11.十二階の約束
それにしてもこの「私」、十二階に入り浸りすぎ。
遊び人か。
屋上まで行くのに入場料かかるのに…
何時でも。私は答へた。
「何時でも此處は一番ですよ。—―あゝ、さうだ。夏の内に花火を少し買つて置かふ。
雪の日にね、花火をするんですよ。其れは其れで又、面白い」
「雪の日に?」
まあ、と娘は小さく驚きの声を上げる。
「或の大きな花火をですの?」
「いゝえ、線香花火をね」
私は娘の言葉に苦笑した。流石に尺玉を素人が扱うわけにはいかぬ。
「其れでは小さな光でせう。其れに、湿気て仕舞うのではないかしら」
「なに、渋紙に包んで置くのですよ」
しつかり包んで置けば、一年くらい平気で保つのである。
「其れを、靜かな雪の夜にね。小さな火が雪の結晶に反射して、切子の華のやうに一層煌めくのです」
娘は貌を輝かせた。
「其の景色はきつと、雪に咲く花のやうなのでせうね」
花火の終わつた宵闇に、其の貌は白い花のように綻んだ。
「では其の折は、私も誘つてくださるかしら」
どうぞいらつしやい。私は答へた。
娘は何かを抱くやうに胸の前で兩手を組んだ。
強情かと思うたのに此のやうな樣子を見ると、隨分素直だ。
私は此の娘が好きに成つた。
あ、と唐突に娘が小さく聲を上げた。
女學生の友人と祭を見に來てゐたのだと云ふ。花火が終はり人が散つてしまふと、一人で歩いてゐたのが知れてしまふ。
淺草は、特にこの十二階界隈は、若い娘が一人で出歩く場處では決してないのだ。
まして、見知らぬ異性と夜中に二人きりでなどとは、言語道斷である。
慌てて階段へと足を向けた娘が、一寸振り向き問うた。
「今度は、何時此處へ?」
何時でも。私は答へた。私は何時でも此處に來てゐると。
では、と娘が云つた。
金木犀が今年初めて薫る日に逢ひませう。
踵を返し碧成す髮をなびかせて娘は去つた。
金木犀が薫る日に逢ひませう。
其の言葉を殘し。
娘が去つて。
私は漸く思ひ出した。
雙方共名乘つて居らなんだことを。
迂闊であつた、が。
其れもまた良からう。
あれほど話してから名を問ふのも間拔けた話だ。又今度會つた時にでも、さりげなく訊いてみよう。
なに、さう先の話ではない。
金木犀が薫る日に。
さうして。
僅か數日後。
大正十二年九月一日。
この最後の行のあと、次の一行を書いたところで、その夜は終えました。
それが、平成七年一月十六日…阪神淡路大震災の起きる、ほんの数時間前だったのです。




