決断の時 始
いつの日か見た景色が目の内に這い上がるようにして浮かんでくる。
全体的にもやがかかり、陽炎を通したみたいに不明瞭だ。
それは瞬き1つすれば消えてしまいそうなほど脆そうに見えた。
夕方の頃だろう、絵に書いたように鮮やかで眩い夕日が景色に置かれている。
目の前には人が立っていた。手を振っている。誰なのか分からない。
そしてこう言ったのだ。
「もし、あ―――――」
残念ながらプツンと切れた。
夏の朝の涼しげな風が窓から吹き抜け、私達を包み込んでいるのではないか、とセシルは思った。
新しい一日を告げる陽は地平線からはすっかり抜け出ていて、その少し上辺りのやんわりとした青に浮かんでいた。
涼しさの中、セシルは冷や汗をかいた。
志穏には明かすべきだが、口が重い。しかもこんな不意をつかれた形で話すと少しばかり緊張してしまう。
だが、タイミング的にここしかない。
セシルはおもむろに口を開いた。
「志穏、これからあなたはこっちの世界で平穏無事な生活を送るが出来なくなるかもしれない。
いきなり、こんなことを言って悪いなと思ってる。ごめん。」
その時、志穏はそれを聞いて、ただ目を瞬かせていた。何を言っているのか分からないという疑問と言う形にすらされていないらしい。
そして少しばかり時間が経ってからやっと考えなどがまとまったようだ。
「それってどういうことだ?」
「あなたの存在が何故だか中央にバレてしまったのよ、状況は最悪なの。
中央がそれを知っててあなたをそのまま放るはずがない。
なぜなら、あなたのその世界を渡ってきた能力と左手について向こうは知っているから。」
志穏は心臓が跳ねたようにドキッとした顔をした。
そして続けて"何で?"と言いたそうにしたが有無を言わさずに話を進めた。
出来れば話したくないと言う理由もあるがそれ以外に正当な理由もある。
悠長に話している暇などないのだ、中央はもう動き出している、あの時みたいに。
「姉さん、どーするつもりだ?2年前と同じ感じでやるのか?」
セシルは2年前に大切なものを失った。
だから2度と同じ轍を踏んではならない…。そう強く思っている。
…慎重に事を考えたかった。だが、今は時間の猶予がない。
中央に志穏の存在がバレた以上、私達が逃亡すれば向こうは徹底的に捜索を行うだろう。もし、一般市民にも志穏の存在が知れ渡るようなことがあれば文字通り、世界そのものが敵と化してしまう。
それだけは避けなければ……。
とりあえず、中央の気に触れないように向こうの要件通り、中央軍事省へ向かった方がいいな。
だが、志穏に対してどう伝えようか決まらず、セシルは言いあぐねていた。
考えが纏まらず、あの時、志穏と出会い無理やり連れ去ったみたいに少し乱雑で強引な言い方をする。
「志穏、生きるために命を賭ける覚悟はある?」
それは強引どころではない、杜撰に近いものだった。不安を余計に煽る1番駄目な言い方とも言えた。
言葉選びは最悪だ。こんなの不安を煽るレベルではない…言ってる側としても何だか恐喝している気分だ。
何やってるんだ!私は…。
詩穏だってこんな言い方をされたら決断できないだろう。しくった!
案の定と言うべきなのか、志穏は上の空、青ざめた顔でこちらを見つめている。
見開かれた瞳には目の前にある景色、ましてやセシルのことさえも像として映していないように思えた。
見開いた瞳には何が映っているのか、知りたくなる。
…ごめんね、志穏。私はあなたを戦場に近い方へと誘わななければならない、それが私の役目だから。
返答の間、ぎこちなく流れる時間の中でセシルはそう思った。
上の空の中、志穏はセシルを睨むことしかできなかった。。
セシルの話がまともに頭へ入らない。言葉の意味を読み解こうとするが志穏頭の中はチグハグになって、結局読み解けずにいた。
唯一出来た返事は"それってどういうことだ"だけだった。
現状把握などまるで出来ていない、ただ口から漏れた言葉がそれだけだった。
1度深く息を吸い込み、熟考する。
落ち着け、平穏無事に生活できないってどういう意味だ?文章が抽象的でちっとも分からねえぞ。
「姉さん、どーするつもりだ?2年前と同じ感じでやるのか?」
グレイブの声が残響音みたく遠くに聞こえた。言葉の粒子が一つ一つつなぎ止められているみたいにたどたどしくも聞こえる。
「あなたの存在が中央にバレたの――中央がそれを知っててあなたをそのまま放るはずかない。
―あなたが世界を渡ってきたその能力とその左手について向こうは知っているから。」
知っている…てどうして知っているんだよ、俺すらも何なのか分からないのに。
志穏は苛立つようにして頭をムシャクシャに掻き回した。本当は状況が自分に不都合すぎて不貞腐れていると言った方が近いのかもしれない。
"2年前"とか自分のことを何故だか知られていたりとか、色々と収拾出来なくて、Now Loadingが延々と続きそうだ。今すぐこれらをゴミ箱に投げ捨てたい気分だ。
「志穏、生きるために命を賭ける覚悟はある?」
セシルの声は静かな闘志に燃えていて、強さを感じさせる。
しかも今まで志穏に見せたことの無い表情だ。決意を瞳にぐっと灯しながら、志穏の答えを待ち続ける、それは気高く凛々しい表情だ。飾り気のないその姿は志穏の目にはとても美しい何かに映る。山の麓にある清流みたいに混じりっけがない、純粋な美しさにそれは近い。
だが、俺は彼女のようにはなれない。生きるために命をかけろ?なんだよそりゃ。そんなの決めれるわけないだろう。
…どうしていつも俺ばかりこうなるんだよ。
改めて志穏は困惑した。いきなりそんなことを言われても決断できるはずがない。
寧ろ、こんな重大な問題を即決できる人間は余程の器量があるか馬鹿なやつ以外いない。
なので志穏には無理な決断だった。天稟の器量を持つわけでもなく、真っ向から馬鹿な訳でもない志穏には、頷くことも拒むこともできない。ただ、踏みとどまることしか出来ない。
いや、待て。志穏は話を入れ違えていたことに気づいた。
いつから"出来る"出来ない"の話になった?問題は覚悟が"ある"か"ない"かだろう。
自分を殴りたくなる。
俺は臆病だから、勝手に話を肥大化させ、難しい選択に作り直し自分が"逃げても仕方ない"と思えるようにしたかっただけなのだ、きっと。
こんな時にも逃避思考か情けない。
2人は全て俺のために動いてくれようとしている。なのに俺は動けず、命の恩人の言葉さえもくすぶる程度にしか響いていない。
"志穏、生きるために命を賭ける覚悟はある?"正直に言おう、ほぼゼロだ。
そんな面倒なこと、何故する必要がある。
正直な話、面倒こそ本当の障壁なのだ。それがないのならどこに居たって構わない。なんなら面倒の絶えない現実から消えたくて、この世界へ来たって理由もある。
まあ、結果はこちらでもこんなことになってしまったのだが。
俺は"命を賭ける"なんて面倒なことをするなら自殺した方が楽だし手っ取り早い、と考えてる。
だけど死ぬ勇気さえ、俺にはなかった。だから今まで空虚なつまらない現実を生き続けたんだ。いや、死ぬ勇気を芽生えさせるためにここまで生きていたのかもしれない。
そして今やっと分かったんだ、こんな逃避してばかりの人生など無価値なんだって。"面倒"な人生ごと終わらせれば全ての面倒から開放されるんじゃないかって。
ならこの"面倒"な人生を終わらせるには今しかないんじゃないのか、2人の元から離れ、こっそり自殺する、それが一番楽なものなんじゃないか。
心が少し震えた。
…なら、何故俺は「覚悟がない」と断ってここから逃げ出さないんだ?何故俺は自分の首を絞めないんだ?…答えが見つからないのはどうしてだ?
まだ、決意できていないのか?俺よ、もう分かっただろ。どれだけ長く生きても逃避ばかりしている俺の人生はもう地獄に近いんだって。
…それでも声がでない。何故だ、逃げることを俺自身が拒んでいるのか…?
不思議な感覚を味わう。エンターキーの作動しないパソコンのように、最後の決定まで進めない。
落ち着け、そうすれば緊張も解けて声も出るはずだ。志穏は深呼吸を大袈裟にいくつか反復して前を見た。
目の前の景色に志穏は釘付けになる、文字通り景色が固定され、世界が静止画に変容したみたいだった。
セシルは笑っていたのだ。
凛とした表情で今も尚、俺の答えを待ち続けているのは変わらない。
けど、彼女は真っ直ぐ笑っていたのだ。それは見下しているのではない、寧ろ、温かささえ感じた。
心の内が熱くなる。震えていた心にしんみりと火が灯り、心が躍動してくる。暗闇に進むべき方向が浮かんだ。
そうか、そうだったんだ。
俺は必要とされたかったんだ。逃げたくて逃げていたんじゃない、自分が明確に必要とされなくて、ただ拗ねていただけなんだ。
セシルは俺を必要としてくれている。理由は分からない。セシルからすれば俺のために動くことになんのメリットがあるのか検討もつかない。
けど、彼女の笑顔を見て俺は決意出来たんだ。
あれだけ、面倒だった人生にもう一度本気になろうって。
彼女の笑顔を見て、賭けてみたいと思った。 セシルのためなら、人生だって、賭けてやる、世界が敵になろうが関係ないなんて思った。
どんな茨道でもセシル達がいるなら這いずってでも進んでやる。
衝動的な感情が溢れ上がる。
志穏の中で答えはもう決まっていた。
志穏は決意を宿した瞳を2人に向け、不敵な笑みを浮かべた。
「おう、命を賭けて戦う。――だからセシル、グレイブ、俺と一緒に戦ってくれ!」
決意を確認したセシルはその後志穏に話すべきことを話した。
自分が第8能力卿の1人ということ。全面的に中央と戦争になる可能性もあるということ。
だが、志穏にそれらに驚愕する暇など与えられなかった。
この数分後に志穏達は中央軍部省へ向かったからだ。




