(15)小貫の地にて
真岡御前城から東へ五里半、常陸笠間との国境に近い仏頂山の北麓に、小貫という地所がある。
この地には、約五十年前に廃城になった小貫城がある。隠居した高定はこれを修復し、嫡男の信高とともに移り住んだ。
「なぜわざわざあんな山深い土地に住むのか?」
広綱や重臣たち、それに芳賀家の重鎮たちからそう訊かれたが、日々、山野に分け入り、野草を摘んで暮らすのだと、高定はもっぱらそう答えた。
「わしはもともと益子家の三男坊であり、部屋住みの身分である。わしが芳賀家を継いだのは、先代尚綱公が、宇都宮家と芳賀家との関係修復をお望みになられ、わしへその役割を託されたからである。その仕事にもようやく目処が立ったため、わしはもとの部屋住みに戻って隠棲する。芳賀家の家督は、我が家の者が相続すべきではなく、芳賀家の血筋の者に返すのが理というもの、そのこと、しかと肝に命じよ」
高定は、嫡男信高へそう言い聞かせて、納得させた。
高定が人煙まばらな小貫へ住むことにした理由は、隠居後、二度と宇都宮家の事案には参画しないという意思表示であった。広綱の守り役であり、宇都宮家の家宰とも目された高定は、隠居後もさまざまな事柄について相談にあずかる可能性があった。特に、突如芳賀家当主となった高継は、政事の経験がなく、何かと高定を頼りにするかもしれない。
「重ねて言うが、私はいっさいそなたにも、宇都宮家にも口出ししない。だから、何があっても私に相談するな。時候のあいさつはもとより、祭祀も無用である。芳賀家の先代当主は私ではなく、そなたの父、高経だと思いなさい」
高定は高継へ、あえて突き放すようにそう言った。隠居後も口出しして、隠然たる影響力を及ぼすことの弊を避けるため、完全に関わりを断つことを求め、みずからも僻地へ退いた。そのぐらい徹底した工夫を施さないと、また何かの契機で君臣間ないしは臣下同士で事がもつれ、予期せぬ確執へと発展するかもしれない。そういう災いの芽はあらかじめ摘んでおくことが肝要だと高定は考えた。
天候の良い日は、足繁く仏頂山へ登った。山道を歩きながら椎の実を拾い、裏白樫の樹林を眺めた。寒季には藪椿の花を愛で、夏季には林間から降りそそぐ姫春蝉の喧しい鳴き声を浴びた。秋には松茸狩りを楽しんだ。
ある日、高定は益子領内にある宇都宮家歴代当主の墓所に詣でた。小貫城からは約三里の道のりである。
宇都宮家歴代当主の墓所は、宇都宮にはなかった。宇都宮家第三代当主、朝綱は、出家して益子領内大羽にみずから尾羽寺を建立し、隠居後はこの地で余生を送った。その際、初代宗円と第二代宗綱の墓をここへ築き、自身の墓もここへ建てるよう命じた。以後、二十代尚綱までの歴代当主すべての墓がここに築かれていた。墓所には墓守が常駐し、つねに静謐が保たれていた。
各当主の墓は、一様に質素な五輪塔であった。高定は、まだ真新しい尚綱の墓前で香を焚き、道中で摘んだ野花を捧げて拝跪した。
「御屋形様、それがしに託されました御嫡子伊勢寿丸様改め広綱公は、立派なご当主へと成長されました。それがしの役割はここまでかと思い、過日御役を御免蒙りました。今後は山野の風景を愛でながら余生を過ごす所存です。いずれ、来世で御屋形様とお目にかかり、昔話などに花を咲かせる日が来るのを楽しみにしております」
芳賀家当主を継いだとき、理非曲直を正すことを方針として掲げ、それにしたがって身を処してきた。振り返ってみるに、曲がりなりにもその方針から逸脱することなく進んで来られたことを思い、高定は大きな充足感に浸った。
高定は長いこと、尚綱の墓前に佇んでいた。
高定は隠居後、一度も宇都宮へ出向くことはなく、また公の場に顔を出すこともなかった。天正十六年(一五八八)一月、六十八歳でこの世を去った。
了




