そして世界は終わらせない
聖女召喚。
昔からゲームだの小説だのでは、よくある物語の題材だと思う。それがヒロインになって主人公の勇者を支えたり、王子様と結婚したり。そうでなくとも昨今は量産されている題材だ。特にライトノベルやウェブ小説ならばいくらでも転がっているであろう、王道からアンチテーゼ、見るに堪えない陳腐な話から涙なしには読めない大傑作まできっと色々あるはずだ。
王族か宗教を匂わせる偉い人たちに囲まれて、王道なら『聖女様、世界を救ってください!』なんて助けを乞われるのだ。変化球やアンチテーゼならば、聖女扱いされずに放り出されるのかもしれない。けれど、なんにせよそれは、王城や教会で行われるべき催事だ。そうあるべきだ。なのに。
なのに、――ここは戦場だった。
鉄臭い。煙臭い。溢れかえる怪我人や激しい剣戟、遠くで暴れまわる化け物と燃え盛る荒野を見ればどんな馬鹿でもその正体がわかる。わかってしまう。これは血の臭いだ。火で焼けているのは、きっと、人だった。
大学までの道を歩いていたはずの私が気が付けばこんな場所にいるという意味の分からない状況に理解が追い付かないのに、危機感からか吐き気だけはしっかり込み上げてくる。
何が起きた。どうなっている。これはどういうことだ。
様々な疑問が頭の中に湧いてくるさなか、目の前の男が私の知っている物語のように叫んだ。
「どうか世界をお救いください、聖女様……ッ!」
その言葉で私は召喚されたのだろうと思い当たった。聖女召喚なんて意味の分からない行いで、私はあの物語のヒロインたちと同じように日常を剥奪されたのだとわかった。
きっと怒ってもよかっただろう。
恨んでも、憎んでも、嘆き悲しんでも、よかったのだろう。
救う義理などまるでない赤の他人に平穏な人生を奪われたら、そう考えるのは間違っていない。私は絶対的に被害者で、――でもこの人たちも、紛れもなく被害者だった。
卑怯だ。こんなところに喚ぶなんて。
叫んだ男は私の前に跪いていた。右目を覆い隠すように巻いている包帯は、どす黒い血で汚れている。指だってすでに何本もない。服にも誰の血かわからないものがこびりついている。けれどこの男の怪我は軽い方だった。
あたりに転がって呻いている人々はみな西洋甲冑を着ているのに、何かで真っ黒に焦げていたり、四肢がもがれたり、腹が切り裂かれ中身が露出していた。ぶすぶすと妙に紫色の煙を上げてもがき苦しんでいる者もいる。彼らは素人目に見てもきっと先は長くないだろうとわかる酷い状態だった。
誰も彼もが酷い顔色で、もう終わりだと嘆いていて、剣を持てる者たちですら頭を抱えて呻いている。嫌だ。どうして。なんでこんなことに。目の前の男以外は私という異物が現れたことにすら気が付けないほど、追いつめられていた。
それだけじゃない。その怪我人を生み出したと思われる化け物が暴れまわり、あちらこちらが火の海で、ここには絶望的な空気が蔓延している。化け物は止まらない。どろどろとした黒いものをまき散らす不吉の象徴がこちらに向かってくる。
その光景を見ていれば、もう世界は終わるのだと、状況を知りもしない私でさえ思うほどだった。
地獄だ。地獄に召喚された。
役に立てるとは思わなかった。今だって足がすくんでいる。遠くで聞こえる化け物の叫び声が耳をかすめるだけで逃げだしたい気持ちでいっぱいになる。聖女として力が使えるかもわからない。でも。それでも。
「……わかっ、た。私も、一緒に、戦う」
自分でもわかるくらい声が震えていた。いや、声だけではなかった。どこもかしこも震えていた。目には涙がたまっていたし、歯の根が合わずにがちがちと不快な音を立てていた。
跪いていた男が滲んだ視界でもわかるくらいに驚いていた。まるで、私が了承するわけがないと思っていたみたいに。
「本当に、よろしいのですか……? 死ぬかもしれないのですよ」
「喚んでおいてそれはないでしょ!! 死ぬのがよろしいわけなんてない!! 聖女って言われても意味わかんないし、戦ったことなんてないし、逃げ出したいくらい怖いに決まってる!!」
こんな景色を見せておいて、今更なことを言う男に怒りが湧いてそんなふうに叫ぶ。私に選択肢があったとして、これ以外選べないような光景を見せておいて酷いことを言いやがった。
だったら、と男の口が動いたけれど、私は叩きつけるように叫んでいた。
「でもあなたたちを見捨てたら! 私は、……私は、これから生きていかれない……!」
何もできなくても、見知らぬ人々でも、死にかけながらも懸命に戦った彼らを見捨てて逃げたら、生き残れたとしても、このまま日常に戻れたとしても、きっと一生ものの傷になるだろう。私は彼らを見捨てたと。もはや私しか頼るすべのない人々を見殺しにしたのだと、一生罪悪感に襲われるに違いなかった。
「だから、だから……! 何もできなくても! 役に立たなくても! 死に際に恨み言を言ったとしても! ――最後まで戦ってやる!」
罪悪感なんて大層なものですらなかったのかもしれない。吹っ切れただけ。若気の至り。反抗心。あるいは意味の分からない状況に、ただ意地になってただけだったのかもしれない。
そんな中身のない私の言葉でも、意味があった。価値は、あったのだ。
獣が吠えるような、咆哮。
それらは歓声だった。怪我人でさえ、あと数秒後には死に絶えるものでさえ、誰もが雄たけびを上げた。俯いていたはずの者たちが私と共に立ち上がらんとし、剣を掲げている。
特別でもない私が本当に聖女だったのかはわからない。けれどこの時、たしかに私は聖女になったのだろう。
唐突に、聖女としての奇跡の使い方を理解した。魔法も剣も知りようがなかった現代人が、コンピューターにソフトをインストールするかのような、そんな手軽さで。
ゲームのように呪文を唱えるまでもなく、魔法陣のような何かが私を中心に展開した。大きなそのサークルが光を放つや否や、転がっていたものたちが続々と立ち上がった。有り体に言えば、怪我が治ったのだ。完治した、というと語弊がある。私は傷を閉じて、欠損部位を生やしただけだ。傷は残っているし、もしかしたら後遺症染みた何かがあって、機能にも問題があるかもしれない。だが、今この時だけならばそれでもよかった。
立ち上がり剣が振るえれば。
目標を定めて魔法が打てれば。
あの化け物と戦うことさえできるのならば――!
「打ち倒せ!!」
それは誰の喉から出た声だったのか。自分のものと誰もが錯覚するほどの熱気で、誰もが攻撃に加わった。私の前に跪いていたはずの男も、頭を下げて礼を言うなり、巨大な斧のようなものを持って化け物に向かっていった。
きっと私は後方でこうやって支援していればいいのだろう。それが聖女の戦い方なのだろう。でも否だ。否である。彼らを肉盾とし、後ろに隠れて安穏と回復させ続けるだけで、戦っているなんてこの地獄でどの口が言えるのか。彼らのための奇跡を使わずして何が聖女か!
「お前も焼け焦げろ!!」
とはいえ、元来聖女とは思えない性質の持ち主だ。口から出たのはとんでもない言葉だったが、それでも化け物だけに降り注いだ雷は、かすかなダメージと麻痺を与えたようだった。殺せると断言できるほどのものではない。けれど、これはたしかに、世界の終焉を退ける一歩となったのだった。