第111話・琴線
動かないアギトに向かって、有羽が歩み寄っていく。
一歩。
また一歩、と。
足音は軽い。
大河の流れる水音が、ようやく元の穏やかな音色に戻る。
だが、周辺の空気はむしろその逆。世界が有羽の歩みに合わせて重くなる。
有羽の視線の先にいるのは、焼け焦げたアギトの「残骸」だった。
星髪は煤にまみれ、瞳は固く閉じられている。
肌は焦げ、衣服は裂け、絶世の美貌が無惨な形に変わっている。
それでも、完全に砕けていない。
まだ生きてはいる。
死んではいない。
先ほどの熱線――亜空間穴を介して収束と増幅を繰り返し、密度と規模を極限まで高めた破壊光線の直撃を受けて……それでも命を繋いでいる。
レベル七十台の魔物なら一撃で消し炭。
レベル八十台の従属神級ですら、耐えられる前提で撃っていない。
それなのに、まだ呼吸はある。
(仮にも、あの蛇の分身だけある……ってことだろうな)
有羽は理解していた。
直撃の瞬間、アギトは防御障壁を何層も重ねていた。
身体を丸め、腕を交差し、最小の面積に全力を集中する完全防御。
更には空間の位相すら歪め、当たるはずの光線をずらす準備までして。
世界の境界を噛む天蛇の権能――その一端。
(ま、だからどうだって話なんだが)
耐えただけだ。
生きているだけだ。
死に損なっただけとも言う。
意識は落ちている。
まぶたは開かない。
指先すら、ぴくりとも動かない。
もう回避も防御もできない。
次の一撃で確実に死ぬ。
有羽は歩く。
一歩。
また一歩。
アギトに対する配慮はない。
アウローラを殺そうとした――ただそれだけで十分だった。
何故アギトが帝国側についているのか。
帝国の者と、どういう関係なのか。
何を望んで、何が目的なのか。
聞く気もない。
知る気もない。
心底どうでもいい。
だから歩みは止まらない。
止まるはずもない。
――故に、もし事態が変わるとしたら。
それは、人間の側から起こる。
帝国の者たち――兵に将に、そして王までもが。
倒れ伏すアギトの前に立ち、有羽へ敵対の意思を向けた。
盾の代わりに、身体で塞ぐ。
装備は揃っている。
隊形も崩れていない。
だが全員、膝が震えていた。
一人の例外もない。
立ち向かっても勝ち目がないと、全員が理解している。
歯を食いしばり、肩を強張らせ、喉を鳴らしながら。
それでも彼らは――瀕死のアギトを護る位置に立った。
「…………」
有羽は足を止めた。
止めたというより、止まってやった。
帝国の人間を見る。
見るというより、眺める。
数十名。
それなりに良い装備。
それなりに優れた力量。
それなりに覚悟の決まった面構え。
――だが「それなり」では、滑稽なほど、格が足りない。
有羽は、淡々と口を開く。
「……一応聞くけど、帝国の連中だよな、アンタら」
念のため。
本当に念のための確認。
問いかけた声は平坦で、遠慮がない。
間違えたら困るから確認する……その程度の温度。
その確認を受け、巨漢が一歩前へ出た。
帝王ウィルトス。
兵の影に隠れない。
むしろ誰より前に出て、豪快な笑みを作る。
「おうとも。皆、帝国の精兵たちよ……そして余こそが、帝王ウィルトス・ゼノ・ウァリエタースである」
豪胆な声。
豪胆な笑み。
だが虚勢だ。
やせ我慢だ。
流れる汗がある。
首筋が濡れている。
指先が微かに震えている。
ウィルトスとて分かっている。
目の前の男に歯向かって、万にひとつの勝ち目もないことを。
名乗りは堂々としている。
膝を折らず、逃げない帝王の姿を見せつけている。
――だが、その程度で何が変わるわけでもない。
有羽の目は、帝王の名を聞いても動かない。
興味がない。
その名が国を背負っていようと、今この場では意味がない。
「……帝国には色々言いたいこともあるけど」
有羽が言葉を継ぐ。
その色々に、三年前の戦争から連なるアウローラの嘆きや悲しみがある。
だが、有羽はそれを今は棚上げにした。
「とりあえず、そこどいてくれれば、俺はアンタらに手出ししないよ?」
譲歩の形をした脅迫。
優しさに見せかけた通告。
帝王の笑みが、ほんの僅かに固まる。
「それはありがたい!」
ウィルトスは笑いを崩さず言い――次の瞬間、低い声に。
「……だが、できんなぁ。余たちが道を開ければ、貴様はアギトを殺すであろう?」
「そりゃあね」
有羽は即答した。
ためらいがない。
嘘をつく気もない。
「国同士のいざこざなら兎も角、ソイツが王国に――王女さんに手を出した以上、俺だって手出しさせてもらう」
ここだけは誤魔化さない。
脇道に逸れない。
星髪がアウローラを殺そうとした。
だから、星髪を殺す。
理屈は短い。
だから、揺らがない。
帝王は、わずかに眉を動かした。
「……そちらの事情は分からんが、王国に縁があると思ってよいのか?」
「それなりにね」
有羽は肩を竦める。
「まあ、それはお互い様だろ? そっちも、そこのボロ雑巾と縁があるみたいだし」
視線の先には、地面に転がるアギトがいる。
焦げた髪。
破れた衣。
火傷の跡。
それでも、まだ呼吸だけは細く続く。
帝国兵の何人かが、反射で前へ出かけた。
だが出られない。
足が動かない。
次の一撃が、全てを終わらせてしまうと、本能が叫んでいる。
――その時。
「――言っとくけど、そっちの爺さん。無駄な事はやめときな」
有羽の声が、突然横へ滑る。
届いた先は、離れた地点。
居合の構えで腰を落としているハガネ。
痺れが消え、呼吸が整い、刃が研ぎ澄まされている。
剣聖は隙を探していた。
誰もが見過ごす僅かな隙。
超常が相手でも、生まれるかもしれない一瞬の隙。
――そんな隙、有羽は作らない。
「ソレ抜いたら、アンタから殺すよ?」
声が冷たい。
冗談ではない。
忠告でもない。
宣告だ。
ハガネの呼吸が一瞬止まる。
剣聖は動かない。
動けないのではない。
動けば死ぬと理解したからだ。
帝王の口から、乾いた笑いが漏れた。
「……ハガネも太刀打ち出来んか。まあ当然よな」
笑っているのに、声が掠れている。
恐怖を誤魔化す笑い。
「アギトを、ここまで一方的に痛めつけるくらいだ」
そこでウィルトスは思い出す。
以前アギトが言っていた「森の南の引きこもり」。
詳しくは聞かなかった。
そういう存在が居るとだけ教わった。
だが、記憶が確かなら「隠者」と言った。
そして戦いの中でアギトは、この男を「クソ隠者」と呼んでいた。
つまり。
「貴様、もしや魔境の森にいる『南の隠者』とやらか?」
「……ま、そんな感じ」
有羽はあっさり認める。
認めた後で……それでどうする? という顔を浮かべた。
帝王は息を吸い、吐く。
この短いやり取りの間に、帝王の中で計算が走る。
この男は、国の枠にいない。
王の枠にも、兵の枠にも入らない。
つまり――説得の形は「外交」ではない。
ここで必要なのは、もっと単純なもの。
この男の「怒り」を、どうにか折らないといけない。
だが折る材料がない。
有羽は言った。
アウローラを殺そうとしたから殺す。
それだけだと。
つまり、折るのなら――
「そこをどけば、俺はアンタらを見逃すよ? 国同士のいざこざは、また別の話だろうからな」
そう言って、有羽は右掌を帝王へ向けた。
ただ掌を向ける。
その行為で、帝国兵の背中が冷たくなる。
――あの掌が上を向けば、空が落ちる。
――あの掌が横を向けば、地面が裂ける。
――あの掌が動けば、誰かが消える。
そういう確信が、意味もなく湧く。
それは最後通告だった。
どけ。
道を開けろ。
死にたくなければ――アギトを捨てろと。
ウィルトスは――今の状況を「詰んでいる」と判断する。
情報がない。
目の前の男に対する情報が、あまりにも少ない。
分かっているのは三つだけ。
ひとつ、途方もない強さを持っていること。
ひとつ、アギトに対する殺意を消す意思がないこと。
ひとつ、南王国に――いや、第二王女アウローラに対して、何らかの「情」があること。
(被害を最小で済ます方法はひとつ――アギトを差し出すことだけだ)
最短で最小。
それ以外はない。
そもそも勝ち目のない相手からの、脅迫じみた要求だ。
ここで逆らっても何も得られない。
魔境の森に住まう者に対して、交渉も説得も通用しない。
いや、正確には。
交渉材料がない。
説得材料もない。
突然現れた超常存在に、何を差し出して何を引き出す?
金か。領土か。名誉か。地位か。権力か。
――通じるわけがない。
(元々アギトは森の中で偶然出会った存在。帝国の民ではない)
天蛇の領域で出会った。
その出会いは偶然で、共に過ごした期間など一月ほど。
酒を飲んだ。
笑った。
盤上遊戯をした。
魔物を狩った。
それだけの付き合い。
短い。
短すぎる。
そんな短い付き合いのために、命懸けで護る理屈などない。
見捨てたところで致し方ない。
切り捨てる理屈も立つ。
守る価値がない、と言い切ることもできる。
帝国という国家の損失を最小にできる。
むしろ、そうすべきだ。
そうしないなら全員死ぬ。
そして、立ち塞がったところで何もできない。
盾にも壁にもなれない。
あの熱線は全員が見た。
空が裂け、黒煙が上がり、星髪が落ちた。
あれをもう一度撃たれれば、何をどうしようと死ぬ。
諸共死ぬ。
無駄死にで終わる。
全部分かっている。
全部理解している。
退かないのは馬鹿のすることだ。
――分かっているのに。
誰一人、退かなかった。
帝国兵は、動かない。
一歩も引かない。
立ち位置を変えない。
喉が鳴る。
膝が震えている。
歯が噛み合わない。
汗が流れる。
逃げ出したい気持ちがある筈なのに。
それでも、退かない。
「……全員、退く気はないのか」
有羽のその声には呆れが混じっていた。
理解できないものを見る声。
「おうとも。退かん」
ウィルトスは笑みを作り、声を張る。
帝王の声は、兵の震えを押し隠すための柱だ。
彼が倒れれば、後ろの全員が崩れる。
だから笑う。
有羽は目を細め、続けた。
「……俺も、多少そっちの事情は知ってる。そこのボロ雑巾と、出会って一ヶ月くらいだよな?」
帝王の笑みが、ほんの少しだけ固まる。
相手は事情を知っている。
分かっている。
そこまで把握されてることに脅威を感じ――それでも声を張る。
「その通り。よく知っているな!」
「……で、俺に勝てないことも、十分理解してるよな?」
「勿論だ! 先程の戦いを見て、力の程を分からぬ兵など帝国にはおらんぞ!」
兵たちも、喉を震わせながら頷く。
頷いて、歯を食いしばる。
有羽は眉を動かさず、最後の言葉を落とした。
「……それでも……それでも、退く気がないのは何でなんだ?」
そして、吐き捨てる。
「馬鹿だろ、正直言って」
正論だ。
正しい。
残酷なほど正しい。
帝国側にいる者たちは、それを受けて――笑った。
自棄の笑み。
自暴の笑み。
恐怖をごまかす馬鹿の笑み。
だが、それでも。
「――馬鹿で結構!」
ウィルトスの声が一段上がる。
そして、断言する。
「友を見捨てる痴れ者より、何倍もマシよ!!」
その瞬間、帝国兵の背筋が揃う。
震えていた膝が、ほんの少しだけ静止する。
恐怖は消えない。
勝ち目が無いのも変わらない。
それでも、心に「芯」が入る。
帝国は、多くの命を奪ってきた。
群雄割拠の東部で、侵略もしてきた。
奪い、燃やし、踏み潰してきた。
だが。
建立から今に至るまで、一度もやらなかったことがある。
それは――「友」を見捨てること。
「友」の命を踏み躙ること。
我が身可愛さに「友」を敵に差し出すこと。
それだけは、一度もない。
たとえ相手がどんなに強大でも。
たとえここで無駄死にすると分かっていても。
それを選んだ瞬間、ウィルトスは帝王でなくなる。
王どころか、人ですらなくなる。
ただの外道に成り下がる。
有羽は眉を動かした。
ほんの僅かだ。
だが、確かに。
「……森の中で会った蛇の分身が「友」、か。一月かそこらでねぇ……」
呆れに近い声。
理解できない、という響き。
帝王は笑う。
豪快に。
胸を張って。
「友と呼ぶのに、生まれや年月など関係なかろう?」
帝王は笑いながら言い切る。
人好きのする、馬鹿みたいにまっすぐな笑みのまま。
「共に戦い、共に酒を酌み交わせば……それは友だ」
その言葉に、兵たちが苦笑する。
冗談みたいな理屈。
だが、帝国ではそれが本気だ。
「肩を並べて歩く、余の友だ。帝国の友よ!」
その言葉に、兵の目に熱が灯る。
この言葉を胸に、帝国は今日まで歩いてきた。
この言葉を言う帝王の背中を見ながら、今日この日まで戦ってきた。
ならば止まらない。
この馬鹿みたいな帝王と同じように――帝国兵は「友」を見殺しにしない。
「やれやれ……」
遠くにいたハガネが、疲れたような声を出す。
そして再び居合の構えを取る。
ここで死ぬ覚悟を決めた――そんな構え。
帝国の誰も、退く気はなかった。
アギトを差し出して生き残る選択を取らなかった。
馬鹿で、無謀で、考えなし。
だが、その馬鹿さが――
有羽の「何か」に触れた。
帝王の行動が、有羽の中にある「どこか」に触れた。
非情なだけの暴君なら、決して触れなかった場所に。
「……はぁ」
有羽が息を吐く。
溜息だ。
苛立ちではない。
呆れでもない。
――諦めに近い溜息。
そして、有羽は右手を下ろした。
それだけで空気が変わる。
先ほどまで漂っていた「処理」の気配が薄れる。
殺気が霧のように引く。
帝国兵の肩が、わずかに落ちる。
王国側の兵も、息を飲む。
誰も、何が起きたか理解できない。
ただ、理解できることが一つだけある。
有羽の意思が変わった。
同時に、有羽は帝王を見た。
眺めるのではなく、ちゃんと目を向けた。
「……お前ら、本当に馬鹿なんだな」
言い方は相変わらず悪い。
だがその声には、さっきまでの冷たさがない。
罵倒ではない。
嘲笑でもない。
どこか――ほんの僅かな理解が混じった音。
何を言うつもりなのか。
次にどんな行動を取るのか。
そこまではまだ分からない。
だが確実に――アギトの命を奪おうとする意思だけは、ひとまず消えていた。




