人生諦観 ~果ての交錯世界~
この本の内容について、簡単にまとめると、この3点だ。
・記されていたのは、交錯世界、所謂異世界への行き方
・そこへ行くには儀式を行う必要がある
・必要なものはナイフのみ
持ち物のナイフはキッチンからナイフを調達しにいく。出来れば両親には見つかりたくない。
幸い両親はキッチンには居らず、おそらく各自室を整理しているのだろう。
靴を履き、ドアを開け、玄関を後にする。外は蒸し暑く、クーラーの冷気のみ自分の背後まで漂うが、ドアをバタンと閉めるとそれは断ち切られてしまった。
真夏日とはいかないが午後5時を回ったにも関わらず、夕方の涼しいはずの風は生温いままで、首元に汗を滲ませる。
時間も少し遅いので、家の裏側の雑木林への移動を急いだ。
雑木林の開けた場所に着いた。そこに草は生い茂るも、木々こそ生えていない。座り込み、休憩するなどにはちょうど良い場所であった。
家の近くにあったにもかかわらず、しばらく気付かなかったのは灯台もと暗しというやつだろう。
その場所を見つける間に夕方の風も涼しくなり始めた。その風が体にあたり、今まであったこの本への執着を少しばかり冷やす。
まるで、頭を冷やせ、と天が訴えているようだ。
だが、それでも昂揚感は心臓の鼓動と一緒に高まり続ける。
そして、志穏は悟る。
もうブレーキは効かない、と。
最初はまったく信じていなかったが、志穏は交錯世界は目の前にあるのではないかと取り憑かれた様に次の手順に見入った。次は持ってきたナイフの出番だった。
「えーと、ナイフで左手を五芒星型に切りつける。え、まじかよ。」
だが、そう思うのとは裏腹に右ポケットからナイフを颯爽と取り出す。
右手は志穏の左手を切りつける、の伝達指令がまだかと待機していた。
志穏は少し躊躇し、ここまでだ。ときっぱり忘れようかとも思った。だが、ここまできたらやるしかない、と志穏は腹を括った。
そして、一度深呼吸し、呼吸を整えて、左手の平をざくりと切りつけた。
五芒星型に皮膚を刻み、志穏は悶絶した。
刻んだ最中は無我夢中だったせいか痛みを感じることはなかったが、終わった途端、血がどくどくと流れ出て案の定、激痛が襲ってきた。
「うぐぅ!まじかよ、深く行きすぎたかな?」
出血を右手で抑える。
ナイフは鮮血を浴び、西日により照り輝いて見えた。その鮮血は志穏の昂揚感を一気に冷やし、右手を止まらせる。
「何やってるんだろうな、俺。」
つい先ほどまで激しく燃えていた心の灯が鋭利な痛みにより、かき消された。
急に自分の行っていることが空虚で無価値なことなのだとナイフが語りかけてきた気がした。
だが、志穏は意地でも続ける。
昔から神に嫌われていると己を呪い続けながら今まで生き続けた。
勉強や部活、何もかも下から始まるのが必定だったからだ。
努力しても、成果は殆ど挙がらず、高校合格も普段の努力にはそぐわないもので、不満は尽きなかった。
だがそれすら神にとっては不都合なものだったのかもしれない。高校生活の始めから一か月でクラスメイトからの陰湿な嫌がらせを受けたのだ。
ラインの一コメで晒される自分への愚痴、集団での無視。まざまざとこの世界の不条理を見せつけられて、絶望の味を知った。
その頃から志穏はこう考え始めた。俺は幸せになっていけないヒトなのだと。神はヒトの持つことのできる幸せを一人一人定めていて、それによりヒトを管理しているのだと。
ならば仕方ない。そのモノサシから飛び出ないように平凡以下の人生を真面目に全うしようじゃないか。その時から無駄な希望は吐き捨てたはずだった。
結論を言おう、世界なんてクソッタレだよ。
でも、この世界でなければモノサシから抜け出し、運命の呪縛から解き放たれるのではないかと思ったのだ。
勿論、無謀というのにぴったりな行為であろう。頭がおかしいと思われても仕方ない。
けど何かが変わるかも。そう思えば思うほど心臓の鼓動が高鳴り、昂揚感は再起する。
止まれない、続けるしかないのだ。
たとえ、それが現実逃避でしか無いとしても。
今辞めれば絶対後悔する。
改めて作業を開始した。
「次は何だ?」
叔父の本をめくると、呪文を唱えると書いている、次のページは空白でありこれで最後だと思われる。
周囲に人がいないか確かめる。不審者とは思われたくないからだ。
目を閉じ、一呼吸おいて、呪文を唱える
「※※※※※※※※※※※※――!」
呪文を唱えていた最中、夕凪のように、風が止まる。ここは臨海部の地域ではない。
更に蝉の鳴き声も消えた。時が止まったようだった。
これは期待出来る!!
きっと目を開けたらそこはもう……。
呪文を唱え終え、目を開ける。その瞬間、今までに消えていた音が爆発する。
そして、空を仰ぐ。時間はもう六時を回ったであろう、夕映えにより積雲などの底が血のように染まっていた。
……周りの変化などはどうでもいいのだ。肝心の変化が起きない、世界がそのままなのだ。異世界じゃない!?
「さあ、我を導きたまえ!」
とどめの一撃と言わんばかりの大声で叫んだ。周りの目などもはや、どうでも良い。
木々が志穏を嘲笑するようにざわめき始めた。救急車のサイレン音など耳障りな音が増え始め、すこしばかり苛立ちを感じ始めてくる。
20秒間、待ち続けても一向に変化がない。
そして、志穏はやっと気付く、全てが叔父の妄想で塗り手繰られた嘘であることに。
がくりと膝を落とした。やはり没頭していたあまり、その嘘は大きく応えたのだ。そして改めて自分の愚かさ、馬鹿らしさを痛感する。
何度も消えかけた火が完全に消失し、もう二度と点くことはないと思った。そして、叔父の書いた妄想の書き写しに縋っていた自分が何より馬鹿らしいを過ぎ、悔しく思った。
「ああ、ただの嘘っぱちかよ、ちくしょーが。」
すっかり、幻滅した志穏は帰路の準備を始める。それはこの本だけでなく自分の人生にも当てはまるものだった。
一刻も早くここから引き揚げたかった。周りに人はいなかったが、どうしても、きまりが悪く感じるのだ。
右手で今なお、止まらない血を押さえつけてその場を後にしようとする。
突然―――ブオン、と鋭い音が地面から漏れ出る。
その音が聞こえた足元を見る。
志穏は驚愕を露わにする。地面が魔法陣の形をとり、光り始めたのだから。
「な、何だよ。これは!?」
思わず、怒声のような荒げた声を出す。
だが、異変は地のみでは無かった。
紅色の空には明らかに異質な光が稲妻のように空を走ってここに墜落しようとしているのだ。雷とは明らかに違う、ましてや太陽や月の光でもない。緑や青、赤、紫、幾つもの色が混ざりあい一つの輝かしい色を作り上げていた。
神々しい、そう思うほど華やかで夜の街並みのイルミネーションのようで幻想的に見えた。
それより当たれば即死する。そんな懸念が脳内を駆け巡る。
旋風が巻き起こり、砂や落ち葉が巻き荒れる。その風に吹き飛ばされぬよう、歯を食いしばり耐え抜く。
「いきなりSF展開かよ。はは、これはどうすれば良いんだ。」
志穏の脳は体全体にここから逃げろと命令する。しかし、体はピクリとも動かせない。
こんな時に金縛りか!?そう思ったが、おそらくそれではない。
単純に恐怖で体が動かなかったのだ。体は震え、その恐怖に為す術がないと抗うことも止めたのだ。
……死ぬのか?
志穏自身も観念したらしい、考えることを止める。第一、あれほど大きな光なら逃げてもまるで意味など無いだろう。この雑木林ごと呑みこむほどの大きさがあるからだ。
落下までの残り一瞬、志穏は手を広げ、磔のような姿勢をとった。
避けるのは無駄、なら受け止めよう。ちょうど、人生にはもう飽きが回ってた頃だ。
光は耳を劈くような音を轟かせ、志穏を呑みこむ。
痛みを感じることはなかった。むしろその光は体に溶け込むようで春の日差しのように温かく心地よい。
耳を劈く音は五感の使用不能により徐々に遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
そして意識がシャットダウンした。