第四話 村の子供
翌朝。
アルヴェインは、いつもより少し早く目を覚ました。
目が覚めて最初に思ったことは、
「芽は出たか?」
だった。
自分でも少し可笑しくなった。
昨日植えたばかりだ。
そんなに早く芽が出るはずがない。
それでも、外へ出る。
朝の冷たい空気の中を歩き、畑へ向かった。
「……」
最初の一畝。
土は昨日と変わらない。
もちろん、芽など出ていない。
「そう簡単にはいかんか」
アルヴェインはしゃがみ込み、土を眺めた。
土の中には小さな種が眠っている。
まだ何も変わっていない。
だが、何も起きていないわけではない。
そう思うと、不思議だった。
アルヴェインは水桶を持ち上げた。
「焦る必要はない」
ゆっくりと水をかける。
畝の土が濃くなる。
それだけだった。
アルヴェインは満足して立ち上がった。
◇
「アルじいさん!」
しばらくして、聞き慣れた声がした。
ミレアだった。
「おはようございます」
「おはよう」
「もう水をやったんですか?」
「ああ」
「芽は?」
「まだだ」
「ですよね」
ミレアは笑った。
そして畑を眺める。
「今日は何をするんです?」
「昨日の続きをやる」
「畑を広げるんですね」
「ああ」
「じゃあ、私も手伝います」
「無理をするなよ」
「昨日もやりましたから大丈夫です」
二人は並んで作業を始めた。
土を掘る。
石を拾う。
草を抜く。
昨日より作業に慣れてきた。
「アルじいさん」
「なんだ?」
「ここに来る前は、何をしてたんですか?」
アルヴェインの手が一瞬止まった。
「王都で魔法に関わる仕事をしていた」
「魔法使いだったんですね」
「ああ」
「すごい魔法が使えるんですか?」
「昔はそれなりに」
「見てみたいです」
「畑には必要ない」
「そうですけど」
ミレアは少し残念そうだった。
アルヴェインは笑った。
「魔法は便利すぎる」
「便利なのに?」
「あまり便利すぎると、自分でやる楽しみがなくなる」
「……?」
ミレアはよく分からないという顔をした。
「例えば、畑を魔法で一瞬で耕せるとしても、俺は鍬でやりたい」
「どうしてですか?」
「そのほうが、畑を作った気がするからだ」
「変なの」
「そうかもしれんな」
二人は笑った。
◇
昼前。
村の方から、小さな少年が走ってきた。
「ミレア姉ちゃん!」
十歳くらいだろう。
茶色い髪。
泥のついた服。
元気いっぱいの顔。
「トーマ!」
ミレアが振り返る。
「また抜け出してきたの?」
「抜け出してない! ちゃんと昼までに帰るって言った!」
「それを抜け出したって言うの」
「違う!」
トーマはむっとした顔をした。
そして、アルヴェインを見る。
「この人?」
「そう。アルじいさん」
「アルじいさん?」
トーマが首を傾げる。
「なんでそんな名前?」
「私がそう呼んでるだけ」
「ふーん」
トーマはアルヴェインをじっと見た。
アルヴェインもトーマを見る。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「畑を見に来たのか?」
「うん」
「なら、そこから入るな」
「なんで?」
「踏んだら困る」
「まだ何も植わってないじゃん」
「種がある」
「どこ?」
「土の中だ」
トーマは目を丸くした。
「見えないじゃん」
「見えなくてもある」
「本当に?」
「ああ」
トーマは畝の前にしゃがみ込んだ。
土をじっと見る。
「……ないよ?」
「まだ芽が出ていないからな」
「いつ出るの?」
「分からん」
「アルじいさんでも?」
「ああ」
トーマは少し考えた。
そして、
「じゃあ、毎日見ればいいじゃん」
と言った。
アルヴェインは少し驚いた。
「……そうだな」
「明日も来る!」
「畑に入るなよ」
「分かってる!」
トーマは元気よく答えた。
◇
昼食の時間になった。
ミレアが持ってきたパンを三人で食べる。
アルヴェインの小さな家の前。
畑を眺めながらの食事だった。
「アルじいさん、これ食べていい?」
トーマがアルヴェインの皿を指差した。
「自分のを食べろ」
「もうない」
「早すぎる」
「育ち盛りだから」
「都合のいい言葉を覚えたな」
アルヴェインは苦笑し、自分のパンを半分に割った。
「ほら」
「ありがとう!」
トーマは嬉しそうに受け取った。
ミレアが笑う。
「アルじいさん、子供に甘いですね」
「そうか?」
「そうですよ」
「そういうものなのか」
アルヴェインは不思議そうに首を傾げた。
食卓の向こうで、トーマがパンを頬張っている。
その姿を見ていると、不思議な気持ちになった。
昔。
戦場にいた頃。
子供の笑い声など、ほとんど聞かなかった。
聞こえるのは剣の音。
怒号。
泣き声。
炎の音。
それだけだった。
今は違う。
風の音。
鳥の声。
子供の笑い声。
そして、土の匂い。
「……」
アルヴェインは静かに目を閉じた。
「アルじいさん?」
「なんでもない」
目を開ける。
トーマが不思議そうに見ていた。
「眠いの?」
「少しな」
「じゃあ寝れば?」
「そうするか」
「お昼寝?」
「ああ」
「いいなあ」
「お前も寝たらどうだ?」
「午後に遊べなくなる」
「なるほど」
アルヴェインは笑った。
◇
午後。
トーマは畑の周りを走り回っていた。
ミレアは石を拾っている。
アルヴェインは鍬を振る。
静かな時間だった。
しかし――。
突然、トーマが叫んだ。
「アルじいさん!」
「どうした?」
「あそこ!」
森の方を指差している。
アルヴェインが見る。
木々の向こう。
何かが動いた。
昨日の魔物だった。
灰色の毛。
赤い目。
足にはまだ傷がある。
「……昨日のやつか」
「魔物?」
ミレアが立ち上がる。
トーマも少し後ずさった。
魔物がこちらを見る。
だが、襲ってくる様子はない。
その視線は――。
畑の端に置いてあった野菜へ向いていた。
「あ」
トーマが言った。
「お腹すいてるんじゃない?」
「かもしれないな」
アルヴェインは籠から野菜を一つ取り出した。
「アルじいさん、危なくない?」
「大丈夫だ」
ゆっくり近づく。
魔物は警戒している。
アルヴェインは野菜を地面に置いた。
「食べろ」
魔物はしばらく動かなかった。
やがて、一歩。
また一歩。
野菜を咥える。
そして森へ戻っていった。
「……行っちゃった」
トーマが呟く。
「また来るかもしれない」
「友達になったの?」
「友達というほどではない」
「じゃあ何?」
アルヴェインは少し考えた。
「……近所の客だな」
ミレアが吹き出した。
「魔物なのに?」
「近所に住んでいるなら、客だろう」
トーマも笑った。
「じゃあ、名前つけよう!」
「名前?」
「そう!」
「必要か?」
「必要!」
トーマは腕を組んで考える。
「うーん……灰色だから……ハイ!」
「安直すぎる」
ミレアが笑う。
「じゃあ、ポチ!」
「犬じゃないぞ」
「じゃあ……ガル!」
トーマは得意げに胸を張った。
「強そう!」
アルヴェインは森を見る。
「……ガルか」
「うん!」
「まあ、悪くない」
森の奥で、灰色の魔物がこちらを振り返った。
そして一度だけ尻尾を振った。
「……」
三人が顔を見合わせる。
「聞こえてたんじゃない?」
ミレアが言った。
「まさか」
アルヴェインは笑った。
その日。
アルヴェインの畑には、三人目の訪問者ができた。
一人はミレア。
一人はトーマ。
そしてもう一人は――。
まだ誰にも名前を知られていない、小さな魔物。
荒れ地だった場所に、
少しずつ誰かが集まり始めていた。
そして土の中では、
最初の一粒が静かに眠っていた。




