#35
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明滅する非常灯、鳴り止まないサイレン。
数年前に廃業して以来、ひっそりとした夜を重ねてきたプール場は時ならぬ喧騒に包まれた。
慌ただしく発車した最初の救急車と入れ違いに到着した二台目の救急車。
ストレッチャーに乗せられて収容されたのは黒髪の少年、シュン・ホルトだった。
上半身、喉元、首筋に赤い雨のように走る刀傷。だが、少年が泣いている理由は傷の痛みのせいではない。固く両目を閉じてシュンは泣き続けた。
涙はあとからあとから溢れて頬を伝い傷だらけの体に零れ落ちて行く……
明朝。
ロサンゼルス市・サンセットストリップに程近いW・ハリウッド総合病院の一室。
カリフォルニアの青い空が広がる窓を背にしてCBI捜査官のケヴィン・ペイジは神妙な顔で報告した。
「ケイレヴ・グリーンも死んでいました。特製の地下室でね。俗に言う拷問の部屋だって彼と親交のある少年たちは言っています。あの後──あなたとサクストンが駆け去った後、僕が一人で見つけたんです」
ここで少々恨みがましい口調になった。咳払いしてから、
「グリーンは撃ち殺されていました。銃は彼の武器コレクションの一つ。S&Wの三八口径。未登録でした。クラヴェルを撃ち抜いたのもこの同じ銃で、彼の死体の傍、ベッドの下に無造作に放り出してありましたよ。これも僕が見つけました。指紋を拭き取ることさえしてなかった。連続殺人犯がその終末に見せるところの──まさに末期的破綻行動です」
頭を振りながら言う。
「検出された指紋は、勿論、ジェイミー・クルス……いや、ジェームズ・ホールデンのものでした」
更に捜査官は続けた。
「推測するに、ジェイミーはどうやら、いつもの様にグリーンと付き合った後、隙を見てグリーンをブッ放し、その後、外で待機していたクラヴェルを家内に招き入れ同様に射殺したようです」
「ええ、そのようね。ジェイミー本人もそう言ってたわ」
──殺さなくてもいい奴等……全然路線の違う連中まで殺す破目になっちまった……
「……〈白鳥の王子連続殺人〉のいわゆる創始者であり、〈ホールデン一家惨殺〉の犯人でもあるビルの身元は現在大急ぎで調査追跡中ですが、今の段階でわかっているのは──ジェイミーの父が経営していたギャラリーで絵画を購入した人たちの記録台帳に名前が載っていて、最後まで身元が確認できなかった内の一人、ウィリアム・ワイルドがどうも当人のようですね。力いっぱい偽名臭いですが」
ペイジは顔を顰めてみせた。
「事件当時の捜査記録には〈旅行者?〉とのみ記されています。ご存知のようにサウサリートは観光客の多い土地柄ゆえギャラリーで絵を買った人たちの何人かは同じく追跡できなかった者が多いんです」
喋るのをやめてペイジは聞いた。
「まだ続けますか? それとも、この辺でやめときましょうか?」
「いいから、続けて」
「緊急に州内一斉捜索を実施した結果、先程一報が届きました。シアトルのポートエンゼルスから程近いオリンピック半島の山岳地帯の山小屋から、首を吊ったと思しき白骨化した遺体を発見。既に収容して検死に回されたそうです。おそらく、ビルでしょう」
「そうであることを望むわ」
「大丈夫ですか? 痛みますか?」
恐る恐るペイジは聞いた。
ベッドに横たわっているレイミー・ボトムズは右肩に包帯を巻いた痛々しい姿だった。
「でも、あなたが携帯電話を持っていて本当に良かった!」
ペイジは縁無し眼鏡をほっそりした指で押し上げながら、
「僕が思うに、きっとサクストンはそのことを知っていたんですよ。だから、すぐに助けを呼べると確信していた……」
最大限のいたわりを込めた声で捜査官は言った。
「彼は絶対、あなたを殺すつもりはなかったと僕は思います」
すぐには返事はなかった。
赤い髪の刑事は暫く黙って病室の天井を見ていた。
「そうかしら?」
視線を捜査官の後ろに広がる青い空に移して、もう一度呟いた。
「そうね」
「全米中に手配は出してあります。二人が捕まるのは時間の問題ですよ」
レイミーは上の空で頷いた。
「……そうね」
同病院、但しVIP棟の病室から、同じ頃シュン・ホルトも空を見ていた。
いや、違う。少年の闇色の瞳は、これで何度目になるだろう? 胸に去来するたった一つの光景を見ているのだ。
*
その時、誰一人動く者はいなかった。
血を滴らせるシュン、両腕をだらりと下げたままのレイミー、顔を覆って蹲っているジェイミー・クルス。
アイクはゆっくりと肩のホルスターから拳銃を抜いた。
「安心しろ。俺が助けてやる」
銃を構える。そして、躊躇することなくトリガーを引いた。
屋内プール場に響き渡った銃声はきっかり一回だけ。
刹那、レイミーの右肩から鮮血が迸った──
「!」
アイク・サクストン巡査が撃ったのは上司レイミー・ボトムズ刑事の方だった……!
「?」
「?」
少年たち──シュンも、ジェイミーも、これには茫然としてただ目を見張るばかりだった。
アイクは一言も発せず、レイミーが昏倒したのを確認すると静かに銃をホルスターに戻した。
先刻、ジェイミーが投げ捨てたナイフをプールの底から拾い上げる。
シュンの処へ行き、素早く両腕の戒めを断ち切った。優しく床に寝かせると足の紐も切る。自分の着ていたジャケットを脱いで傷だらけの全裸の身体を包んだ。
「……アイク」
シュンが何か言おうとしたが指を一本立ててそっと唇に当てる。それが、最後のキスだった。
アイクはすぐに立ち上がってもう一人の少年の方へ向かった。
未だ事態が飲み込めずに呆然と腰を落としているジェイミーに手を差し出した。
漸く全てを理解して、ジェイミーも自分の痣だらけの細い腕を伸ばした。
「──」
また出現する一枚の絵。
システイナ礼拝堂のミケランジェロ、〈アダムの創造)……
資産家の息子であるシュンは、勿論、現物を小学生で見ている。
差し伸ばされた手を受けるもうひとつの手。それが重なった時、世界は決定する。
シュンは知っていた。何故なら、かつてシュンはシュンで自分が出した手──電話番号を記したメモを挟んでいた──をLAPDの制服を着たアイクが受け取った、その瞬間から始まった美しい物語を体験していたから。
あの日、そこが出発点だったように、今、アイクとジェイミーは旅立とうとしているのだ。
シュンが泣き出したのはこの時だった。だから、彼の涙は傷の痛みではなかった。
恋の敗北者の涙だった。
アイクはジェイミーの手を取って、倒れているレイミーの横を通って外へ出て行った。
レイミーのジャケットのポケットから携帯電話を取り出してシュンが911をプッシュしたのは、外の駐車場で小型車の軽快なエンジン音が響いてからかなり経った後だった。
シュンはその理由を、自分も気を失っていたからだと警察に証言している。
*
二人も空を見ていた。彼Ⅰと彼Ⅱ。
どこから見ても完璧な恋人同士。
アメリカ中、至る処で見受けられる田舎道の道路沿いに停めた車の中で、買って来たハンバーガーをのんびりとパクついている。
「なあ? 俺の手紙を見た時からバレてた? あの小指の件」
バーガーを持つジェイミーの左手には小指がなかった。
「……じゃないかとは思ってた。でも、確信したのはグリーンの家で壁の字を見た時かな」
ピクルスをつまみ上げてアイクが笑う。
「時間的におかしいだろ。無理がある。それに、何故、左の小指なのかも引っかかってたんだ。字を書くためには右を残しといた方がいい。今後の生活上でも。おまえ、右利きだよな?」
「俺が聞きたいのはその種のミステリー小説めいた推理の話じゃない。もっとロマンチックなことだよ」
頬をふくらませてムクレた。
「ちぇっ、すぐにわかると思った。恋人ならね。まず、文面。俺はちゃんと書いたはずだぞ? 〝あんたが一番愛し、愛された奴〟の小指だって。それに──」
今度はほんのりと紅潮して目を伏せる、七変化の可愛い少年。
「あの小指にはその前の晩にあんたが噛んだ噛み跡が残ってんだから。そこをちゃんと確認してくれなきゃ。ほんと、無神経だな? これだから警官は嫌いさ」
「それを言うならお互い様だろ? おまえこそ、〝自分で自分を傷つけられない〟んじゃなかったのかよ? 嘘つきめ」
悪戯っぽく、或いは悪魔っぽく彼Ⅱは笑ってみせる。
「やだな! これは自傷行為なんかじゃないよ」
指の欠けた左手を掲げて見せながら、
「恋人への伝言だよ。まあ普通は──紙とペンを使うんだろうけど」
草を分けて風が通り過ぎて行くのを見つめた後で真面目な声で聞いた。
「なあ? 何故、レイミーを撃ったのさ? 俺、今でも信じられないよ」
そこまでは求めていなかったから。
「そうか?」
本当かよ?
「俺はハナから決めてたんだよ。そもそも──おまえと逃げるために俺はあそこへ走ったんだから」
そうして、その決意は揺るぎないものになった。おまえがはっきりと助けて欲しいと言った時に。
ジェイミーは食べ終えたバーガーの包み紙を皺クチャにして丸めるとふざけてアイクの胸元へ投げつけた。そして、車から飛び降り、草の中で踊りだした。
少し仮眠を取ろうと──自分にしがみついて離れないジェイミーを抱えて一晩中運転し続けたのだ──シートを倒してそれを眺めながら、既に夢心地でアイクは思うのだった。
「あの光景は見たことがあるぞ。ピカソ……桃色の時代……アルルカンのシリーズ……玉乗りをしてる道化師があんなポーズだったっけ……」
タイトルまでは思い出せなかった。
ギャラリーの息子なら知っているかもしれないな? だが、それを聞くには眠すぎた。
起きてから聞けばいい。何しろ、俺たちには二人きりの時間がこれからたっぷりあるんだから。
アイクは目を閉じた。
幸せな気持ちでいっぱいだった。
HERD
家畜、獣の群れの他に、下衆、阿呆、愚か者、大馬鹿…の意味がある。
一番のHERDは──誰だった?
《 了 》
ね? 登場人物全員、大馬鹿者だったでしょう?
ただ一言だけ言わせてもらうとすれば、アイクは自分が一生、ジェイミーの〈檻〉になろうと決心したのかも──
この作品を書き終えられたのはひとえに読んでくださった皆様のおかげです。
だから、これは皆様が書き上げた物語でもあります。
心から感謝しています。
2012・11.28 sanpo