16.花薫る
何処か遠くから。
流れてくる風に乗って届く。
目には見えなくても。
娘が立つてゐた。
歸つたのではなかつたかと私が問へば、忘れ物をしたのだと娘は云つた。
忘れ物?
娘は何か忘れただらうか。赤い鹿子の巾着はしつかり兩の腕に抱へられてゐる。他に何を持つてゐたとは思はぬが。
名を訊いてをらなかつたと娘は笑うた。氣に成つたから戻つて來たと云ふ。
面白い娘だ。
慌てて驅け戻つたのだらう、息を少し彈ませて白い頬を上氣させて居る。
貴男の名は?
私?
私は。
ふと鼻先を掠めた花の香。甘く切なささへ抱かせる、金蜜色の匂ひ。
木犀の香だ。未だ葉月だと云ふのに氣の早い。
「私は」
聲に出した。
其の瞬間、違和感が私の喉を抑へた。
ワタクシハ。
これは俺の言葉じゃない。
オレ。
これは私の言葉ではない。
何故だ。
何だ。
この—―異質な感覚は。
薄布で目隠しした様な。
虫眼鏡越しに鏡を見た様な。
他者を通して見聞きする様な。
恰も、自分が二人居る様な。
奇怪としか云ひ表せぬ感覚。
目が眩む。
押し寄せてくるのは、けれど光ではなく。
名は? と娘が再度問ふ。
白く濁り、硬く凝る夜闇。
突き刺し、染み込み、縛り上げる冷氣。
花火の匂ひを押し退ける、鼻を刺す雪の匂ひ。
葉月に?
否。
葉月どころか。
鳴動に潰えた長月。混迷に消えた神無月。
今や冬ではなかつたか?
木犀の花も浴衣の娘も、ある筈が無いではないか。
十二階が建つてゐる筈が無いではないか。
其の無惨な姿を、其の最期を、並ぶ軍服の群越しに、遠く看取つたのではなかつたか。
鈍色の粉塵に塗れた小さな太陽、見知つたものが悉く喪われた街角を忘れ得る筈もない。
さうして、私も。
私は娘に問ひ返した。貴女は? と。
ウィキとか見れば書かれています。
浅草十二階の顛末は、至極あっさりしたものでした。
いやもう、現在なら絶対在り得ない。




