第九話 《狂愛者》の求愛
グランの妻。享年。《ラ・モール》。メレク。セリアン・スロヴィ。
その言動は意味不明。しかし、その発言の意図を考える時間はなかった。
セリアンの足先が、グランの腹部に抉り込む。
今度こそ、手加減はなかった。グランが大量の血を吐き散らす。
このままでは、グランの命が危ない。レイラは痛む体に鞭打ち、生命力から魔力を捻り出す。
「『イグニスト』……っ」
弱々しい火弾がセリアンへと向かう。セリアンは迫る火弾を認めると、右腕を翳した。
そして、詠う。
「『アクエスト』!」
その詠唱を聞いて、レイラは目を剥いた。
獣族は基本的に、近接戦に用いられない魔術を苦手とする。
しかしセリアンは、楽々と水弾魔術を発動した。
火弾と水弾が激突する。
弱々しい火弾と、強力な水弾。さらに属性の相性を考えれば、どちらが打ち勝つかは誰の目にも明らかであった。
拮抗は一瞬だった。火弾は呆気なく散り、水弾は勢いを弱めることなく、レイラの足元に着弾した。
水弾が割れ、大量の水がレイラを叩く。疲労した体では、持ち応えることもできない。
「ぎ、がぁ……!?」
衝撃に負け、レイラは弾き飛ばされた。なんとか受け身を取り、後頭部をぶつけることは回避する。
全身が悲鳴を上げていた。下唇を噛み、意識だけは繋ぎ止める。
「く、ぉぉぉおおおお!」
倒れ伏していたグランが、ふら付きながら立ち上がり、鋭くセリアン睨み付ける。
クレイモアを握る拳を、血が滲むほど強く握っていた。……しかし、剣が構えられることはない。
「あはっ! グランはお優しいですね! いいえ、それは愛! 愛する者にはどれほど傷付けられても、傷付け返すことはできないのです! 事実、私に殺され掛かっているというのに、貴方は攻撃できない! あぁ、私は貴方を愛しています! 貴方も私を愛しています! そういう時にこそ、このメレクぁ! メレクを感じるのです!! アッハァ、絶頂するゥッ!!」
セリアンの発言は、完全に矛盾し、破綻していた。
言葉尻を捉え、揚げ足を取ろうとするまでもない。なのに、反論しようという気持ちは湧いてこない。
自分本位で気持ち悪い理論武装は、言葉という武器を向けることさえ躊躇する。
だからレイラは、グランに向けてこう叫ぶ。
「そいつの言葉に、耳を傾けないで! アンタとソイツがどんな関係かは知らない。でも今、こうして敵対してるのよ! 戦わなきゃ死ぬの!! アンタだけじゃない、アタシも里の皆もよ!!」
ひどいことを言っている自覚はあった。
グランはセリアンに、剣を向けることを忌避している。だから、卑怯な言葉で無理やり従わせる罪悪感はあった。
だが、間違ったことは言っていない。
ゆえにレイラは、躊躇わない。
「戦って、グラン! ソイツの動きは素人丸出し、アンタが本気を出せば倒せないはずがない……!」
グランが歯を食いしばる。あまりに強すぎて、口の端から血が垂れた。
そしてグランが、剣を構える。切っ先がブレていたが、人を殺すにはそれで十分。
グランの決意を目の当たりにして、セリアンから表情が消えた。
「あぁ、愛がないです。ないないないない、それはないですよグラン。今からでも考え直しましょう? 私もちゃんと愛します。大丈夫ですよ、私はここにいます。ずっと貴方を愛しています」
「……すまない」
セリアンの言葉を無視し、グランが駆けた。
「ぉぉぉお、おおぉぉおぁぁぁぁあああああ…………ッ!!」
それは咆哮ではなく、悲痛の絶叫だった。
荒々しく大剣を振り上げる。
対するセリアンは、涙を流し、顔を覆って、溜め息を一つ。
「それじゃあ、『顔』を変えましょう」
ぐにゃりと、セリアンの顔が溶けた。
顔だけではない。体が、服が、セリアンという人物を構成していた何もかもが、ぐちゃぐちゃに溶けていく。
次第にセリアンの体が、別物へと変貌していく。
溶けた顔が、再構成されていく。
レイラは絶句した。
金髪の髪、ブラウンの瞳は、セリアンのものと同じ。しかし、明らかに別人となっていた。
強靭な肉体を持つ、獣族の老人を見て、グランが驚愕する。
「獣王様!?」
驚いている暇はなかった。
大剣を振り上げたグランの、さらに懐の深くへと潜り込み、老人の拳が振るわれる。
その光景を見ていたレイラは、目を見開いて慄く。
腹部に強烈な突きを受けたグランが、ほぼ真横に吹き飛び、十数メートル後方の木に背中を打ち付けたのだ。
グランの手からクレイモアが離れ、地を転がる。
それを成した老人に、身体強化は掛けられていない。
あれが正真正銘、生身の膂力なのだ。
「グラン・ガーネット、君には失望した。このディラン・バステート・スロヴィの孫に、剣を剥けるとはのう」
ひどく残念そうに、怒りを滲ませて、セリアンでなくなった老人――ディランは言う。
「覚悟はできているじゃろうな。なくとも、容赦はせんが」
グランとディランが、激突する。
ディランの体が赤いオーラで覆われる。火属性の身体強化だ。
対し、疲労したグランには魔術を使う余裕はなく、剣も持っていない。
拳を打ち合うたびに、グランの体が壊れていく。一挙一動で、急速に追い詰められていく。
ついに、グランの拳が弾かれた。
「素直に受け取るのじゃな、グラン。これこそ君が畏怖していた、獣王の拳じゃ!」
ディランの拳が顔面に突き刺さり、地面と衝突する。
拳と地面で挟み込まれたグランは、大量の血を吐いた。
白目を剥き、体が痙攣している。
致命傷を受けたのは明らかだった。
「ぐら、ん……」
レイラが発した声は、掠れていた。しかし、聴力に優れた獣族には聞こえたらしい。
ディランが、レイラのほうに向いた。
「貴様が何も言わなければ、グランはセリアンを愛し、愛されたまま死ねただろうに。……先に、貴様から殺そうかの」
ディランが落ちていたクレイモアを拾い、レイラの首に添える。
少しでも力を入れれば、首と胴体が泣き別れすることになることは明白だった。
もはやレイラに、抵抗する力は残されていない。
せめてと睨み付けるが、ディランはまったく退かなかった。
「じゃあの。愛を否定した罪は重いぞ」
そして、クレイモア振り下ろされる。
◆
薄れゆく意識の中、脳裏には浮かぶ情景。
幼き日の記憶。
義父と義母、義妹がいた。全てに『義』が付いたけれど、家族だった。
大切な、サーシャの笑顔。
甘えさせてくれた、ナターシャの微笑み。
そして、頼りになるサヴァラの、広い背中。
そして、走馬灯は終わり――、
ザグリ、と。
血飛沫が舞い上がった。
――クレイモアを握るディランの腕が、斬り付けられた。
「よく頑張ったな、レイラ」
倒れ伏すレイラの視界に、大きな背中が映る。
ぼろぼろでよろよろの、黒いコート。肌を一切見せない、細部まで覆った包帯。
包帯の隙間からこぼれた、くすんだ銀髪。
「――ここからは、俺の出番だ」
見覚えのある、なぜ懐かしく感じる、頼れる背中。
男が振り向いた。青い目が、本当の慈しみによって細められる。
「さぁて、魔王教め。怪しい動きをしてたからと見張ってりゃぁ、とんでもねぇことをしやがる」
牙を剥いたディランが、クレイモアを拾い、跳び掛かる。
男は振り向ぎざまに、ハルバードを振り抜いた。
鮮やかな技術、軽々と振られる斧槍。
クレイモアとハルバードがぶつかり、弾き合う。
「『イグニモート』、『アクエモート』、『エアリモート』、『グロウモート』」
脳の制限を緩め、肌が薄い黄色の光を灯し、赤いオーラが体を包み、その外側を風が覆う。
身体強化魔術の重ね掛け。強靭な肉体、精密な魔力操作、精緻な術式演算の三つが揃って、初めて到達する境地。
それを軽々と成し、ディランに向け、ハルバードを構え。
男は、包帯の隙間から壮絶な笑みを浮かべ。
「一度ならず二度までも、この場所に手ぇ出したんだ。もう遠慮はしねえぞ!!」
ハルバードの一振りが、大気を切り裂いた。
謎の男の戦闘技術は、遥か高みにあった。
乱れ、衰えることのない、魔術行使と身体操作。身体強化とハルバードを、完璧に使いこなしている。
ハルバードは槍と戦斧を合わせた万能武器であり、突く・斬る・断つ・払う、様々な攻撃が可能だ。
だが、使いこなすのは難しく、熟練でなければとても扱えない。
また、自然属性全種による四重身体強化は、少しのズレが致命的だ。魔術が失敗するというだけで収まらず、身体が内から壊されるのだ。
反面、完璧に扱うことができたとしたら、ここまで強力なものはない。膂力、肌の硬度、体を包む力、纏う風。これらを全て同時に使いこなせたなら、接近戦において非常に強力だ。
なんという技術。そこまで上り詰めるには、資質や才能だけでは足りない。
不断の努力があったのだろう。
自身の命を賭けられる、大切なモノがあったのだろう。
「ハァァァアアアアア!!」
男の体がスピンし、ハルバードが二回、三回と振られる。
遠心力を乗せた一撃は、利き腕を負傷しているディランを軽々と払い除けた。
男は強かった。
破壊力はディランに劣れど、技術という面では遥かに勝っていた。
受け流し、隙を突き。払い除け、薙ぎ。避け、斬る。
柔と剛を使い分けた、安定した戦い方だ。
片腕であり、完全にクレイモアを使いこなせていないディランは、劣勢を余儀なくされていた。
男の猛攻が、ディランを押し返していく。
ついに弾かれたディランが、大きく後退する。
距離が開き、隙を窺い合う。
「……テメェの戦い方は、どうもチグハグだな」
ぽつりと、ハルバードで牽制しながら、男が言葉を続ける。
「聞いたことがあるな。薄暗い界隈じゃ、けっこう有名だ。魔王教連中の一人に、他人に成り代わる魔術を持った奴がいるって。――テメェ、《狂愛者》メレクか」
「いかにも、儂はメレクじゃ。……じゃが、二度と《狂愛者》などと言うでない。儂は真実の愛を求める者――《求愛者》!!」
男の確認に、ディラン……否、メレクは目を見開いて狂言を紡ぐ。
「……元々儂は、知覚範囲にいる者の姿しか偽装できなかった。だが、シェルア様はぼくに、残留思念を読み取る力をくれた! 記憶も、気持ちも、愛も! わたしには手に取るようにわかる!! ……おれは愛を求めている。愛を実感したい。愛がほしい。見てほしい、この僕を、俺を愛してくれ!」
『顔』が変わる。次々と別人に移り変わる。
声も姿も髪も瞳も肌も、ぐちゃぐちゃに溶け、再構成される。
その『顔』が、少しずつレイラが見知ったものに変わっていく。
「おや、レイラちゃんじゃないか。――愛、愛しているよ。孫のように思っているよ! レイラちゃんも慕ってくれたじゃないか、お婆ちゃんみたいに!!」
ドーリャ・シスバの『顔』。
偽物の親愛。
「お、レイラじゃん。どうしたんだ? ――実は俺、レイラのことが好きだったんだ! レイラも俺のことが好きだったんだろ? だからさぁ、愛してくれよ、俺を!!」
アリュン・ルメニアの『顔』。
偽りの恋愛。
「なんで今、アンタがここに来るのよ……!? ――わたしも今日から、あなたを守る」
レイラの『顔』が、サーシャの『顔』に。
その会話は、初めて姉妹喧嘩したときのもの。
冒涜されていた。
親愛を、姉妹愛を、恋愛を。
「逃げるんだ、レイラ。お願いだ……逃げてくれ」
サヴァラ・セレナイトの『顔』。
家族愛をも、侮辱された。
「お前ェ……!!」
叫ぶレイラ。
しかしメレクは、続ける。
「このままじゃサーシャが!」
赤い瞳をした女性――ナターシャ。セレナイトが叫ぶ。
それに返答するのは、サヴァラに『顔』を戻したメレクだ。
「だが……。だが、ナターシャ! それじゃ、お前が……!」
知らない会話だった。
このような言葉を、レイラは一度として聞いたことがない。
「サヴァラ、お願い!」
最後にナターシャの『顔』なったメレクが、わざとらしく「うっ」と心臓を押さえた。
レイラには意味のわからない動作だった、が。
憤怒を現したのは、黒いコートの男だった。
「テメェ……!」
「愛! 愛だよサヴァラ! 娘を救いたいわたしの気持ちが、死を受け入れた! 娘を想う貴方の気持ちが、わたしを殺した! 妻を殺した悲痛、絶叫、愛の苦しみが、このメレクを絶頂させるぅ!!」
ギリィッ! と、歯が軋む音。
男が強く、歯を食いしばっていた。
「そうだよサヴァラ! その怒り、悲しみ、苦しみ、それは愛の証拠! 痛いのが愛、そう、だから死だって乗り越えられる! サーシャのために死ねてよかったぁ!! 貴方に殺されて、わたしはとっても幸せだよぉ!!」
先ほどから、メレクは誰に向けて話しているのか。
その内容の意味はなんだ。どうしてこの男が憤る。
なぜ。それを考えて。
その可能性に、レイラは目を見開いた。
思えば、どうしてこの男は、レイラの名前を知っていたのか。
まさか。
「ねぇサヴァラ・セレナイト! その包帯を取って、もっとわたしに顔を見せて!」
男は答えなかった。
身体強化のオーラが増強する。次の瞬間、男の姿は掻き消えた。
瞬く間に、メレクの眼前に迫っていた男が。
ハルバードを、振り下ろす。
「すまない、ナターシャ」
そして。
ナターシャの体が、左肩から右の腰まで、深く切り裂かれた。
「ああああ、ああああああああああ! なんで、どうして、サヴァラ!? わたしは、わたしは貴方を愛して、貴方もわたしを愛していたのにぃ!!」
「テメェみたいなクズ、ナターシャじゃねえよ」
返す刀で、ハルバードが閃く。
しかしこれを、メレクが地を這って回避した。『顔』がナターシャからディランのものへと変わり、森へと飛び込んだ。
その動きは俊敏な獣族らしく、素早いものであった。
森は獣族にとって有利な戦場だ。追撃を掛けることを、男はしなかった。
男は俯いている。
ひどく疲労している様子だ。肉体的というより、精神的に。
「ぁ、の……」
レイラは男に、声を掛ける。
メレクは逃がしてしまったが、そんなことは気にならなかった。
それよりも、知りたい。
この男が、本当に――、
「――大きくなったな、レイラ」
サヴァラ・セレナイト。
レイラの義父であり、サーシャの実父である男。
間違いなく、彼であった。
嬉しくて、泣きたくて、安堵があって。
そして、安心して。
レイラの意識は、急速に闇へ落ちる。
倒れたレイラを、サヴァラは苦笑して抱き支えた。
負ぶわれたその背中が、とても懐かしい。
レイラは気を失った。
男はレイラに気を取られていた。
だから、気付けなかった。
――グラン・ガーネットが、この場から立ち去っていたことに。