その頃のエルメトリア
シンシアとジルベルの話。
シルヴィアたちがバッハトマで蝗と戦っている頃、エルメトリアのシンシアとジルベルは花離宮から懐かしい我が家へと一時帰宅していた。
それというのもシルヴィアの不在にシンシアの落ち込みが酷かったのだ。
「シルヴィア、今頃何してるのかしら……」
公爵になるにあたりさんざん脅されたせいか、シルヴィアにもしものことがあったらと気が気ではない。愛し子ということを除いてもわずか六歳の娘だ、どれだけ護衛がいようと足りないと思うのはしかたがないだろう。親とはそうしたものだ。
そして、そんな二人がなぜシルヴィアに同行しなかったのかは、理由がある。
「大丈夫だよ。タート君は毎日連絡をしてくれるじゃないか。グレイスちゃんだって付いてる、元気でやってるさ」
シンシアを慰めるジルベルとて、娘が心配でないわけがない。
魔力を持たない神の愛し子。シルヴィアには通信用の魔導具が使えなかった。
水晶球に通信用の陣を固定し、それに手を当てて魔力を流すと対になる水晶球を持った相手と顔を見て話すことができる。
また景色を見せることも可能で、戦争時には偵察に必須のアイテムだった。
しかしそれも、ただし魔力を持つ者に限る、という注がつく。景色としてシルヴィアの姿を見ることはできても声は聞こえず、またシルヴィアにはこちらの声も姿も見えなかった。
「そうだよお。子供なんて親の目が届かないところで好き勝手やるもんさ」
「まったくだね。子供が生まれて六年も里帰りしないとは思わなかったよ」
わざとらしく呆れたため息を吐いたのは、シンシアとジルベルの母親二人だ。シルヴィアの祖母である。
は~あやれやれといわんばかりの母二人に、自分たちが子供だと言われたと知ったシンシアとジルベルは体を縮ませた。
「お母さん……」
「せっかく息子が孫連れて帰ってくると楽しみにしていれば肝心の孫はいないし」
「母さん」
「お大尽になった我が子は手紙一つよこさない薄情さ。まったく、三件先のリコちゃんなんか隣町に嫁に行ってもしょっちゅう顔見せに帰ってくるってのに」
「それ旦那と喧嘩してる時だって言ってたよ」
「あらそうなの? そんな頻繁に喧嘩してるんじゃ心配だね」
「釣った魚に餌はやらないタイプだったみたい。おまけに姑が口うるさく仕切ってくるんだって」
「あ~、それは家にいたくないわ」
「旦那が迎えに来るだけいいけどねえ」
「いっそこっちに越してきたらってそういや奥さんも言ってたわ。迎えに来た旦那懐柔してその気にさせちゃえば? って話といた」
「ギスギスしてる家よりあったかい嫁の実家か。やるわね」
「何の話!?」
流れるようにはじまった世間話にシンシアが突っ込んだ。
「リコちゃんよ、シンシア覚えてないの?」
「覚えてるけどっ」
「やだねえ、すっかりお貴族様になったのかい? ご近所さんの話に入れないと困るのあんただよ」
「…………」
そうだけどそうじゃない。三件先のリコちゃんの話はどうでもいいのだ。
シンシアは手の中に納まったカップを見た。割れも欠けもないが、底のほうに茶渋が溜まって黒ずんでいる。花離宮で使用しているものとは雲泥の差だ。
六年間ですっかり肥えた舌には実家で飲むお茶はけして美味しいものではない。だが、懐かしく、ほっとした。
これくらいのおしゃべりは日常だったのに、話に入ることもできなくなっている。それがシンシアにはショックだった。
「あんたたちが変わっちまったんじゃないかって、みんなも不安なんだよ。うちで勘を取り戻しておきな」
シンシアとジルベルは公爵家の馬車に乗って帰ってきた。
それぞれの実家に先触れを出してあったが、豪華な四頭立ての馬車が現れた時、ヒュマシア市民は何事だと一時騒然となった。
いったいどこのお貴族様だと身構えていればシンシアとジルベルで、しかも二人は花離宮に行く直前に着ていた、六年前の服だった。
二人を知っている者でさえ何と声をかけたらいいかわからず、戸惑い気味に仕事に戻っている。親たちはその姿に安心したが、近所の人たちは二人が変わっているのではないかと不安なのだ。
「ジルベル、あんたもだよ」
ジルベルの母がフンッと鼻息を荒くした。
「え?」
「え、じゃないよまったく。なんだいその手は。お父さんはお前が抜けた分まで頑張ってるってのに情けない。ロイズさんちの五男のロートくんが弟子入りしたからね、あんた帰ってきてもそんなんじゃあうちを継がせられないよっ」
ジルベルは自分の手を見た。
以前ついていた火傷の痕は薄くなり、胼胝は消え、すっかりやわらかくなっている。今のジルベルが握るのはせいぜい食器とペンくらいだ。筋肉も落ち、このままでは野鍛冶に復帰などとうてい無理だろう。
「お、俺、鍛冶場に行ってくる!」
慌てて立ち上がったジルベルは、走り出したとたん足元のバケツを蹴飛ばした。
「いてっ?」
外に出るまで三回も何かにぶつかったり躓いたりの音と悲鳴が聞こえ、ようやく走っているのが窓越しに見えた。
残された女三人はため息だ。
「なんだい、すっかりおっちょこちょいになったねえ」
「ジルベルさんはあんなにドジだったかい?」
シンシアは温い笑みを浮かべた。
「……お城は広くて、床にバケツや箱が置いてあったり、邪魔になる物もありませんから……」
椅子と棚の間を体をよじって通ることも、タンスの角に爪先をぶつけることもない。なにしろ城だ、実家と比べ物にならないくらいすべてが広いのだ。
「ほぉー」
「へぇー」
愚痴か自慢か、微妙なぼやきに母二人は顔を見合わせ、両端からシンシアの頬を引っ張った。
「ひぇっ!? お、おひゃあしゃま?」
「狭くて汚い家で悪うござんしたね」
「それで? シンシア、久しぶりに帰ってきてどうよ?」
ひりひりする頬を押さえたシンシアは、笑いながら怒る母に泣きたくなった。
「……実家、サイコー!」
ここではシンシアは聖母などではなく、ジルベルも尊父ではない。一人の人間で、両親の子供なのだ。
やっと自由に呼吸ができたようで、シンシアは安心して少し泣いた。
一方、ジルベルも泣いていた。
「なんだそのへっぴり腰はっ、しゃんとせんかっ!」
「はいっ」
「火を怖がってちゃ話にならんぞっ!」
「はいっ」
野鍛冶が扱うのは鋤や鍬、鎌などの他に各家庭の包丁など、多岐に亙る。
ジルベルの家のような地域密着型の野鍛冶は、主に手直しの依頼が多かった。擦り減った鎌の直しや包丁研ぎなど、使う人の手に合わせ、より使いやすいように合わせていくのである。
はじめて指名を受けて新品を作った時の感動をジルベルは忘れていた。シンシアのための草刈り鎌。はじめてのお客さんにさせて、とはにかみながらシンシアが依頼してくれた。できあがった鎌を渡すと、まるで宝物のように大切に胸に抱き、一生使うねと笑っていた。あの時の笑顔に惚れて結婚したのだ。
「研ぎは慎重にせえよ。だがぶれてもいかん。気の迷いは刃の迷いだ」
「はいっ」
見習いの頃と同じことを父が教えてくる。ようやく一人前、家を継ぐか独立するかという時にいきなり国に召し上げられたのだ、父なりに思うところがあったのだろう。
勘を取り戻すのに五本の鎌を手入れした。これは家で使う用で、直しが持ち込まれた時の代替品でもある。
「……だいぶ、鈍ったな」
ひと段落したところで父が言った。自分のことのように悔しそうな顔をしている。
「本当だ。……俺もな、城に行ったばかりの頃は焦ったが、勉強勉強ですっかり忘れてた」
「貴族っちゅうんは働かずに勉強か」
鍛冶場に置いてある丸太を椅子代わりに座って、父とジルベルは茶を飲んだ。弟子のロートも真剣に聞いている。
「ちょっと違う。勉強しないと馬鹿にされるから勉強してるんだ」
「名ばかり貴族のお前がか?」
シルヴィアのついでで貴族になったくせに。蔑みの色はなく、からかいだった。
「愛し子に関わることだ。娘のためなら勉強しなければなるまい」
「…………」
今度は父も何も言わなかった。
待望の孫が生まれたと思ったらまさかの愛し子。ジルベルの父がシルヴィアを抱っこしたのは花離宮に行く前の一度だけだ。人々が、特に教会神官がこぞって抱っこしたがったため、譲るしかなかったのだ。
何度か手紙を書いたが返事が来ることはなく、おそらく里心がつかないようにどこかで止められているのだろうと諦めた。
「その娘になんでついていかなった。バッハトマは遠いぞ」
「許可が下りなかったんだよ。予算の関係だとさ」
「……けちくさいの」
シンシアとジルベルはそう説明されたが、建前であることくらいは見当がついている。
シルヴィアのバッハトマ行きは本人の希望だ、愛し子の望みは国として叶えなければならない。
だが、行った先で勧誘を受け、そっちが気に入ったと帰国を拒否されるわけにはいかないのだ。だから、シンシアとジルベルを国に残らせた。ようするに人質である。
やれやれ、と父がため息を吐いた。
「窮屈だな、貴族ってのは」
「まったくだ。だからこそ、シルヴィアにはのびのび育ってほしい。あの子は土いじりが好きでな、庭師と一緒に雑草取りをしたり。虫を怖がらないんだ」
「ほぉ、農家向きの娘だな」
そこでロートが恐る恐る手を上げた。
「あの、俺、シルヴィア様に農具作ってやりたいっす」
半人前の希望に、父とジルベルがそれだ、という顔をした。
「いや、孫の初鎌だ。俺が打とう」
「なに言ってんだ。俺の娘だぞ、俺が打つ」
あ、やっぱり、となったロートだが、言い出しっぺとして食い下がった。
「そろそろ俺だって一人前でしょ。弟子に花を持たせてくださいよー」
「弟子は黙ってろ!」
二人の声が重なった。
父と祖父、いや、師匠と後継者の、絶対に負けられない戦いがはじまった。
***
「それでずっと鍛冶場にいたの?」
花離宮への馬車の中、シンシアは呆れたと言って笑い出した。
ついぞ見なくなっていた、あけっぴろげな笑顔だ。口元を隠す扇子もない。下町の女房そのものだった。
「ああ。シルヴィアの鍬は俺のだぞ」
ジルベルと父、弟子のロートが造ったのは、シルヴィア専用の鍬と草刈り鎌、剪定鋏、小鉈だった。六歳女児の手に合うように持ち手は細く短く、そして軽くできている。
「刃物は危ないんで親父が調節して造った。ロートはこっちの鋏だ」
「シルヴィアは喜びそうだけど……。使わせてくれないかもしれないわよ?」
「きちんと使い方を教える。シルヴィアはやりたがるだろうから、自分用のがあればダメって言われてもこっそり使うだろ。そっちのほうが危ない」
シンシアは否定できなかった。
駄目と言われればやりたがるのが子供だし、自分用の道具まであればなおさらだ。
刃物にはカバーがついてシルヴィアの名前が入っている。リボンまでついていた。これで使うなと言うほうが酷だ。
「ところで、そっちの箱は?」
シンシアの足元には抱えるほどの大きさの木箱があった。
「私用の農具よ」
気まずそうにシンシアが白状した。
里帰り中の七日間、久しぶりに畑仕事をして、つくづく好きだと実感した。日が昇れば畑に出て朝食用の野菜を採り、鶏小屋から卵を貰い、食事が終われば畑仕事。洗濯は奥さん連中とおしゃべりしながら。休憩ついでに家事をして、たまに昼寝もする。夜には家族そろって今日の出来事を話しながら夕飯を食べ、眠くなったら寝ればいい。
多少行儀が悪くても大口開けて笑うのが普通だし、両手に荷物を持っていれば足や尻でドアを閉めたってかまわない。誰の子供だって悪さすれば叱りつけて諭すのが当たり前だ。
嫌なことがあっても、朝日を浴びて輝く畑を見れば、たいていのことは忘れられる。
「私はやっぱりこっちの生活が好きだわ。少しでもいいから畑仕事をさせてもらおうと思って」
「俺もだ。道具を持ってきた」
もちろん自分が使っていた道具だ。
道具というのは自分で選び、自分の手で馴染ませていくものである。父の物は年季が入って何度も手直しして現役だし、ロートのものはまだまだ新品に見えた。
夫婦で考えることは一緒だ。二人は互いの気持ちを確認し、笑いあった。
「……なあ、シンシア」
「なあに?」
シルヴィア用の農具を嬉しそうに撫でている妻に、ジルベルは言った。
「二人目、作らないか」
シンシアがはっと顔をあげた。
「ジルベル……」
シンシアとジルベルは二人目の子供を欲しがっていたが、あまりいい顔をされなかった。国と、王妃に。
「下の子にかまけてシルヴィアを疎かにするって話だけどよ、そりゃむしろ当然だろう。赤ん坊なんて手がかかる、下の子はその手伝いをするもんだ」
「ええ……。でも、下の子は間違いなく魔力持ちよ」
魔力のないシルヴィアでは世話は難しい。怪我をしたら大事になるのだ。だから二人は避妊をしていた。
「何のためにタート君や、護衛がついてるんだ。国の都合で堅苦しい生活を強制させられて、俺たち家族のことに国が都合をつけてくれたっていいはずだ」
ジルベルは強い口調で言った。
そもそもそういう話だった。いつの間にか萎縮してしまっていたが、できる限り不自由はさせないと約束しているのだ。
「実はね、シルヴィアに弟か妹が欲しいって言われたことがあるの」
「そうなのか?」
「グレイスちゃんのお姉さんになったことがあったでしょ? すっかりお姉さんに憧れちゃったらしいのよ」
「シルヴィアは愛し子だ。人から大切にされることに慣れてそれに驕るのではなく、人にやさしくすることを覚えて、みんなにやさしい、大切にする子になってほしい」
「そうね……」
シンシアとジルベルは口にこそ出さなかったが、同じことを考えていた。
守るべき下の子が生まれれば、それだけシルヴィアは自分たちといてくれるのではないか。お姉さんという立場はシルヴィアを繋ぐ鎖になる。
そしてシルヴィアが天の国に帰っても、下の子は自分たちの慰めになってくれるだろう。
シルヴィアの旅に親がついていかなったのは政治的判断があったからです。
娘が嫁に行くならともかく、天国に行くのは親として非常に辛いこと。代わりの子を、となるのもしかたないと思います。




