第106話・激闘①
それは、人の領域を遥かに超えた戦いだった。
エルム大河の上空――河を挟んだ国境線の上空で、空気そのものが何度も裂けては縫い合わされている。
河の流れはもはや一定ではない。水面は鼓動のように上下し、衝撃が来るたび飛沫が刃のように斜めへ散り、岸の草を叩く。
兵の叫びは誰にも届かない。
命令も聞こえない。
聞こえるのは、衝突のたびに鳴る「世界の破裂音」だけ。
その中心に、星髪の少女がいた。
アギトは、狂気に満ちた笑みを浮かべながら宙を蹴る。
空中でくるりと身体を回し、狂気じみた軽さのまま右手を振り下ろす。
「――らぁ!」
右手が振り下ろされる。
切る。裂く。噛み千切る。
その概念を、指先に押し込めている。
標的は、小さなゴーレム――クロエ。
子猫ほどの体躯に、葉のような緑の髪。
柔らかそうな丸い手足と、硝子玉の目。
けれど、その小さな輪郭の内側には、神々と同等の力が詰まっていた。
爪が迫る。
その瞬間――世界に響く宣告と共に、クロエの前方に緑の光が走った。
【葉盾】
葉脈のような細かな紋が、空中に展開される。
それは盾ではなく、繭に近い。薄い膜が何層も重なり、葉の筋が光となってクロエの身体を包む。
その繭にアギトの爪が触れた瞬間――閃光が爆ぜた。
火花が散る。
ただの火花ではない。空気が削れて生まれる青白い火花。
盾の表面が軋み、葉脈が悲鳴のように振動する。
クロエは防いだ。
防いだ、はずだった。
だが、葉盾に「ヒビ」が入る。
【~~っ!】
クロエの声はない。
けれど衝撃が、痛みが、破壊が、彼女の内部に浸透していくのが分かる。
盾が押される。押されるたび、葉脈の線が一本ずつ白く焼け、細かく裂けていく。
アギトはにたりと笑った。
楽しそうに――破壊行為を楽しそうな顔で実行していく。
「どうしたどうした、お人形! そんな軟な盾でアタシの『牙』を防ぎきれると思ってるのかねぇ!?」
次いで、左手が水平に薙ぎ払われた。
動作は軽い。だが、振った瞬間に空気が切断音を立てた。
左腕の爪牙が、葉盾の横腹へ突き立つ。
爪牙に込められた魔力が唸る。獣の咆哮のような低音が、空気を震わせる。
瞬間――砕けた。
ぱん、と薄い破裂音がして葉脈の光が霧散する。
盾の破片は、細かな緑の粒子になって飛び散った。
クロエの小さな体が、ふわりと後ろへ流される。
その瞬間――クロエの反撃が飛ぶ。
【芽撃】
砕けた盾の向こう側から、圧縮した木片の弾が噴き出した。
木片の雨が、横殴りに落ちる。
一発一発が鉄を貫く密度と硬度を持っている。木片というより、短い杭。樹の概念を弾丸にしたような無数の豪雨。
「おおっと!?」
アギトは笑いながら両手を振るう。
爪で弾を砕く。掌で弾を弾く。脚で受けて捻る。
受けた木片が背後へ飛び、遠くの水面に突き刺さって小さな噴水を上げた。
そのまま後方へ滑るように距離を取った。
地面を削るように下がる。全ての弾丸を弾き、逸らし、直撃した弾丸はひとつも無い。
クロエは、距離を詰めない。
根と苗が周囲に伸び、ふわりと壁を作る。蔓が網になる。葉が重なる。
守るための領域が、小さな体の周囲に密集していく。
睨み合い。
クロエは空中で、アギトは地上で。
超常の二体が停止する。
停止しているのに、周囲の空気は止まらない。
苗界が呼吸するように伸び縮みし、アギトの爪が境界を噛もうと小さく軋む。
「いやぁ固いねぇ、おちびちゃん」
アギトは楽しげに言う。
「女帝のおばさんゆずりかな? それとも引きこもりの隠者直伝?」
【……】
「にゃははは! そっかそっか言葉は喋れないかぁ! そっちの機能は無いんだね、お人形!」
クロエは答えない。
言葉は皆無。
ただ、硝子玉の瞳で見据える。
まっすぐに、静かに、揺らがずに。
その瞳の奥にあるのは、ただ一つの事実だけ。
目の前の敵が――アウローラを殺すつもりで爪を振るった。
それだけで十分だった。
帝国だろうが、天蛇の分身だろうが、どうでもいい。
守るべき温かい人を奪おうとした。
だから敵だ。
その単純さが、クロエの意志を鋼のように固める。
それを掴んだアギトの口元が、凶暴に歪む。
楽しさが消え、攻撃性だけが残る。
「――へぇ」
吐息のような声が、冷たく落ちる。
「いっちょ前にアタシを睨むか。いいよ。アタシも同じ気持ちなんだ」
アギトの瞳が、わずかに暗くなる。
その暗さは、最近手に入れたもの。
兵の死を見送って生まれた、感情の影。
「お前が守ったあの女は、おっちゃん達の仲間を沢山殺したって聞いてるし」
クロエは意味を全部は理解しない。
だが「悪意」と「敵意」は分かる。
この言葉が、アウローラを傷つけるために投げられていることは分かる。
アギトは続ける。
「最初はさぁ、どうでもよかったんだけどね。へへ……今はちょっと苛つく」
その「ちょっと」が危険だった。
超越者が抱く感情の尺度は、人間のそれとは違う。
少しの怒りが、国を焼く。
クロエの苗界がざわりと鳴った。
根が太くなる。蔓が増える。葉が重なる。
守るための世界が、もっと厚くなる。
それを見て、アギトは肩を揺らして笑った。
「神聖国の連中の前に、邪魔者から消さないとね――アタシの憂さ晴らしも兼ねてさぁ!!」
次の瞬間――アギトが跳んだ。
爆音が足元から生まれる。
地面が弾けて。距離が折り畳まれる。
矢のような勢いで迫る星髪。
クロエは受ける。
大地から無数の蔦が伸びる。
一本一本が意思を持った触手のように唸り、空を裂いてアギトへ奔る。
蔦はただの植物ではない。クロエの命により、攻撃性を強制された槍だ。
アギトは、その蔦の槍を掴む。
掴んだ蔦が、ぎしりと鳴る。
彼女の指先が境界を噛む。
蔦は途中で「概念」を失い、ばらけて落ちる。
だが蔦は次々に生える。切られても、掴まれても、増える。
アギトは身を捻り、足で薙ぎ払い、爪で噛み切りながら前へ出る。
クロエは空を翔ける。
浮くなどという生易しい動きではない。
小さな体が矢のように加速し、アギトの間合いから離れ、時に交差し、また受ける。
葉脈の盾が展開される。
根の壁が生える。
苗界が伸びる。
アギトの爪が裂く。
裂けた空間が鳴る。
噛まれた場所が削れる。
一進一退。
攻めの威力はアギトが上。
防御の厚さはクロエが上。
その差が、戦いの形になる。
地上では、大河の水飛沫が両国の兵へ叩きつけられていた。
濡れる甲冑。濡れる旗。濡れる頬。
兵たちは誰も動けない。動いた瞬間に、この天災の余波で消し炭になる未来が見えていた。
その最中――アギトが叫ぶ。
「噛み砕く咎人の牙ォ!」
両手が、牙になる。
爪の形がより明確に固定され、空気が鋭利に震える。
彼女が振るえば、領域そのものが噛み砕かれる。
そして――クロエが応える。
【地相撃槍】
大地が呼応する。
河岸の土が盛り上がり、無数の石杭が生える。
杭はただ突き上がるのではない。狙いを持って伸びる。アギトを貫くために。
牙が迫る。
石杭が迫る。
――衝突。
杭が噛み砕かれる。
噛み砕かれた破片が雨になる。
その雨の中で、別の杭が生える。
生えた杭を、また噛む。
噛んだ瞬間、クロエの根が絡みつき、牙の進路をずらす。
アギトが笑い声を漏らす。
クロエの苗界がさらに厚くなる。
戦いは続く。
国境線の大河の水面を激しく揺らしながら。
両岸へ水飛沫を飛ばしながら。
地形すらも変えながら。
◇◇◇
そんな人知を超えた激戦が繰り広げられる、国境線の天蓋。
その天蓋の下で――地上では、人の臨界がぶつかっていた。
「――づあっ!」
「――ふっ!」
呼気と呼気が交差する。
剣と刀がぶつかり合う。
河岸の土を蹴って、アウローラとハガネが駆ける。
河岸の足場はぬかるみ、石が転がり、飛沫で滑りやすい。だが二人の足捌きは、そういった環境要因すら計算に入れて動いている。
アウローラの片手半剣は、薄い光膜を纏っていた。
高密度の魔力付与。刃筋の一瞬一瞬に合わせて濃淡が変わる。受ける瞬間は強く、斬り込む瞬間は鋭く。護るだけではなく、切るための強化。
一方、ハガネの刀――夜叉は漆黒の刃を持つ。
黒金の呪いが空気に滲むような冷たさを放ち、近づくだけで胸の奥がざらつく。精神を苛む毒のような圧があるのに、ハガネの呼吸は乱れない。呪いを道具のように扱い、刃の性質だけを引き出している。
ぶつかり合うたびに火花が散る。
ただの金属摩擦ではない。魔力と呪いが擦れ合い、爆ぜるような音がする。
耳に刺さる高音と、腹に落ちる低音が同時に鳴って、剣戟が爆音として戦場に響く。
――二人の剣閃の質が違った。
ハガネの剣は、風のように速い。
余分がない。刃の角度が変わるのが見えない。振り上げではなく、既にそこに刃があるような切り込み。
速さと技で断つ――それだけで、あらゆる防御を薄くする。
アウローラの剣は、雷のように重い。
速いのに重い。勢いがあるのに乱れない。踏み込みの圧がそのまま刃の圧になる。
力と勢いで砕く――それだけで、受けを強要する。
差異はある。
だが共通点は一つ。
どちらも人の臨界を踏み越えていることだ。
刃が交わる。
弾く。
避ける。
踏み込む。
また交わる。
その一連の動きが、常人の視界に残らない速度で繰り返される。
兵が見ているのは残像と火花だけだ。
そして、その残像がどちらの方向へ伸びたかで、次の瞬間の位置を必死に追う。
河岸の砂利が舞う。
踏み込みのたびに地面が削れる。踏んだだけで土が跳ねる。重心移動の速度が、常人の動体視力を容易く越えている。
そして、その剣戟の最中。
時折生まれる僅かな間隙を逃さず――アウローラが左掌を開く。
「稲妻!」
雷が走る。
剣を振るいながら魔法行使――それだけでも常人の領域ではない。詠唱もなく、指先の角度と呼吸だけで回路を起動する。雷速の光が一直線にハガネへ伸びる。
本来なら、避けられるはずがない。
反応すらできない速度だ。
だが。
「――っ」
ハガネは眼を細めて――避けた。
見て避けるのではなく、来る前に避ける回避行動。
雷の起こり――魔力が集束し、風が微かに歪むその「前段」を、魔力の「起こり」を肌で捉えている。
ほんの僅かに腰を落とし、肩をずらし、刃の軌道を変えながら身を捻る。
稲妻が、頬を掠めるほど近くを走り抜けていき、焦げた匂いが一瞬だけ鼻を刺す。
アウローラは驚かない。
驚いている暇などない。
避けられた瞬間に――生まれた僅かな空白を逃さず、彼女は次の段階へ移っている。
跳ぶ。
後方へ跳び、距離を取る。
逃げではなく、魔法を完成させるための間。
火――球内部で励起を持続。
風――球表面に微細な旋回流を作り形状保持。
そして最後に、衝撃で崩壊させる遅延放電構成。
掌に、青白い球が生まれる。
光が唸る。球の表面で細かな雷が奔り、空気が焦げ、細かな青い火花が踊った。
「雷電球!」
アウローラが射出する。
雷速で迫る魔力球。
避けても地面衝突後に拡散放電し、周囲を薙ぎ払う構成。
体捌きだけでは防げない「面」の攻撃。
――それを。
「――破空」
夜叉が走る。
斬った。
魔力球を、断ち切った。
斬るというより、術式を「断絶」した。
球の内部構成が、刃の通った線で二分され、分かれた瞬間に意味を失って霧散する。
放電するはずの力場が、拡散する前に「形」を失う。
夜叉の力だけではない。
ハガネの剣技が、魔法を魔法として扱わず「斬れる現象」に落とし込んでいる。
消失する光。
爆ぜるはずだった雷は、空気の中に溶けて消えた。
(……とんでもない老人が居たものだ)
アウローラの胸中に、短い感嘆が走る。
敵である。
敵であるが――剣士として、眼前の技に敬意が湧く。
自分の魔法を「斬る」程の剣技。構成を断絶して崩す妙技。
それは魔導師の理屈とは別の世界だ。
そしてその技が、偶然ではないことも分かる。
老剣士は今、ただ漠然と切ったのではない。
魔法の「根幹」を狙っている。
魔術構成の「起こり」を斬る。繋がりを断つ。
理屈として理解した瞬間、背筋が冷えた。
(あの剣の冴え……まさか、剣聖か?)
名前だけは知っている。
伝説に謳われる人類最高峰の剣士。
姿を見たことはない。
だが、眼前の老人の剣技は、その伝説以外の説明を許さなかった。
(……貴方に会うのは、子供の頃からの夢であったのだがな)
会うことが夢だった。
剣を学ぶ者なら一度は憧れる。
剣の果てを見せてくれる存在。
なのに、会った場所が国境線で、刃を交える形だ。
笑えない巡り合わせ――それでも、嘆く暇はない。
こうして剣を交わして理解した。
剣聖の剣技は、アウローラを上回っている。
技も、経験も。
視線を外す暇などない。外した瞬間に、首が飛ぶ。
アウローラは剣を構え直し、魔力をもう一段引き上げる。
魔力付与の光膜が濃くなる。刃の縁が青白く光り輝く。
彼女の戦意は衰えない。
むしろ、強敵を前にして研ぎ澄まされる。
対してハガネも、眼前の王女の強さに舌を巻いていた。
(……見事。その若さで、よくぞここまで練り上げた)
王国の姫君に対する手放しの称賛。
英雄級と聞いていたが、聞いていた以上だった。
帝国北部で斬った神聖国の加護持ち小隊――あれらは強い。
障壁を張り、加護で身体能力を底上げし、数で押してくる。
だが、目の前の姫君は、それらとは別次元の強者。
(神聖国の似非加護者など、足元にも及ばん)
加護に胡坐をかく者では、絶対に届かない領域。
これは才能だけで辿り着ける力量ではない。
血の上に積んだ技。
死線の上に積んだ判断だ。
そして何より――稲妻。
(あの速さを見てから対処するのは不可能。おかげで踏み込みきれぬ)
ハガネは自分が優位だと分かっている。
剣の理だけなら、姫を斬れる。
だが、斬り込む一歩の間に雷が走る。
受けを考えない攻めは、稲妻に貫かれて終わる。
だから攻めが一歩足りない。
レベルで上回っていても。
剣技でも上回っていても。
それでも仕留め切れない。
稲妻の王女の「剣と魔法の両立」が、剣聖の最短距離を封じていた。
ハガネは呼吸を深くする。
呪いの黒金が刃の奥で不機嫌に鳴く気配を、強靭な精神で押さえつける。
妖刀を制するのは力ではない。
剣の理――ハガネの意志だ。
アウローラも呼吸を整える。
雷の回路を体内に保持したまま、剣の足運びを崩さない。
一歩踏み込むたびに、魔力が揺れる。その揺れを揺れのままにせず、刃に乗せる。
そして両者、奇しくも同じ言葉に辿り着く。
(――このような形で会いたくはなかった)
(――だが、これも戦か)
上空からまた轟音。
水飛沫が顔を叩く。
その滴が、アウローラの頬で弾け、ハガネの眉を濡らす。
二人とも視線を上げない。
上を見れば、一瞬の隙になる。
隙は死だ。
そして――再び刃が走る。
夜叉が唸る。
稲妻が光る。
地上の戦いはまだ終わらない。
上空の戦いも終わらない。
国境線の上で、二つの戦域が激しさを増している。
そしてその激しさが、次の瞬間に何を生むかを――誰も見通せないまま、刃と雷はなおも火花を散らし続ける。
◇◇◇
国境線の上で、世界が二つに割れる。
ひとつは空。
もうひとつは地。
空では――星髪の顎が笑い、苗界の芽姫が黙って耐え、噛み砕く牙と増え続ける根が衝突する。そのたびに、空間がひび割れるような音が鳴り、裂けた空が白く光り、遅れて轟音が落ち、河面の水が跳ね、岸の土が震える。
地では――稲妻の王女が雷を操り、老境の剣聖がそれを斬って捌き、剣と刀がぶつかるたび、魔力を孕んだ火花が稲光のように走った。足元の砂利が舞い、河岸が削れる。二人の動きは速すぎて、残影しか目に残らない。
常人が手を出すことを許されない領域が、同時に二つ。
それが、たった一本の大河の上で並走しており――兵たちは動けなかった。
空は、物理的に届かない。
クロエは小さな体のまま矢のように飛び、苗界の根と蔓を踏み台にして空を縫う。動きの残像すらまともに見えない。
アギトはさらに酷い。大地と空を往復し、爆音とともに跳び、衝撃とともに落ちる。地面を蹴った場所が砕け、着地した場所が沈む。距離を距離として扱っていない。
地も、近づけない。
アウローラとハガネの間合いに入れば、剣の風圧だけで体を裂かれかねない。そこへ雷が走る。迂闊に踏み込んだ瞬間、稲妻で焼かれて倒れるのは確実だ。
避け続けているハガネが異常なのだ。あの老人は、雷速の光ですら避けながら、刃を振るっている。
だから誰も介入できない。
介入しようとした時点で、ただの的になる。
国境線は、今や「見守るしかない地獄」になっていた。
その地獄の中で帝王ウィルトスは――短く息を吐き、腹の底から声を落とした。
「伝令!」
轟音の合間を縫うように、近くの兵に届かせる。
「グレゴールの砦まで戻り、兵を集めよ。領民の避難も忘れるな――急げ!」
「――はっ!」
伝令兵が馬を引き、鞍に飛び乗り、踵を入れる。
馬が嘶き、泥を蹴り、川岸から遠ざかっていく。
ウィルトスは視線を逸らさない。
伝令が視界の端から消えていくのを確認しても、顔を前へ向けたまま、王国側を見続ける。
――王国側でも、同じ動きがあった。
数名の兵が、背を向けて河から離れていく。
足取りが速い。迷いがない。おそらく伝令だ。
間違いなく、王国側も同じ判断を下している。
即ち、戦争の再開を念頭に置いた招集。
軍の集結。
避難の準備。
(……最悪だ)
ウィルトスは、歯を食いしばる。
(今ここで戦が始まれば、両国とも悲惨だ。下手をすれば勝者すら生まれぬ。血だけ流れて、国が痩せる)
帝王の頭の中には、地図がある。
国境線。七砦。補給路。砦の倉庫。街道。魔物。
そして北の山脈。神聖国。要塞。加護。小隊の異常戦力。
(帝国は今、北を見ねばならぬ。王国と消耗戦など、愚の骨頂)
ウィルトスは戦好きだ。
だが戦を「目的」にした過去を悔いている。
だから今は、戦争の「着地点」を定められない戦いは望まない。
王国側も同じだろう、と分かる。
あの王女――アウローラは憎い。
だが憎いだけではない。
今、彼女がしているのは「守り」だ。帝国を倒すための攻勢ではない。国境を燃やさぬための制御だ。
互いに挑発に付き合ったのは、分かり合っていたからだ。
――次に起こる戦争は、三年前の「決着」を定めるためのものになる。
――徒に血を流す戦ではない。
――終わり所を見失うな。
帝王も王女も、自分の憎しみを飲み込みながら、そう決めていた。
言葉の端々で、互いにそれを確認していた。
しかし――アギトとクロエが衝突した。
ハガネが止めに飛び込んだ。
そのハガネがアウローラと激突した。
そして今、その戦闘が現在進行形で続いている。
(この状況で、戦争再開を考慮しない王など暗君でしかない)
ウィルトスは自身に言い聞かせる。
望まぬ再戦であっても、状況が許さない段階に来ている。
時として王は、国を生かすために嫌な判断を強いられる。
(……だが、まだだ。まだ止まる可能性はある)
視線を僅かに上へずらす。
空中で、星髪と芽姫が噛み合っている。
裂けた空間を根が埋め、埋めた根を爪が噛み砕く。
水面が抉られ、岸の土が削れ、草が千切れる。
そのたびに、アギトが笑い、クロエが黙って耐える。
止めるには――アギトが正気を取り戻すしかない。
だがその可能性は薄い。あの目は遊びの目ではなく、怒りの目だ。
怒りを知ったばかりの子供の目。
さらに視線を下へ戻す。
河岸で、アウローラとハガネがまだ火花を散らしている。
剣と刀がぶつかるたび、魔力音が破裂し、稲妻が走り、夜叉がそれを斬る。
両者とも、遠目ですら目で追うのがやっとの速度。
どちらも、常人では届かない領域。
(……無理だ)
一目見て悟る。
自分が加勢できる戦いではない。
ウィルトスも腕に覚えはある。レベル四十越えの将軍級の力量。
だが英雄や伝説の領域には掠りもしない。
踏み込んだ瞬間、役に立つどころか一瞬で死ぬ。
そういう確信が、冷静な計算として立つ。
(そして、だからこそ余の精兵たちも手を出せぬ)
帝国兵は全員、顔が戦になっている。
今にも河を越えて王女を討ちたい顔をしている。
だが動けない。
動けば、あの二つの戦闘の余波に飲まれて死ぬ。
王国側も同じだ。
河向こうでは、王国兵がこちらを睨んでいる。既に武器を抜いている者もいる。矢を番えた者もいる。
だが彼らも動けない。動けば、戦争が始まるのが解っている。
ウィルトスは、その視線を受け止める。
(余が動けば、王国兵は一斉に動く。余の首を獲らんとして)
それを、帝王は理解している。
だから動けない。
皮肉だった。
好戦的な帝王が、今この場で誰よりも戦を止めたがっている。
戦は好きだ。
だが無意味な流血は嫌いだ。
三年前の過ちを、二度と犯さないと決めている。
だから今は、睨み合い続けるしかない。
上空と河岸で起きているものが、どちらに傾くかを見ながら。
そして、その「傾き」こそが最悪だった。
アギトとクロエの戦いが、いずれどちらかへ傾く。
ハガネとアウローラの戦いが、いずれどちらかへ傾く。
傾いた瞬間、兵は動く。
勝者を助けに行くために動く者もいるだろう。
敗者を救うために動く者もいる。敵を討つために動く者だっている。
そのどれもが、国境線の停戦を破る。
止まるはずだった歯車が、そこで一気に噛み合って加速する。
決着点を定めないまま、憎しみと怒りだけを燃料にして。
三年前以上の戦争が起こる。
ウィルトスは、奥歯を噛み砕きそうなほど食いしばった。
(だからこそ、備えるしかない)
備えは戦争を近づける。
だが備えなければ、国が、民が死ぬ。
帝王は、矛盾の中に立つ。
戦を止めたいのに、兵を集める。
血を流したくないのに、軍に命じる。
勝ちたいのではなく、生かしたいのに、戦争の形を整える。
目の前で、空が裂ける。
地で火花が爆ぜる。
轟音が大河を震わせ、飛沫が頬を叩く。
帝王は、ただひたすらに睨み続ける。
戦が始まる前に止まる可能性が、まだ僅かでも残っていることを――祈りではなく、執念として掴みながら。




