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【連作短編】初雪の歌劇場、今夜の見せ場は客席です

「病弱な妻は屋敷から出られない」と言いふらしていた旦那様へ。三年前から、向かいの桟敷におりますわ

作者: ま
掲載日:2026/10/17



向かいの桟敷で、夫が愛人の手袋に口づけている。


王立歌劇場の二階、舞台に向かって右の三番。

金の手すりに紫のドレスの袖がかかり、羽根の扇がひらひらと揺れるたびに夫が目尻を下げる。

開演前の客席はまだ明るいので、ここからでも表情までよく見えた。



「奥様……あれ、手袋に……」


「見えているわよ、ベス。三年見ているもの」


「三年も見てるから腹が立つんですよぉ!」



侍女のベスが小声で地団駄を踏む。

私の席は左の三番。真向かいの小さな桟敷の一番後ろの暗がりで、私は黒いヴェールをかぶって座っている。


三年前から。

数えてみると、我ながら気の長い話である。


今夜も通用口で私を出迎えてくれたのは支配人のテオドール・ラングレー。

灰色の燕尾服に銀の懐中時計。



「お待ちしておりました、アシュベリー様。お席はご用意してございます」


「ありがとう。……今夜も紅茶を?」


「初日でございますから」



初日でなくても、彼は紅茶を運んでくる。

私が来る晩は必ず、三年、一度も欠かさずに。


理由は聞いたことがない。

聞けば私の方も、なぜヴェールで顔を隠して裏口から入るのか話さなければならなくなるから。




◇




夫のハロルドは私の家の婿だ。


アシュベリー伯爵家の一人娘だった私に、父が選んだ子爵家の三男。

朗らかで人当たりがよく、帳簿の数字を三行読むと眠くなる人である。

父は「家のことはお前がやればいい。あれには社交を任せておけ」と言い、四年前に私たちは結婚して、その翌年に父は亡くなった。


それで社交は夫の担当になり、私は屋敷で領地の差配と帳簿を引き受けた。

分担としては悪くない。

最初の一年は、本気でそう思っていた。


子どもの頃、私は季節の変わり目のたびに熱を出した。

十五で嘘みたいに治ったものの、結婚した年の冬に一度だけ風邪で寝込み、その時は夫が自分で厨房に下りて、塩辛すぎるスープを運んできた。



「君は体が弱いんだから、無理しないでくれよ。な?」



あれは優しさだったのだと思う。

少なくともあの冬までは。


結婚して二年目、つまり三年前から、夫はその言葉を夜会で使い始めた。



「妻は病弱でね。屋敷から一歩も出られないんだ」



そう言えば妻を連れずに夜会に行ける。

妻の代わりに、男爵家の未亡人のイザベラ様を連れて歩ける。

社交界の奥様方は夫を「病弱な奥方に尽くす優しい方」と褒め、イザベラ様を「お気の毒な伯爵様の慰め」と呼んだ。


病弱。

便利な言葉だ。言われる側が私でなければ、感心していたかもしれない。


腹が立たなかったと言えば嘘になる。

だが怒りより先に「ああ、この人はこういう人だったのね」という妙に醒めた納得が来て、その納得が自分でも少し悲しかった。


だから私は、自分の楽しみを一つ持つことにした。

父が十二の誕生日に取ってくれた、左三番の桟敷。

私の名義の、二人掛けの小さな箱だ。


娘時代は最前列にかじりついていたけれど、結婚してからは帳簿に追われて足が遠のいていた。


三年前、初めてヴェールをかぶって行った晩の目的は、夫と愛人を自分の目で確認すること。

しかし幕が上がった途端に歌に呑まれ、終幕では頬が濡れていて、向かいのことなどすっかり忘れてしまった。


以来、初日は一度も欠かさず、ほかの晩にもときどき通っている。

座るのはいつも一番後ろの暗がりだ。


夫は三年、一度も向かいを見なかった。

ある意味、才能である。




◇




今夜ここにいる理由は、もう一つある。


今朝、見たことのない医者が屋敷にやって来た。



「伯爵様のご依頼で、奥様の診察に参りました」


「あら。どこを診てくださるの?」


「ええと、その……お顔の色が、大変お悪い!」



医者は私の顔をろくに見もしないで、『病床にあり』と書いた診断書を鞄から出した。

最初から書いてあったらしい。

私は倍の謝礼を卓に置いた。



「で、これは何にお使いになるの?」


「い、いえ、私は何も……」


「もう一枚、置きましょうか?」


「紋章院です! 伯爵様が先週、申し立てを出されまして!」



買収された医者は、もう一度買収できる。

彼はぺらぺらと全部しゃべった。



「奥様がご病気で家を治められないので、旦那様を『代理伯』にと。認められれば、お家の財産も爵位も旦那様が差配なさることに……あとは社交界の証人お二人の署名があれば、と仰っていました」


「証人はどこで集めるのかしら?」


「こ、今夜の歌劇場で、と……」



今夜は王立歌劇場の新作『白薔薇の誓い』の初日で、社交界の主だった方々が幕間の大ロビーに一人残らず集まる。


ふうん。

なるほど、そういう筋書き。


医者が帰った後、ベスがお茶を淹れながら頬を膨らませた。



「奥様、どうして今まで離縁なさらなかったんです? 跡取りは奥様なんですから、旦那様なんていつでも追い出せたのに」


「そうね。領地は回っていたし、あの人、帳簿には指一本触れなかったもの。害が無かったのよ」


「害が無いって……愛人ですよ!?」


「それと、たぶん――」



スープのせいとは言えない。

そんな理由、口に出したら自分で呆れてしまう。

本当は昼過ぎまで、天井を見ながら迷った。


だが夫は帳簿どころか、家ごと奪いに来た。

躊躇する理由は消えた。


手札は一つある。劇場の支配人室に眠っている、桟敷帳だ。


開演のベルが鳴り、客席の灯りが落ちる。

指揮台に黒髪を束ねた若い指揮者が立って、序曲が始まった。


向かいの桟敷が暗くなると、夫の顔はもう見えない。

目を細めると、イザベラ様の扇が夫の肩に置かれたのが影の形で分かる程度だ。

見えない方がいっそ気楽だが。



「あの……よ、よろしければ、お使いになりますか……?」



小さな声に振り向くと、隣の左四番との仕切り板の上から、白い貝の柄のオペラグラスが差し出されていた。

若草色のドレスの令嬢が仕切りに身を乗り出している。

栗色の髪をきっちりと結った小柄な方で、目が合った途端に耳まで赤くなった。



「まあ。よろしいの?」


「は、はいっ。わ、わたくし、舞台はもう、その……覚えてますから……っ」



覚えている?

初日なのに?


ありがたく借りて覗くと、向かいの桟敷が手の届きそうな近さになった。

夫がイザベラ様の耳元で何か囁き、上着の内側から書類挟みの角が覗いている。

あれが申し立ての書類ね、と私は冷静に確認する。


冷静に。

指先が冷たいのは劇場の暖房が弱いせいに決まっている。


隣の令嬢はといえば、舞台そっちのけで客席を観察している。

歌手が台詞を歌う少し前に彼女の唇が同じ言葉をなぞり、客席がどっと沸くと両手で頬を押さえ、指揮台の方をちらりと見てはまた赤くなる。


この方は、この歌劇を何度も聴いている。

それも、客としてではない聴き方で。


詮索はよそう。

今夜の私は、詮索される側に回るのだから。


第一幕が終わって拍手の中で客席が明るくなると、私は仕切り越しにオペラグラスを返した。



「助かりましたわ。……本当に」


「い、いえっ! お役に立てたなら、その、よかったです……」



令嬢は宝物のように両手でそれを受け取った。



「奥様、行くんですね?」


「ええ。ヴェール、曲がっていない?」


「まっすぐです! あの……が、がんばってください!」


「がんばるようなことは何もないわよ。階段を降りるだけだもの」



そう言いながら、手袋の中の指を一度ぎゅっと握った。

怖い? まさか。

ただ、四年分の何かが階段の下で待っている気がしただけだ。




◇




第一の幕間。大ロビーは毛皮と香水と話し声で満ちていた。


私は大階段の上、二階回廊の端で足を止めた。

見下ろすと夫がイザベラ様を連れて人の輪の真ん中にいて、その中には平土間の通路側の席を三十年譲らないことで有名な、紋章院の老審議官グランヴィル卿の姿もある。



「いやあ、皆さん。妻は病弱でね。屋敷から一歩も出られないんだ」



夫の声はよく通る。



「もう三年、寝台から起き上がれない。家のことは僕が見るしかないんですよ。……それでね、グランヴィル卿、ペンブルック子爵。証人のご署名をいただけませんか? 妻のためなんです」



書類挟みが開かれ、ペンが差し出された。

人のいいペンブルック子爵がすぐにペンを取りかけ、グランヴィル卿は眉間に皺を寄せている。


妻のため。

はいはい。


ヴェールは下ろしておく。私は大階段を降り始めた。

一段降りるごとに話し声が一つずつ消えていく。


心臓がうるさい。落ち着きなさい、エレノア。たかが階段の二十段よ。

灰青のドレスの裾が絨毯を擦る音まで聞こえるほど静まり返った頃、私は人の輪の手前で立ち止まった。



「ごきげんよう、旦那様」



そしてヴェールを上げる。



「病弱な妻ですわ。お呼びかしら?」



夫の顔面から、すうっと血の気が引いた。

三年ぶりにこの人が私をまっすぐ見た気がする。



「エ、エレノア……!? な、なんで、ここに……君は寝てなきゃ……」


「ええ。起きてまいりましたの」


「い、いや、今夜はたまたま調子がよかったんだな!? そうだろう!? 久しぶりの外出で――」


「久しぶり?」



首を傾げると、背後から落ち着いた声がした。



「失礼いたします」



振り向くと、ラングレー支配人が革張りの分厚い帳面を両腕に抱えて立っていた。

劇場の桟敷帳である。

二階の桟敷に入る者は通路の受付台で日付と番号と名と同伴者を自筆で記すのが古い決まりで、その帳面は支配人室に保管されている。


え、待って。

依頼した覚えはない。今から自分で取りに行くつもりだったのに!



「アシュベリー伯爵夫人は、この三年、当劇場の初日を一度も欠かしておられません。ほかの晩にもたびたび。お席は左三番でございます」



支配人はグランヴィル卿の前で帳面を開き、老審議官が鼻眼鏡をかけ直して頁を指でなぞった。



「左三番、エレノア・アシュベリー。右三番、ハロルド・アシュベリー、同伴イザベラ・ノア。同じ夜だな」



頁がめくられる。



「これも同じ夜。これもだ。ふん、三年で十九晩か」



大ロビーのどこかで、誰かが盛大に咳き込む。咳? 違う、あれは噴き出すのをこらえ損ねた音だ。



「三年も向かいの桟敷に奥方がいて、一度も気づかなかったのか?」


「おいおい、真向かいだぞ。左三番と右三番は」



忍び笑いがさざ波のように広がっていく。

夫は口を開けて、閉じて、また開けた。まるで金魚である。



「ち、違う! それは誰かが名前を騙って――」


「筆跡でしたら、旦那様の書斎の書類を全部ご覧になってくださる? この三年、旦那様のお名前のほかは、ぜーんぶ私の字ですもの」



グランヴィル卿が鼻眼鏡の奥からじろりと夫を見た。



「アシュベリー殿。先週、わしの机に来た申し立てに『妻は三年来、病床にあり』とあった。証人が二人そろえば審議に回す、とな。で、だ。いま、わしはその妻が自分の足で大階段を降りてくるのを見たわけだ」


「そ、それは、その……」


「紋章院への虚偽の申し立てが何を意味するか、ご存じだな?」


「ま、待ってください、卿!」


「称号の剥奪だ」



ペンブルック子爵が、そっとペンを夫の手に返した。

賢明な方だと思う。



「ちょ、ちょっと、あなた! 病気じゃなかったの!?」



イザベラ様が扇の陰から私を睨んだ。



「ええ。おかげさまで、すっかり」


「エレノア、た、頼むよ……僕たち、夫婦じゃないか」


「あら、夫婦でしたの? 三年、向かいの桟敷を一度もご覧にならなかったのに?」



今度は大ロビーの半分が噴き出した。


ざわめきが引くのを待って、私は夫に向き直った。

怒鳴ってやろうと思っていた台詞はいくつも喉まで来ていたのに、口から出たのは自分でも驚くほど静かな声。



「旦那様。離縁いたしましょう」


「エレノア、待ってくれよ、僕は、僕はただ――」


「病弱な妻からの、最後のお願いですわ」



婿が離縁されれば、身一つで家を出る。

この国の決まりで、夫も結婚の日に署名したはずの条項である。

もっとも、読んでいればの話だが。


その時、羽根の扇がばしんと閉じた。



「冗談じゃないわ! 伯爵じゃないなら、何なのよ!」



イザベラ様は紫のドレスを翻して正面玄関から出ていき、夫は一瞬だけ私を見てから「イザベラ、待ってくれ!」と叫んで後を追った。


扉が開いて、冷たい風が吹き込む。

外はいつの間にか雪になっていた。


あ、そっちを追うのね。

最後まで向かいを見ない人だった。


可笑しいのか悔しいのか、自分でもよく分からない。

勝ったはずなのに、胸のどこかで四年前の私が「本当にこれでよかったの?」と小さく尋ねてくる。

よかったのよ、と答えてやる。あの塩辛いスープの味だけは、惜しい気もするが。




◇




第二幕が始まると、私は左三番の最前列に座った。


ヴェールは膝の上に置いた。

金の手すりのすぐ向こうに舞台があり、白薔薇姫の衣装の刺繍の糸一本まで見える。

三年、後ろの暗がりからしか見ていなかったせいで、こんなに近かったことをすっかり忘れていた。



「奥様。もう向かいを見なくていいんですね」


「そうね。首が凝らなくて済むわ」



向かいの右三番は空っぽだ。

ベスが声を殺して肩を震わせ、私もつられて口元を押さえた。

こんな時に可笑しがるなんて不謹慎? いいえ、三年分の首の凝りが急に馬鹿らしくなってきたのだから仕方がない。




◇




第二の幕間、私は支配人に付き添われて支配人室に向かった。

屋敷の家令に手紙を書くためだ。夫の荷物はまとめて門の外に出し、鍵は今夜のうちに全部替えること。


大階段を半分ほど降りた時、甲高い声が響き渡った。



「お姉様が私の首飾りを盗んだの!」



踊り場の大きな肖像画の前で、黄色いドレスの娘が泣き叫んでいた。

向かい合っているのは空色のドレスの娘で、その隣に黒い服の、見上げるほど大きな男性が立っている。

人が集まり始めていた。今夜の大ロビーは見せ物に事欠かない。



「アシュベリー様、こちらに」



促されてその場を離れる時に振り返ると、空色のドレスの娘は涙も見せず、下も向いていない。

隣の大きな人も、一歩も引かずにそこにいる。


あの子には隣に立つ人がいる。

それなら心配は無用ね。


支配人室で手紙を書いていると、グランヴィル卿が来て申し立ての件を正式に聞き取っていった。



「わしは三十年、初日の平土間に座っとるがな。左三番の暗がりに誰かがいるのは知っておった」


「まあ。ご存じでしたの?」


「誰かは知らん。向かいばかり見とる男が、なぜ気づかんのかは不思議に思っておったがな」



卿は鼻を鳴らして出ていった。

支配人も途中で「失礼、ロビーが騒がしいようで」と席を立ち、しばらくして戻ってきた。



「片付きましたの?」


「はい。あちらのお嬢様は、ご自分で片を付けられました」



彼はそれ以上言わなかった。

三年、私のヴェールの理由を一度も尋ねなかった人なのだから、当然か。




◇




第三幕のベルが鳴る少し前に、左三番に紅茶が届いた。

運んできたのは支配人本人。盆の上には茶碗が二つ。


隣の左四番は空席。

若草色の令嬢は、どこに行ったのだろう?


台詞を全部覚えていて、客席が沸くたびに頬を押さえる人。きっと舞台の向こう側にご縁のある方なのだ。今夜は、あの方にも出番があるのかもしれない。

さっき大ロビーの騒ぎの向こうで、男の子に手を引かれて舞台裏の扉の方に急ぐ若草色の背中を見た気もするけれど、詮索はしないと決めたばかりだ。



「ラングレーさん。一つ、伺ってもいいかしら?」


「何なりと」


「桟敷帳。どうして、頼む前に持ってきてくださったの?」



盆を持つ手を止めて、彼は一瞬、言葉に詰まった。

劇場の言葉ならいくらでも出てくる人が言い淀むのを、私は初めて見た。



「……三年前の初日に、喜劇の場面で、左三番の暗がりから声を殺して笑っておられる方がいらしたので」


「え」


「そういう方の桟敷には、紅茶をお持ちすることにしております。その、劇場の決まりで」


「……そんな決まり、聞いたことがないけれど?」


「今、作りました」



うそ。

三年前から?


人間観察は得意なはずが、今夜は全然集中できない!

彼の耳が赤い。

おそらく私の耳も同じ色をしている。



「来季の初日も、左三番をご用意してよろしいですか?」


「ええ。でも――」



私は膝の上のヴェールを畳んで、ベスに渡した。

ベスがにやにやしている。見なかったことにする。



「紅茶は二人分でお願いできる? あなたの分も、ね」



支配人は何か言いかけてやめ、劇場の誰よりも丁寧なお辞儀をすると、私の隣の椅子に腰を下ろした。


客席の灯りが落ち、指揮棒が上がって幕が開く。


向かいの右三番は空いている。

でも、もうそちらは見ない。

隣の人の横顔を盗み見るのに忙しくて、向かいどころの騒ぎではないのだもの。


三年分の初日を損した気分。……来季から、取り返せばいいわね。



【連作短編】同じ夜、同じ劇場、三人のあいだを行き来する一つのオペラグラス。

https://ncode.syosetu.com/n0562mx/

https://ncode.syosetu.com/n0560mx/


【番外編】「劇場の決まり」(支配人テオドール視点。劇場の内側から見た同じ一夜)

https://note.com/wise_turtle184/n/n477339e2c5ae?app_launch=false

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