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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第七章

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第106話・激闘①


 それは、人の領域を遥かに超えた戦いだった。


 エルム大河の上空――河を挟んだ国境線の上空で、空気そのものが何度も裂けては縫い合わされている。

 河の流れはもはや一定ではない。水面は鼓動のように上下し、衝撃が来るたび飛沫が刃のように斜めへ散り、岸の草を叩く。


 兵の叫びは誰にも届かない。

 命令も聞こえない。

 聞こえるのは、衝突のたびに鳴る「世界の破裂音」だけ。


 その中心に、星髪の少女がいた。

 アギトは、狂気に満ちた笑みを浮かべながら宙を蹴る。

 空中でくるりと身体を回し、狂気じみた軽さのまま右手を振り下ろす。


「――らぁ!」


 右手が振り下ろされる。

 切る。裂く。噛み千切る。

 その概念を、指先に押し込めている。


 標的は、小さなゴーレム――クロエ。

 子猫ほどの体躯に、葉のような緑の髪。

 柔らかそうな丸い手足と、硝子玉の目。

 けれど、その小さな輪郭の内側には、神々と同等の力が詰まっていた。


 爪が迫る。

 その瞬間――世界に響く宣告と共に、クロエの前方に緑の光が走った。


葉盾(リーフ・シェル)


 葉脈のような細かな紋が、空中に展開される。

 それは盾ではなく、繭に近い。薄い膜が何層も重なり、葉の筋が光となってクロエの身体を包む。


 その繭にアギトの爪が触れた瞬間――閃光が爆ぜた。

 火花が散る。

 ただの火花ではない。空気が削れて生まれる青白い火花。

 盾の表面が軋み、葉脈が悲鳴のように振動する。


 クロエは防いだ。

 防いだ、はずだった。

 だが、葉盾に「ヒビ」が入る。


【~~っ!】


 クロエの声はない。

 けれど衝撃が、痛みが、破壊が、彼女の内部に浸透していくのが分かる。

 盾が押される。押されるたび、葉脈の線が一本ずつ白く焼け、細かく裂けていく。


 アギトはにたりと笑った。

 楽しそうに――破壊行為を楽しそうな顔で実行していく。


「どうしたどうした、お人形! そんな軟な盾でアタシの『牙』を防ぎきれると思ってるのかねぇ!?」


 次いで、左手が水平に薙ぎ払われた。

 動作は軽い。だが、振った瞬間に空気が切断音を立てた。

 左腕の爪牙が、葉盾の横腹へ突き立つ。

 爪牙に込められた魔力が唸る。獣の咆哮のような低音が、空気を震わせる。


 瞬間――砕けた。


 ぱん、と薄い破裂音がして葉脈の光が霧散する。

 盾の破片は、細かな緑の粒子になって飛び散った。

 クロエの小さな体が、ふわりと後ろへ流される。

 その瞬間――クロエの反撃が飛ぶ。


芽撃(スプラウト・ショット)


 砕けた盾の向こう側から、圧縮した木片の弾が噴き出した。

 木片の雨が、横殴りに落ちる。

 一発一発が鉄を貫く密度と硬度を持っている。木片というより、短い杭。樹の概念を弾丸にしたような無数の豪雨。


「おおっと!?」


 アギトは笑いながら両手を振るう。

 爪で弾を砕く。掌で弾を弾く。脚で受けて捻る。

 受けた木片が背後へ飛び、遠くの水面に突き刺さって小さな噴水を上げた。


 そのまま後方へ滑るように距離を取った。

 地面を削るように下がる。全ての弾丸を弾き、逸らし、直撃した弾丸はひとつも無い。


 クロエは、距離を詰めない。

 根と苗が周囲に伸び、ふわりと壁を作る。蔓が網になる。葉が重なる。

 守るための領域が、小さな体の周囲に密集していく。


 睨み合い。

 クロエは空中で、アギトは地上で。

 超常の二体が停止する。

 停止しているのに、周囲の空気は止まらない。

 苗界が呼吸するように伸び縮みし、アギトの爪が境界を噛もうと小さく軋む。


「いやぁ固いねぇ、おちびちゃん」


 アギトは楽しげに言う。


「女帝のおばさんゆずりかな? それとも引きこもりの隠者直伝?」

【……】

「にゃははは! そっかそっか言葉は喋れないかぁ! そっちの機能は無いんだね、お人形!」


 クロエは答えない。

 言葉は皆無。

 ただ、硝子玉の瞳で見据える。

 まっすぐに、静かに、揺らがずに。

 その瞳の奥にあるのは、ただ一つの事実だけ。


 目の前の敵が――アウローラを殺すつもりで爪を振るった。

 それだけで十分だった。


 帝国だろうが、天蛇の分身だろうが、どうでもいい。

 守るべき温かい人を奪おうとした。

 だから敵だ。

 その単純さが、クロエの意志を鋼のように固める。


 それを掴んだアギトの口元が、凶暴に歪む。

 楽しさが消え、攻撃性だけが残る。


「――へぇ」


 吐息のような声が、冷たく落ちる。


「いっちょ前にアタシを睨むか。いいよ。アタシも同じ気持ちなんだ」


 アギトの瞳が、わずかに暗くなる。

 その暗さは、最近手に入れたもの。

 兵の死を見送って生まれた、感情の影。


「お前が守ったあの女は、おっちゃん達の仲間を沢山殺したって聞いてるし」


 クロエは意味を全部は理解しない。

 だが「悪意」と「敵意」は分かる。

 この言葉が、アウローラを傷つけるために投げられていることは分かる。

 アギトは続ける。


「最初はさぁ、どうでもよかったんだけどね。へへ……今はちょっと苛つく」


 その「ちょっと」が危険だった。

 超越者が抱く感情の尺度は、人間のそれとは違う。

 少しの怒りが、国を焼く。

 クロエの苗界がざわりと鳴った。

 根が太くなる。蔓が増える。葉が重なる。

 守るための世界が、もっと厚くなる。

 それを見て、アギトは肩を揺らして笑った。


「神聖国の連中の前に、邪魔者から消さないとね――アタシの憂さ晴らしも兼ねてさぁ!!」


 次の瞬間――アギトが跳んだ。

 爆音が足元から生まれる。

 地面が弾けて。距離が折り畳まれる。

 矢のような勢いで迫る星髪。


 クロエは受ける。

 大地から無数の蔦が伸びる。

 一本一本が意思を持った触手のように唸り、空を裂いてアギトへ奔る。

 蔦はただの植物ではない。クロエの命により、攻撃性を強制された槍だ。


 アギトは、その蔦の槍を掴む。

 掴んだ蔦が、ぎしりと鳴る。

 彼女の指先が境界を噛む。

 蔦は途中で「概念」を失い、ばらけて落ちる。


 だが蔦は次々に生える。切られても、掴まれても、増える。

 アギトは身を捻り、足で薙ぎ払い、爪で噛み切りながら前へ出る。


 クロエは空を翔ける。

 浮くなどという生易しい動きではない。

 小さな体が矢のように加速し、アギトの間合いから離れ、時に交差し、また受ける。


 葉脈の盾が展開される。

 根の壁が生える。

 苗界が伸びる。


 アギトの爪が裂く。

 裂けた空間が鳴る。

 噛まれた場所が削れる。


 一進一退。

 攻めの威力はアギトが上。

 防御の厚さはクロエが上。

 その差が、戦いの形になる。


 地上では、大河の水飛沫が両国の兵へ叩きつけられていた。

 濡れる甲冑。濡れる旗。濡れる頬。

 兵たちは誰も動けない。動いた瞬間に、この天災の余波で消し炭になる未来が見えていた。


 その最中――アギトが叫ぶ。


噛み砕く咎人の牙ワールド・エンド・カットスロートォ!」


 両手が、牙になる。

 爪の形がより明確に固定され、空気が鋭利に震える。

 彼女が振るえば、領域そのものが噛み砕かれる。


 そして――クロエが応える。


地相撃槍(アース・ハウト)


 大地が呼応する。

 河岸の土が盛り上がり、無数の石杭が生える。

 杭はただ突き上がるのではない。狙いを持って伸びる。アギトを貫くために。


 牙が迫る。

 石杭が迫る。




 ――衝突。




 杭が噛み砕かれる。

 噛み砕かれた破片が雨になる。

 その雨の中で、別の杭が生える。

 生えた杭を、また噛む。

 噛んだ瞬間、クロエの根が絡みつき、牙の進路をずらす。


 アギトが笑い声を漏らす。

 クロエの苗界がさらに厚くなる。


 戦いは続く。

 国境線の大河の水面を激しく揺らしながら。

 両岸へ水飛沫を飛ばしながら。

 地形すらも変えながら。





 ◇◇◇





 そんな人知を超えた激戦が繰り広げられる、国境線の天蓋。

 その天蓋の下で――地上では、人の臨界がぶつかっていた。


「――づあっ!」

「――ふっ!」


 呼気と呼気が交差する。

 剣と刀がぶつかり合う。


 河岸の土を蹴って、アウローラとハガネが駆ける。

 河岸の足場はぬかるみ、石が転がり、飛沫で滑りやすい。だが二人の足捌きは、そういった環境要因すら計算に入れて動いている。


 アウローラの片手半剣は、薄い光膜を纏っていた。

 高密度の魔力付与(エンチャント)。刃筋の一瞬一瞬に合わせて濃淡が変わる。受ける瞬間は強く、斬り込む瞬間は鋭く。護るだけではなく、切るための強化。


 一方、ハガネの刀――夜叉は漆黒の刃を持つ。

 黒金(ダークメタル)の呪いが空気に滲むような冷たさを放ち、近づくだけで胸の奥がざらつく。精神を苛む毒のような圧があるのに、ハガネの呼吸は乱れない。呪いを道具のように扱い、刃の性質だけを引き出している。


 ぶつかり合うたびに火花が散る。

 ただの金属摩擦ではない。魔力と呪いが擦れ合い、爆ぜるような音がする。

 耳に刺さる高音と、腹に落ちる低音が同時に鳴って、剣戟が爆音として戦場に響く。


 ――二人の剣閃の質が違った。


 ハガネの剣は、風のように速い。

 余分がない。刃の角度が変わるのが見えない。振り上げではなく、既にそこに刃があるような切り込み。

 速さと技で断つ――それだけで、あらゆる防御を薄くする。


 アウローラの剣は、雷のように重い。

 速いのに重い。勢いがあるのに乱れない。踏み込みの圧がそのまま刃の圧になる。

 力と勢いで砕く――それだけで、受けを強要する。


 差異はある。

 だが共通点は一つ。

 どちらも人の臨界を踏み越えていることだ。


 刃が交わる。

 弾く。

 避ける。

 踏み込む。

 また交わる。


 その一連の動きが、常人の視界に残らない速度で繰り返される。

 兵が見ているのは残像と火花だけだ。

 そして、その残像がどちらの方向へ伸びたかで、次の瞬間の位置を必死に追う。


 河岸の砂利が舞う。

 踏み込みのたびに地面が削れる。踏んだだけで土が跳ねる。重心移動の速度が、常人の動体視力を容易く越えている。


 そして、その剣戟の最中。

 時折生まれる僅かな間隙を逃さず――アウローラが左掌を開く。


稲妻(ライトニング)!」


 雷が走る。

 剣を振るいながら魔法行使――それだけでも常人の領域ではない。詠唱もなく、指先の角度と呼吸だけで回路を起動する。雷速の光が一直線にハガネへ伸びる。


 本来なら、避けられるはずがない。

 反応すらできない速度だ。

 だが。


「――っ」


 ハガネは眼を細めて――避けた。

 見て避けるのではなく、来る前に避ける回避行動。


 雷の起こり――魔力が集束し、風が微かに歪むその「前段」を、魔力の「起こり」を肌で捉えている。

 ほんの僅かに腰を落とし、肩をずらし、刃の軌道を変えながら身を捻る。

 稲妻が、頬を掠めるほど近くを走り抜けていき、焦げた匂いが一瞬だけ鼻を刺す。


 アウローラは驚かない。

 驚いている暇などない。

 避けられた瞬間に――生まれた僅かな空白を逃さず、彼女は次の段階へ移っている。


 跳ぶ。

 後方へ跳び、距離を取る。

 逃げではなく、魔法を完成させるための間。


 火――球内部で励起を持続。

 風――球表面に微細な旋回流を作り形状保持。

 そして最後に、衝撃で崩壊させる遅延放電構成。


 掌に、青白い球が生まれる。

 光が唸る。球の表面で細かな雷が奔り、空気が焦げ、細かな青い火花が踊った。


雷電球(ヴォルトボール)!」


 アウローラが射出する。

 雷速で迫る魔力球。

 避けても地面衝突後に拡散放電し、周囲を薙ぎ払う構成。

 体捌きだけでは防げない「面」の攻撃。

 ――それを。



「――破空(はくう)



 夜叉が走る。


 斬った。

 魔力球を、断ち切った。


 斬るというより、術式を「断絶」した。

 球の内部構成が、刃の通った線で二分され、分かれた瞬間に意味を失って霧散する。

 放電するはずの力場が、拡散する前に「形」を失う。


 夜叉の力だけではない。

 ハガネの剣技が、魔法を魔法として扱わず「斬れる現象」に落とし込んでいる。

 消失する光。

 爆ぜるはずだった雷は、空気の中に溶けて消えた。


(……とんでもない老人が居たものだ)


 アウローラの胸中に、短い感嘆が走る。

 敵である。

 敵であるが――剣士として、眼前の技に敬意が湧く。

 自分の魔法を「斬る」程の剣技。構成を断絶して崩す妙技。

 それは魔導師の理屈とは別の世界だ。


 そしてその技が、偶然ではないことも分かる。

 老剣士は今、ただ漠然と切ったのではない。

 魔法の「根幹」を狙っている。

 魔術構成の「起こり」を斬る。繋がりを断つ。

 理屈として理解した瞬間、背筋が冷えた。


(あの剣の冴え……まさか、剣聖か?)


 名前だけは知っている。

 伝説に謳われる人類最高峰の剣士。

 姿を見たことはない。

 だが、眼前の老人の剣技は、その伝説以外の説明を許さなかった。


(……貴方に会うのは、子供の頃からの夢であったのだがな)


 会うことが夢だった。

 剣を学ぶ者なら一度は憧れる。

 剣の果てを見せてくれる存在。


 なのに、会った場所が国境線で、刃を交える形だ。

 笑えない巡り合わせ――それでも、嘆く暇はない。


 こうして剣を交わして理解した。

 剣聖の剣技は、アウローラを上回っている。

 技も、経験も。

 視線を外す暇などない。外した瞬間に、首が飛ぶ。


 アウローラは剣を構え直し、魔力をもう一段引き上げる。

 魔力付与の光膜が濃くなる。刃の縁が青白く光り輝く。

 彼女の戦意は衰えない。

 むしろ、強敵を前にして研ぎ澄まされる。




 対してハガネも、眼前の王女の強さに舌を巻いていた。


(……見事。その若さで、よくぞここまで練り上げた)


 王国の姫君に対する手放しの称賛。

 英雄級と聞いていたが、聞いていた以上だった。


 帝国北部で斬った神聖国の加護持ち小隊――あれらは強い。

 障壁を張り、加護で身体能力を底上げし、数で押してくる。

 だが、目の前の姫君は、それらとは別次元の強者。


(神聖国の似非加護者など、足元にも及ばん)


 加護に胡坐をかく者では、絶対に届かない領域。

 これは才能だけで辿り着ける力量ではない。

 血の上に積んだ技。

 死線の上に積んだ判断だ。

 そして何より――稲妻。


(あの速さを見てから対処するのは不可能。おかげで踏み込みきれぬ)


 ハガネは自分が優位だと分かっている。

 剣の理だけなら、姫を斬れる。

 だが、斬り込む一歩の間に雷が走る。

 受けを考えない攻めは、稲妻に貫かれて終わる。


 だから攻めが一歩足りない。

 レベルで上回っていても。

 剣技でも上回っていても。

 それでも仕留め切れない。

 稲妻の王女の「剣と魔法の両立」が、剣聖の最短距離を封じていた。


 ハガネは呼吸を深くする。

 呪いの黒金が刃の奥で不機嫌に鳴く気配を、強靭な精神で押さえつける。

 妖刀を制するのは力ではない。

 剣の理――ハガネの意志だ。


 アウローラも呼吸を整える。

 雷の回路を体内に保持したまま、剣の足運びを崩さない。

 一歩踏み込むたびに、魔力が揺れる。その揺れを揺れのままにせず、刃に乗せる。


 そして両者、奇しくも同じ言葉に辿り着く。




(――このような形で会いたくはなかった)

(――だが、これも(いくさ)か)




 上空からまた轟音。


 水飛沫が顔を叩く。

 その滴が、アウローラの頬で弾け、ハガネの眉を濡らす。


 二人とも視線を上げない。

 上を見れば、一瞬の隙になる。

 隙は死だ。


 そして――再び刃が走る。

 夜叉が唸る。

 稲妻が光る。


 地上の戦いはまだ終わらない。

 上空の戦いも終わらない。


 国境線の上で、二つの戦域が激しさを増している。

 そしてその激しさが、次の瞬間に何を生むかを――誰も見通せないまま、刃と雷はなおも火花を散らし続ける。





 ◇◇◇





 国境線の上で、世界が二つに割れる。


 ひとつは空。

 もうひとつは地。


 空では――星髪の顎が笑い、苗界の芽姫が黙って耐え、噛み砕く牙と増え続ける根が衝突する。そのたびに、空間がひび割れるような音が鳴り、裂けた空が白く光り、遅れて轟音が落ち、河面の水が跳ね、岸の土が震える。


 地では――稲妻の王女が雷を操り、老境の剣聖がそれを斬って捌き、剣と刀がぶつかるたび、魔力を孕んだ火花が稲光のように走った。足元の砂利が舞い、河岸が削れる。二人の動きは速すぎて、残影しか目に残らない。


 常人が手を出すことを許されない領域が、同時に二つ。

 それが、たった一本の大河の上で並走しており――兵たちは動けなかった。


 空は、物理的に届かない。

 クロエは小さな体のまま矢のように飛び、苗界の根と蔓を踏み台にして空を縫う。動きの残像すらまともに見えない。

 アギトはさらに酷い。大地と空を往復し、爆音とともに跳び、衝撃とともに落ちる。地面を蹴った場所が砕け、着地した場所が沈む。距離を距離として扱っていない。


 地も、近づけない。

 アウローラとハガネの間合いに入れば、剣の風圧だけで体を裂かれかねない。そこへ雷が走る。迂闊に踏み込んだ瞬間、稲妻で焼かれて倒れるのは確実だ。

 避け続けているハガネが異常なのだ。あの老人は、雷速の光ですら避けながら、刃を振るっている。


 だから誰も介入できない。

 介入しようとした時点で、ただの的になる。

 国境線は、今や「見守るしかない地獄」になっていた。


 その地獄の中で帝王ウィルトスは――短く息を吐き、腹の底から声を落とした。


「伝令!」


 轟音の合間を縫うように、近くの兵に届かせる。


「グレゴールの砦まで戻り、兵を集めよ。領民の避難も忘れるな――急げ!」

「――はっ!」


 伝令兵が馬を引き、鞍に飛び乗り、踵を入れる。

 馬が嘶き、泥を蹴り、川岸から遠ざかっていく。

 ウィルトスは視線を逸らさない。

 伝令が視界の端から消えていくのを確認しても、顔を前へ向けたまま、王国側を見続ける。


 ――王国側でも、同じ動きがあった。

 数名の兵が、背を向けて河から離れていく。

 足取りが速い。迷いがない。おそらく伝令だ。

 間違いなく、王国側も同じ判断を下している。


 即ち、戦争の再開を念頭に置いた招集。

 軍の集結。

 避難の準備。


(……最悪だ)


 ウィルトスは、歯を食いしばる。


(今ここで戦が始まれば、両国とも悲惨だ。下手をすれば勝者すら生まれぬ。血だけ流れて、国が痩せる)


 帝王の頭の中には、地図がある。

 国境線。七砦。補給路。砦の倉庫。街道。魔物。

 そして北の山脈。神聖国。要塞。加護。小隊の異常戦力。


(帝国は今、北を見ねばならぬ。王国と消耗戦など、愚の骨頂)


 ウィルトスは戦好きだ。

 だが戦を「目的」にした過去を悔いている。

 だから今は、戦争の「着地点」を定められない戦いは望まない。

 王国側も同じだろう、と分かる。


 あの王女――アウローラは憎い。

 だが憎いだけではない。

 今、彼女がしているのは「守り」だ。帝国を倒すための攻勢ではない。国境を燃やさぬための制御だ。


 互いに挑発に付き合ったのは、分かり合っていたからだ。


 ――次に起こる戦争は、三年前の「決着」を定めるためのものになる。

 ――徒に血を流す戦ではない。

 ――終わり所を見失うな。


 帝王も王女も、自分の憎しみを飲み込みながら、そう決めていた。

 言葉の端々で、互いにそれを確認していた。


 しかし――アギトとクロエが衝突した。

 ハガネが止めに飛び込んだ。

 そのハガネがアウローラと激突した。

 そして今、その戦闘が現在進行形で続いている。


(この状況で、戦争再開を考慮しない王など暗君でしかない)


 ウィルトスは自身に言い聞かせる。

 望まぬ再戦であっても、状況が許さない段階に来ている。

 時として王は、国を生かすために嫌な判断を強いられる。


(……だが、まだだ。まだ止まる可能性はある)


 視線を僅かに上へずらす。


 空中で、星髪と芽姫が噛み合っている。

 裂けた空間を根が埋め、埋めた根を爪が噛み砕く。

 水面が抉られ、岸の土が削れ、草が千切れる。

 そのたびに、アギトが笑い、クロエが黙って耐える。

 止めるには――アギトが正気を取り戻すしかない。

 だがその可能性は薄い。あの目は遊びの目ではなく、怒りの目だ。

 怒りを知ったばかりの子供の目。


 さらに視線を下へ戻す。


 河岸で、アウローラとハガネがまだ火花を散らしている。

 剣と刀がぶつかるたび、魔力音が破裂し、稲妻が走り、夜叉がそれを斬る。

 両者とも、遠目ですら目で追うのがやっとの速度。

 どちらも、常人では届かない領域。


(……無理だ)


 一目見て悟る。

 自分が加勢できる戦いではない。

 ウィルトスも腕に覚えはある。レベル四十越えの将軍級の力量。

 だが英雄や伝説の領域には掠りもしない。

 踏み込んだ瞬間、役に立つどころか一瞬で死ぬ。

 そういう確信が、冷静な計算として立つ。


(そして、だからこそ余の精兵たちも手を出せぬ)


 帝国兵は全員、顔が戦になっている。

 今にも河を越えて王女を討ちたい顔をしている。

 だが動けない。

 動けば、あの二つの戦闘の余波に飲まれて死ぬ。


 王国側も同じだ。

 河向こうでは、王国兵がこちらを睨んでいる。既に武器を抜いている者もいる。矢を番えた者もいる。

 だが彼らも動けない。動けば、戦争が始まるのが解っている。

 ウィルトスは、その視線を受け止める。


(余が動けば、王国兵は一斉に動く。余の首を獲らんとして)


 それを、帝王は理解している。

 だから動けない。


 皮肉だった。

 好戦的な帝王が、今この場で誰よりも戦を止めたがっている。


 戦は好きだ。

 だが無意味な流血は嫌いだ。

 三年前の過ちを、二度と犯さないと決めている。

 だから今は、睨み合い続けるしかない。

 上空と河岸で起きているものが、どちらに傾くかを見ながら。


 そして、その「傾き」こそが最悪だった。


 アギトとクロエの戦いが、いずれどちらかへ傾く。

 ハガネとアウローラの戦いが、いずれどちらかへ傾く。

 傾いた瞬間、兵は動く。

 勝者を助けに行くために動く者もいるだろう。

 敗者を救うために動く者もいる。敵を討つために動く者だっている。

 そのどれもが、国境線の停戦を破る。


 止まるはずだった歯車が、そこで一気に噛み合って加速する。

 決着点を定めないまま、憎しみと怒りだけを燃料にして。

 三年前以上の戦争が起こる。

 ウィルトスは、奥歯を噛み砕きそうなほど食いしばった。


(だからこそ、備えるしかない)


 備えは戦争を近づける。

 だが備えなければ、国が、民が死ぬ。


 帝王は、矛盾の中に立つ。

 戦を止めたいのに、兵を集める。

 血を流したくないのに、軍に命じる。

 勝ちたいのではなく、生かしたいのに、戦争の形を整える。


 目の前で、空が裂ける。

 地で火花が爆ぜる。

 轟音が大河を震わせ、飛沫が頬を叩く。



 帝王は、ただひたすらに睨み続ける。

 戦が始まる前に止まる可能性が、まだ僅かでも残っていることを――祈りではなく、執念として掴みながら。



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