焦げつき
早朝、ひとり早く起きた。太陽が昇る前、まだ薄暗い部屋の中で、リリャはひとり机に座り、分厚い教科書の文章をゆっくりと目で追っていく。机に何かをメモするように指を走らせては、教科書の内容の理解を進めていく。
部屋のカーテンから差しこむ光が強くなるごとに、教科書も見やすくなる。そして、自分の目も頭も冴えて来ると、より、勉強は捗った。一日の全てを始める前の早朝の一時間、リリャは勉強に充てていた。
背後で物音がする。振り向くとそこには、まだ瞼を眠たそうに擦るルコがいた。
「おはよう、リリャちゃん」
「おはよう、ルコ」
朝は、女子寮の近くにある食堂で朝食をとってから、また寮に戻り身支度を整えて、登校する。といっても、寮の子たちは学園内に寮があるので、登校時間はほぼ無いに等しかった。朝よほど寝坊しなければ、朝食を食べ終えて寮に戻っても時間はあったが、女子ともなるとそうはいかない、それも、高学年になればなるほど、彼女たちの朝の時間は貴重なものになるのは言うまでもなかった。ただ、まだ色気を考えることのない、リリャたちからすれば、それはまだきっと先のことでもあった。
教室までは十分もかからず着いた。一年生の教室は東館の一階にあり、まだ、移動系の魔法も覚えていない一年生には優しい場所でもあった。一年生の教室にたどり着くためには、校舎の正面玄関から東館へ行く道と、東館の玄関から入る二つの道があった。最初は、リリャたちは校舎の噴水広場がある正面玄関から入っていたが、これは遠回りで、東館の玄関から入る方法を知ってからは、その近道から登校するようにしていた。東館の玄関から左に曲がり通路をまっすぐ進んで行く。玄武組、青龍組、白虎組の教室の前を通り抜け、角部屋の朱雀組の教室へと入る。
リリャの席は一番前の席で、カバンから教科書を取り出し机に入れて、あとは朝のホームルームを待つ間は、友達とだらだらとお喋りをしたり、少しでも疲れをとるため、ここでようやく二度寝をするなど、朝の短い時間を有意義に使っていた。
平穏な何気ない毎日。それでも、リリャはここ最近なにやら嫌な視線のようなものを感じることがあった。廊下を歩いている時や、登校している時、周りの目が自分を見ているようなそんな引っ掛かりを日常の中で感じつつあった。それが、なにやら不穏なものであることは重々承知していたが、それがいったい何がきっかけだったかは、この時は分からなかった。
「はい、それじゃあ、出席を取るから、みんな座ってね」
ハンナ先生が教室に入って来て、ホームルームが始まり、一日が始まった。
ホームルームが終わると、朱雀組はすぐに一限目の授業へと移った。
午前中の授業は、炎魔法習得に向けての授業だった。
「今日は、炎魔法について授業をしていきます!それじゃあ、炎魔法が何と呼ばれているか分かる人いますか?」
ハンナ先生がそう言うと、リリャがすぐに手を挙げた。リリャはこういう時、必ずと言っていいほどすぐに手を挙げるタイプでもあった。優等生というより、自分の中の知識の再確認の為でもあった。なので、たまに自信満々に間違える時もあった。ただ、リリャはほとんど自分の為なので、クラスの誰に笑われようと、自分が納得していればいいといった確固たる強い意志を持っていた。
「はい、リリャさん」
「はい、炎魔法は水魔法に並んで二大魔法と呼ばれています。人が扱える魔法の中でもっとも人間に馴染み、扱いやすい魔法でもあります。ただ、炎魔法は水魔法に比べてとっても危ない魔法でもあります」
リリャが答え終ると、ハンナ先生は満足そうに笑顔を向けた。
「はい、その通りです。炎魔法は、属性魔法の中でも、とくに水魔法と並んで二大魔法と呼ばれています。他の魔法と違ってこの二つは、とても習得しやすく、ですが、炎魔法は皆さんご存知のとおり、炎ですのでとっても危険です。だから、皆さんには先に水魔法を習得してもらったというのもあります」
人が扱える中で魔法の中でもっとも容易で、水魔法と並ぶ、二大魔法のひとつ、それが炎魔法。
授業の流れでも、最初に水魔法を覚え、次に炎魔法を習得するという流れは、魔法使いなら基本中の基本だった。
危険性から見ても、炎魔法で出した炎を消せる手段を覚えなければ、辺りが焦土化する可能性すらあるのだから、当然ではあった。
「炎魔法は昔から、明かりの確保や、暖を取るため、料理の火起こしなど、様々な生活に関わる部分で大活躍してきましたが、その反面、戦争など争いの場面でも多く使われて来たのもまた事実です。ですので、皆さんは炎魔法を習得したからといって、むやみに人に向けてはいけません。今日の座学は、炎魔法の安全面についてじっくり学んだあと、午後の授業では、外に出て実際に皆さんに、炎魔法の実践をしてもらうので、楽しみにしていてください」
午前中は、やはり、炎魔法の座学から始まった。炎魔法に関する危険性を中心に安全面の説明、魔法式の計算を用いた数学的な視点から見た炎魔法の在り方など、聞いていればとても炎魔法を理解できるものばかりで、飽きて先生の話しを聞いていなかった生徒はとても損も損、大損だった。ただ、そんな生徒もやる気になるように、午後に実習を持って来ていたのは救いだったのかもしれない。
リリャは、終始、ハンナ先生の授業をまじめに受けていた。リリャにとって、ハンナ先生の授業は楽しくて仕方なかった。飛行部の疲れからも、朝は復讐で追いやられ、予習にまでは手が回らず、常に新鮮な気持ちで授業を聞くことができていた。
休憩を挟みながら、ようやく午前中の授業を乗り切ると、昼休みとなり、授業に退屈していた男子たちはすぐに食堂に走って行く。
「先生、質問があるんですけど、いいですか?」
「はい、もちろん、いいですよ!どんな質問かな?」
ハンナ先生は、すでに恒例となっているような、授業終わりに尋ねて来るリリャに毎回気持ちよく答えてくれていた。だから、リリャの方もとても質問がしやすかった。
「炎魔法って、自分は熱くないんですか?」
リリャ自身もまだ、炎魔法を使ったことはなかった。試そうにも、最初の水魔法の授業で、先生から炎魔法を使ったことが無い人は、炎魔法を使うことを止められていた。
おそらく、それは水魔法と同じ要領で、炎魔法を行使すれば、簡単にできてしまうからなのだろう。だが、炎というものがどれほど危険なものか、今回の授業で改めて理解することができ、例え、簡単にできるとしても、うかつに危険な魔法は使わないというのは、魔法の鉄則でもあった。そして、炎魔法がその代表的な例でもあった。
「いい質問ですね、結論から答えると、熱くないです」
「それはどうしてですか?」
リリャの追撃に、ハンナ先生は少し困ったような顔をした。
自分で生み出した魔法は、通常、その術者であれば、影響を受けることが無いことは誰でも知っていた。そうじゃなければ、炎を手のひらに出した瞬間、高い温度であればあるほど、出した瞬間に大やけどを負ってしまうからだ。そんな危険な行為もはや自傷以外のなにものでもない。だが、実際はそうはならない。手元にいくら高温の炎を展開しても自分の魔法で手が焼け爛れることはない。
「これはずっと先の話しになるんだけど、自分で練った魔力で生み出された魔法は、自分と繋がっている限り、害はないの。これはとっても専門的で難しい話でね『魔法の外界内界理論』っていう大学とか研究所とかで習ったり研究されたりする魔術の分野なの」
先生の言っていることはよく分かった。要するにまだリリャが理解するには早いということだった。
「簡単に説明すると、自分が魔法を使ってそれを手放さなければ害はないよって話ね。例えると、手のひらに炎を纏わせても熱くないけど、その炎を投げて、近くに放火した後、その炎は魔法を使った本人にも熱いって話、これでもまだ説明不足でいろいろ例外がたくさんあるんだけど…うーん」
さすがに専門的な原理を、まだ、駆け出しの魔法使いであるリリャたちに教えるのは至難の業のようで、ハンナ先生も頭を悩ませていた。
「ハンナ先生、大丈夫です。とにかく、炎魔法は手のひらに出しても熱くないんですね?」
「そう、だけど、熱くないからといって、授業でも言ったけど絶対に自分に向けちゃだめだからね!自分に向けると自分が燃える対象になっちゃって、そのまま、焼け始めるから、あぁ、これも魔法対象の指向性って専門魔術の分野で…ああ、もうちょっとこっちも勉強していればよかった…」
ハンナ先生の焦りに、リリャも今日の質問はここまでにすることにした。お腹もすいたのだ。
「とにかく、魔法は奥が深いってことですね!」
「そう、そうだけど、もっと魔法のことを知りたいなら、魔術を専攻していた【クロリッド先生】なんかに詳しく聞いてみてみるといいわ」
「ええ、クロリッド先生ですか…」
学校でもやたら生徒たちから怖がられている先生だった。闇魔法が得意で、夜な夜な生徒を生贄にして、血の祭壇で、儀式魔法をしていると、根も葉もない噂を立てられるほどには嫌われている先生でもあった。ただ、誰も怖くて実際にはクロリッド先生の前で、そんな冗談を言う生徒はいなかった。それこそ、そんなことを言えば、クロリッド先生は容赦なく厳しい罰則を下すような情け容赦のない先生でもあった。
「素敵な先生ですよ、生徒の面倒見も良くて、今度、アイリスにある先生の研究室にお邪魔してみたらどう?私が、先生に事前に許可をとっておこうか?」
「あ、いや、いいです。きっとクロリッド先生も忙しいし、私も飛行部があって時間がないと思うので…」
「そう、だけど、魔法の専門的な話なら、クロリッド先生に聞くのが一番だけど、まあ、気が向いたらまた私に言って、クロリッド先生に質問する時間を作ってあげるから」
「あ、ありがとうございます…」
「うん、リリャさん、勉強熱心だから、私もサポート頑張るからね!」
ハンナ先生のご厚意はありがたかったが、クロリッド先生に会うのは勘弁して欲しかった。
先生との質疑応答が終わると、席に座って待っていたルコに声を掛けた。
「ごめん、またせちゃって、お昼食べにいこうか」
リリャの視界には、ルコ以外にもうひとり一緒にお昼を食べるはずだったアガットの姿がなかった。
「あれ、アガットは?」
「あ、それがね、アガットさんは、別の子たちに誘われちゃって、悪いけど、今日はそっちに行くって、明日は絶対に一緒に食べようって言ってたよ」
ルコが精一杯、アガットのことをかばう。ただ、リリャも特に、アガットを自分たちだけで独占するわけにもいかなかったので、それはまあ、仕方のないことだと納得した。最近の彼女は、背も高く男たちよりも男らしいというか、何というか、女子から人気がでるのも分かる気がした。ただ、その魅力にいち早く気づいたのは自分なのだとリリャは誰かに自慢したかったが、これは自分の中にだけ秘めておいた。
「そっか、まあ、それならしょうがない、よし、ルコ、今日は二人でお昼にしようか!!」
「うん!」
リリャとルコは、すかせたお腹を満たすため、学園内の食堂へと駆けていった。




