「……」
レジーナは、一瞬言葉を失った。
けれど納得できる部分も、確かにある。
確かにそうだ。
実際に神が地上へ降りており、その信仰が国の骨格を成している。
ならば神の偉業を讃える物語は、過去形だけでは済まない。
新たな出来事が起これば、それはそのまま「神話」へ編み込まれる。
王国にも歴史はある。
名君も、忠臣も、英雄も、記録され、語り継がれてきた。
それと同じことを、神聖国では「神の名」で続けているだけ。
ただ、そこに実在の神がいるというだけで。
「なので正確には、昔話ではなく「今話」とでも言いましょうか。いやぁ、おかしな言葉ですねぇ」
「……今話でも昔話でも、どちらでも構わないわ」
レジーナはぴしゃりと言い切る。
「それよりも」
「はい、何でしょう?」
「……異界より訪れた異邦人。それは、どういうこと?」
そこが、一番引っ掛かった。
異邦人。
異界より訪れた異邦人。
歴史書を読んできた。
王国の書庫も、他国から取り寄せた記録も、禁書庫に近い分類まで、レジーナは王女として、外交のために目を通してきた。
だが、それでも「異界」という言葉の意味が、今ひとつ噛み砕けない。
単純に考えれば、神々の住まう天界。
あるいは悪魔の棲む魔界。
しかし――。
「いいえ――天界でも魔界でもありません」
「……」
「文字通りの、異なる世界です」
その言葉が、静かに落ちる。
誰もすぐには言葉を発せなかった。
車輪の音だけが、遠く、規則正しく続いている。
商人だけが、相変わらず落ち着いた笑みを保っていた。
「異世界から――かの賢者様はいらっしゃったのですよ」
「――――」
言葉は紡がれる。
事実は語られる。
世渡有羽。
森の賢者。
森奥に住まう、あの黒髪の青年。
それが、ただの森の変人ではなく。
ただの賢者でもなく。
もっと大きな何かの一部なのだということを。




