第一七話 悪党の戦場
――イヴとサヴァラの戦闘、ミコトと魔族グランの遭遇と、ほぼ同時期のこと。
巨大な竜巻を、ラウスは遠くから見つめていた。
木の枝に腰掛け、ぼうっとその光景を視界に入れる。
ヘレンが生み出した竜巻は、殺すべきはずの《操魔》の故郷を、魔獣の牙から守っていた。
同情したからという、そんな理由で。
甘いな、とラウスは思う。
だからこそヘレンらしい、と苦笑した。
《風月》に心を侵され、人格がおかしくなっても。
ヘレンの根は善で、誰かを守れる人間なのだ。
その事実を突き付けられて、ラウスは手元のレイピアを弄ぶ。
落ちていく葉を切り刻み、粉微塵にする。
このレイピアは、人を傷付ける剣だ。
いや、武器は悪くない。問題なのは使い手だ。
――ラウス・エストックという悪党は、人を傷付けることしかできない。
本当は、ヘレンの隣に立つ資格などない。
薄汚れていて、醜くて、意地が悪くて。自分がこんな人間だと、ヘレンに告白することもない。
そんな自分を変えることを、早々に諦めている。
場違いで、居心地が悪くて。
なのに、離れたくないと言う自分がいる。
「はぁ、バッカみてぇ」
昔なら、こんなことで悩むことはなかったのに。
(俺ぁ、弱くなったもんだなぁ……)
ラウスは深い溜め息を吐き出した。
その、次の瞬間だった。
「きみは、弱くなったんだねぇ……?」
声が響いた。
ラウスの真下。ラウスが腰掛けている木の根元に、奇妙な少年が立っていた。
黒い眼球と肌。白い瞳と髪。
纏う空気は掴みどころがなく、不気味。
「あぁ?」
億劫そうに威嚇しながらも、ラウスはレイピアを握り締めていた。
この少年の出現を、声を掛けられるまで感知できなかった。
気を抜いていたのは事実だが、それなりに警戒はしていたのに、気付けなかった。
このガキは何かがおかしい。ラウスは警戒心を高めた。
「あぁ、いやいや、勘違いしないでよ。ぼくはあんまし戦うのが好きじゃないし、得意でもないんだ。ちょっと心の隙間を縫うのが得意なだけ」
「心の隙間ぁ?」
「うん、そう。ぼくはシェルアさまの実験を受けてね、人の心が読めるようになったんだ。だから、死角を突くのもお手の物ってわけ」
シェルアという名に、聞き覚えはなかった。
こいつが何者か、ラウスは思考を巡らせて、
「あ、わからない? シェルアさまのこと。ご教授して差し上げようか? ご親切、ご丁寧に」
「うっぜぇな、てめぇ」
ラウスは空気を蹴った。
風属性の身体強化は、移動の補助。加速は基本で、空中を走ることもできる。
少年に接近し、レイピアを突き出す。
鮮やかな手並みだった。一〇代半ばという若い少年を殺すことに、一切の罪悪感もない。
しかし、ひ弱そうな少年が、半歩横にずれる。
それだけで少年は、レイピアを避けてみせた。
「な……っ」
目を見開いたラウスは、すぐさま飛び退く。
直後、先ほどまで立っていたところに、鋭い氷が落下してきた。
ザグンッ! と地面に突き刺さる氷は、人体を容易く突き破れるほど、鋭い。
ラウスは額から冷や汗を流しながらも、いかにも余裕そうに振る舞う。
「へぇ。氷を使うたぁ珍しい」
魔術で氷を生み出す方法は、色々ある。
火属性の干渉魔術で、水に温度を『冷』に改変するもの。熱を奪うもの。
水属性の干渉魔術で、水を凍った状態に改変するもの。
単純に、水属性で氷を生み出すもの。
なんにせよ、氷を生み出すこと自体は、そう珍しいことではない。
しかし、戦闘にはほとんど使われることはない。
氷で攻撃するには、通常よりも一手間加えなければならない。
そんな面倒なことをするならば、ほかの魔術を使えばいい。
切り裂くなら風刃が、焼くなら火弾が、砕くなら岩弾が。
なら、わざわざ氷を使った理由は、
「――そう、水属性特化だよ」
ラウスの結論を先回りして、少年は正解を告げた。
スロットには型があり、得意な属性の数によって種別化されている。
自然属性四つを、万遍なく扱える汎用型。弱点を補い、強みを高める二極型。
そして、一個の属性だけを鍛え上げた一極型。
例えばそれはラウスであったり、目の前の少年であったりする。
「きみも特化なんだね。それも風の」
……どういう理由かは知らないが、この少年は、ラウスの思考を読む。
人の心が読めるというのは、あながち嘘ではないらしい。
「うんうん、信じてもらえてよかった。――さて、ぼくの言葉がデタラメではないとわかってもらえたところで、本題に入るよ」
「本題ぃ?」
「お話をしようよ」
ラウスに敵意を向けられていて、心が読める以上それがわかっているはずなのに、少年は構えることなくそう言った。
「……殺されてぇか?」
「おぉ、怖い怖い。でもきみ今さ、様子見しようって考えたじゃないか。いきなり意見を変えるって、支離滅裂だっけ? そういうの、だめだと思うなぁ」
本気で殺してやろうか、と思った。
「ま、相互理解のためにもさ、自己紹介をしようよ」
色素が反転した少年は、胸に手をやって、軽く頭を下げてから、名乗った。
「ぼくはロト・アパシー。魔王教所属で、《ラ・モール》の一人だよ」
「魔王教だと?」
《ラ・モール》というのに聞き覚えはなかったが、魔王教は有名だ。
名前に『教』が付いているくせに、宗教とは程遠い狂人・悪党の巣窟。
目的も行動方針も不明、行動もバラバラで、自分勝手な連中の寄せ集め。
堕ちるところまで堕ちた者が行き着く先、というのがラウスの認識だ。
ラウスは悪党だ。闇の世界で生きていれば、魔王教徒との接触は一度や二度では済まない。
魔王教の末端は、底の浅いクズばかり。だがその中枢は、末端とは比べ物にならない狂気が満ちている。
言葉を交わしたことがある。中枢の連中は、本気で頭がおかしい。
生きている世界が違うのではないかと、何度思ったことか知れない。その会話を思い出しただけで、気色悪くて鳥肌が立つ。
「ふん……」
ラウスは改めて、目の前の少年――ロトを観察する。
異常な容姿。不気味な笑顔。心を読むというチカラ。
なるほど。魔王教というのも納得だ。
と、ラウスが観察している間にも、ロトは遠い目をして、過去に思いを馳せる。
「ぼくはね、昔。他人のことがわからなかったんだ。なに考えてるんだろう、ってね。みんな、無感動に見えていた。ぼくにしか心がないんじゃないか、って。でも、やっぱり人には心があって……怖かったよ、もしぼくを恨んでたら、憎まれてたら。……そんなとき、シェルアさまが力をくれたんだぁ!」
本当に嬉しそうに、本気で感謝して、ロトは狂笑を浮かべた。
それは魔王教徒らしい、狂った笑み。
「はは、ははっははは! 他人の心が読めるようになってみれば、世界は悪意で満ちていた! どす黒い心に溢れてたんだよ!! いっつも嫉妬ばかり、貪欲で強欲で暴食、傲慢それでいて怠惰で、肉欲の激情とかさ! 醜悪で残酷で、親しい振りして拒絶してて!!」
心を読み、人の悪しき部分を曝け出す。
その狂言は、この世の全てを嘲笑していた。
「これが人間、生まれっから悪の生き物なんだっ!! ――そう、例えば、きみみたいな人が特にね!」
ラウスを指差して、頬を紅潮させて、ロトは愉悦げな笑みを浮かべた。
目を細めるラウスに対し、ロトは無感動だ。ただ、自分の狂気に没頭する。
「てめぇ……」
「おっと、そっちの挨拶がまだだったね。ごめんねラウスくん、待たせちゃったかな!」
人の心を読めるくせに、ラウスの敵意に無感動。
他者に無感動なのは、ほかでもない。ロト自身だ。
これ以上話すことはない。
交渉も碌にできない。様子見するだけ無駄だった。
速攻で殺す。心を読んでも対処し切れないほど早く、速く。
そう、レイピアを強く握った、次の瞬間だった。
「話してくれないようだから、ぼくが代わりにきみの紹介をしてあげようか? そうだなぁ、とりあえずラウスくん、昔に思い馳せよっか」
心というものは、なかなか制御が効かない。
考えないようにしようと思えば思うほど、それは記憶に強く残る。
連想したら考えてしまう。質問されれば思い起こしてしまう。
「ラウス・エストック、二三歳、男! 《カザグモ》という通り名を持つ傭兵で、風のレイピア使い! 生まれは名もわからない大都市の路地裏で、生き残るには悪に手を染めるしかなくて、他者を蹴落として、そういう行為が愉しくて……!」
「――ぶち、殺す」
完全に、殺意に染まる。
姿が消えた。そう錯覚するほどの速度でロトの懐に潜り込み、レイピアを突き出す。
先読みしたロトが回避し、氷の槍を生み出すが、ラウスはひらりを避け、空中を駆ける。
前、上、左、前、右、後、上、前。
突き、斬り、薙ぎ、叩く。
攻撃する方向も、攻撃方法もバラバラ。
心を読めるロトであっても、規則性のない攻撃には体が付いていかない。常に死角に潜り込もうとするラウスに、致命傷を防ぐのが精一杯だ。
これが《カザグモ》の本領。空中を使った、全方向からの攻撃。
少しずつロトは追い詰められていき、ついには躓く。
尻餅を付いたロトの前で、ラウスはレイピアを逆手に持ち上げ、振り上げた。
「――てめぇはすでに、俺の巣に囚われてんだよ」
目の前に迫る死に、それでもロトは狂笑していた。
荒い息を吐き出しながら、狂言の続きを紡ぐ。
「女と出会って、そいつを愛して、でもその人は善の人間で、自分は悪で、場違いだって思ってて、けど離れたくなくて、自分の心を曝け出せなくて!」
「ッ! 黙れぇ!!」
憤怒し、レイピアを突き下ろす――寸前、ラウスはその場から飛び退いた。
ロトの体を、瘴気が包み込んでいた。いや、ロトの魔力ではない。そもそも、ただの瘴気ではない。
それがわかった理由は、簡単なこと、それを目にすればわかる。
なぜなら、その瘴気には、三つの顔が浮かんでいたから。
「『あらあらロトちゃん、貴方、苦戦してるの? なら助けてあげようよ、リリト!』『ああ、リリスの言う通りだ。なぁに、礼を言う必要はないさ、俺たち仲間だろ? なあリリム、お前もそれでいいよな?』『僕はなんでもいいやぁ。さっさとそこの男を殺そうよ!』」
三つのが顔が、それぞれ言葉を紡ぐ。
その正体を予想して、ラウスは額に冷や汗を流した。
姿形が瘴気のままなのは珍しいが……これは、間違いなく。
「魔物、だと……!?」
幽霊や悪霊、人の残留思念が瘴気に染まることで発生する化け物、魔物。
実体のない魔物は、決して物理攻撃で死ぬことがない。つもり、ラウスには対処の手段がない。
「『そういえば僕、聞いたんだけどさ。ロト、さっきこの人の心を読み上げてた?』」
子供の顔の問いに、ロトは瘴気の中でこくりと頷いた。
「うん。愛する人に自分の悪行を知られたくなくて、必死に自分を繕って、黙って、騙して。場違いだと苦悩している、そんな感じ」
「『へぇ』『ほぅ』『ふぅん』」
魔物は三対の赤い視線をラウスに向ける。
じろじろと見られる趣味は、ラウスにはなかった。躊躇なく背を向け、その場から逃げだす。
勝てない奴とやり合うだけ無駄だ。逃げなければ、手も足も出ず、殺される。
しかし、ラウスは足を止めた。止めざるを得なかった。
凄まじい騒音だった。ひとつひとつの音は小さいのに、大量に集まって大合唱を奏でている。
ブーン、と。煩わしく、苛立たしい羽音、羽音、羽音。
ここはもう、『黒』に取り囲まれていた。
蠢く漆黒の壁に、ラウスは踏み出すことができない。それが、あまりに異常だったから。
「ハエ、だと……?」
それは大量のハエ。
ハエの大群が、この場を取り囲んでいた。
ラウスの背後で、気味の悪い気配。慌ててその場を飛び退けば、瘴気の塊が叩き付けられるところであった。
あれだけ圧縮された瘴気が直撃していたら、間違いなく意識が吹っ飛んでいただろう。
「『あらら、避けちゃった?』『それなりに腕は立つみたいだね、リリス。リリムもそう思うだろう?』『どーでもいぃからさっさとヤろう!』」
瘴気弾の下手人は、三つの顔を浮かべる魔物だ。
その横には白黒の少年、ロトが付いている。
逃げられない戦場で、心を読む敵と、攻撃が通じない敵。
ラウスは今、完全に追い詰められていた。
「魔王教、《ラ・モール》が一人――ロト・アパシー」
「『同じく、《ラ・モール》のリリス』『僕がリリムぅ!』『で、俺がリリト。その他、ばらばらな霊も合わせて――俺たち、アィーアツブス』」
一方的な戦いが、始まる。