彼はビンセント
雨季が終わり初夏の風が吹いていた。
毎日ラウルは繰り返し飛行部の飛行場で練習を重ねた。ケインコーチからの練習メニューをこなし、それでも余った時間には、自分で考えた練習も合わせて行った。もちろん、翌日必ずケインコーチの練習はこなせるように無理のない範囲で、そうやって日々を消化していったが、練習中いつも視界の端には五速で練習しているヒルクが映るたびに、どうして自分は未だに四速なのだろうかと思うことがあった。
『魔法の言葉とはなんだ…そんなもので本当に勝てるのか……』
ケインコーチに言われた魔法の言葉。それが実際にあったとして、たかが言葉で優勝できるのなら誰だって苦労はしない。だからこそ、ラウルは毎日欠かさず練習を続けて来た。
「分からない…」
「何が分からないんだ?」
一日の練習メニューをこなした、ラウルが飛行部の外に用意されたベンチでひとり夕暮れ時の初夏の風に当たっていると、ひとりの男子生徒がやって来た。
「ビンセントか!?」
ラウルは驚きのあまり立ち上がった。
「久しぶり、ラウル」
ラウルの前に姿を現したのは【ビンセント・ラバレー】だった。彼はラウルと同じ五年生であり、飛行部の一員でもあったが、学園に滅多に顔を出さないというよりも出せない男だった。それは彼が大商人のひとり息子であるという立場上、跡取りとしての役割がそうさせていた。
ラバレー商会。
亡国セウス王国の時代から現在までここパースを拠点とする運送業を生業とする商会だった。積み荷の運搬から人の運搬まで、輸送に関わることすべてに携わり、パースを交易の街にしたのはこのラバレー商会の功績あってのものと言っても良かった。
彼はそんな大商会の跡取り息子、ラバレー家が代々受け継いで来た人脈や仕事を、ビンセントは父親から余すことなく引き継ぐべく、魔法学園アジュガを休学を繰り返していた。
「元気にしてた?」
「そっちこそ、今回は長かったんじゃないか?何かあったのか?」
「ああ、実はいろいろあって話せば長くてね…」
ビンセントがこめかみを軽く掻く。
ビンセントは、ラウルとは真逆の方向性でとても魅力的な人物だった。おとなしめのストレートな黒髪の長髪はそこらの女子に負けないほど手入れがされていた。誠実さを詰め込んだような緑の瞳。肌にはほんのりと化粧がされており、そこには中性的な美が宿っていた。
服装も男子の制服ではなく、すらっとしたスカートと見間違うようなだまし絵のようなズボンで、上着はどう見えても女子が来ていそうなけれど男性寄りの半袖であった。
彼を初対面で見た人は、まず間違いなく女性と間違えるのは仕方がないと言えるほど、彼は中世的な見た目をしていた。
「聞かせてくれ、ビンセントのおみあげ話はいつ聞いても面白い」
「そういってもらえると嬉しいよ、だけどその前に、ラウル」
「なんだ?」
「ゴールデンウィング杯が近いけど調子はどうなんだ?私はそっちの方が聞きたい」
ビンセントが椅子に座る。飛行場にはまだ飛んでいる飛行部の生徒たちがおり、その夕焼けに照らされた影を目で追っていた。そして、ラウルの方を向いて微笑むと手で隣に座るように促していた。
ラウルも彼の隣に座った。
「はっきり言って、焦っているよ。いまだに俺は四速で、ライバルたちはみんな五速だ。ケインコーチには、今のまま続けてれば大丈夫なんて言われたけど、それじゃあ、足りない気がして自主練の量も増やしてるし、クリス先輩にも相談してみたりしているがどうにもいろいろと上手くいかなくて、何かが足りない気がしてならないんだ……」
ビンセントがラウルの言ったことに対してしっかりと考えてから口を開いた。
「いい心がけじゃないか、自分の焦りに対して行動できてる。それはなかなかできることじゃないし、それにラウル、君はもう四速が使えるんだね、凄いじゃないか、私はまだ三速で、おいてかれてしまったね」
ビンセントが少しがっかりした様子で照れ笑いをしていた。
「ビンセント、お前が三速という時点で凄いんだ、それも商売もしながら、飛行部なんて危険な部活に所属している。だから俺はお前のことをすでに認めているし、きっとお前ならすぐに追いついてくるとも思ってる。なにせ俺は今停滞から抜け出せずにいるんだからな…」
自分でもこの停滞の泥沼から抜け出せずにいることはよく分かっていた。
ラウルが隣のビンセントを見ると彼は嬉しそうに微笑んでいた。夕焼けに照らされていた彼がとてもじゃないが、男には見えなかった。
「ラウル、君はきっと停滞はしていない。どれだけ自分が前に進んでいないと思っていても、君が努力を止めない限り、君は前に進んでいるよ」
「………」
ラウルは、彼の夕焼けに浮かびあがる眩しい笑顔から目が離せずにいた。
「焦ってもいいんだよ、だけど、足を止めちゃだめだ。だって、君はゴールデンウィング杯で勝たなくちゃいけないんだろ?あの子のために…」
「あぁ、そうだ……」
力ないが肯定した。
強い感情が沸き立つ反面、自らの現状を鑑みるに、とてもじゃないが強く肯定することができなかった。ラウルの顔に影が落ちる。
ビンセントはそんなラウルを見て、優しく独り言のように呟いた。
「君は凄い人だ。私は君のあの時の勇気を今でも忘れられない。そんな君だからこそ、私は君のことが…………」
ビンセントがそこで言いよどむと、立ち上がった。
「ビンセント?」
「君は商売ばかりだった私を空へと導いた、まったく罪な男だよ、君がいなかったら私は空を飛ぶ喜びも知らなかっただろうからね」
「いや、それは、お前があとから勝手に入ってきただけで…」
「そうだけど、私は君がいなかったら空になんて憧れなかった。そして、入ってよかった。私の人生に空は必要だった。そして、こうして短い間だったけれど君の傍にいられた」
「いられたって、これからも一緒だろ?親友」
親友。その言葉を聞いたビンセントは目を閉じてその言葉を深く受けやめると、彼に告げた。
「ラウル、私は結婚したんだ」
「え?」
「相手は、イゼキア王国の貴族の令嬢だ」
「それって…」
ラウルの顔が不幸に満ちて歪んだ。
「そう、政略結婚ってところかな?」
「お前、なんで、それでいいのかよ!!」
ビンセントは、黄昏時のオレンジに染まった空を見上げた。
「いいも何も私に自分の婚約に対して口を挟む権利はない。その権利があるとすれば、その時は私がラバレー商会の跡取りをやめる時だ。だが、それはありえないし、私には先祖代々積み上げて来た長いラバレー家の歴史を終わらせるつもりはないんだよ」
「だけど、そうだけど、お前は本当にそれでいいのか…」
悲愴な顔をしているラウル。彼のことを思えばそんな顔をするのも非常によく理解できた。
「いいんだよ、私はもう十分ここで楽しい思い出を作ったからね」
「どういうことだよ…」
「私は、この夏、魔法学園アジュガを止めてイゼキアに行くんだ」
ラウルが目を見開いて固まる。
「なんだよそれ…」
「急で悪い。だけど、安心してくれ、ゴールデンウィング杯には必ず顔を出す。お前が優勝したところをこの目で見なくちゃきっと目覚めが悪いからね」
ビンセントはラウルに振り返るととびっきりの笑顔で言った。少しだけ彼の目元には涙がにじんでいた。
「今までありがとう、私の親友でいてくれて」
ビンセントは、座っていたラウルの頬にそっと片手で触れて自分の方を向かせた。ラウルの茶色い優しい瞳が今だけはビンセントのものだけだった。
「ラウル、絶対に勝つんだよ、あの子のためにも」
ビンセントがラウルの額に口づけすると、彼は去っていった。
***
マリアは干し終わったタオル大きなかごに入れて、メイニャと一緒に部室まで運んでいた。
メイニャとマリアはそれなりに仲良くなっていた。というよりもマリアの面倒見のいいところと、メイニャの敵を作りやすい部分が、パズルのピースを合わせるようにがっちりと当てはまり、二人は良き先輩と後輩の関係を築くことに成功していた。
「私、女って嫌いなんですよね」
メイニャのいつもの愚痴が始まった。
「きゅ、急にどうしたの…」
強い言葉にマリアも思わず苦笑いをする。
「マリア先輩だって、そう思いませんか?女って、自分よりも格上の同性をみると自分のところまで引きずり下ろそうと、嫌な努力を始める奴らばっかりなんですよ?それに比べたら、まだ汗を流しているバカな男子たちの方がマシですよ」
「主語が大きすぎるんじゃない?それに、そういうことする人は男女関係なくいると思うけど」
「そうですね。だけど、まず、マリア先輩はそんな人じゃないということが分かっただけでも良かったです。この飛行部のマネージャー、ろくな女がいないので」
「えー、そんなことないよ、みんないい子たちばっかりだよ、もちろん、メイニャちゃんもね」
マリアとメイニャが話している横を通り過ぎる女性がいた。長い黒のロングスカートに見えたがそれはズボンで、肩まで出した薄手の上着。男にも女にもみえる、そのすれ違った女性にマリアは違和感を覚えた。そして、その違和感はマリアが良く知る違和感でもあった。
「ビンセントくん?」
「やあ、マリアちゃん」
マリアの前にいたのは、同級生のビンセント・ラバレーだった。背の高いすらっとした女の子に見えるかもしれないが、彼女は男だった。けれども正直なところ、マリアよりも女としては格上だ。それは見た目の美しさを見れば一目瞭然だ。そのおかげか、隣の女嫌いのメイニャも目つき悪く拒絶反応を示していた。
「うわ、久しぶり、戻って来てたんだね!!」
「マリアちゃんも元気そうでなにより」
「ビンセントくん、こっちにはどれくらいいられるの?」
「マリアちゃん、悪いけど、私はもう行かなくちゃいけなくてね、近くに寄ったから顔出しただけなんだ」
「そうだったんだ…それは残念、あ、そうだ、ラウルくんには会った?」
「会ったよ」
「そっか良かった。ラウルくん、最近落ち込んでたからビンセントくんと会えて喜んでたでしょ?」
「そうね、そうだったら、どれほど良かったことか」
ビンセントは一番星が出て来た空を見上げた。
「マリアちゃん」
「はい?」
「ラウルくんのこと、あなたがちゃんと支えてあげるんだよ」
「う、うん、そりゃあ、もちろん、飛行部のマネージャーなので…」
「罪な女…」
「え?」
「それじゃあ、私は行くから、また、ゴールデンウィング杯で会おう、じゃあね」
ビンセントはひらひらと手を振ると夜空が輝く夜の闇へと去っていった。
「ちょっと、なんですか、さっきの女の嫌なところを煮詰めたような気取ったやつは、あれこそ私たちのような善良な女の敵ですよ」
「ビンセントくんは、男だよ」
「へ?」
マリアは去っていくビンセントの後ろ姿にどこか寂しさのようなものを感じていたが、彼の後を追うことはできなかった。
マリアは彼の後ろ姿を見つめたまま立ち尽くしていた。
夜の帳が彼女にも落ちた。




