第101話・国境線①
グラードライン辺境伯領の城館。
夜通し燃え続けた燭台の匂いと、濃い茶の渋みと、インクの乾ききらない匂い――それらを一気に洗い流すように、会議室の窓から差し込む日差しが卓上の地図を明るく照らしていた。
だが、明るいのは光だけ。
地図の上に落ちる影は濃い。
四人の影。揃って寝不足の顔をしているのに、目だけが冴えている。
アウストラリス王国第二王女、アウローラ。
グラードライン辺境伯、バルドゥール・レオン・グラードライン。
辺境伯夫人。
そして領主の娘、セシリア。
彼女たちは、今朝も――芽姫クロエの「向こう側」を見る。
クロエはアウローラの膝の上にちょこんと収まっている。子猫ほどのサイズ。ふわふわで、ぷにぷにで、抱けば抱いた分だけ体温が増えるような錯覚を起こす、可愛らしいゴーレム。
けれど、その硝子玉のような瞳だけは、可愛いの領域に収まっていない。
あれは窓。遠方を覗くための窓。世界を覗くための窓だ。
数日にわたって、クロエは帝都を探査した。
何度も。何度も。
最初は、その感覚に恐怖さえ覚えた。
遠く離れた帝都の街並みが、あまりに鮮明に脳へ滑り込む。
視覚だけではない。空気、匂い、雑踏の気配、兵士の息遣いまで――まるで実際に歩いたかのように情報が染み込む。
「……これほど鮮明とはな」
辺境伯が低く呟く。
彼の視線は地図ではなく、脳裏に残る帝都の「映像」に向いている。長い軍歴で多くの都市を見てきた男は、偽物と本物の差を嗅ぎ分ける。
そんな男だからこそ、現在の帝都の様子から大まかな状態は掴み取っていた。
帝国は、戦争の準備をしている。
そしてその矛先は、王国ではないことも。
となれば考えられるのは、北――神聖国。
地図の上、北方の山脈が太い線で囲われている。白い部分は雪原。細い線は山道。さらにその奥――盆地に描かれた小さな印が、神聖国の位置。
バルドゥール辺境伯は、地図の上に指を落とした。
指先が、北へ向かう補給線のルートをなぞる。
「……どう見る、バルドゥール卿」
アウローラが問う。
その声は落ち着いているが――落ち着きの下に刃がある。
王女の声ではなく、戦を読む将の声。
辺境伯は即答した。迷う時間すらなく。
「映像に間違いがなければ、大規模な戦時準備は確定ですな。装備も人員も多すぎる。首都守備の範囲ではない。兵站が動いている。倉が開いている。動員が始まっている」
「しかも、北方用の備えが多いですわ。防寒具、雪靴、乾燥肉、干し芋、塩。薪の調達量も増えていました。兵の数だけではない。寒さを越えて戦う前提で、物資が積まれています」
辺境伯夫人が、静かに言葉を継ぐ。帳簿と物流を預かる者の視点で。
物資の偏りは、戦の意図を隠せないと知っている。
「兵の空気も違いました。規律の厳格さではなく……張り詰め方が行軍前の緊張です」
セシリアが頷く。
彼女はまだ若い。だが辺境の娘は、平和の中でだけ育つことを許されない。危機の匂いを嗅ぎ取る嗅覚が、早く磨かれる。
クロエが見たのは、戦場の瞬間ではない。
戦争前夜の呼吸だ。剣柄に手を添えた時の、張り詰めた空気。
そしてもう一つ。
クロエは帝都の「中心」も映していた。
帝王ウィルトス。
その傍に控える、老練な剣士。
そして星空のような髪を靡かせる、絶世の美少女。
あの少女こそが、星髪のアギト。
彼女の存在は、映像の端に映るだけで空気を歪めていた。
想像を超える美貌。常に笑顔で軽快な足取り、それなのに触れただけで引き裂かれそうな存在感。その矛盾が映像越しでも映し出されており――彼女の危険性を証明していた。
アウローラはクロエの頭を撫でながら、脳内に定着しつつある帝都の光景を整理する。
帝国は戦う準備をしている。
北の神聖国に対して。
そして帝国には、星髪のアギトがいる。
ここまでなら、まだ「遠い火事」。
問題はその火事が風向きひとつで、こちらの草原と大河へ飛び火すること。
「芽姫からの伝達には、神聖国の情報もありました」
夫人が口を開く。
伝達された神聖国の情報は、森に住まう有羽から届けられた情報だ。
女神の図書館で得た北方の情報を、クロエを通して伝えた。
だが当然の事ながら、この辺境伯領にいる者は、女神スキエンティアのことなど知る由もない。それ故に、夫人の声は落ち着いてはいるものの……若干の不信感がある。
「あの情報を完全に信用するわけにはいきません。元が何かも分からない。けれど、無視もできない。文面が整いすぎている。都合の良い噂話の寄せ集めなら、あそこまで一貫しません」
セシリアが補足した。
「時折届く噂とも一致します。帝国側の旅商人の話。北の山脈を越えてくる過激派の話。光の教義が極端だという話。……断片は、王国にも流れていました。今回の情報は、その断片を繋いだ形に見えます。裏付けに近いかと」
アウローラは頷き、指先で地図の北部を軽く叩く。
危険思想の宗教国家。
神の名のもとに成功と勝利を演出する箱庭国家。
そこが外へ出ようとしている。
そして、神聖国と地図上で隣り合う帝国。
山脈に阻まれているが、裏を返せば、壁は山脈しかない。
さらに、帝国の帝都は戦時体制。
対象は南ではなく北。
計算式は自然と解ける。
「現状ある情報から推測すると――」
言葉を切る。
そこから先は推測ではなく決断に近い。
王族は推測を口にするとき、同時に責任を背負う。
「神聖国が南下し、帝国が応戦。すでに迎撃準備を始めている……そんなところだろう」
辺境伯は迷いなく肯定する。
「それで間違いないでしょう。付け加えるなら、帝国は迎撃で終わる国ではない。攻め込む気もある。神聖国の動きを止めるなら、根元から叩く。帝王の性分がそうです」
「とはいえ山脈が天然の要塞だ」
アウローラが淡々と返す。
「いかに帝国といえど、正面から越えるのは難しい。だが……難しいからといって諦めるような国ではない」
夫人が目を閉じ、短く溜息を吐いた。
「戦争が起きれば、物流が動きます。商隊が止まる。価格が跳ねる。流民が出る。難民が国境へ押し寄せる。治安が荒れる。野盗が増える……王国の国境は、必ず荒れます」
セシリアが噛みしめるように言った。
「三年前でも、国境は騒がしかったのに……今回は規模が違うかもしれません」
アウローラは静かに頷きながら、視線を上げた。
真正面――辺境伯に向ける。
「……戦争の結果、仮に神聖国が勝ったら。奴らはどう動くと思う?」
問いは短い。
だが、問われた側は「国の未来」を答えることになる。
辺境伯は一切の飾りを入れずに答えた。
「更に南下するでしょう。帝国の次は、王国です。ひとつの信仰のみを旗に突き進む軍は、止まらない。帝国の大地を血で染めた後は、王国の大地を血に染める」
夫人の唇がわずかに強張る。
セシリアの背筋が正される。
言葉にした瞬間、未来が現実に近づいた。
アウローラは背もたれに身体を預け、息を吐いた。
軽くなるはずがない。だが、状況は整理できた。
「要するに――相手が帝国になるか、神聖国になるか。違いはそれだけだな」
帝国は北を向いている。
神聖国は外へ出ようとしている。
そして、この二つがぶつかれば、南の国境も無事では済まない。
しかしクロエのおかげで、あり得ない段階で察知できた。
それは確実に救いだ。
アウローラは膝の上のクロエを撫で、声を柔らかくする。
「助かったクロエ。お前のおかげで、王国の準備が――」
アウローラは小声で言った。
そして続けようとして――言葉が止まる。
「……クロエ?」
膝の上で、クロエが硬直していた。
葉のような緑髪の揺れが止まる。
硝子玉の瞳が動かない。
呼吸のような微かな動きすら、ぴたりと止まる。
何かを見た時の反応だ。
ここ数日で何度か、見た。
受信の前兆だ。大きな情報が来る時、クロエはこうなる。
そして――
【~~!?】
音なき声。
クロエの両手がわたわたと動く。
その動きと同時に、四人の脳裏に流れ込んだ。
帝都の映像ではない。
道だ。行軍だ。移動する影だ。
帝王ウィルトス。
老練な剣士。
そして星髪のアギト。
彼らが、南へ向かっている。
北ではない。
王国との国境――このグラードラインへ繋がる方角。
数十名ほどの小軍。
大軍ではない。戦争を起こすには少ない。
だが、お忍びと言い張るには物騒すぎる数を伴って。
「……クロエの目を察知したのか」
アウローラの呟きは確信に近い。
誰が察知したのか。どうやって掴んだのか。それは今は問題ではない。
問題は、相手が反応したという事実だ。
辺境伯が低く言う。
「帝王が自ら動く……これは、ただの確認では済まぬかもしれませんな」
「いや」
アウローラは短く否定した。
否定しながら、頭の中では既に手順が走っている。
「今すぐ戦争を起こす気なら、もっと連れてくる。これは様子見だ。だが甘い様子見ではない」
冷静に、帝王ウィルトスの思考を推測するアウローラ。
自らの国を覗き見られた。ならばその不埒者の姿を確認する。
誰が、どうやって、何の目的で覗いたのか――その探り。
アウローラは確信に近いところでそう結論付ける。
何故なら――同じ立場なら、アウローラも同一の選択をする故。
「バルドゥール卿。国境軍に伝令。第一線の兵は配置につけ。ただし前へ出るな。射手は伏せろ。魔術師は詠唱待機。民の避難経路の確保も急げ。街道は整理し、混乱を作るな」
言葉が速い。
だが、焦っていない。
焦りの声ではなく、段取りの声。
「夫人。万が一に備えて難民対応の準備。食糧と水。臨時の宿営地。治療の物資。勝手に境界線へ群がらせるな。秩序を保て」
「承りました」
夫人の返答も速い。
帳簿の女は、戦時の女でもある。
「セシリア。境界狩猟軍は、表向きは通常巡察のまま、川沿いの森に散れ。見えないところで道を押さえろ。避難村への連絡線の確保も忘れるな」
セシリアの顔が引き締まる。
「はい……殿下はどうなさるおつもりで?」
「国境線で、帝王を迎える準備をする」
辺境伯が眉をわずかに動かす。
「殿下自ら……?」
「私が出る」
短い断言。
帝王の動きは「挑発」の類だとアウローラは踏んでいる。
対話という名の、威圧。
威圧という名の、選別。
選別という名の、試し斬り。
そんな帝王の「挑発」から逃げれば、王族として終わる。
それに――逃げる理由は、最初から無い。
脳裏に、三年前の光景が閃く。
砦。炎。雷。銃声。叫び。
そして――失ったもの。
それらを思い返して、アウローラは笑った。
笑った瞬間、辺境伯が息を呑み、夫人とセシリアが思わず冷や汗を垂らす。
それは、微笑ではない。
戦場で敵を見つけた者の破顔。
「来るなら来い」
声が低い。
静かで、暗闇に沈むような刃じみた声色。
「貴様の顔を見て、私も直接言ってやりたい気持ちはあるんだ」
言葉には万感の想いが詰まっていた。
三年前の憎しみ。
奪われたものへの怒り。
そして今、この国境に迫っている帝王への――純粋な殺意。
国境の草原は、朝日に照らされて美しい。
大河は穏やかに流れ、風は柔らかい。
だが、その風向きが変わるのは――もう時間の問題だった。




