8流されて──
(……何、馬鹿なことを考えているのでしょうか。留める、だなんて。そんなことしていいはずが──)
青年は自嘲気味に唇を歪めた。
「触れられないのに、干渉するものじゃないね。」
その声にハッとし、青年は少年を見た。
変わらず少年は、揺蕩う脆弱な光を見ていた。
「うん、止めるね。」
少年は目を閉じて、指をパチンと鳴らす。
いつも通りの白い空間の日常が戻った。
「うぎゃっあ!」
下を見た青年は片足を浮かした。
「だから、大丈夫だってー。そんなことしなくても。 」
青年の行動を見て、呆れた声を出した少年。そして、
「ん? 君等、何をしようとして──」
ふいと少年は青年から視線を外し、宙を見る。
ザバババッ、ビチャア!!
「!」
少年は目を丸くした。
「うわああああああああ! 天井から水が!」
なんと、少年目掛けて滝のような水が流れてきたのだった。
「……。」
少年はあっという間に濡れ鼠になる。
ポタ、ポタポタ。
少年は水滴が垂れる前髪を、無造作に掻き上げた。
水滴が少年の髪、服、身体を伝ってポトポト、落ちていく。
猫のように金の眼が細められた──、
「ふっ、あはははっ!」
少年は笑い出した。
少年の妖艶な雰囲気が消えた。
「え、えっ!? いやっ!? 笑ってる場合じゃありませんよっ!服が透けて──、ああっ、もう!」
青年は顔を赤くしたり青くしたりしながら、動転する。最後は両目を片手で覆いながら、思い切り顔を背けた。
「はぁー、可笑しい。君等、びしょ濡れじゃん。」
青年は、くるんっと指を回す。
「風邪引いちゃうよ?」
少年はクスッと笑い、からかうように目を細めた。
「……さて。」
少年は妙ちきりんなポーズをしたまま、固まっている青年を見る。
「君さあ、そういうヘンテコなフォーム、度々見せてくれるけど、首とか、肩とか痛くならないのー?」
「い、いいっですから、早くふっ、服を!」
「服?」
少年は目をぱちっとさせた。
「……ああ。」
合点が行ったようである。
「へっ、返事を聞いているんじゃないんですっ!」
「へぇー。何を勘違いしているのか知らないけど、君が変なことを考えているのは分かったかもねー。」
少年はゆっくり歩く。青年の方へ。
「へっ、変なことじゃないですっ! というかっ、ち、近付いていませんかっ!?」
ヘンテコポーズを維持したまま肩だけ跳ね、上擦った声で叫ぶ。
「わぁ、すごい。僕は基本、足音立てないのに、よく分かったねー。ここは、僕の足音が特に、響かないっていうのに。」
シャラリ。
声以外の音が、この空間に響いた。
それは、少年が履いている、ベアフットサンダルの鎖が揺れたた音。
「いや、近付かないでください! 何故近付くんです!?」
少年は青年の前でピタリと止まった。
「じゃあ、言ってみてよ。君が思ったこと。こっち見てさ。」
「むっ、むりです!」
青年は片手で目を覆ったまま、もう片方の手で左右に振る。
「無理? どうして? 変じゃないんでしょ。」
「それはっ! あっ」
青年はムキになって、思わず手を外し──、少年を見た。
少年は不思議そうな顔をしていた。
「かっ、乾いてる!? いや、着替えたんですか!?」
青年は驚く。
それもそのはずである。先程まであった、ずぶ濡れの形跡はどこにも見当たらなかった。
「僕はこのままだよー。」
片手を腰に当てる。
「で、ですが、詠唱が!!」
「詠唱? ……ああ、面倒なウタのこと?」
「えっ!? 歌なんですか!?」
「君が聞いたんじゃん。」
驚く青年に対し、呆れた視線を向ける。
「仕方ないじゃないですか!だって、私は──っ!」
青年の瞳が揺れ動く。
「……私はっ」
「……。」
ぐっと握り締められた拳に力が入るのを、少年は見ていた。
「君はさー、僕に高度なこと聞くの好きだよねー。」
「……。」
青年は俯き、口を噤む。
「まあ、いいけどさー。で、君が思ってたウタってどれ? 詩の方? 唄の方? それとも違うの?」
「……、……は?」
青年は顔を上げ口を開けた。
「は? じゃないよー。どのウタかって聞いてるの。」
心なしか、ムッとしている少年。
「あっ、あの。話が見えないんですが……」
戸惑いがちに聞く青年。
「詠唱の話をしているんでしょ? でもね、先に言っとくけど、僕も詳しいことはよく分からないし、全部は無理だよー。」
「まっ、まってください!」
「舞うのはねー、あまり好きじゃないんだよねー。出来れば他の人に頼んで欲しいなあ。」
少年は青年の意を酌まず、話を進めている。
「ち、違いますぅぅっ! 話を聞いてくださひぃ!」
……青年は、噛んだ。
それは、ひっくり返った甲高い声であった。
その特徴的な情けない声に場は静まり、スッと青年に注目が集まる。
「いっ、いや、あの、私は、貴方が先程まで濡れていたのに、濡れていないから、何かしたのかと。」
青年は居たたまれず、視線を彷徨わせる。
「それで詠唱?」
「……はい。」
青年は力なく認めた。
「君から見ても、僕はそんな呪文やら、詠唱やら、舞やら、一発芸やら、……。」
少年は指折り言っていたが、
「あー! 後、多いから省略!」
額に手を当てて、叫び出す。
「……、……といったように、疲れることしてないでしょー。」
青年を改めて見やる。
「いっ、一発芸!? なんですか、そのメンタル削られる芸は!?」
「あら、そこに興味持っちゃう?」
少年は目を瞬かせた。
「持っちゃいますよ! 他と比べてそれだけ、可笑しいじゃないですか!」
「と言われてもねー、あまり期待しない方がいいと思うよ。失敗すると、魂、擽られるし。」
「うへぇっ!? たっ、たましいを!?」
ゴギュッンッ。
青年の唾を飲む、尋常ではない音が響いた。
「いや、だから、そこは首。」
首を両手で押さえた青年に対して、少年は訂正した。
「まあ、軽ければ、こう、ちょちょいと触って解放されることがあるかも、……ないかもしれないし。」
少年は人差し指で宙をなぞる仕草をして、止めた。
「な、慰めになってないですよ! 却って不安になるような、不気味要素ばらまかないでくださいぃ!」
青年は血の気が引いた。
「こればっかりは、僕も分からないのよー。……誰が力を乞い、それに誰が応えるか。それは、一種の籤引きのようで命運すら定まる。」
少年は腕組みをする。そこにはいつもの軽い調子が見られない。ただ、細められた瞳には神を みせる 不可解な色が湛えてある。
「誰、ですか?」
青年はきょとんとする。
「そう、例えば悪魔。ひょっとしたら、紛れて魂をクワレ──」
更に少年は目を細め、ぴりっとした鋭さを漂わせるがーー、みるみる涙目になっていく青年に気付いて、
「よーし。ナンデモナイヨー。」
少年は小さくガッツポーズして明るく言った。……但し棒読みである。
「ななっ、なんでもなくないですよねぇっ!? ほぼ全部言っちゃってるじゃないですかっ!」
「ちょっと、うん、そう。ちょーっとだけ、間違えちゃったみたい。味見というか、食べられちゃう可能性も場合によっては、あるかもってことだねー。」
「言い直しても内容は変わっていませんからねっ!」
「えへ。騙されて?」
片目を閉じ、片手を顔の前に立て、祈るようなポーズをした。
「だ、だまされましょ……ません! ませんから!」
少年のキュートな仕草に頷きかけた青年は、慌てて首を振る。
「ましょ、ません? 今、上手くいきかけた気が──。 ……ま、いいや。 」
少年は口元に当てた手を下ろし、青年に視線を戻した。
「比べて精霊は優し──」
「優しくないでしょうっ! 」
間髪入れずに少年は叫び返した。
「僕、まだ何も言ってないよー?」
片眉を上げた。
「あ、あっあなたに、水ぶっかける人達のどこが優しいんですかっ!?」
青年は少年を指差す、……かと思いきや、少年の右、頭の上、左に指を移動させて、少年を四角で囲むように空書きする。
「……君、何やってんの?」
「あっ、もしかしてあっちですか!」
少年の声に応えず、青年は少年に背を向け、玉座に向かって指を差した。
「……新手の踊り?」
「ど、どどうなんですか!」
戸惑う少年に対して、緊張気味に聞く青年。
「ああ、なるほど! 君渾身の一発芸か!」
「へ?」
青年は間抜けな声を出した。
「確かにねー、 一発芸って突然始めないと、上手くいかなそうだもんね。」
少年は納得している。
「なんの、話を……?」
青年は嫌な予感を覚え、そろりそろりと、少年の方へ向き直る。
少年はクスッと笑った。
「……こんな表情は、中々見れないかもね。」
呟かれた相手が青年でないことは、確かであった。
「え、え? あの、それは、どういう──」
青年は少年に困惑して尋ね、
「……。」
少年は青年に微笑みを向けた。
その不思議な笑みに、思わず青年は、言う言葉を口中に引っ込めた。
「うん。」
少年は目を閉じ、開く──。
そこまでの流れはほんの一瞬だった。
「その分かりにくい、一風変わった度胸と行動力に、僕は感銘を受けた! だから、君に贈り物をあげよう!」
少年は急に朗々と声を上げた。
「え、あっ、ありがとうございます? はっ! じゃなくって! いっ、いりません! 」
「遠慮しなくて良いんだよー? 」
少年は首を傾げた。
「大丈夫です! 結構です!」
条件反射にお礼を言った青年は、思い直し、両手を振って必死に拒否する。
「君ね、はいか、いいえ、はっきりしないと漬け込まれちゃうよ? 中間なんていう、贅沢はいつまでも通じるわけじゃないし。大丈夫や結構は悪徳商売語で、はい、なんだよ。」
少年は真面目な顔付きで青年を諭す。
「え?」
「え? じゃないよ。はい、もう一度やり直し。」
戸惑う青年を余所にパンッと手を軽く叩く。
「……いっ、」
逡巡の後、青年は真っ赤な顔を隠すかのように俯いて、言葉をどうにか出す。
「い?」
少年は青年の言葉を待つ。
「……、……いっ、いりません!」
青年は目を瞑って叫ぶ。その衝動で──、
はっ、はぁっ、はぁっ。
力んで言った青年の息が上がっていた。
パチパチパチ。
「お見事~! お疲れ様、上出来だよ。」
少年の拍手した音が、青年の吐かれた息に重なった。
「ちゃんと断れた君には、ご褒美あげないとね。」
「……えっ? い、ま、断って──」
息を整えながら驚いた青年は主張する。
「ちゃーんと、僕以外の人の前でもそう言うんだよ。はい、君の予行演習は、終わり。」
「よっ、予行演習? き、聞いてないですよ、そんなの!」
青年は色を失う。
「今、初めて言ったからね。無理もないよ。」
少年は青年の肩にポンッと手を置く。
「ああ、そうなんですね。それでは、無理も──……、あ、ありまくりますっ!!」
青年は落ち着きを取り戻した……が、可笑しいことに気付き、慌てて抗議する。
「君は流されてくれそうで流れないよねー。もう少し流されてくれてもいいのに。その素晴らしすぎる危機管理能力に、嫉妬しちゃうなあ。」
「えっ ?」
ぼやくように言われた少年の言葉に青年は戸惑う。
「大事にしなよ、その感覚。恐怖は勇気であり、賢さであり、生命力でもあるんだからさ。」
「……?」
彼が何を物語ろうとしているのか、その伏せられた瞳から、青年は読み取ることが出来なかった。そして尋ねることは許されなかった。
「さて。ご褒美なのに、君が頑なに拒否している理由を聞こうか。」
彼が真っ直ぐにこちらを見詰めてきたからだ。その金の瞳は、優しくこちらを向いている。と言えば聞こえは言いが、スルリと優雅に上げられた口角は面白がっているようにも見える。
何より青年は、その事に関して少年に物申したいことがあったのだ。
「そりゃそうですよ! 貴方が私にくれるものって、碌でもないものばかりじゃないですか!さっきの泡玉もそうですし、……私の髪の毛から出来たあの、……。」
青年の勢いはどんどん弱くなり、俯いた。
「まだ、引き摺っているのー?」
「引き摺ってなんか、……ないです。」
目を伏せて、ゴニョゴニョと小さく言う。
「ふーん?」
少年の目は細まっていく。
「……ま、僕もちょっとやり過ぎたかな。君のことを考慮すると。」
手の甲を口元に当て──、
「……、……後悔はしてないけど。」
ボソッと呟いた。
青年はぶるるっと震えた。
「何故でしょう。今、貴方の口から恐ろしい言葉が吐かれた気が……」
「きっと、気のせいだよー。」
少年は、にこっと笑みの形を作る。
「そっ、そうですか。」
青年には少年の目が笑ってないように見えたが、ここは頷いといた方が良いという、本能に従っておく。
「……僕はね、たとえ君に嫌われても、君には、真実を知っててもらいたいんだー。それが僕の自己満足だとしてもね。」
「……!」
少年は視線を落として、床を見詰めていた。
口調はいつもと変わらず明るい。
けれど何故だか、青年はそこに暗がりを感じた。小骨が喉に引っ掛かってしまったような、小さな違和感でありながら、飲み込んだら実は苦しくて、追いやることも出来ない。だから、思わず口走って──、
「……き、らいになんて……」
「ん?」
少年は青年を見る。
金の瞳が青年をただ、純粋に映していたから──、
「……いえ、何でもありません。」
青年は目を伏せ、代わりに唇を噛む。
「そう? じゃあ、覚悟は決めてくれたってことでいいかな?」
「……はい。って──、はいぃぃぃ!?」
青年は調子外れな声を上げた。
「二回言わなくても分かるよー。さ、手を」
少年は青年に向かって左手を差し出す。
「えっ、え? あの、これは一体何を、誰に……?」
疑問を浮かべた青年は、少年の顔と手を交互に見る。
「……はぁ。これじゃ、通じないかぁー。」
少年はがっくりと肩を落とす。
「えっ、ですから何を!?」
あわあわし出す青年を、顔を上げて見た。その少年の表情は凛然としていて──、
「お手!」
「……ェっ!?」
ポンッ。
青年は思わず少年の掌に自分の手を出した。
少年の掌の上に、青年の手が置かれた。
青年の手の方が大きくて少年の手から少々はみ出る。
「……。こうじゃ、」
少年はそれを見て不満そうに呟く。
「!?」
少年は手を下にスライドさせて青年の指先をきゅっと握った。
「あっ、あああああのお!?」
青年は動転した!
「しっ。ちょっと黙ってて。」
少年は険しい表情をしていた。
「紫」
少年は鋭く言うと、
「……。……頼める?」
右の空間に顔を向けた。それは優しい声音だった。
「!」
青年は少年の横顔に息を呑む。それは、慈愛に満ちた表情ーー。
先程までの遊んでいた、見た目に適した少年らしさが抜け、上に立つ者の品格が見えた。
「そう、僕の手に。……ありがとう。」
少年は右の掌も青年に向けて差し出す。
その時ーー、少年の右掌から白い光が玉を描くように発光し、徐々に白から紫の光へと変わってゆく。
「……ぅっ!?」
青年はその眩さから空いてる方の手で視界を遮る。
パリンッ!
何かが、割れるような高い音が耳に響く。
しかし、それは決して不快な音ではない。
眩しさが収まったので、青年は手で遮るのを止めると──、
シャラシャラシャラ。
紫のダイヤの形となった小さな光が、少年の右掌に舞い降りていた。
「!?」
よく見ると少年の掌に小さな人が立っていた。
光のダイヤが全て落ちて消えると、その人物──、少女は目を開けた。
「初めまして。私、紫と申します。以後、お見知り置きを。」
その少女は胸に手を当て一礼した。
その少女は、名の通り紫を身に纏っていた。
頤に掛かるぐらいの髪、羽の髪留め、袖はあるが肩出しのワンピース、そして──、
顔を上げた少女は、瞳を細めて微笑んだ。
──、その瞳も紫だった。