魔性の悪魔
「ただいま」
その声を聞いた【ルコ・アムール】はすぐに勉強していた本を閉じた。すっかり消え失せていた心が再び身体に宿り、目には熱が灯った。ルコは玄関に向かって走った。誰が帰って来たかなど、声を聞けばそれだけですぐに分かった。すぐその先に彼女がいる。部屋と廊下を挟んでいた扉を勢いよくあけると、廊下の向こうの玄関には、ルコの見たかった光景が広がっていた。ルームメイトで無二の親友のリリャ・アルカンジュが立っていた。
「ルコ、ただいま…って、あれ……」
どこか恥じらいながら現れた彼女に、ルコはもう廊下を力強く踏みしめなりふり構わず、黙って彼女の前まで走って行くと、彼女のことを力強く抱きしめた、もうどこにもいかないようにと、そう願いながら。
『生きてる、本当に、生きて帰って来てくれた…私のもとにリリャちゃんが帰って来てくれた……』
そこには確かに生きているリリャの身体があったし、見上げると彼女の生きている顔があった。彼女はこちらを申し訳なさそうに覗き込んでいた。
「ごめん、ルコ、心配かけた…」
彼女の声は元気がなく、囁くような優しい音でルコの耳に届いた。
「リリャちゃん、私、心配してたよ…ずっと……ずっと………」
彼女の腕の中にいるという安らぎの中で、ルコは抱えていた不安から解放されていく。その計り知れない安堵が、高まっていた感情を急激に落とし、その落差に耐えきれなかったルコの目からは大量の涙が溢れていた。
「ごめん、ルコ…」
こんなこと言いたくなかったけど、言わなくちゃ、彼女はきっとまた無理をしてしまう。
「リリャちゃん、死ぬ気だったでしょ、あの時、私を残して、ひとりで、死ぬ気だったんでしょ?」
ゴールデンウィング杯のファイナルレース前の会話で、リリャは冗談でも言わないようなことを言っていた。『もし、来世があるなら、私はルコの旦那さんかなぁ…』と、それは、ありえない未来であるのと同時に、ルコが諦めきれない未来でもあった。けれども、リリャの方は、もう、二人の間にあったかもしれない未来が来ないことを知っていた。それは、結局、ルコという存在がありながら約束を果たそうとしたリリャがファイナルレースを飛んだことが何よりも証明だった。
「嫌だよ、もう、あんな事、私、耐えられないよ…リリャちゃんがいなくなっちゃうのは嫌だよ……」
泣き崩れる身体をリリャが力強く支える。
「ごめん、ルコ、私たちは、最後まで一緒なのにね…」
リリャがルコを裏切ろうとしたと思うかもしれない。実際に、彼女が死んだらそうだったのだろう。けれども、ルコの前にはリリャがいた。それだけで、ルコはすべてを許してあげることができた。
「そうだよ、だから、死ぬときも一緒だよ…」
重たい言葉を吐いたが、リリャはなんてことない顔で笑った。
「フフッ、いい重さのセリフだ」
リリャが泣き崩れるルコを抱きしめた。
ルコの安堵の涙には、沢山の喜びが詰まっていた。それは固い不安をまろやかにしては熱い心の中で溶かしていった。この一瞬、一瞬が、幸せ以外の何ものでもなかった。この今という瞬間が、ルコにとってのすべてだった。
***
ルコが落ち着くのを待ってから、私は、キアをルコに改めて紹介した。
「ということで、ルコ、彼女はキア・グランドさんです。覚えてるでしょ?」
「う、うん、だけど、どうして、キアさんがここにいるの?」
私はルコのベットの前の木張りの床に正座していた。これはなんとなくだがまだ自分の中で反省が足りていないと思ったため、ルコよりも低い位置に自分を置いていた。ルコのベットには、ルコとキアが腰を掛けていた。
「キアは、その、しばらくね、私たちと一緒に行動することになったので、その、よろしくしてあげてね」
「それは、全然、構わないよ」
ルコがどこか緊張した面持ちでキアを盗み見るように一瞥し、対照的にキアは真っすぐルコを見ていた。
「ルコ、申し訳ないが、しばらく、お邪魔させてもらう。ただ、もしも邪魔なら言って、私は二人の邪魔をしないように視界から消えるから」
キアも護衛をするとはいわず、言葉を濁してくれていた。それもそうだ。先ほどの死ぬ、死なないで、泣いていた彼女に警護することになった。ただ、彼女のごまかし方は下手くそだった。
「え、ど、どういうこと?視界から消える?」
「すまない、正確には気配を断って、尾行をだな…」
「フフッ、どういうこと?」
ルコがキアの慣れていない言いわけに笑っていた。それを見て、私も、ホッとした。なんやかんやで、上手くやって行けそうだった。
「ところで、一緒に行動するって言ったけど、寝る場所は?ここで寝泊まりするの?ベットとかどうしようか…」
「それなら、キアは私のベットで寝ようか、それでかいけ…つ……」
ルコが私のことをじっとりとした目で見つめていた。
「リリャちゃん」
「あははは、そうだね、じゃあ、ルボラさんからお布団もらってこようか、私、さっそく挨拶がてら聞きにいってくるね!」
私はルコに怒られる前に走って部屋を出ていった。
***
リリャがいなくなって、二人きりになった、ルコとキアは、お互いに無言だった。ルコは気まずい雰囲気を何とかしようと、頭の中で必死に話題を探していた。そこに簡単な質問がいくつか浮かんだが、キアの機嫌を損ねないかと考えていると、結局、それらの質問は頭の中に溜まるだけで、表に出て来ることはなかった。
だが、そんなルコの代わりに口を開いたのは、キアだった。
「さっき、死ぬって聞こえたけど、どういうことか聞いてもいい?」
「え、あぁ…えっと……」
ルコはなんて言おうか考えて黙り込んでしまった。どう説明すればいいのか、すぐに言葉が浮かんでこなかったし、軽く扱っても良くない話題だったから慎重に言葉を選びたかった。
しかし、そこでキアが頭を下げた。
「言いたくないことだったら、無理に話さなくてもいい。ただ、ちょっと気になっただけだから…」
その時のキアの顔には珍しく表情があった。常に無表情で軍人さんの家系で、感情を表に出さないことを誇りにしているような彼女が、不安げな顔を浮かべていた。
ルコはそんな彼女の不安を取り除いてあげたいと思い、拙いながらも言葉を紡ぐ。
「リリャちゃん、死にかけてたの」
そこでキアの表情が大きく動いたのを見て、ルコはなんとなく、彼女もまた、リリャという女性に魅せられているんじゃないかと疑った。だが、きっとそれは自分がそう思っているからであって、誰だって友達が死にそうだったと伝えられたら、大きな反応を示すのは考えれば普通のことだった。
「飛行魔法の大会で、優勝しようと頑張って、それで、頑張り過ぎちゃって…」
「待てよ、あれ…おかしい、七速の自力の保護では……待て、大会って確か………」
そこで、キアが眉間に皺をきつく寄せると、ものすごい勢いで何かブツブツ言いながら考え事をし始めていた。彼女の表情が変わるところがなんだか、ルコには物珍しく、考え込む彼女の顔をもっと見ていたいと思い、気が付けば覗き込んでいた。
「そうだ!」
「ひゃ」
急に顔を上げたキアに、ルコは驚く。
「そもそも、学生の大会で、魔法の併用は禁止のはず、それで七速を出したとなると、飛行魔法の保護膜が壊れて、飛行中の人間の中身はぐちゃぐちゃになるはず…」
「そうだよ、だからね、私がレースの最後の方で、飛んでいるリリャちゃん見た時には、もう、身体が原型をとどめてなくて…」
「そんな、彼女は、助かっ…っているか、そうだな…」
キアが、胸をなでおろしていた。当たり前だがリリャは死んではおらず、今は、寮母から布団を借りに部屋を出ていっているだけだった。
「なんだろう、酷く焦ったよ、ハハッ」
キアが自嘲気味に乾いた笑いを披露していた。それは、何となく、彼女には似合わない素振りだと、ルコは思っていた。明らかに彼女は、リリャのことで一喜一憂しては、心を揺さぶられ感情を引き出されている。そんな彼女の感情の機微を見て、ルコは、ほとんど確信したところがあった。それは少なからず、キアが、リリャという少女のことを普通の感情で捉えていないということだった。
ルコは、リリャにだけ関してだけ言えば、世界の誰にも負けないほど、彼女の存在を知り尽くし熟知しているつもりだった。だから、彼女に向けられる第三者からの感情や、彼女との関係性を見抜くことに関して、ルコの感覚は抜群に優れていた。
『そういうことなのかな?だとしたら、フルミーナさんのことは諦めた?いや、何か違う、リリャちゃんがそう簡単に好きな人を変えるわけない。それなら、キアさんがここにいるのには何か別の理由があるはず…でも、それを直接本人から聞けない…そんな勇気私にはないかな…』
だが、内気なルコが、その人の感情やリリャとの関係を変えられるかと言われると、それはできなかった。残念なことに、たとえ、リリャを好きな人が告白すると言っても、それに対してルコが引き止めたり、妨害しようなどということはできず、むしろ、応援してと言われたら、応援してしまいそうなくらいには、ルコという人間は弱い存在だった。
だから、ルコはいつも前を走っていくリリャを止められずにいた。
「キアさん、実はね、私ね、リリャちゃんのこと…」
だけど、もう、負けたくないと思った。リリャが先を行くなら、ルコもそれに追いつきたいとそう強く思った。今までは手を差しだされてばかりいた自分だったが、そんな自分を変えたくて、ここに来て医療の勉強をしたりして変わり始めたんだと、ルコは自分が積み重ねてきた成長の証をひとつ、ひとつ振り返った。それは小さなことだったが、確かに私の力としてこの身に宿っていた。そうして強くなれば、もう振り向かない彼女を、もう一度振り向かせられる気がしていた。
「………」
だが、ルコが言葉を紡ぐ前に、あと一歩のところで、玄関の扉が開いた。
「おふとん持って来たぞ!!!」
リリャが、大きな布団を抱えて部屋の真ん中にダイブしてきた。
「フワフワだぞ!!」
ルコがその時見た、はしゃいでいるリリャの笑顔がやっぱり、好きで、これが自分だけのものにできたらと、そんな、わがままを胸の内に秘めると、ルコもリリャの隣に飛び込んだ。
「本当だ、フワフワ!」
「でしょ?ちょうど干し終わったばかりだったんだって」
リリャとルコの二人がそのフワフワの布団を堪能していると、二人を見下ろす形で立っていたキアを、リリャが彼女の手を引っ張って、このフワフワの布団に引きずり込んだ。リリャに引っ張られたキアは、自然とリリャに覆い被さるように、倒れた。
「フワフワでしょ?」
「フワフワ…」
キアの前にはリリャの顔がすぐ近くにあった。
「キアのお布団だよ、これからは、このフワフワのお布団が君の寝床だよ」
「うん」
キアはまじまじと、リリャの顔を見ていた。どちらかというと、目に焼き付けているようだった。
「なに?私の顔に何かついてた?」
「いや、違う。布団、持って来てくれてありがとう…」
「いいよ、全然、それに、寮母のルボラさんの許可も取って来たから、これからは一緒だね」
「うん」
フワフワのお布団の上で、横から二人のことを見ていたルコは、やはり、キアがリリャに特別な感情を抱いており、そして、リリャに関して言えば、彼女の無邪気さと距離の近さは、その特別な感情を加速させるには十分なほどの魔性さを持っていた。
『リリャちゃんは、きっと、いろんな、女の子を不幸にしていくのかもしれない…』
ルコの視線の先には、フワフワの布団の中で無邪気に笑う天使みたいな悪魔がいた。
『でもね、それでリリャちゃんが傷つかないように、私、頑張るから。もう、リリャちゃんが傷つかなくていいように、私、精一杯頑張るから、だから………』
しかし、ルコは、その悪魔にもうずっと前から魂を売っていた。
『リリャちゃんは、いつでも笑ってて』
たとえ、少女が悪魔でも、この気持ちは変わらない。




