雨季の訪問者
雨季が近づき、リーベ平野にも雨が増えてきた。
雨が降ると空を飛ぶだけで全身を鞭うつように痛かった。
それでも私は飛ぶことを止めなかった。雨の日だろうと風の日だろうと嵐の日だろうと、私がここで飛ばない理由はひとつもなかった。
すべては遥か先を行く、先駆者たちに追いつき超えるためでもあった。そのためなら、どれだけ血を流そうと辛い練習にもこの身を投じることができた。
私は、来る日も来る日も、大怪我をしながら飛んだ。血の空。晴れた日の青空には赤い線がリーベ平野の上空を横切り、雨の日は雨粒に赤い血がしみ込んでいた。
大怪我をしなければならない理由のひとつに、私は限界を超えて飛ぶ感覚をすでに、あの黄金探索の時に掴んでいた。だから、後はその限界を超えた飛行をいつでも出せるように練習を積み重ねるだけだった。
「それじゃあ、ブロティーナさん、もう一回飛ぶので、また、お願いしますね」
白魔法の治療が終わると、私はすぐに立ち上がって飛行魔法のリングを展開した。緑の草原で雨が降りしきる中、私が寝ていた草原には大量の血痕が残っていた。
「…………」
ブロティーナさんは、小さく頷いていたが、心の中では反対している様子が明らかに透けて見えていた。
私は四速で雨天に向かって飛び上がる。飛行魔法の副次的保護魔法が呼吸や視界を確保してくれる。
四速で徐々に加速していく。ブロティーナさんに常時かけてもらっている鈍重の弱化魔法がその加速を遅らせるが、それを加味した上で速度をあげていく。
四速に到達すると雨が痛い。我慢してさらに加速する。
リングから排出される光の色が青まで到達する。
四速の青。つまりそれは、四つのリングのなかでも最大出力である青い光での加速を意味した。
広大な草原それでも飛んでいる間、急激な加速によって視野はどんどんと極端に狭まる。視界一面に広がっていた緑の草原も、今では雨のせいも相まってか細い路地を通っているようだった。
自分の中に勢いが来る感覚があった。それと同時に、身体に亀裂が入る感覚も同時に来た。
私からすれば、この死への先触れともなる痛みの始まりにはもう慣れたものだった。あとはここからどれだけ自分が耐えられるか、もはや飛行ではなく、この痛みとの戦いだった。この痛みが私の速さを支える要因のひとつであった。
飛行レースで、飛行魔法以外の魔法に使用は禁止されている。痛覚遮断の魔法などかけて貰えれば、私はいくらでも速くなることができたのだが、こればっかりはどうにもならなかった。
私は自分の身の破壊と引き換えに速さを得るのだ。
もちろん、このような破滅的な飛び方は一般的な飛行魔法の練習とはいえない。あくまでも私は、黄金探索の際に掴んでしまったあの時飛んだ、飛行魔法の感覚を再現しているだけであった。
だからこそ、あの時の再現ができれば、私は。
六速すら実現できるポテンシャルがあった。
『速く、ただ、速く…』
五速到達。光のリングからは赤い光が排出される。四速で感じていた窮屈さが一転、今度は制御不能な加速が始まる。そう私は、まだ五速を扱えるほどの実力を有してはいなかった。肉体、魔法の理解、熟練度、それら劣るすべてを補っていたのは精神だけだった。肉体が崩壊しようと、精神が求めれば私は加速し続けることができた。
だから、私は精神と肉体の犠牲を元に等価交換として速度を手に入れようとしていた。
そして、ここで間違ってはいけないのは、痛みに耐えることで精神を鍛えるのではないということだ。短期間という短い時間設定の間で鍛えるということほど理にかなっていないことはない。私が導き出した結論それは、痛みを受容し続けることで精神を破壊し、死の直前まで痛みを忘れることで、圧倒的な速度を手に入れることだった。
だから、私は飛び続けるたびに、自分の中で何か大切なものが壊れていると分かっていても、飛ぶことを止めはしなかった。
すべては守りたい約束を守るためだった。
***
ブロティーナの目の前で低空飛行していた物体が爆ぜて墜落した。
一瞬の出来事で、ブロティーナの前に血と肉片が飛び散る。
鮮血に染まった肉塊の前にブロティーナは膝を着き、すぐに白魔法で処置をする。
その肉塊は人間の形を留めてはいたが、誰なのか判別が不可能なほど損傷が激しかった。
顔は見る影もなくすべての皮膚が剥がれ、眼球は爆ぜ、髪の毛は頭皮から獣の爪でズタズタに引き裂かれては抜け落ち、そのような傷が身体の至る所にあった。その傷口の深さは場所によってまちまちで、ブロティーナはその傷の度合いに合わせて白魔法で処置する順番を決めていく。
肉塊がみるみるうちに人の形を戻していく。
『治りが遅くなってる…それなのに損傷の激しさは増していく……』
ブロティーナは額に大きな汗をかきながら、白魔法が掛かりにくくなっていた肉体の処置を続ける。
数分後肉体はようやくもとの少女の姿を取り戻す。本来なら一瞬で傷口が塞ぐところ、徐々にその効力が弱まり続けていた。それは白魔法に対する耐性であった。それはブロティーナが見習いの時にならったことで、実際に自身でその耐性の抵抗の感覚を体験するのは初めてだった。そもそも、戦場でもない限り、一度白魔法を付与すれば傷の度合いに応じただけの休息期間は必要であり同じ人に何度も白魔法を付与するという機会はそうそうない。
そして、何よりも恐ろしいのはここからだ。
白魔法で治癒し終わるとリリャというさっきまでただの肉塊だった女の子はすぐに立ち上がり、こう言うのである。
「もう一回」
ブロティーナは彼女のその狂気にすっかり怯えていた。もちろん、顔にも態度にも出さないが、明らかにリリャが人間から遠ざかっていくのを感じていた。
飛んで肉塊になって戻ってくるたびに、彼女は化け物のそれに近づき、そうやって、別の得体のしれない何かに変わっていく姿をブロティーナはこの目で何度も確かめさせられ、それでいてその肉体を何度も蘇生させることは自分が、彼女をそういった得体の知れない化け物に仕立てあげている、そういった実感を得させられていた。
今まで経験したことのない類の恐怖を毎日味わっていたブロティーナの精神も徐々に蝕まれて来ていた。
そうとも知らずリリャがまた翼を広げ雨の中飛び立っていく。
「フフフ………なんで白魔法の副作用も彼女には効かないんだ?」
白魔法には傷の完治の他に副作用として、対象者に睡魔を与えた。そのため、本来ならば大怪我を負って白魔法で完治された人はその傷の度合いによって深い眠りにつくのだが、リリャにはその傾向がまったくみられなかった。これも白魔法の耐性によるものなのか?この分野の知見が白魔魔導協会に属しているブロティーナには著しく乏しかった。
「おかしい、おかしい、おかしい………フフフ、アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」
雨が降りしきる中、ブロティーナが狂気じみた笑い声をあげていると、背後から声が掛った。
「ちょっと、お尋ねしたいのですが…」
「あ?」
ブロティーナが振り向くとそこには、身なりをきっちりと整えた清潔感のある中年ほどの紳士が立っていた。雨を遮る雨除けの魔法で彼は雨にも濡れておらず、それでいてこの泥だらけのぬかるみの多いなかで、足元に泥一つついていなかった。まるで、今そこに現れたようなそんな得体の知れなさがあった。
「あんた誰だ?」
ブロティーナが怪訝そうに尋ねると、男は丁寧に自己紹介をした。
「私は、ケイン・ドットと申します」
「何者なんだ?どうして、ここにいる?ここは、リーベ平野でも街道からも遠く離れた場所だ。それにこの場を知っている者は数限られている、あんた何者だ?」
ブロティーナの目つきが変り、その手には魔法が宿る。がその前にケインが呟いた。
「来る」
光の五輪が青い尾を引いて直行する。
今回はまだ爆ぜずに周回して戻って来るつもりなのだろう。リリャは、爆ぜる場所をブロティーナの近くでと取り決めを行っていたので、彼女が肉塊になる時は必ず、ブロティーナの前だった。
「なんて飛び方だ…あれでは……」
死ぬ。ケインが言うまでもなく、その光り輝く五輪は、地面スレスレを急降下するとこっちに向かってさらに速度を跳ね上げながら直進してくる。そして、一瞬のうちにブロティーナとケインの前で最高速度に達すると、彼女の身体は爆ぜ吹き飛んだ。
ブロティーナは少しでも魔力を節約するため雨除けの魔法を使っておらず、その血しぶきを全身にもらう。いっぽう、ケインの方は雨除けの魔法を張っていたので、その雨を拒絶していた透明なドームに血しぶきがこびりついた。
「あああああ!クソ!!あんな遠くに吹き飛んで!!!」
ブロティーナが全速力で駆けだして行く。
残され唖然としていたケインも後を追った。
***
土砂降りの雨の中、白い光が肉塊を包んでいた。その肉塊はまだ子供のサイズでケインには、この状況が飛行事故だと飲み込めてはいたが、理解はできずにいた。
ケインの目の前では、白魔導士と思われる女性が、その血に染まった肉塊を治療していた。生死の境だ。
「治りそうか?」
「話し掛けんな、手元が狂う…」
ケインは白魔法であるにもかかわらず傷の治りの遅さに違和感を覚えていた。
『おかしい、これでは彼女は……』
拷問を受けた罪人などによくみられる症状であった。白魔法は使い方によっては、聖女の奇跡などではなく、効率よく苦痛を与えるための道具に成り下がる。傷を癒せるということはまた新たな傷を与えられることになる。この生かさず殺さずは、重要な情報を隠す罪人たちの秘密を暴くために極めて有効だった。人は同じ痛みに慣れそれが傷跡として身体に残るが、白魔法はその傷痕を消し去っては常に新鮮な身体へと戻してしまう。だからこそ、白魔法は人に痛みを忘れさせる。そのため、白魔法による再生と拷問による破壊は、苦痛を与える際に重宝されていた。
傷が治るとさっきまで肉塊だった彼女は、何事もなく上体を起こした。白魔導士が自分の上着をボロボロになった彼女の服の上にかぶせた。
「リリャ、大丈夫か?話せるか?」
「………」
リリャは放心状態だった。目はうつろで焦点が合っておらず虚空を見つめていた。
「今日はもう終わりだ」
白魔導士がリリャを抱きかかえると、雨除けの魔法を展開して、歩き始めた。
「おっさん、あんたも来るか?」
「ああ、いいかな?」
「その前にお前は何者なんだ?」
「すまなかった、私は、その子リリャ・アルカンジュくんの通う魔法学園アジュガの飛行部活の外部コーチだ。彼女の様子を見に来た…」
ケインがそう言うと、白魔導士の彼女はわずかに疑いの目から信頼の目へと切り替えてくれたが、まだ、それでも警戒していた
「私は、白魔導協会所属のブロティーナ・ルーペだ。案内するからついて来い」
それからしばらく雨の中を三人で歩いた。
歩いてそれなりの時間が経ってもつく気配がなかったので、どこに向かっているのかと聞くと、離れた場所でキャンプをしているとのことだった。
「ここに来る途中で四角い建物を見なかったのか?」
白魔導士の問いかけにケインは首を横に振った。
「いや、見ていない、それよりキャンプじゃないのか?家とは?」
「キャンプしてたら、あいつ家を建てたんだよ」
彼女は少し呆れた顔をしていた。あいつとは誰なのか分からなかったが、もうひとり彼女たちには仲間がいるようだった。
少し歩いて行くと草原の中にブロティーナが言った通り真四角の建物が何個か建っていた。
白魔導士の彼女が、その中で母屋と思われる一番大きな四角形の家の扉を開けると、元気のいい白装束のこれまた白魔導士と思われる女性が出迎えてくれた。
「おかえりなさい、ご苦労様です!」
「リリャをベットに連れて行く、客の対応を頼む」
ケインのもとに小さくか細いそれでも元気で明るい女性が笑顔で迎えてくれた。
バーニラと挨拶をしたケインはそれから彼女から温かいスープをもらい手づくりらしきソファーに腰を下ろし、そのスープで身体を温めてから少しばかり経ってから、風呂から上がって来たブロティーナと改めて彼女たちが何をしているのか話しを聞くことにした。
「ここで何を?さっきのは?」
「バーニラ、悪いが、私はこのおじさんと大切な話があるから、別室で待機していてくれないか?」
バーニラはそのことをすんなりと了承すると、二人に紅茶とおやつを出してから、退出した。
「私とさっきのバーニラは、リリャ・アルカンジュに雇われてここにいる」
「雇われている?」
「そうだ、私はリリャが飛行練習で負う怪我を治癒することだけのためにここにいる」
「そうか、確かにさっきの事故は非常に危なかった。あれは出力不安定から来る飛行魔法の暴走だ。スピードを減速すればあんなことにならずに済んでいた…」
ブロティーナがそこで紅茶を一口おちついて飲んでからカップを置いた。
「彼女は減速しませんよ」
「減速しない…とは?」
「あれは事故ではなく故意です。すでにここに来て何十、あるいは百を越えそうな数、ああやって死にかけています」
信じられなかった。一流の飛行選手ですらさっきの事故は一度起こすだけで生涯現役の引退を考えるほどの大怪我だ。それを何十と起こしているとは常識の範囲内ではとても考えにくかった。
「では、彼女はあれをわざとやっていると?」
そこでブロティーナが力が抜けたようにソファーの背にもたれかかり全体重を預けた。けだるそうに、彼女の顔にも酷い疲れが見て取れた。
「わざと?あれが?あんたは自分の教え子のことを何も分かっていないんだな」
「続けてくれ」
ケインはそんな挑発に乗ることなく冷静だった。
そのことが癪に障ったと同時に負けを認めたブロティーナが、リリャのことを話し始めた。
「あいつは、好きな奴の為に飛んでんだとさ、どうやら、今年のゴールデンウィング杯で優勝するって約束をそいつと交わしたみたいなんだ。まったく、とんだ野郎だよな、リリャにここまでさせて、お相手はいったいどれほどいい男なんだろうな。彼女に命までかけさせて、本当、私が一発ぶん殴ってやりたいよ」
「男ですか?」
ケインは眉をひそめた。
「あ?リリャは女なんだから、当たり前だろ、それともなんだ?彼女は女好きとでもいうのか?」
「………」
ケインはリリャ・アルカンジュが同性愛者であり、フルミーナ・タンザナートというエルフに恋していることも知っていた。これは学園内にいる信頼できる情報屋から仕入れた情報であり間違いなかった。
ただ、それだけではない、ケインは教え子の情報のありとあらゆることを熟知していた。滅多に顔出さない外部コーチであるにもかかわらず、その学園の飛行選手たちのことが事細かに分かるのは、学園内にそういった情報提供者がいるからだった。
ただもちろん、それらの情報のすべてが、教え子たちを速く飛ばすため直結していること以外に興味がないのはケインという人間の飛行狂いに他ならなかった。
「なんだ?何か言いたそうだな」
「ああ、いえ、すみません、なんでもありません」
ブロティーナに怪しい目で見られたが、まさか外部コーチが学園に間者を放っているからなどは言えるわけがなく、それにこれは極秘裏な事情があって他言できることでもなかった。
「ただ…」
「ただなんだ?」
「どんな想いであれ、空を飛ぶ理由が明確であるということは良いことだ」
飛行選手たちが抱えている想いというものは、何よりも重要で、それが速さに直結するということはよくあった。
飛行魔法でよく見落とされている点、それは紛れもなく飛行魔法も、他の魔法と変わらないという点であった。新たな空間の移動手段として飛行魔法は他の魔法よりも特別扱いされているが、それでも既存の魔法体系の中に組み込まれていることに変わりはない。だからこそ、その時の本人の気分や心の在り方、体調にイメージの捉え方など、魔法の出力に必要な要素はすべてその術者本人の存在が関わっているといってもよかった。もちろん、そこには変えることのできない種族適性や魔法適性、血統などの要素もあるが、それよりも大事なのは、可能性だとケインは考えていた。
人と魔法。それはある意味で切っても切り離せないものであり、そして、最後、魔法の発動において信頼できる要素はいつだって、今ここにいる自分それだけなのであった。
「そんなわけあるか!!」
ブロティーナが突然怒鳴った。
「あいつは頭がおかしいし、間違ってる!来る日も来る日も空を飛んであいつ、痛みなんてこれっぽちも気にしないでぐちゃぐちゃになることを知ってて、飛んでんだ!いつ死ぬかだって分からない中、あいつはそれでも飛び続けてるんだぞ!!」
「我々も、死に向かう速さは違うだけで常に死に続けています。彼女はきっと明日死んでもいい今日の生き方を見つけただけなのでしょう」
「あんた、正気か?死を肯定しているのか?人間死んだらそこで終わりなんだぞ!!!」
「これは死をも恐れぬ目標を持った人間の価値観だ。あなた方、死を拒む者たちにとって、この考え方は苦痛であり一生分からないでことなのでしょう。だけどね、我々、飛行選手、いや、選手というのは、今日負けて明日生き残るよりも、今日勝って明日死にたい生き物なんです」
ケインはまっすぐブロティーナをその鋭い眼差しで見た。彼女はその目を酷く非難がましい目で見返していた。
「選手は戦士に似ています。戦士はこの世でもっとも大切な自分の命を犠牲にしてでも守るべき使命のために戦う。選手たちも自分の命を犠牲にしてでも、勝ちを望む。なぜなら、勝たなければ自分の抱えているものを守れないからです。自分の家族、友人、恋人、生活、地位、名誉、だってどれも人間が生きていくためには必要なものだ。それらを失わないために我々戦う者はみんな死の淵という限界まで努力するんだ。その死の淵を見たことがないものに、勝利はない」
ケインは続ける。
「勝利とは誰かが勝手に運んできてくれるものではない。研鑽の果てに届くか届かないものだからこそ、勝利には価値がある。人生と同じで、この世に絶対など確約されてない以上、揺るぎあるものだからこそ、それは命を懸けるほどの価値がそこにはあるんだよ」
ケインというスマートな人間からはおおよそ考えも及ばなかった熱い言葉に、ブロティーナは揺らいでいた。
「なら、リリャのあの狂気は正しいと?」
「その狂気を支えているのは紛れもない君なのだろう?」
「私が、彼女の支え…」
「あぁ、そうだ。彼女の死の淵の努力をこれからも支え続けてやって欲しい、それは白魔法が使える君にしかできないことだよ、ブロティーナさん」
「私にしか…」
ブロティーナの目から狂気が抜けて正常にもどっていく、おそらくは彼女も何のために自分がリリャという飛行者の大怪我を治し続けるのか分からなくなっていたのだろう。それほどまでに、死体同然とも言えるあの激しい損傷した体の治療は堪えていたのだろう。それほどまでに、リリャだけではなくブロティーナの方も疲れ切っていたのだ。
「それでは、失礼します。リリャさんにはよろしく伝えておいてください」
その後、ケインはブロティーナとバーニラに挨拶を終えると、四角い家を後にした。
リリャに挨拶はしなかった。また会える機会はいくらでもあった。それにケインが彼女に教えることは現時点でひとつもなかった。なぜなら、彼女は勝つために酷く正しすぎる練習をしていたからだ。ケインも彼女のその行動力には脱帽するしかなかった。おおよそ、十四歳の少女がしていい努力ではなかった。
『五速か…』
ケインはしばらく、雨が降りしきる草原の中でひとり考えていると、突然目の前にひとりの黒いローブの男が現れた。
「お迎えご苦労」
ケインはその男の肩に掴まると一緒に忽然とその場から姿を消した。
無人無風のリーベ平野にはただまっすぐな雨が降り注いでいた。




