ロンディニウム条約(2)
……………………
「つ、疲れたあ……」
ロンディニウム港から出発した客船の中で、テーブルにぐったりと伏せて告げるのは、先のロンディニウムでの帝国との和平交渉において活躍したパトリシアだ。
パトリシアと共和国の全権大使らは、王国での和平交渉を終え、この客船で帰国の途についていた。船にいるのはほぼ共和国から派遣された外交団たちとその家族らである。
「お疲れ様だ、パトリシア。よくやったな」
そして、そんな疲労したパトリシアの肩を叩くのはクラウスだ。
クラウスも共和国から派遣された外交団に加わっていた。彼はファルケンハイン元帥に今回の勝利の功労者として和平交渉の場に招かれていた。
クラウス自身が外交官として働くことはなかったが、ヴェアヴォルフ戦闘団の指揮官であるクラウスがいるということは帝国側にとって十二分な圧力となった。もし、彼らが和平協定を蹴るのならば、ここにいるクラウスが動くのだとして。
「もう外交交渉なんて嫌。二度とやりたくない。私には向いてないわ」
パトリシアはクラウスを上目遣いに見上げてそう告げた。
「それにしては見事な交渉だったぞ。当初の予定であるものをきちんと勝ち取って、戦争を終わらせた。お前の親父さん並みの交渉力だと言っていいだろう。いや、もしかするとそれ以上かもしれないな」
パトリシアは今回の外交交渉で、クラウスとレナーテが望んでいたメディアの共同開発権を獲得し、犠牲ばかりが増え続ける戦争を終結させた。それはこれまで様々な外交交渉に関わってきたパトリシアの父親であるヴィクトール・フォン・レットウ=フォルベック侯爵に並ぶような功績だ。
「相手がエカチェリーナ殿下だったからよ。エカチェリーナ殿下とは面識があったし、彼女は共和国派の人間だから。彼女以外の人間が相手だったら交渉は成功しなかったし、そもそも私は呼ばれなかったわ」
だが、パトリシアはその功績が完全に自分のものではないと理解している。
今回の和平交渉が成功したのは、パトリシアがエカチェリーナと知り合いだったからであり、エカチェリーナが共和国との同盟を望む共和国派の人間だったからだと。エカチェリーナが今回の交渉に割り込まなければ、交渉は難航しただろうし、そもそもパトリシアが交渉の場に呼ばれることもなかっただろう。
「はあ。まだ胃が痛い。また胃炎になってるかも」
「大変だな、南方植民地総督の娘というのも。こっちも今回の戦争ではあっちに行ったりこっちに行ったりと随分と忙しかったが、裏方の苦労も相当か」
パトリシアは腹部を押さえて、またテーブルにぐったりと伏せ、クラウスはそんなパトリシアの頭をポンポンと叩いてやった。
「あなたの戦争を終わらせたのよ。それなりの埋め合わせをしてよね」
「今回は俺の戦争じゃない。帝国が仕掛けてきた戦争だ。どいつもこいつも俺が元凶のように言いやがるがな」
ジト目でクラウスを見るパトリシアに、クラウスが苦々し気な表情で返した。
「どいつもこいつも?」
「本国政府と植民地軍の一部だ。本国政府は戦争の真っ最中に植民地軍に圧力を掛けて、俺たちを戦争に関わらせないようにした。そして、植民地軍の一部の連中も俺たちを煙たがっている」
怪訝そうなパトリシアに対して、クラウスが表情をそのままに告げる。
本国政府──大統領と外務大臣はヴェアヴォルフ戦闘団がジャザーイル事件において戦艦と装甲巡洋艦を撃沈したことで今回の戦争が悪化したのだと考えており、アーバーダーン要塞の攻略の最中にヴェアヴォルフ戦闘団の動きに制約を課した。そして、植民地軍の一部がそれに同調し、クラウスたちを戦争から遠ざけた。
「大丈夫なの? よりによって本国政府から睨まれてるなんて問題でしょう。彼らは植民地政府よりも権力を持っているわ。ロートシルトとの件も知れたら、法廷に引き摺り出される可能性だって……」
「法廷で争う心配はない。こっちの活動は完全に合法化されてる。本来は黒だが、ロートシルトの弁護士がペンを使って白に変えた。問題なのはこれからも本国政府がちょっかいを出してくるかもしれないということだけだ」
パトリシアが心配そうに尋ねるのに、クラウスは肩を竦めてそう返した。
クラウスたちの活動はロートシルト財閥の弁護士──SRAGのダニエル・ダイスラーが、彼の雇い主のために合法化した。レムリア重工が第3世代の魔装騎士を譲渡したことも、レナーテがSRAGの株式を譲渡したことも、クラウスがSARGという私企業の利益のために戦っていることも、全てが合法なものに変えられている。
だが、それでも本国政府に睨まれたというのはクラウスにとってはいい話ではない。本国政府はパトリシアの告げるように植民地政府よりも権力がある。また、クラウスは実家を通じて植民地政府に影響力を有しているが、本国政府にはそこまでの影響力を持っていない。
「なあ、パトリシア。お前、これを機会に外交官にならないか? そうなると本国政府に伝手ができるんだが」
「ええ!? 私に外交官になれっていうの!?」
クラウスがサラリと告げるのに、パトリシアの目がまん丸になった。
「大学を卒業後に外務省に入るってのはどうだ。お前は法学部で国際法も学んでいるだろうし、悪くない選択肢だと思うぞ。外務省に入れば腐れた植民地を出て、豊かな本国で暮らせるしな」
「無茶言わないでよ。女の外交官なんて舐められるし、珍しすぎるわよ。それにもう外交交渉なんて一生やりたくない」
パトリシアは20歳になり、トランスファール共和国のカップ・ホッフヌング大学の法学部に通っている。カップ・ホッフヌング大学はトランスファール共和国でも有数の大学であり、本国の大学にも並ぶ。
「共和国は万人は平等だと掲げている。そろそろ女も権利を手にするさ。お題目は整ってるんだ。後は実績を作るだけだ。俺たちと同じようにな」
「簡単に言っちゃうわね。確かに共和国は平等を謳っているけれど、女性の権利はなんだかんだで無視されているわ。実績があれば、っていうけれど共和国が致命的な危機に陥らない限り機会なんて巡ってこないわよ」
クラウスの言葉に、パトリシアがそう告げて返す。
確かに共和国は万人は平等であるという謳い文句を掲げ、それを実行するための政策をいくつも行っている。
だが、金持ちと貧者の間には格差があるし、男と女の間にも格差がある。これまでの歴史を守ろうとする保守派の政治家たちとその支持者たちが、新しいものたちに権利を与えることを拒んでいるがために。
「派手な実績は確かに共和国が危機に陥りでもしない限り巡ってこないだろう。だが、小さな実績は積み重ねていける。今回の外交交渉も、お前の実績のひとつとして誇ってもいいんだぞ」
「権利が手に入っても、外交交渉はもう嫌。だって、私の言葉ひとつで国の将来が左右されるんだし、交渉相手はこっちから隙を見て何か奪おうと企んでるし、そのことで胃は痛くなるし。それに本国政府への影響力ならロートシルトがいるじゃない」
クラウスがパトリシアを持ち上げてそう語るのに、パトリシアはまた腹部を押さえてテーブルに突っ伏した。
「頼む、パトリシア。俺のためだと思って、な。今回みたいに戦争が長引く場合は外務省を頼らなければならん。植民地政府も交渉はしてくれるが、やはり本国政府の外務省に知った人間がいる方がありがたいんだ」
「そ、そこまで言うなら考えてもいいけれど……」
クラウスがパトリシアの座っている椅子の向かいに座り、彼女の瞳をジッと見て告げるのに、パトリシアが頬を赤らめてもじもじと俯いた。
「クラウス。妹との話は終わった?」
そんな時に、クラウスに声がかけられた。
ローゼだ。彼女も今回の外交交渉に招かれており、クラウスと共にロンディニウムを訪問し、こうして帰りの船に乗っていた。
「だ、誰が妹ですって?」
「あら? 違ったの? てっきり妹だと思っていたわ。そんな扱いをされていることだからね」
パトリシアが眉を歪めるのに、ローゼが澄ました表情でそう返す。
「この没落貴族のくせに」
「そろそろ没落ではなくなる。家を再興するための資金は着実に溜まっているから」
パトリシアが胡乱な目でローゼを見て告げ、ローゼは肩を竦めた。
「クラウス。あなたの部下でしょ。ちゃんと教育しておきなさいよ」
「こいつはこういう奴だ。気にするな」
ローゼの態度に憤然とするパトリシアがクラウスにそう指摘するのに、クラウスは大げさに手を広げてそう返した。
「しかし、寒暖の差が激しくてどうにかなりそうだな。つい先週まではクソみたいに熱い砂漠でドンパチしてたのに、本土に戻ってきたら雪が降ってやがる。どこそこ移動してると、こういうのが困りものだ」
クラウスは見えない火花を散らしているローゼとパトリシアを無視し、船窓の外に広がる大陸海峡の景色を見ながらそう愚痴る。
赤道を越えれば季節は変わる。サウードとメディアという高温地帯で戦っていたクラウスたちも、赤道を越えて本土に戻れば冬の景色と気温を感じることになる。条約が締結されたロンディニウムでも雪が降っていた。今頃は共和国本国でも雪景色だろう。
「私は子供のころから雪は好き。真っ白で、幻想的で、奇麗だから。トランスファールは雪が降らないから残念ね」
ローゼはそう告げ、視線をクラウスが見ている船窓に向けた。
「雪はそこまで好きじゃないけれど、そろそろユールの日だからそれが楽しみだわ。この時期の共和国本国はお祭りだから。今年のプレゼントは何かしら」
パトリシアはテーブルに突っ伏したまま、そんなことを告げる。
ユールの日はこの世界のクリスマスだ。地球におけるクリスマスと同じようにプレゼントを交換し、ケーキを食べ、ご馳走が振舞われる。
「ああ。もうそんな時期か。すっかり忘れていた」
「あなたはちょっと戦争に浸かり過ぎているわ。もう少し他のことにも目を向けないと、寂しい人生を送ることになるわよ」
クラウスが思い出したというように告げるのに、パトリシアがそう告げた。
「私も忘れていた。先週までは敵の要塞で生きるか死ぬかの戦いをしてたから。日常と非日常が混じって、何だか感覚がおかしくなってしまうわね」
ローゼもそう告げて、さりげなくクラウスの隣に座る。
「パトリシア。プレゼントは何がいい?」
「あなたが選んだものがいい」
クラウスが尋ね、パトリシアが返す。
「なら、本国に帰ったついでにプレゼントを買うか。トランスファールで買うより上等なものが手に入るだろう」
本国は植民地より物流に富んでいる。植民地では手に入らない高級品も、本国ならば手に入れることができる。その点では本国と植民地の間には確かな地域格差というものが存在している。
「私には聞かないの?」
と、ここで声を上げるのはローゼだ。
「おい。お前は俺からプレゼントを貰ったことはないだろう」
「でも、欲しい。今年から始めればいいじゃない」
クラウスが怪訝そうにローゼを見るのに、ローゼは感情の窺えない表情でクラウスをジッと見て、そう告げて返した。
「分かった、分かった。お前にもプレゼントをやろう。お前のおかげで俺の財布は分厚く膨れているから、これぐらいは安いものだ」
ローゼに見つめられるのにクラウスは呆れたように頷いた。
船の汽笛が鳴ったのは、そのようなときだった。
「到着か。我らが本国に到着だ」
船窓から見える景色は、大陸海峡の海から変わり、大陸海峡を挟んでアルビオン王国本国と面するカレスの港町の景色に変わっていた。王国との外交関係が急速に悪化する中でも、大陸海峡を行き来する船は多く、カレスの港には様々な種類の船が停泊している。
「プレゼント、楽しみにしてるから」
「あまり期待はするな。俺にはお前の好みがいまいち分からん」
ローゼが告げ、クラウスはそう返すと、船から降りる準備を始めた。
軍人らしい要領のよさで手早く荷物を纏め、船で働く荷物運搬機に少ない荷物を任せる。パトリシアの荷物も同じように荷物運搬機に預けて、船を降りる準備を整えた。
これで何も問題がなければ、クラウスたちはカレスの街に降り、共和国本国でユールの日のためのプレゼントを買って、またトランスファール共和国に戻ることになる。
その予定だった。
「クラウス・キンスキー中佐ですね!?」
クラウスが船を降りたと同時に、客船の停泊する埠頭に集まっていた人混みが一斉にクラウスに向けて動いた。
「リパブリック新聞のものです! 今回の帝国との植民地戦争について一言お願いします!」
「エステライヒ・アルゲマイネ新聞です! アーバーダーン要塞の攻略に当たって、大統領が中佐の部隊に圧力を掛けたという情報は確かでしょうか!?」
集まっていたのは新聞社のものだった。共和国の右派、左派を問わない主要な新聞社が埠頭でクラウスを待ち構えていた。
「皆さん、質問はひとつずつお願いします。自分も同時に複数の質問に答えることはできませんので」
クラウスはいつもの模範的な士官面をして、集まっている新聞社の記者たちにそう告げる。
「リパブリック新聞ですが、帝国との植民地戦争について意見をお願いします。共和国政府はジャザーイル事件は不幸な衝突で計画されたものではなかったという声明を発表していますが、本当にそうだったのでしょうか。我々は帝国の艦隊は、非常に高度な戦術で強襲され、撃沈されたという情報を入手していますが」
記者のひとりがメモを片手にクラウスにそう尋ねる。
「我々は帝国の厚顔無恥な挑発に対して臨機応変に対応しただけです。共和国政府の発表の通り、衝突そのものは不幸なものです。ですが、我々は植民地軍の任務として勝利しました。そして、これからも勝利するでしょう」
記者の質問にクラウスは慣れた様子でそう返す。
彼自身メディアを相手にするのは初めてではない。ヌチュワニン鉱山を植民地人から防衛したときにも取材は受けたし、アナトリア戦争やミスライム危機で勝利したときにも同じように取材を受けた。
ただ、今回はどういうわけかメディアの数が多い。ただの植民地軍の中佐を取材するのにしては人が集まり過ぎている。
「フライハイト新聞です。ショーン・ジモンス大統領が植民地軍に圧力を掛け、その結果アーバーダーン要塞の攻略が遅れたというのは事実でしょうか。事実であれば、それについてコメントをお願いします」
次の質問は大統領が植民地軍に圧力を掛けていた件についてだ。どこでその情報を仕入れたのかは知らないが、複数の記者が同じようなことを口にしていることからして、確かな情報として流出したらしい。
「自分の部隊の投入が遅れたことは事実です。それが大統領の圧力による結果なのかは分かりません。仮に圧力があったとすれば、非難されるべきでしょう。我々の部隊が早期に投入されていれば、アーバーダーンで流した血は少なくて済んだはずですから」
記者たちにはそう告げたが、クラウスはヴェアヴォルフ戦闘団を第5軍の参謀長であるカルロス・カーティス大佐と司令官であるバシリウス・バスラー中将が投入しなかった原因を共和国本国政府の圧力だと知っている。だから、彼はレナーテに頼んで共和国本国政府に逆に圧力を掛けたのだ。
「デア・スタンダード新聞です。次期大統領選への出馬が噂されていますが、これは本当でしょうか。共和国市民の7割がキンスキー中佐が大統領選に出馬するならば、支持するとの世論調査の結果が出ていますが」
次の質問はクラウスにとっても意外なものだった。
現在の大統領の任期は残り2年を切った。2年後には共和国大統領選挙が実施される。記者はその大統領選にクラウスが出馬するのではないかと聞いていた。それが噂されているとして。
「自分は一介の植民地軍中佐に過ぎません。政治的なこととは無縁です。今はそのようなことを考えたことはありません」
「ですが、7割の市民が支持しているのですよ。あのラードルフ・ロイター提督もキンスキー中佐を支持するという声明を発表しています。出馬すれば確実に当選します。それでも出馬を考えていないと?」
面倒な質問にクラウスがそう返すのを、記者が追い縋った。
「今は植民地軍の任務がありますので。我々の植民地は今も他の列強諸国の脅威に晒されており、そのような脅威から我々の生命線である植民地を守ることこそが、自分が今やるべきことです」
クラウスは今は大統領がどうだなどのことは考えていない。これは事実だ。彼のビジネスを進めるためには、クラウスはヴェアヴォルフ戦闘団の指揮を執る必要があり、大統領になる必要はないのだ。
「質問はそろそろいいでしょうか。自分にも連れがいますので」
クラウスはそう告げて、背後で控えているローゼとパトリシアに視線を向ける。
「はい。取材にご協力いただき感謝します。あなたがこれからも活躍することを、共和国市民は強く望んでいます」
記者たちはそう告げて、クラウスたちに道を開けた。
「はあ。今回はやけにメディアが注目してるな。まあ帝国との大戦争だったから当然だったとも言えるが。それにしても記者どもが多い」
クラウスは記者たちの人混みを抜けるとそのように愚痴る。
「それだけあなたの活躍が注目されてきた、ってことでしょう。アナトリア、ミスライム、そしてジャザーイルに、サウードに、メディア。連戦連勝。これで注目されない方がどうかしているというものよ」
そんなクラウスにローゼがそう告げた。
「そんなものか。まあ、メディアに注目されてもいいことはないがな。連中に下手に注目されるとロートシルトとの件を嗅ぎつけられる。法的に問題がなくとも、倫理的には問題がある。メディアには大人しくしておいてもらいたいものだ」
クラウスは肩を竦めると、埠頭で待機していた自動車に乗り込んだ。
帝国との戦争は終わり、束の間の平和が訪れた。
クラウスたちは久しぶりに共和国本国に帰り、平和を味わう時間を得たのだった。
……………………




