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異世界転移したけど森の奥で引きこもってます。スカウト? いやぁ、森から出る気はないので遠慮します  作者: 初音の歌
第七章

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第105話・衝突



 気がついた時、クロエには命が与えられていた。



 最初にあったのは光。

 眩しさと、白さと、目に入る痛さと――ただそこにあると解る光。

 瞼を開ければ、膨大な情報が体の中に入ってくる。

 薄い緑。青い空。温かな大地。

 世界が色で出来ていると、クロエはその時に知った。


 次に気付いたのは音。

 ざわざわ。

 さらさら。

 何かが伸びる音。芽吹く音。遠くで葉が触れ合う音。


 最後に、自分。

 手があった。

 小さくてまるい手。

 ふわふわしているようでいて、ちゃんと握れる両手。

 足。

 短い両足。

 頼りない――けれど、立とうとすれば立てる脚。

 体。

 軽く小さい。

 けれど、中には奇妙なほど大きなものが詰まっていた。


 その奇妙なものは目だった。

 遠くまで見える瞳。

 とても遠くまで見通す視界。

 目の前の草や土だけじゃない。もっと先。もっと広く。山の向こう。河の向こう。街の中。知らない国の、知らない部屋の隅まで、手を伸ばせば届きそうな硝子玉の目。


 力がある、とクロエは思った。

 その思考自体、生まれたばかりの幼い心には不釣り合いなほど明確だった。


 強い。

 広い。

 負けない。

 たぶん、自分は何者にも負けない。

 たぶん、自分は何処へでも届く。

 たぶん、自分は何でもできる。

 そんな、根拠のない万能感。


 ――けれど同時に、幼かった。


 どうして生まれたのか、わからない。

 この力を何に使うのか、わからない。

 自分が何者なのか、わからない。


 そんなわからないことだらけの中で、ただひとつだけ、はっきりわかること。

 それは顔を上げた先にいた創造主。

 黒髪。少し気だるげな目。

 呆けたような、信じられないものを見たような顔。


 その人を見た瞬間、クロエは理解した。

 言葉ではない。もっと深いところで。

 この人が、自分を生み出した者だと。

 この人が、自分の親なのだと。


 どうしてそうわかったのかは説明できない。

 説明できないけれど、それは空が上にあるのと同じくらい自然に、胸の中へ落ちてきた。


 だから、クロエは歩こうとした。


 近づきたかった。

 聞きたかった。

 教えてほしかった。


 自分は何なのか。

 どうしてここにいるのか。

 何をすればいいのか。

 どうして、胸の中にこんなに大きな力が入っているのか。


 歩けば、きっと教えてくれると思った。


 小さな足を前へ出す。

 一歩。

 ぽてり、と。

 もう一歩。

 ぽてり、と。


 世界は、想像していたよりずっと大きかった。

 足の長さより地面の方が広い。草は思ったより高い。空気は重い。自分の体の動かし方が、思うようにわからない。


 力はあったのに。

 遠くを見る力も、広く探る力も、自分の中には渦巻いていたのに。

 けれど「歩く」という、たったそれだけのことが難しかった。


 前へ行きたいのに、足がついてこない。

 体がふらつく。

 手を伸ばしたいのに、重心がわからない。


 そして、転んだ。

 べちゃりと、転んだ。


 地面が近い。

 痛い、というほどではない。

 けれど、驚いた。

 ショックだったのだ。

 さっきまで「なんでもできる」気がしていたのに、たった一歩で倒れた。


 顔を上げる。

 創造主がいる。

 こちらを見ている。


 でも、すぐには来なかった。

 助けてくれなかった。


 あの瞬間の気持ちを、クロエは今でもうまく名前にできない。


 悲しかったのだと思う。

 寂しかったのだと思う。

 捨てられたと、ほんの一瞬だけ思ったのだと思う。


 生まれたばかりだった。

 何も知らなかった。

 何もできなかった。


 なのに世界だけはちゃんとあって、創造主だけはそこに立っていて、自分だけが地面に転がっていた。


 どうすればいいのかわからなかった。

 何をすればいいのかもわからなかった。

 このまま一人で、置いていかれるのだろうか、とさえ思った。


 目の奥が熱くなった。

 何かが溜まって、震えて、ぽろりと落ちそうになる。


 あの時、零れそうになったもの――それが涙だと、クロエは後で知った。

 最初の涙だった。


 世界に生まれたばかりの自分が。

 生まれたばかりなのに、急に一人にされたような気がして。

 ――赤子のように泣きそうになった。


 その時だった。

 ふわり、と光が差す。

 金色の髪。

 蒼空のような瞳。

 あったかい匂い。

 ひとりの女性が、駆け寄ってきた。


「――大丈夫」


 たぶん、そういう意味の声だった。

 言葉はまだ細かくわからなかった。

 でも、声音が全部を教えてくれた。


 心配している。

 急いでいる。

 助けたいと思っている。

 その人は、ためらいなくクロエを抱き上げた。


 やさしかった。


 手が。

 腕が。

 胸元のあたたかさが。

 頬に触れる体温が。

 頭を撫でる指先の動きが。

 全部が、あまりにもやさしかった。


 さっきまで大きすぎて怖かった世界が、その腕の中だけ急に小さくなった。

 冷たかった地面が遠くなる。

 揺れるけれど、怖くない。

 高いのに、落ちる気がしない。


 あったかい。

 安心する。

 ここにいたい。


 それが、アウローラだった。


 アウローラは、創造主とは違う匂いがした。

 土と風と花の匂い。

 少しだけ鉄の匂い。

 でも、それよりも強かったのは、お日様みたいな匂いだった。


 抱き上げられたまま、クロエはその顔を見上げた。

 綺麗だった。

 きらきらしていた。

 でも眩しすぎるわけではなくて、目を閉じなくても見ていられる光だった。


 好き、という感情を、クロエはその時たぶん初めて知った。


 創造主への感情は、もっと別のもの。

 深くて、大きくて、根に近い――根源的な本能。

 しかしアウローラへのそれは、もっとまっすぐで、もっと熱かった。


 好き。

 大好き。

 この人のそばにいたい。


 泣きそうだった気持ちが、撫でられるたびにほどけていった。

 小さな体に入っていた見えない棘が、ひとつずつ抜けていく。

 だから、創造主がそのあと命じたことは、命令というより『願い』に近かった。


 アウローラのそばにいろ。

 そういう意味の意志が、自分の中に落ちてきた時。

 クロエは心の底から、それを受け入れた。


 うれしかった。

 命じられたから、ではない。

 自分がそうしたかったからだ。


 このあったかい人のそばにいたい。

 このあったかい人を見ていたい。

 この人が笑うところを、もっと見たい。

 この人に、泣いてほしくない。

 幼い心に、はじめて『明確な意志』が宿った。


 守る。

 その言葉もまだ知らなかったかもしれない。

 でも意味は知っていた。


 この人に、傷をつけさせない。

 この人を、奪わせない。

 この人から、あったかさを取り上げるものを、許さない。


 小さい体の、もっと小さな胸の奥に、その意思は宝石のように輝く。

 透明で。

 硬くて。

 きらきらしていて。

 けれど、とても切実なものとして。


 それがどれほど強い感情なのか。

 最初に抱き上げてくれた相手を、どれだけ大切に想っているのか。


 きっと、誰も気づいていない。

 有羽も、アウローラも、誰も知らない。

 自分が抱いた小さなゴーレムに、そこまで深い意味を刻みつけたことを。


 創造主は、命じた。

 女帝も、役目を与えた。

 王国側は、可愛がった。

 皆それぞれにクロエを見ている。


 けれどクロエの中には、それら全部とは別に、ひとつだけ確かなものがある。

 それはアウローラのために動く、という意志だ。


 命令があるからではない。

 役目があるからでもない。

 たとえ何も命じられなくても。

 たとえ送受信の役がなくても。

 たとえ、戦うなと言われても。


 もしアウローラに危害を加えようとするものがいるなら。

 クロエはきっと迷わない。




 ――躊躇なく迎え撃つ。




 その時に自分の中からどんな力が出るのか、クロエ自身にもまだ完全にはわからない。

 石杭を生やすこと。

 遠くを見ること。

 情報を繋ぐこと。

 そういう()()()()()は知っている。


 けれど、それ以上の何かが、自分の中にはまだ眠っている気がしていた。


 アウローラが泣くとき。

 アウローラが傷つくとき。

 アウローラが奪われそうになるとき。




 その時だけ開く扉が、胸の奥にもうひとつある。




 クロエは、それをまだ言葉にできない。

 ただ本能だけが知っている。


 アウローラのためなら、自分はもっと怖いものになれる、と。

 一切の躊躇なく。

 一片の迷いもなく。




 ――自分の中にあるものを、全部使ってでも。





 ◇◇◇





 河の上を渡る風が、ほんのわずかに温度を変えた。


 エルム大河の水音が遠のき、旗のはためきが薄くなる。騎馬の鼻息も、鎧の擦れる金属音も、誰かの唾を飲む喉の鳴りも――すべてが一瞬、舞台袖へ押しやられる。


 アウローラとウィルトスは、互いに向けた笑みを崩さないまま、同時に理解していた。

 潮時だ、と。

 今ここで戦う意思はない。

 帝国は北の神聖国という、別の敵に集中したい。

 王国は可能なら、帝国を視界から排除したい。


 感情は違う形で燃えている。

 帝国は王国を、いつか雌雄を決さねばならない宿敵として見ている。

 王国は帝国を、できることなら存在ごと消し去りたい怨敵として見ている。


 だが共通しているのは、いざ戦になれば血で血を洗う地獄が再開されるという確信と、どこかで決着をつけねばならないという諦めに似た理解だった。

 だからこそ今回は、舌戦で終える。

 互いの手の内を少しだけ確かめ、釘を刺し、次の局面へ持ち越す。

 それが、国家の戦争のやり方だ。

 ウィルトスは肩をすくめ、わざと大げさにため息をついた。


「まあよい。余も暇ではない。鼠退治に割く時間はないからな。……稲妻の王女よ、精々その雷を大事に抱えて眠るがいい。銃の悪夢を見ないようにな? 漏らしても誰も助けてくれんぞ?」


 アウローラも鼻で笑い、同じ温度で返す。


「心配するな。私が見る夢は、決まって帝王が泣いて逃げる夢だ。……次に来るときは、銃ではなく弔鐘(ちょうしょう)を忘れるなよ? 帝国兵の葬儀などしてやる暇は無いのだからな?」


 兵の顔が両側で凶悪に歪む。

 だが、動かない。動けない。動いてはならない。


 ウィルトスは踵を返した。

 その動作は、戦場の号令よりも重い意味を持つ。

 帝王が背を向けるということは、「今日はここまで」と宣言するに等しい。




 そして、その瞬間。

 入れ替わるように、一歩前へ出る影がひとつ。




 軽い足取り。

 まるで散歩の途中で花を見つけた子供のように、ふらりと。


 星髪の少女――アギト。


 ウィルトスの背中に、嫌な寒気が走った。

 戦場の嗅覚が叫ぶ。「危うい」と。


「……アギト? おい、お主、どうした?」


 呼び止める声は落ち着いていたが、内側には怖気がある。

 帝王は知っている。目の前のこれは、命令で止まる類の存在ではない、と。


 アギトは振り返らない。答えない。

 笑みだけを唇に残したまま、河向こうを見ていた。


 第二王女アウローラ。

 そして、その背後の小さな影。

 セシリアの腕に抱かれた、子猫サイズのぬいぐるみ。


 アギトの目が、細くなる。

 虹色の瞳が、底のない水底のように冷えていた。


「……ねぇおじさん」


 鈴を転がすような声が、河を越えて届く。

 言葉遣いは軽い。

 だが、その軽い言葉で空気が締まり、兵の背筋が勝手に伸びる。


「あれだよ。あの、ちっこいのが覗いてた奴だよ」


 右手がすっと上がり、指先が河向こうを指す。

 狙いは明確だった。


 芽姫――クロエの姿。


 その指差しに、王国側の空気が一斉に変わる。

 アギトの瞳が微塵も笑っていない。

 抑えきれない激情の瞳。


(……あれは)


 アウローラは直感する。

 あの目は、挑発の目ではない。交渉の目でもない。

 怒りの目だ。

 しかも、抑え方を知らない怒り。

 戦場で初めて血を見た新兵が、狂乱のまま刃を振り上げるときの色。


 そして、その背後。

 セシリアの腕の中で、クロエが震えた。


「……クロエちゃん?」


 セシリアが異変に気付いた。

 抱いている腕の中で、柔らかいはずの小さな体が振動している。


 クロエの内側で、魔力が集まる。

 水を吸い、光を浴び、眠り、循環させるはずの穏やかな流れが、今は逆巻いている。

 一本の川が、滝になる前のように。


 集中している。

 圧縮している。


 セシリアには理屈は分からない。

 だが、それは、今まで何度も見せた「探知」のための魔力とは明らかに違う。

 もっと鋭く、もっと攻撃的な――牙の形を探しているような波。

 アギトはその波を感じ取り、口元を歪めた。


「……へぇ?」


 楽しそうでもあり、気に入らないようでもある声音。

 両方の温度が混ざって、どちらにも転べる危うさ。


「お前は、そっちなんだね?」


 ぎしり、と空気が鳴った。

 握った指先が、何かを噛むように軋む。空気そのものが、薄く裂けるような感覚。

 境界を噛む――世界の縫い目に爪をかける所作。


「……おい蛇娘。貴様、まさか――」


 背後から、低いハガネの声が届く。

 剣聖は、空気の変化だけで察した。

 戦場を渡ってきた者が持つ、最悪を最速で掴む嗅覚で。


 アギトはそれでも止まらない。

 止まる理由が、彼女の中にはない。


 王国側でも、同じことが起きていた。

 アウローラは河向こうから、アギトの目を外さぬまま背後の気配を感じ取る。

 なにか暴れ出しそうな……海洋国家だからこそ言語化できる気配。

 これは、大波が来る直前の危機感。


「クロエ、お前、何を――」


 その異変を感じた――感じ取ってしまったからこそ。

 アウローラはほんの僅かだけ視線を逸らした。

 背後のクロエを確認する。

 その、ほんの一瞬。

 指先一本分の刹那。




 その一瞬で――アギトは跳んだ。




 爆音。

 大地がえぐれ、砂利が弾け、大気が裂ける。

 アギトの姿が、橋も渡らず、舟も使わず、ただ「距離」を踏み潰して消える。

 次の瞬間、王国側の目前に現れていた。


「っ――!」


 アウローラが視線を戻したとき、既にアギトは目の前にいた。


 近い。

 近すぎる。


 反射で剣柄に手がかかる。

 だが、剣を抜く速度より、アギトの右手が爪牙へ変わる速度の方が早い。


 理解が追いつくより早く、アウローラの胸元へ伸びてくる。

 空間そのものが削られていくような音。触れられたら、鎧ごと裂かれる。

 その爪が、アウローラの喉元を引き裂こうとした――その瞬間。


 声なき声が響いた。




根護(ルート・ガード)




 地面がうねった。

 耳ではなく、脳に直接落ちる宣言。


 大河の川岸、草の下、土の奥――そこから巨大な樹の根が一斉に伸び上がる。

 縄ではない。柵でもない。生きた意志の壁。

 根は絡み合い、編み上がり、瞬時に盾となってアウローラの前に張り巡らされた。


 アギトの爪が、衝撃と共にその根の壁に突き刺さる。


 火花が散った。

 木が焼ける匂い。だが決して燃えない。

 根の表面を走る緑の光が、焼け焦げを押し戻す。


 境界を噛む牙と、世界に伸びる根がぶつかり合う。


 衝撃が遅れて周囲に広がり、両軍の兵がよろめいた。

 騎馬が嘶き、槍の穂先が揺れ、盾がぶつかる音が連鎖する。

 帝国兵と王国兵。双方が同時にざわつく。


 アギトの目が、根の向こうへ向く。

 狙いはアウローラではなくなっていた。

 壁を作った者。

 自分の爪を止めた者。

 ――クロエ。

 女帝と隠者の匂いが混じった小さき者。


「――邪魔、するんだ」


 言葉は幼く、感情は生々しい。

 怒りの理由が正しいかどうかなど関係ない。

 ただ、邪魔をされたという事実だけを燃料にして――その瞳は毒蛇のように。


 根の壁の上、空中に小さな影が浮かび上がる。

 クロエが、セシリアの腕から飛び出していた。

 ふわり、と軽い動き。ぬいぐるみが宙に舞うような不自然さ。

 だがその浮遊は玩具ではない。術式の上に立っている。


 ――硝子玉のような瞳が、静かにアギトを見据えていた。


 いつもの、幼い可愛さはない。

 撫でたくなる愛らしさもない。

 そこにあるのは、宝石を奪われるかもしれない子どもの目――ひたすらに切実な敵意。


 アウローラが叫ぶ。


「――下がれ、クロエ! 前に出るな!!」


 ウィルトスも叫ぶ。


「――やめんかアギト! お主、何を考えておる!?」


 どちらの声も、本気だった。

 どちらも理解している。

 ここでこの二体がぶつかり合えば、兵の理性や条約など簡単に吹き飛ぶ。

 停戦がどうこうではない。国境線という薄氷は砕ける。


 だが――届かない。

 今のアギトもクロエも、敵しか見えていない。

 認識してしまったのだ。

 互いを、敵だと。

 アギトが歯を剥きだしにして笑った。


「いいよいいよ。じゃあ、まずはお前から片付けてやるよ――女帝と隠者のお人形ちゃん」


 声は軽いのに、空気が重く沈む。

 アギトの周囲で、世界がきしむ。世界の『枠』が組み替わる音。

 一方でクロエも、無言のまま何かを展開する。


【――苗界(ナーサリー・ゾーン)


 言葉はない。

 だが宣言があった。

 世界がそれを受け入れる。


 地面から芽が走る。

 芽は根になる前に枝になり、枝は葉になる前に幹になる。

 成長の順序が省略され、結果だけが現れる。


 苗の領域。

 守るために増える世界。

 奪われないために絡みつく世界。


 両者が睨み合う。

 クロエの周囲に根と蔓が渦を巻き、空中に足場を作る。

 アギトは河岸に立ったまま、空中の苗を見据える。


 クロエの瞳は、アギトしか映していない。

 アギトの瞳も、クロエしか映していない。

 大好きな人を守りたい。

 邪魔者を噛み砕きたい。

 幼い理由が、世界を壊すのに十分な力を伴っている。




 そして――次の瞬間。




 衝突。


 まず、音が遅れて来た。

 見えない圧がぶつかり、河の水面が叩かれ、飛沫が真横に吹き飛ぶ。

 風が巻き上がり、砂が舞い、旗が千切れそうに鳴る。

 兵たちが思わず身を伏せる。馬が嘶く。


 根が伸びる。

 牙が噛む。


 星髪の少女が大地を蹴る。

 音が遅れてくる速度で、彼女はクロエへ迫る。

 右手が爪牙となり、根ごと切り裂かんとする。


 芽姫の周囲で苗界が脈打ち、根が空へ伸び上がった。

 根は壁になるのではない。

 槍のように、茨のように――攻撃のための形へ変わる。


 二つの超常が、空中で衝突する。


 火花が散る。

 緑の光が迸る。

 河風が裂け、空気が鳴った。


 そして、その瞬間から。

 人間の理性が積み上げてきた「戦の作法」は、無残に置き去りにされた。




 ――止められない戦闘が始まったのだ。





 ◇◇◇





 空が割れる音が、何度も続いた。


 裂けたのは雲ではない。雷でもない。風でもない。

 大気そのものが、薄紙みたいに引き裂かれて、縫い目もないまま元に戻っていく。戻っていくたびに、遅れて轟音が来る。轟音が来るたびに、河の水面が跳ね、土が震え、兵が立っていられなくなる。


 アギトの爪が裂空を作り、クロエの根がそれを塞ぐ。

 塞いだと思った次の瞬間に、また別の場所が裂ける。

 裂けた場所から風が噴き、風の中に砂と水飛沫が混じり、鎧の隙間へ振動となって突き刺さる。


 兵の叫び声は、聞こえなかった。


 誰かが怒鳴っている。誰かが号令を出そうとしている。誰かが慌てている。

 だが、音が届かない。耳に入る前に、衝撃と爆音に押し潰される。

 ようやく聞き取れるのは、自軍のすぐ隣で叫んだ声だけ。唇の動きで察するしかない距離感。


 ウィルトスとアウローラは、ほとんど同時に「拙い」と感じていた。

 ここで戦争を始めてはいけない。

 どちらの国も、準備が整っていない。整っていないというより、整えていない。

 特に帝国は北――神聖国に専念したい。今ここで南王国と噛み合えば、二正面の地獄になる。


 戦争は手段だ。

 結果――落としどころがないまま火を点ければ、ただ燃え広がり焼け野原になる。

 三年前の停戦が「うやむや」で終わったからこそ、余計に危うい。感情の落とし前がつかないまま、火種だけが燻っている。ここで燃えれば、簡単には消えない。


 だが、声が届かない。

 アギトもクロエも、我を失っている。

 敵を倒すこと以外、何も見えていない。


 ウィルトスは、汗が背中を伝うのを感じた。

 焦燥の汗だ。


(止めねばならぬ。だが、どう止める)


 あの激戦の中に入れるとはウィルトスは思っていない。

 あそこに足を踏み入るのは勇気ではなく無謀の領域。噴火中の火口に向かう愚か者。

 だが、黙って見ている訳にもいかない。このままでは冗談抜きで国が割れる。

 どうするべきかと悩んでいると――いつの間にかハガネが来ていた。

 帝王の隣。声が届く距離まで。


 ハガネの表情は真剣だった。

 怒ってはいない。慌てもしていない。

 ただ、判断を終えた顔。


「――帝王」


 ハガネの声は小さい。

 だが低く、硬く、轟音の隙間を縫って届く声。


「儂は今から、あの馬鹿娘を止めてくる」

「お、おい! お前まで何を考えている!」


 ウィルトスの声も、爆音に削られながら届く。

 ハガネは視線を向けた。視線の先には、暴れる星髪と緑の苗界。

 超域の戦い。


「このまま国境線で暴れさせては、王国と神聖国と同時に戦うことになるぞ。それは貴様とて解っているだろう?」


 その言葉に、ウィルトスは歯を噛む。

 帝王の脳裏に、北の要塞線と、神聖国の加護兵と、補給線と、国境線が一斉に並ぶ。

 ここで王国と再戦すれば、帝国は死ぬ。

 どちらか片方なら勝ち目はある。だが北と南に挟まれれば、必ず国が死ぬ。


 ハガネは静かに腰を落とした。

 膝を曲げ、重心を沈め、右手を柄に添える。


 呼気は小さく……だが深い。

 次の一歩が、ただの跳躍ではないことが分かる。

 矢のように飛ぶだろう。

 戦場の中心へ。あの神域の殴り合いへ、一足で入る気概。


「この刀なら、あの馬鹿娘の肌も斬れる。多少痛い目に遭わせてでも正気を取り戻させる」


 漆黒の鞘。妖刀「夜叉」。

 空気が冷える。呪いの黒金が、鞘の中で眠っている。

 ウィルトスは口を開いた。


「……止むを得んか。では余の兵も――」


 ハガネは首を振った。


「儂一人で行く。悪いが、他の者は足手まといだ――儂ですら、()()()()()()()()()()なのだからな」


 ハガネが言う「指先に手が掛かる」は、剣聖の尺度。

 それはつまり、帝国の精鋭が束になっても邪魔にしかならない、という宣告。


 ウィルトスは、舌打ちしたくなるのを飲み込む。

 帝王として、ここで「行くな」と言ってもハガネは止まらない男だ。

 そして止めていいのかどうかすら、分からない。


 帝王が逡巡している間に――ハガネが、跳んだ。


 爆音の中へ、剣聖が溶けるように飛び込む。

 背後から制止するウィルトスの声が、途中で轟音に溶けた。

 届かない。すでに届く距離ではない。


 そもそも聞こえていない。聞く余地がない。

 ハガネの全神経は、アギトの動きに向いていた。

 僅かでも緩めれば、視ることすらできない領域。

 夜叉の柄を握り込む。

 妖刀が勝手に前へ出ようとする。

 斬りたいという衝動が、鞘の中で暴れている。


 多少痛い目、とは言ったが、ハガネが夜叉を本気で振るえば――痛い目では済まない。

 剣聖はそれを押さえ込みながら、アギト目掛けて跳んだ。





 ――だがこの時、不運があった。





 戦いの轟音。

 あまりに激しい衝突音。


 ――声が通らない。


 ハガネの言葉は、ウィルトスにしか届かなかった。

 ハガネが何をしに行くのか。

 何を止めようとしているのか。

 それを理解できたのは、帝国側ですら帝王ただ一人。


 王国側は、何も分からない。

 見えたのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という事実だけ。

 その切っ先が向く先を、把握できない。

 できるのは予測することだけだ。


 帝国側にいた剣士。

 抜刀。

 戦場への介入。

 その刃が向かう自然な対象は――。


 自然な予測は、妥当な判断はたったひとつ。

 それ故に。




「――稲妻(ライトニング)!」




 ハガネに向けて稲妻が迸った。


 直線。

 雷速。

 風が道を作り、火が励起し、雷が一本の線になる。

 常人なら視界に入った瞬間に貫かれている。

 だが、ハガネは常人ではない。


「――ぬぅ!?」


 視覚の外から迫る稲妻を、勘で避けた。

 身を捻り、肩を落とし、雷の線を半身でやり過ごす。

 焦げた匂いが一瞬だけ鼻を刺す。髪の一房が焼けた感触。


 避けた瞬間――迫るのは、アウローラの剣閃。


 王女は跳ぶ。

 雷を撃ったその勢いのまま踏み込み、間合いを詰める。

 剣と魔法を同時に扱う将の剣。


 ハガネは反射で抜いた。

 夜叉の黒い刃が閃く。

 光を吸うような黒。

 刃が「斬りたい」と鳴る。


 そして――ぶつかった。


 金属の衝突音が、轟音の隙間を縫って耳に刺さる。

 火花が散る。黒い刃の圧に、アウローラの剣が負けない。


 アウローラの振るう片手半剣は、薄い光膜を纏っていた。

 魔力付与(エンチャント)

 剣身の強度を増し、切断に対する抵抗を上げる、純粋な技術。

 夜叉の切れ味を真正面から受け止めるための、即席の結界術。

 アウローラは戦場でそれを使える。剣に纏わせながら――妖刀に対抗する程の絶技。


 ――そして鍔迫り合いに。

 火花が散る。

 黒い刃と光膜が擦れ合い、空気が歪む。

 足元の土が沈む。二人の踏ん張りが、地面に跡を刻む。


「――油断も隙も無いな。だが、クロエは斬らせんぞ老人」


 アウローラの声は冷たかった。

 怒鳴ってはいないが、切り裂かれそうなほどに鋭い。

 それは、前線で部下を殺させない将の声。

 ハガネは小さく息を吐く。

 反論はできる。だが状況が悪すぎる。


「……勘違いするな、王国の姫」


 ハガネは、低い声で言う。


「儂は、あの星髪の馬鹿娘を止めようとしただけだ」

「……それを信じろと? この状況で? そんな危険な刀を持つ貴様を?」


 アウローラの瞳は緩まない。

 信用の余地を与えない目だ。

 前線の将は、希望で判断しない。最悪を基準に動く。

 ハガネの眉が、ほんの僅かに動く。

 怒りではなく、諦めに近い。


(確かに、信じる方が愚かだ)


 この場で、帝国側の剣士が戦場へ跳び込もうとした。

 しかも刀は妖刀。

 それだけで「危険」が成立する。

 王国側が防御に動くのは、当然だ。

 そしてハガネは悟る。


(誤算はひとつ)


 自分の踏み込みに反応して、この間合いまで詰め寄れる者がいると思わなかった。

 王国側で反応できたのはアウローラただ一人。

 それはつまり、彼女が「剣聖の領域」に足を掛けているということでもある。


 夜叉の刃と光膜の剣が、激しく火花を散らす。

 魔力と魔力がぶつかり、周囲の空気が歪む。


 アウローラの全身に魔力が宿る。

 剣を振るいながら、魔法の構成を組み上げている。

 剣と魔法の高次元両立。軽業ではない。死線を越えた者だけが辿り着く使い方。

 その戦い方が、ハガネに現実を突きつけた。


(手加減できぬ)


 可憐な姫君に見えても、手加減した瞬間にハガネが死ぬ。

 アウローラはその領域にいる。

 純粋なレベルでは剣聖が上でも、けして届かない差ではない。


 アウローラが、さらに一段魔力を上げた。

 空気が熱を帯びる。雷の前兆が、皮膚の上でちりちりと鳴る。


「――まだ帝国と戦う気は無かったのだがな」


 声色は淡々としている。

 だが、含んでいるのは明確な覚悟。


「お前達がその気なら是非もない。まずは貴様から片付けて、クロエの加勢に行かせてもらおうか……!」


 言い切る瞬間、アウローラの剣が押し込む。

 光膜が硬くなる。夜叉の刃が軋む。

 ハガネは歯を食いしばった。


「……ぬぅ……!」


 最悪の形で、局面がずれた。

 止めるために飛び込んだ剣聖が、王国の王女に止められた。

 このままでは「止める」どころか、別の死闘が始まる。


 だが、言葉は届かない。状況は最悪だ。

 そして――目の前の王女を押し返さねば、こちらが押し切られる。

 ハガネは、鍔迫り合いの中で静かに決めた。


(……突破して、アギトを止めるしかない)


 この姫を倒す必要はない。

 だが退けなければ、終わる。

 緊張が崩れ、何もかもご破算になる。


 人の理性が、正しく働くほどに噛み合わない――そんなすれ違い。

 帝王の最善が王女の最悪に見え、剣聖の最善が王女の敵意を呼んでしまった。


 アギトとクロエの衝突がさらに激しくなる。

 爪牙と根の壁がぶつかり合い、轟音が地上の言葉を消す。

 火花が飛び、蔓が散り、空間が削れ、苗界が膨らむ。


 幼い超常が本能で噛み合い続ける。

 誤解から生まれた刀と雷が鍔迫り合う。




 ――誰も望んでいないはずの開戦の形が、ゆっくりと輪郭を持ち始めていた。




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