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花の戦記  作者: 花和郁
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  (第九章) 二  (終わり)

   二


「これからどうすればよいのだ」

 匡輔(きょうほ)将軍が嘆いた。

「敵は七万以上。我等は三万と少し。田美衆を入れても四万を超えるくらいだ。完全に包囲されて、もはや逃げ場もない」

 菊月十八日の昼前、穂雲城中郭御殿の評定の間で、将軍達は皆大机を囲んで眉を寄せていた。

「そうですね。このまま兵糧攻めにされたら、いずれ開城せざるを得なくなります」

 周謹(しゅうきん)将軍も言った。

「藍生原で合戦せずに撤退していれば兵糧や武器を持ち帰れたのですが、敗北の混乱の中では不可能でした。田美国へ向かう途中で食料が尽き、多くの兵士が飢えで倒れました。民から略奪しようとして殺された者、敵に投降した者も少なくありません」

「それに、この城を守り切れたとしても、その先が難しいですな」

 庸徳(ようとく)将軍が溜め息を吐くと、艦隊を統括する沈遠(ちんえん)将軍が沈鬱な表情で頷いた。

「港は外側から楠島家の水軍に封鎖されている。我が方の船は不意を突かれて完全に閉じ込められた。敵は軍船で多数の(かい)を備えている。一方、こちらは大型の帆走(はんそう)の輸送船だ。仮に港を奪回できても、出航して加速する前に追い付かれ、沈められる。恵国に逃げるのは難しいだろう」

 厳威(げんい)将軍も難しい顔だった。

「故国にたどり着けたとしても、俺達には死が待っている。兵士達もどうなるか分からない。殿下直属の南海州の兵は恐らく殺されるだろう」

 田美国の留守を任されていた登覧(とうらん)将軍が唸った。

「だが、統国府に降伏したとして、許されるのか。異国人を多数捕虜にしても扱いに困る。送り返すのは費用がかかるし、恵国で拒否される可能性があるとなれば、全員処刑されるかも知れぬ。命を取られなくても、どこかの鉱山で死ぬまで働かされるのではないか」

「正に八方塞がりか。本当にどうすればよいのだ」

 再び匡輔将軍が嘆いた時、華姫が言った。

「私達の負けはまだ決まっていないわ。包囲の長期化を光子達は嫌がるはずよ。鷲松家が息を吹き返す余裕を与えることになるもの。巍山は一万ほどを率いて撤退したのだから」

 将軍達が疲れた表情で椅子に沈み込んでいる中で、ただ一人華姫だけは戦意を失っていなかった。撤退中苦難続きで心身の休まる暇がなかったので少しやつれていたが、まなざしにはまだ力があった。

「それに、もうすぐ冬よ。敵は合戦後そのまま追撃してきて冬用の装備は持っていないから、こちらが守りを固めていれば、武者の士気は下がり、困るはずよ。そこで和平に持ち込むか、敵が一部の兵力を首の国方面に振り向けて手薄になったところで打って出て包囲を解くか、いずれにしても、方法はまだあるわ」

 華姫は合戦の敗北が決定的になると、政資率いる暴波路兵に街道の露払いを、田美衆に食料・宿営地の準備、怪我人の治療などの支援を命じて先行させた。そのおかげで恵国軍は散り散りにならず、何とか軍勢としてまとまって撤退できた。巍山へ雲居国の守備部隊が連絡するのを邪魔するため影岡軍の小荷駄隊が倒木で街道を塞いでいたが、それも暴波路兵と田美衆が片付けた。華姫は穂雲留守居の軍勢に迎えにこさせ、守られてようやく城に入ると、兵士達に温かい食事を配らせ、籠城の準備を指示して体勢を立て直そうとした。

「だが、吼狼国の征服は不可能になった。俺達はもう終わりなのだ」

 腹の傷の痛みに顔をしかめながら、禎傑が投げやりな口調で言った。撤退の途中、沿道の民は略奪を警戒する一方、森に隠れて石を投げたり矢を射かけたりしたが、それが偶然禎傑の横腹に突き刺さったのだ。命に関わるほどの傷ではないが、呼吸するたびに痛み、もう四日もよく眠れない夜が続いていた。

「ここまで逃げてこられたのは、事前に田美衆に食料などの荷造りをさせていた華子のおかげだ。お前には戦いの始めから随分助けてもらった。しかし、結局死なせることになりそうだ。妻になどしなければ助命される可能性もあったろうに。済まない……」

「やめて頂戴!」

 禎傑が謝ろうとすると、華姫はさえぎった。

「総大将のあなたが弱気になってどうするの。私は諦めないわ。絶対に生き延びて、あなたと幸せになってみせる。私は自分の意志であなたと結婚したのよ。後悔なんてしないわ」

 華姫は手拭き布で夫の額の汗をぬぐって髪を直してやった。

「しっかりして。あなたが諦めたら全て終わりなのよ。まだ、戦うことはできるわ」

「具体的にはどうするのだ」

 厳威将軍が尋ねた。

「兵力が圧倒的に足りない。手の国の諸国に置いた抑えの兵もどうなっているか分からん。もし無事でも、この城に入るのは難しかろう」

「そうね。まず、彼等が無事かどうか、どの程度の数が残っているかを確認しましょう。そして、彼等を集めて包囲軍の背後を襲わせるの。同時に中からも打って出るのよ。彼等を城内に収容できれば、この堅城を落とすのはほぼ不可能になる。兵糧は大分運び出したけれど、春に収穫した二期作の米がまだたくさんあるわ。調べたら、四万人でも一年以上持ちそうよ」

 なるほど、と登覧将軍が驚いている。手の国の守備を任されてずっと穂雲城にいたので、狐ヶ原以降の華姫の軍師ぶりを見ていないのだ。

「それに、鷲松家との同盟はまだ生きているわ」

 華姫は続けた。

文島(ふみじま)の二万五千も健在よ。つまり、統国府は三方面に敵を抱えていることになる。互いに負けない戦いを続けて支援し合えば、統国府は一ヵ所に大兵力を集めることができず、いくら織藤恒誠でも苦戦するでしょう。もしくは、文島からここへ呼び寄せることも可能よ。こちらから文島へ移動して合流することもできる。どちらも港の奪回が前提だけれど」

「確かにそれらの策は可能性があるな」

 厳威将軍は頷いた。

「だが、どうやって城外の部隊や鷲松家と連絡を取るのだ。我等は包囲されているのだぞ」

「抜け穴があるわ。本郭の大神様のお(やしろ)の裏から、お城の外に出られるのよ」

 そんなものが、と将軍達は驚いたが、表情が明るくなった。

「光子も知っているから、見張られている可能性もあるわね。でも、百人以上で一斉に逃げ出せば、全員捕まることはないと思うわ。もしくは門から打って出て、民に変装させた伝令を町に紛れ込ませてもいいわ」

「その場合、船を逃がす作戦がいるな」

 沈遠が顎を撫でると、華姫は少し考えた。

「例えば、火薬を満載した船を先頭に進み、敵を脅したり突っ込ませて混乱させたりするのはどうかしら。丸太などを船の上からばらまいて敵船の行動を妨害することもできる。陸から投石機で爆鉄弾を投げ付け、大砲でねらうとか、他にも方法はあると思うわ」

「なるほど。細部は俺の方で考えてみよう。損害が多数出そうだが、半分程度を脱出させることはできるかも知れん。文島の二万五千が到着すれば、状況は大分よくなるだろう」

 沈遠は乗り気になり、庸徳(ようとく)将軍も言った。

「都の攻略は無理でも、悪くない条件で和平を結べるかも知れませんな」

 匡輔(きょうほ)将軍がうれしげに叫んだ。 

「捕虜を返してもらえればまだ十万はいる。それを連れて南海州に戻ればやすやすとは殺されないだろうな!」

「よし、それで行こう」

 禎傑が言った。

「華子は本当に諦めず、生き抜こう戦い抜こうとする。その姿勢は俺達も見習わねばならん」

 禎傑は妻を誇らしげに愛しげに見つめた。

「では、すぐに今の華子の策を具体化せよ。使者を送り出すのは今夜とする。全員、遠慮なく意見を述べよ」

 ようやく将軍達が愁眉(しゅうび)を開いた時、城内で騒ぎが起こった。下郭の方から大勢の叫び声が聞こえてくる。本郭でも争いが起こっているようだった。

「何事だ」

 登覧が兵士に状況を見に行かせようとした時、突然評定の間に多数の武者が雪崩込んできた。

「降伏しなされ。さもなくば殺しますぞ!」

 弓を構えた百人以上の武者を従えて現れたのは次席家老の内厩(うちまや)謙古(のりもと)だった。法体(ほったい)の家老夜橋(よのはし)幽月(ゆうげつ)も刀を持った武者達に命じた。

「将軍達は殺しても構わん。禎傑と華姫様は捕縛せよ!」

「これはどういうことだ!」

 帆室(ほむろ)治業(はるなり)が叫び、景隣と政資が主君を背にかばうようにすると、内厩(うちまや)謙古(のりもと)が答えた。

「全ては梅枝家を存続させ、武者達を救うためでございます」

 謙古は華姫の方へ頭を下げた。

「恵国軍は負けました。このままでは当家はお取り潰しになります。殻相衆や天糸衆は許されても、田美衆は恐らく家老級は死罪、武者達は浪人することになりましょう。申し訳ございませんが、姫様を捕縛させて頂き、この城を差し出して、その功で光姫様に慈悲を請うつもりでおります」

 幽月は憎々しげに言い放った。

「我等は望んで武守家に逆らったわけではありませぬ。全て華姫様に脅され命じられたからです。時繁様を殺した悪の元凶に全ての罪を着せて恭順すれば、命くらいは保てましょう」

 謙古は同輩の物言いにさすがに眉をひそめたが、否定はしなかった。

「田美衆の半数は大手門に向かいました。もうすぐ門が開き、この城は落ちます。あなたはもはやどこへも逃げられませぬ」

「謙古殿、血迷われたか! 城内に敵を引き込むとは!」

 政資が以前は仲が良かった同輩を非難した。治業も怒っていた。

「わしに黙ってこんなたくらみをいつの間に。華姫様は梅枝家のご当主様だ。主君を売るとは見損なったぞ!」

「残念だが、お主達も敵なのだ。政資殿が恵国へ売られていったことには同情するが、もはやお主達の存在は梅枝家にとって害にしかならん。華姫様もそうだ」

 裏切った二人の家老は全くためらう様子がなかった。

「これは撤退する道中から相談していたことだ。数人の家臣をわざと残して光姫様にこの計画をお伝えし、昨夜の内に手筈は整えてある。成功すれば寛大な処置をするとお約束頂いたのだ」

「なんということ……」

 華姫が歯噛みしていると、景隣が叫んで前に飛び出した。

「華姫様、危ない!」

 武者の一人が苛立って華姫を射たのだ。矢は景隣の右の肩に突き刺さった。

「景隣様!」

 ラハナが悲鳴を上げて駆け寄った。

「ラハナ、危ないわ。下がりなさい!」

「でも、景隣様が!」

 侍女は半分泣き声だったが、若者にしがみ付いて離れなかった。

「ラハナ殿……」

 景隣は必死で自分を守ろうとする少女を見つめて絶句していた。

「もはやこれまでね」

 窓から外を見下ろすと、大手門が開いて吼狼国軍が突入してくるのが見える。恐らく、本郭の騒ぎは抜け穴から武者が入り込んだからに違いなかった。

 華姫は拳をぎゅっと握ったがすぐに力を抜き、顔を上げて大きな声で言った。

「分かったわ。降伏します。もう抵抗はしないわ」

 将軍達はぎょっとして動きを止めた。

「華子!」

 部屋の奥で兵士達に守られていた禎傑が思わず名を呼ぶと、華姫は振り返って寂しそうに笑った。

「これ以上の抵抗は無意味よ。死傷者を増やすだけだわ。あなたからも抵抗をやめるように命じて」

 華姫の目から涙はこぼれていなかったが、それ以上の悲しみを禎傑は見て取った。

「……分かった。降伏しよう」

 華姫が諦めたことで、禎傑はもはや勝ち目はないと悟った。

「皆、剣を捨てよ!」

 将軍達は司令官殿下を見つめ、禎傑が頷くと剣を放り出してうなだれた。華姫は二人の家老に言った。

「将軍を数人連れて行って、抵抗をやめるように言わせて頂戴」

「分かりました。さすが、お早いご判断ですな。その(いさぎよ)さ、敬服致します」

 謙古は深々と頭を下げると、登覧と厳威、それに船団を降伏させるために沈遠を連れて行った。

 すぐに城内の戦いの声は波が引くように小さくなり、やがて消えた。評定の間には、ぐったりした景隣にすがって泣くラハナの声だけが響いていた。

「さあ、光子のところに連れて行きなさい。怪我人はすぐに手当てをして頂戴。夫には私が付き添っていくわ。政資、景隣さんをお願い」

「はっ!」

 家老が命令を受けると、華姫は禎傑に手を伸ばした。恵国軍の総大将は自力で立ち上がった。

「では、勇敢な俺の義妹に会いに行こう」

 禎傑は華姫の手を握り、前に進み出た。武者達が取り囲み、二人を城の外へ連れて行った。


「お姉様……」

 大手門の前で華姫と禎傑を迎えた光姫は、それ以上言葉が出なかった。

「同情はいらないわ。負傷者と降伏した者達に寛大な処置をお願いするわね。田美衆は私の命令に従っただけなのだから」

 光姫は黙って頷いた。華姫は禎傑と手をつないだまま言った。

「この人と一緒の部屋にしてくれないかしら。私が看病したいの。恵国の皇子にふさわしい待遇を要求するわ。必要な薬や道具は後で伝えるから届けて頂戴。もちろん、自殺なんてしないから安心していいわ」

「……分かりました」

 光姫はもう目から涙があふれていて、そう答えるのが精一杯だった。

「あなたはやはり泣き虫ね」

 華姫はそんな妹を姉らしい顔つきで眺めると、その隣に視線を移した。

「あなたが織藤恒誠ね。光子と結婚するそうね」

「ああ。そう約束した」

 恒誠に何も感慨がなかったはずはないが、表情には出さなかった。

「ということは、私は義理の姉になるわけね。敵としては恐ろしかったけれど、私個人としては、あなたのような人が妹と結婚してくれてうれしいわ」

 華姫は丁寧に頭を下げた。

「妹をよろしくお願いします。こんな姉を持ったせいで、この子は苦労することになるかも知れない。あなたには世話をかけるわね」

「分かっている。それも込みで光姫殿に求婚したのだ。それに、俺の方がもらっているものはずっと多い」

 恒誠が答えると、華姫は初めて表情をゆるめた。

「光子。いい人を見付けたみたいね。あなたは幸せになりなさい。以前も言ったけれど、あなたには笑顔の方が似合うわ」

「お姉様……!」

 光姫はこらえ切れなくなって叫んだ。

「それは華姉様だって同じです! 出港の時はあんなに……!」

 光姫は両手で顔を覆って下を向いた。恒誠が命じた。

「連行しろ。鄭重にな」

「はっ!」

 従寿が進み出て、二人は武者に囲まれて去っていった。

 それを見送った恒誠は、光姫に言った。

「では、俺は北へ向かう。後のことは頼む」

 これから、恒誠は軍勢の半数を率いて手輪峠を越え、首の国へ遠征する。事前に謙古達から内応の打診があったので、穂雲城はすぐに落ちるだろうと、出発の準備は既にしてあった。途中の封主家に使者を送って兵糧の提供を呼び掛け、後で統国府が代金を支払うと伝えてあるので、武者達は自分の武具と数日分の食料しか持たない。

「生きて帰ってきて下さい」

 光姫が目をぬぐって言うと、恒誠は笑った。

「もちろんだ」

「絶対に、約束よ」

 光姫は恋人に歩み寄ると、ぎゅっと抱き付いた。

「遠い異国の流儀よ。華姉様に教わったの。別れる時にこうするらしいわ」

「そうか」

 恒誠も光姫の背中へ手を回して抱き締めた。

 二人はしばらくそうしていたが、やがて光姫は体を離した。やっと深い呼吸ができて小さく咳をすると、恒誠が済まなそうに言った。

「臭いか」

「えっ?」

 光姫が顔を上げると、恒誠は鼻の横を掻いた。

「いや、匂ったのではないかと思ってな。ここ数日風呂に入っていないからな」

「ええっ!」

 光姫は驚いたが、急におかしくなった。

「ぷっ、ふふふふ……」

「なぜ笑う」

「お洒落(しゃれ)には全然興味がなさそうなのに、そんなことを気にするなんて」

「確かに着飾るのは嫌いだが、身なりに構わないわけではないぞ。無駄なことに熱心でないだけだ。人の価値は見かけではないからな。とにかく、臭くなかったのなら、それでいい」

「ふふふふふ」

 光姫が笑いながらまた涙をこぼした。恒誠は呆れていたが、少し安心したらしかった。

「大丈夫そうだな」

 光姫は頷いた。

「うん。大丈夫。お姉様は生きていたのだもの」

「そうか」

 華姫の処分がどうなるかはまだ分からないが、とにかく光姫が落ち込んでいないことは伝わったらしい。

「それに、匂いはしたけれど、嫌な匂いではなかったわ」

 光姫は心配は無用というつもりで言ったが、恒誠は意外だったらしい。

「ほう。どんな匂いだった」

「大人の男の人の匂いね。お父様を思い出したわ」

「俺はまだ二十四だぞ」

 恒誠が嫌な顔をすると、光姫はまた笑いが止まらなくなった。恒誠は苦笑を浮かべていたが、視線はやさしかった。

 光姫は笑いを収めると、恒誠を見上げて言った。

「勝って、この乱を全て終わらせてきて。あなたにしかできないことだわ」

「必ずやり遂げよう。無事にあなたの元へ戻ってこよう」

 恒誠は誓って光姫の頬を片手で(いと)おしげに撫でると、安漣から手綱を受け取り、全軍の先頭に立って去っていった。

「さあ、私達はお城に入って、中の状況を整理しなくてはね」

「はい」

 お牧と輝隆が答えた。師隆や具総は先に行って内部の点検を始めている。城内からは、一角に閉じ込められていた田美衆や手の国の諸国の人質達がぞろぞろと外に出てきていた。城内の労働力という名目で門を出ることを認められていなかったが、ようやく解放されたのだ。

「やっとこのお城を取り戻したわね。行きましょう、銀炎丸!」

 光姫は白い狼と仲間達を連れて、半年ぶりに自分の城に入っていった。


 菊月二十七日、光姫は玉都に向かって出発した。華姫と禎傑、政資達八人、主だった将軍達、それに田美衆の三家老を連れている。

 穂雲城には餅切具総を残し、残務の処理と武器を取り上げて本郭と上郭に閉じ込めた恵国兵の監視を任せた。恵国軍の輸送船の船員も船から降ろして城内に閉じ込め、船は港の外れに係留させた。田美衆の処置は、家老級は謹慎を命じて見張りを付けたが、それ以外は自宅へ帰し、穂雲での通常の仕事に復帰させた。

 光姫達が三万余を率いて西国街道を東へ向かっていると、都から早馬が到着した。文島の恵国軍二万五千を降伏させたという。

 墨浦では五万の軍勢が対岸の敵とにらみ合いを続けていた。諸将は巍山と禎傑の同盟を知り、総大将の桜舘直房と対応を連日協議していた。

 そこへ、楠島運昌が派遣した高速船が藍生原の勝利の知らせをもたらした。直房は天下(てんか)六翼(りくよく)の両親と相談し、行動を開始した。

 まず、慈翊院(じよくいん)が隠密を密かに文島へ送りこみ、恵国軍の兵糧を焼き、藍生原での大敗を知らせる恵国語の矢文を多数い込ませた。そして、墨浦の前に軍船を浮かべ、恵国軍の目を島の北側に向けさせておいて、密かに御使島方面に移動させた船団を南岸に付け、三万を上陸させた。その部隊が敵を奇襲するのに合わせて、墨浦の船団も北の海岸に殺到、二万を下ろし、挟み撃ちにした。

 島の外れの森に恵国軍を追い込んで完全に包囲すると、毅勇公(きゆうこう)は使者を送り、楠島家に鳩で頼んで届けてもらった恵国兵を連れて行かせて、藍生原までの戦いの様子を語らせた。敗北が事実と知った将軍は抵抗を諦め、降伏した。

 光姫は勝報を直ちに全員に伝え、武者達は喜びに沸いた。そうして、再び藍生原に戻ってきたのは、あの合戦から丁度一ヶ月後の紅葉月(もみじづき)の七日だった。

 光姫達の帰還はとうに都に伝わっていて、丹浪川から都にかけての道の両脇に多くの民が集まって、歓呼の声を上げて迎えた。武者達も手を振って応え、橋を渡って進んでいくと、激戦の跡が残る都の門の前で、直孝と芳姫が待っていた。

「ただ今帰りました」

 光姫達が馬から下りて近付くと、直孝は笑顔で「お帰りなさい」と声をかけ、尋ねた。

「直利殿はどこですか」

 すぐに十三歳の叔父が連れてこられた。両手を縛られ、屈強な武者に挟まれて歩いてきた直利は、手作りの弩を持っている直孝を見て驚いたが、虜囚(りょしゅう)という立場をわきまえて、地面に膝を突いた。

 すると、直孝が近付いて、言った。

「縄を解いて下さい」

 すぐに指示は実行された。手首をさすっている叔父に、直孝は問いかけた。

「まだ僕を(あなど)っていますか」

 直利は驚いたが、大きく首を振った。藍生原の戦いで、直利は田美衆に守られていたが、激しい銃撃の音、飛んでくる流れ矢、次々に傷付いて倒れていく兵士達を見て恐怖し、震えていた。敗北が決まると必死で逃げたが、食べ物も満足にない厳しい逃避行に死ぬ思いをし、田美衆の反乱の時も、華姫の近くにいたのに何もできなかった。

 だが、捕まった後で光姫軍の武者達に聞いた話では、都が攻められている時、直孝は自ら望んで毎日物見櫓に上がり、戦いを見守っていたという。武者達はそのことに随分励まされたそうだ。

 もちろん安全なところにいたのだろうが、それでも、その勇気と胆力はすごいと直利は思った。四つも年下でまだ九歳の直孝に、自分は到底及ばない。また、影岡軍の実鏡は一つ年上なだけだが、戦場で指揮をとり、何度も突撃する軍勢の先頭に立ったらしい。差は大きかった。

 それを素直に告白すると、直孝は頭を振った。

「いいえ、僕もとても怖かったです。でも、母上や、光姫様や、織藤公や、みんながいてくれました。僕は役に立っていないのです」

「それは違います」

 思わず光姫が口を挟もうとしたが、実鏡に止められ、幼い元狼公の真剣な面持ちに気が付いた。

 直孝は言った。

「僕は一人では何もできません。だから、助けが必要です。でも、みんな大人です。近習はいますが、僕と対等に話ができる年の近い友達は直利殿しかいません。またお城に戻ってきて、僕を助けてくれませんか」

 そう言って、手作りの弩を差し出した。

「これを直利殿にあげます。これでは足りないかも知れませんが、僕はこういうことしかできないので」

 直利は驚いて甥を見つめ、急にうなだれた。

「俺にはそんな資格はありません……」

 初恋だった華姫の軍師としての活躍と、戦場でのおのれの不甲斐なさを比べて、自分がいかに子供で愚かなのかを思い知らされたのだ。

「俺は思い上がって不貞腐(ふてくさ)れ、侍女に(おぼ)れていました。何もできない下らない人間なんです。それに、俺は母上や巍山殿と一緒に直孝様から元狼公の座を奪おうとしました。罰せられて当然です」

 どんな厳しい罰が与えられるかを想像すると恐ろしいが、直孝は本心からそう思っていた。

「そんなことはありません」

 だが、直孝は言った。

「直利殿がいなくて、僕はずっと寂しかったです。お城に戻ってきて下さい。一緒にまた剣術の試合をしましょう。道久殿が近習を付けてくれて仲間が増えました。直利殿も入れてみんなで稽古や学問をしたいんです。それが僕の今の一番の望みです」

「直孝様……」

 直利の目に涙が盛り上がった。華姫に侍女を要求して断られた時に言われたことを思い出した。

「あなたには他の誰にもできないことができる可能性があるわ。その立場を理解して生かすことができるか、それともただ好色でわがままなだけの役立たずの御曹司(おんぞうし)で終わるかは、あなた次第よ」

 あの時は頷けなかったが、もしかしたらこういうことを華姫殿は言ったのかも知れない。こんな自分でも、何かの役に立つのなら。

 直利は直孝に平伏した。

「ありがとうございます」

 直利は生まれて初めて本心から他人に頭を下げた。

「そこまで俺を望んで下さるのでしたら、精一杯あなたにお仕えします」

 直利はすすり泣いた。

「顔を上げて下さい」

 直孝は直利の手を引いて立たせると、弩を渡した。

「これは家宝にします!」

 直利は弩を胸に抱きしめて言った。

「さあ、直孝様、参りましょう」

 涙を浮かべて眺めていた光姫が声をかけた。すると、銀炎丸が直孝に近付き、足元にかしこまった。直孝が頭を撫でると、狼は大きく遠吠えした。実鏡達諸将は神狼が直孝の威に(こうべ)を垂れたと感激し、一斉に平伏した。

 やがて、実鏡は立ち上がり、同じく涙ぐんでいた芳姫もそばに来て、光姫達は一緒に門をくぐった。望天城に向かう英雄達を、都の人々は大きな歓声を上げて迎えた。


 紅葉月(もみじづき)が終わり、寒さが本格化する水仙月(すいせんづき)の四日、鷲松家の降伏が都に伝わった。巍山は帰途で兵力を失ったため、家老達は抵抗を諦め、城門を開いて恒誠達を迎えたという。

 蓮山英綱や蕨里(わらびさと)恒寛(つねひろ)達四家八千は、田美国へ向かう途中、後明国で光姫達と別れて手輪(たわ)峠を越え、蓮山家の領国の虎落国(もがりのくに)へ向かっていた。先に鳩で知らせてあったので、英綱の兄の致綱(むねつな)は早くに藍生原の結果を知り、やがて領内を通過する巍山軍にどう対処するかを思案していた。

 致綱(むねつな)は義父に抵抗することにためらいがあったが、巍山の娘である妻は蓮山家のために良いことなさいませと言った。それで致綱(むねつな)と家老達は鷲松家と戦う決意を固め、北隣の千里国(ちさとのくに)二十三万貫の柳上(やながみ)家に共に戦おうと持ちかけて、名将巍山を打ち破る方法を相談した。

 柳上(やながみ)家の先代当主は天下(てんか)六翼(りくよく)の一人で、慧明公(けいめいこう)と呼ばれ、武公を助けた軍師だ。もう八十だが智謀は衰えておらず、四十七歳の息子で当主の定以(さだもち)に策を授け、四千三百の武者を虎落国(もがりのくに)へ送ってきた。柳上家は譜代の名門なので、首の国で唯一巍山に出兵を命じられなかったのだ。

 致綱は既に近くまで来ていた英綱達に作戦を伝え、蕨里(わらびさと)恒寛(つねひろ)鷹名(たかな)敏方(としかた)新芹(にいぜり)康竹(やすたけ)はそれぞれの領国から留守の武者を呼び寄せた。蕨里(わらびさと)家と鷹名(たかな)家は背の国の鳴上国(なりかみのくに)新芹(にいぜり)家は(なか)(くに)綾山国(あやまのくに)と、虎落国(もがりのくに)のすぐ東と南なのだ。柳上家も合わせて総勢一万三千三百の軍勢は、存在を知られぬように森の中に隠れた。致綱は自家の留守の武者一千だけを率いて北国(ほっこく)街道に布陣し、城下町を守る構えを見せた。

 巍山軍は、栄木国で御廻組と泉代勢合計四千五百に出会ったが、ほとんど損害を受けていなかった。街道上の部隊はまさかこんなに早く藍生原の戦いの決着が付くとは思っていなかったので、油断があったのだ。

 巍山は物見の報告で四方辻(しほうつじ)に布陣している部隊がいることを知ると、急速に前進して峠の坂を全軍で一気に駆け下った。御廻組と泉代勢は西の非木家領の方を主に警戒していたので慌てて南へ隊列を向けようとしたが、象の扱いに手間取り、陣形が整わぬ内に巍山軍に接近された。しかも、そこへ雉田勢が戻ってきたので、これはかなわないと判断し、抵抗を諦めて素通りさせた。巍山軍は雉田勢二千を加え、首の国へ向かった。

 そうして、一月(ひとつき)近い行軍の末、紅葉月(もみじづき)三日に虎落国の城下町までやってきた。すると、蓮山致綱が一千で町の前に布陣している。蹴散らすのは簡単だったが、武者達は疲れているし、兵を損じたくなかったので、巍山は使者を送って戦う意志はないことを伝え、町を北へ迂回する道を通った。南は中国(ちゅうごく)街道が中つ国へ続いているため、そちらから光姫達に味方する軍勢が来ると側面を攻撃される恐れがあったのだ。

 巍山軍は一応は致綱隊を警戒しながら海の方へ向かった。そして、町の横を通過すると、大きな川に沿って南下し、城下町から北へ伸びる遠国(おんごく)街道へ出ようとした。ところが、川を越える橋のそばまで来た時、突然橋の前に四千三百の柳上勢が現れて立ち塞がった。同時に、近くの森から英綱や恒寛など四人の若様の兵力九千が飛び出して、背後を攻撃した。巍山軍をひたひたと付けてきた致綱の一千も側面から迫った。

 川を前に逃げ場を失った鷲松雉田連合軍一万二千に、一万四千三百が三方から一斉に襲いかかった。激戦になったが、包囲された巍山軍はやがて押され始めた。巍山は武者達を叱咤して励ましつつ、敵の弱いところを探り、一番数の少ない致綱隊を突破しようと決めた。その後で、次に少ない橋の前の柳上勢の側面を攻め、包囲を解くのだ。

 巍山は家老達に橋側と背後の二方面の防戦を任せて、自ら馬廻りなど四千を率いて致綱隊に猛攻をかけた。押しに押していくと、数に劣る致綱隊はどんどん下がり、後退は潰走になっていった。巍山隊は一気に突撃し、蹴散らして包囲を完全に抜け出した。

 だが、それこそが慧明公(けいめいこう)のねらいだったのだ。四千を呼び集めて隊列を組み直そうとしたところで、 巍山は失敗に気が付いた。本隊との間に蕨里勢と新芹勢が入り込んできて分断されてしまったのだ。雉田勢と主力は柳上勢と英綱隊に包囲されて動きを封じられており、巍山は四千ほどを連れただけで孤立してしまった。

 そこへ、蕨里・新芹・鷹名の三家の軍勢が襲いかかった。致綱隊も反転してこれに加わった。巍山は急いで迎撃態勢を整えようとしたが、既に先手を取られていて、しかも相手は合計六千と数で上回っていた。

 四家の武者は手柄を競うように激しく攻撃し、巍山を防戦一方にさせた。特に鷹名勢二千の攻撃はすさまじかった。敏方は影岡城を救いに行く時に同行できなかった自分が働くのはここだと、自ら先頭に立って鷲松勢に突っ込み、槍を振るった。蕨里勢と新芹勢も負けじと奮戦し、四方から攻撃された巍山の馬廻りは崩壊して逃走を始めた。

 巍山は舌打ちしたが敗北を悟り、脱走を図った。だが、橋は敵勢の向こうなので、巍山は北の海岸へ走り、小さな釣り船に乗って海へ漕ぎ出した。敏方達は追いかけようとしたが船がなく、巍山は帆を張って背の海を北へ向かって逃げていった。

 総大将の逃走をもって、合戦は終わった。雉田元潔は捕らえられ、鷲松家筆頭家老の千坂(ちさか)規嘉(のりよし)は武者達をまとめて降伏した。鷲松家と雉田家はこの合戦で都へ出陣させた全兵力を失ったのだ。

 五日後に虎落国に到着した恒誠は合戦の勝利を知ると、蓮山家に捕虜の監視を任せて、すぐさま遠国(おんごく)街道を進んだ。雉田家の片籠国(かたかごのくに)へ一隊を送って開城させ、広芽国の国境にあと一日というところで、鷲松家から降伏の使者が来た。

 巍山は()()うの(てい)で本拠地の鹿戸(かど)城へ逃げ込んだが、連れ帰ったのはたった八人で、城には六百人しかいなかった。家老達はもはや抵抗は無益と判断し、巍山に自裁(じさい)を進めた。

「織藤公に御屋形様の死を伝えて恭順(きょうじゅん)し、家名の存続を嘆願(たんがん)します。どうかご決断を」

 巍山は拒否したが、家老達は押さえ付けて無理矢理毒を飲ませ、恒誠に使者を送ったのだ。

 恒誠は降伏を受け入れ、十六日に無血で入城した。十日とどまって鷲松家の六国全ての開城を確認して戦後の処置を終えると、恒誠は近隣国の軍勢を解散し、都への帰途に就いた。


 翌々月の椿月(つばきづき)七日、織藤恒誠率いる首の国平定軍が帰還した。都の人々は沿道に繰り出して喜びの声を上げ、光姫も芳姫や直孝、そのほかの仲間達と共に都の門まで迎えに出た。

 その三日後、恒誠の要請で、直孝と芳姫の臨席の(もと)、華姫と禎傑の処分を決める御前評定が行われた。

 この日、光姫は朝から緊張していた。姉の生死が今日決まるのだ。穂雲城を落とした日から、絶対に助けてみせると覚悟を決めていたが、姉のしたことを思うと難しいのではないかと不安になる。

 穂雲城が落ちた時、帆室治業は、自分はどうなってもよいから華姫様と人質を取られて従わされていた家臣達には寛大な処置をと嘆願した。

「華姫様が恵国兵の横暴を抑えて下さらなければ、恵国軍の占領地ではより多くの民が殺され、略奪が起こっていたでしょう。華姫様のおかげで民の意見が異国の占領軍に伝わって、無用な軋轢(あつれき)や対立を避けられました。華姫様は民を守って下さったのです」

 光姫は「月下や穂雲の民からその話は聞いています」と頷いたが、都へ帰ってきてから周囲の人々の意見を聞いて、助命はかなり難しそうだと感じていた。

 昨夜、光姫は芳姫と城内の牢を訪ねた。華姫はここでも夫と同じ牢に入りたいと言って、まだ傷が癒えぬ禎傑をまめまめしく看病し、皇子という身分に相応しい処遇を要求した。光姫はそれを聞き入れ、不自由のないようにしてやっていた。

 光姫は華姫に出家を勧めた。尼寺に入れば死一等を減じることも可能になると説得したのだが、華姫は断った。

「この人と別れるつもりはないわ。尼になって生き延びるくらいなら、この人の妻として一緒に斬首されることを選ぶわ」

 きっぱりと言い切ったその様子には本気の覚悟が見え、芳姫も残念そうに首を振ったので、光姫はいよいよ姉の処刑は避けられなくなってきたと暗い気持ちになったが、自分を鼓舞した。

「お姉様は影岡城で私達に逃げる機会をくれたわ。だから、私もお姉様を助けなくては!」

 お姉様を救うために戦いを始めたのだからと、光姫は気合を入れて、翌日は決戦に臨むつもりで評定の間に向かった。

「これより、御前評定を始める」

 九国総探題の萩矢頼統の開始宣言で話し合いが始まった。議題が告げられると、光姫は真っ先に手を挙げた。

「皆様、姉の華子は統国府にも吼狼国の民にも大きな迷惑をかけました。ですが、ご存知の通り、その原因は菅塚興種と滝堂永兼と大灘屋の陰謀です。お姉様は被害者なのです。ですから、寛大な処置をお願いします。せめて、命だけは助けて下さい。どうかお願いします!」

 光姫が手を付いて頭を下げると広間は静まり返った。光姫が姉を救うために戦いを始めたことは皆知っていたので、そう願い出ることは分かっていたのだが、国を滅ぼしかかった大罪人を許すことはできないだろうと多くの者は考えていたのだ。ただ、光姫の働きの大きさを思えば正面切ってそれは言いにくいし、いくら戦場で強くてもまだ十八の真っ直ぐな少女に姉の処刑を宣告するのは気が重かった。

「私の武功を全て引き換えにしてもかまいません。どうか、お願いします!」

 反対意見が出ないことに勢い付いた光姫は更に言った。論功行賞はこれからだが、功績最大の豊梨家と織藤家と光姫軍には三十万貫の加増という案が統国府の中で出ていた。雲居国の倍以上の収入がある大きな国を丸々一つ与えて国主にしようというのだから破格の報酬だが、それくらいの働きはしていると御前衆の意見は一致していた。光姫はそれを辞退することで、姉の命を(あがな)おうとしたのだ。

 評定の間にはどよめきが広がった。光姫がこう言い出す可能性を予想していた者もいたようだが、それでも驚きは大きかったようだ。この場にいる人々の中で三十万貫以上の者は萩矢頼統と槻岡良門だけだ。楠島家でさえ二十七万貫、泉代家が二十三万貫、他は十五万貫以下だ。三十万貫を得れば大封主家の仲間入りができる。恒誠との結婚の持参金としてもこれ以上のものはないというのに、それを断ると言うのだ。

 人々の反応を見て、光姫はこれならなんとかなるかも知れないと思った。お牧や従寿は家臣達への報酬を考えると考え直した方がいいと言ったし、追堀親子や餅切具総は今光姫の後ろで渋い顔をしているだろうが、それを説き伏せて認めさせたことなのだ。これで駄目なら、もう手がない。

 お願い、助命に反対しないで。他には何も望まないから。

 そう思いながら、光姫は座を見渡し、向かいに座る恒誠の表情をうかがった。婚約者には彼が帰ってきた日の夜に訪ねていって覚悟を伝え、協力を頼んである。あの時恒誠は明確な返事をしなかったが、反対もしなかったので、光姫は期待していた。発言力は間違いなくこの場で一番なのだ。広間の人々も恒誠の考えが気になるらしく、口を開くのを待つ様子だった。

 だが、恒誠は黙っている。と、末座での一人の男が手を挙げた。

「私は梅枝華子を処刑すべきだと思います」

「なっ!」

 光姫は思わず叫びそうになって何とかこらえた。発言したのは孫手(まごて)秀起(ひでおき)というまだ三十前の若い執印官だった。道久と貿易改革を話し合っていた奉行達は辞任したので、新任者が決まるまで主計(しゅけい)奉行の代理を務めている。

「華姫は敵国に味方するという大罪を犯しました。これは斬首に値します。光姫様には申し訳ありませんが、都の人々は攻めてきた華姫を憎み、売国奴と呼んでいます。統国府から見ても、同じ吼狼国人としても、あの女は裏切り者です。これを許しては筋が通りません。公開処刑にすべきです」

 秀起は一応は光姫に済まなそうな口ぶりだったが、上気した顔を見ればそれが全く本心でないことは明らかだった。英雄光姫の誤りを正して正義を主張した自分に高揚しているのだ。口に出しては言わないが、国賊の助命を嘆願する光姫をけしからんと思っている様子だった。

 光姫は言い返したかったが、自分が騒ぐとかえってまずいと思い、ためらった。すると、それを横目に見て、恒誠が秀起に尋ねた。

「貴殿は華姫殿を処刑することが国のためになると思うのだな」

 秀起は自信満々に答えた。

「もちろんです。信賞必罰(しんしょうひつばつ)は武門のよって立つところ。統国府がそれを乱しては民や諸侯の信用を失い、(あなど)られます。国に害をなしたものをきちんと処罰することで、守るべき規範を示し、民の心を引き締めることができます」

検断(けんだん)奉行と公事(くじ)奉行も同じ意見か」

 裁きを(つかさど)る両奉行は頷いた。

「なるほど」

 恒誠は納得した様子だったので、光姫は不安になった。

 まさか、承認するつもりかしら。

 ここ三日の態度からそれはなさそうだと思っていた光姫は、裏切られた思いで悔しく、悲しかった。

 恒誠さんは華姉様を高く評価していたし、私の思いを一番分かってくれていると思っていたのに。もし後で「あれは仕方がなかったのだ。諦めろ」なんて言ったら引っぱたいてやるわ。

 光姫は拳をにぎった。自制していたがこの流れはまずい。発言しようとすると、恒誠が目で押しとどめて、再び口を開いた。

「実は、俺は処刑には反対だ」

「えっ!」

 光姫と同じ驚きの叫びが広間の方々から聞こえた。秀起が口を(ひら)こうとすると、恒誠は「まあ、待て」と言って、墨浦奉行を見た。

「説明してくれ」

 はい、と言って一礼し、外交担当の奉行が手元の紙を見ながら報告した。

「実は、一月(ひとつき)ほど前、墨浦に恵国から使者が参りました。彼等は統国府に対して停戦を提案し、禎傑氏と遠征軍の恵国への帰還を打診してきました」

「何を今更!」

 黙っていられなくなって秀起が叫んだが、墨浦奉行はそちらに一瞬目を向けただけで言葉を続けた。

「現在、恵国は内乱状態にあるそうです。新しい皇帝が帝位を争った兄弟を殺し始めたため、国内各地に領地を与えられていた皇子達が蜂起したのです。恵国は七つの勢力に分割され、皇帝の支配が及ぶのは永京周辺のみです。各勢力は恵国を統一して次の皇帝になろうと互いに争っています」

 恒誠は語った。

「恵国からの使者はこう言った。我々は皇帝に殺された第二皇子と第四皇子の旧臣だ。現在領地は他の皇子に無理矢理併合されてしまい、行き場がないので誰かにすがるしかない。だが、皇帝は論外で、他の皇子も自分のことしか考えておらず、民を救い(まつりごと)刷新(さっしん)する意思はないようだ。その上、混乱に乗じて隆国が侵攻し、第九皇子は捕虜になって北部が敵の手に落ちてしまった。この国難の中、第七皇子の帰還を望む声が高まっている。戦上手と善政で知られた禎傑皇子が吼狼国から戻ってくれば、我々は味方して一緒に戦うつもりだ、と」

 数人が驚きの声を漏らした。

「俺は墨浦奉行にこの話を聞き、百家商連に問い合わせて恵国の政情を確認した。使者にも会い、彼等は本気で禎傑氏を奉じて戦うつもりだと感じた。そこで、これを統国府として認め、禎傑氏と和平を結んで、恵国統一を支援することを提案する」

「て、敵を許し、皇帝になるのを助けるとおっしゃるのですか!」

 秀起は目をむいて叫んだ。

「敵に武器を与えるなどあり得ませぬ。もし恵国で力を付けてまた攻め込んできたらどうするのですか!」

「そのために華姫殿がいる」

 恒誠は答えた。

「禎傑氏は華姫殿に惚れ込んでいると聞く。彼女を助命し、二人の帰国を認め支援することで恩を売り、我々の忠実な同盟者にするのだ」

「ですが、禎傑氏を帰国させて我が国にどんな得があるのですか」

「我々には大きな利益がある。恵国貿易の発展だ」

 恒誠の視線を受けて、商工奉行が口を開いた。

「桑宮道久は貿易改革を行い、大陸との交易を盛んにすることで我が国の経済を立て直そうとしていました。あの案は桑宮氏にばかり有利なものでしたが、貿易の振興という考えは間違っていないと思います。ですが、恵国の現状を見ると、それは不可能と言わざるを得ません。恵国には貿易交渉をすべき統一政府がないからです」

 御前衆は皆に真剣に聞き入っている。

「貿易の振興と改革は我々の力だけではできません。恵国側に協力者が必要です。それを禎傑氏を帰国させる条件にすればよいのではないでしょうか」

 恒誠が説明した。

「華姫殿は泰太郎殿を助けて一緒に働こうと恵国貿易を学んでいたので、かなり詳しいそうだ。そういう人物が恵国の中枢にいて皇帝に助言すれば、我々に大いに利があるだろう。こちらには光姫殿がいて信頼関係があるから、何かとやりやすいはずだ。華姫殿に罪の償いとして、吼狼国の商工業の発展のために尽力してもらうのだ」

 萩矢頼統が腕組みをして唸った。

「考えは分かった。確かに筋は通っておる。だが、彼等が承知するだろうか」

「そうですね。こんな条件を呑むでしょうか。こちらの都合で動かせる相手とも思われませんが」

 運昌もそんなに上手く行くものだろうかと首を傾げている。

「それは本人達に聞いてみればよい」

 恒誠が用人に頷くと、評定の間の左側の襖が開いた。禎傑と華姫が武者四人に囲まれて座っていた。

「お姉様!」

 光姫は思わず叫んだ。恒誠は光姫にちらりと目を向けて言った。

「華姫殿、禎傑殿。話は聞いていたと思う。答えを聞きたい」

 華姫は禎傑と顔を見合わせた。

「答える前に、いくつか尋ねたいわ」

「よかろう」

 華姫は少し考えた。

「まず、兵士は返してもらえるのかしら」

「もちろんだ」

 恒誠は頷いた。

「現在十万人が捕虜になっている。これを養うだけでも大量の米が消えていく。かといって、それだけの人間を殺すのはさすがに気が重い。戦いでならともかく、既に武器を置いているからな。送り返すのも手間だから、乗ってきた船で帰ってくれるとありがたい」

「兵糧や武器はもらえるの?」

「ああ。吼狼国はここ数年豊作続きだったから古い米が大量にある。そこへ、兵糧用に統国府は更に買い集めた。大戦で上がった米価は今年も豊作だったので既に下がっていて、米の処分に困っていたのだ。だから、それを安く提供しよう。代金は恵国統一後で構わない。武器や鎧は兵士達から没収したものがそのままになっている。手入れをすれば使えるだろう。鉄砲や弾丸は田美国でお前達が作らせていたものがある」

「帰国後も支援してもらえるのかしら」

「武者を送って共に戦うことはしないが、兵糧等は安価で譲ってやろう。恵国は今年不作で飢饉(ききん)らしい。現地での調達は難しいだろうからな。また、吼狼国との貿易が活発になれば双方に利があるはずだ。それが間接的な支援になるだろう」

 華姫は少し考えた。

「そちらがかわりに要求するものは何? ただではないのでしょう」

 恒誠は真顔で頷いた。

「もちろんだ。これは慈善事業ではないからな」

 恒誠は手元にある紙を後ろに控える用人に渡した。

「それを見てもらえば分かるが、こちらの要求は三つだ。吼狼国と恵国は対等の同盟を結び、友好を深めること。以後決して吼狼国を侵略しないと皇帝の名で誓うこと。貿易を盛んにし、吼狼国商人の活動に便宜(べんぎ)を図ることだ。それを文章にして署名してもらう。そうすれば、統国府は禎傑氏を恵国の正当な皇帝と認め、恵国統一、ひいては隆国を滅ぼすところまで支援する」

「なるほど……」

 華姫は禎傑と小声で相談していたが、やがて頷いた。

「分かったわ。私達に異存はないわ。両国の貿易の発展は泰太郎さんと私の夢だったもの。でも、これは統国府にとって大きな賭けよ。もし私達が勝てなければ、吼狼国は恵国の新たな皇帝を敵に回すことになる」

「その可能性はもちろん考えた。だが、それはないだろうと思う。理由はこれだ」

 恒誠が「彼等をここへ」と指示すると、右側の襖が開いた。禎傑が驚愕の叫びを上げた。

「頑烈、涼霊! 生きていたのか!」

 と、何かに思い当ったらしく、華姫を見た。

「お前が生かしたのか」

「そうよ」

 華姫は答えた。

「あの夜、あなたの部屋で逮捕させた時、私は空の竹筒を渡したの。政資さん達はその意味を理解して、二人を殺さなかったのよ」

 華姫が「これを飲ませて」と床から拾って渡した時、竹筒の中に酒はほとんど残っていなかったのだ。華姫は二人を影岡の外れの農家に閉じ込め、田美衆に見張らせていた。都を攻略して禎傑の気持ちが落ち着いたら、生きていることを話して彼等を復帰させるつもりだった。禎傑軍が敗北し、光姫達が雲居国を回復した時に発見され、恒誠が望天城に連れて行かせたのだ。

「あの二人は殺すには惜しい人材だから隠しておいたの。あなたをだましたことは謝るわ」

 禎傑は華姫と頑烈達を見比べていたが、急に居住まいを正して、二人に頭を下げた。

「頑烈、涼霊、済まなかった。処刑を命じたことを詫びる。藍生原の合戦でよく分かった。俺がこれまで勝ってこられたのはお前達のおかげだった。華子はすぐれた軍師だが、お前達の代わりにはならない。俺を許してくれるのなら、また仕えてくれないか」

「殿下……!」

 頑烈と涼霊は驚きに目を見張ったが、こちらも畳に手を付いて平伏した。目には涙が光っていた。

「もったいないお言葉です。わしは殿下の妻を殺そうとしたのです。処刑されても文句は言えませぬ。殿下がお許し下さるのでしたら、その御恩を全力で働くことでお返し致します」

「殿下あってこその私です。またおそばにお仕えできるのでしたら、華子殿に助けて頂いたこの命を捧げましょう」

 二人は次に華姫に頭を下げた。

「つまらぬ対抗意識で排除しようとしたことをお詫び致す。命を助けて頂いた御恩は一生忘れませぬ」

「我々の不在の間、よく殿下を助けてくれた。あなたは殿下の隣に立つにふさわしいお方だ。これからは共に殿下をお支えしよう」

「これで心配はなかろう。禎傑氏の元に我々を苦しめた名軍師と名将がそろったのだ。この四人が協力すれば、勝てぬ敵はまずいないはずだ」

 恒誠が言った。

「これが俺の提案だ。華姫は殺さずに利用すべきと考える」

「恒誠さん……!」

 光姫はもう涙が止まらなかった。この恩は一生かけても返せないかも知れない。この人を選んで本当によかった。光姫は心の底からそう思った。

 が、秀起はまだ反対した。

「禎傑氏は攻めてきた張本人ではありませんか。敵国と同盟するなどあり得ません! 華姫も大罪人です。処刑するのが正しいのです!」

 どうにも納得できないらしい。人々は判断に悩む様子で顔を見合わせたが、恒誠は落ち着いていた。

「処刑が正しいと言うが、その根拠はどこにある」

「どこって、古来そう決まっています! それが当たり前でしょう!」

 秀起が言うと、恒誠は検断奉行に視線を向けた。

「敵国に味方した者は殺せという決まりはあるのか」

 検断奉行は困った顔で答えた。

「一昨日織藤公がお尋ねになったので一日かけて古い文書を調べましたが、そういう法度(はっと)は出されたことがないようです。想定されていなかったようですな」

「そんな……」

 秀起は絶句した。

「ということだ。もしそういう法度があって勝手に破れば法を曲げることになる。だが、ないのだから、法的な意味では問題がない。むしろ華子殿を罰することこそ根拠が存在しないのだ」

「し、しかし、売国奴ですぞ。吼狼国の同朋を裏切って敵国を引き込んだ大悪人を許すのは、民が納得しませんぞ! 正義を曲げるとおっしゃるのか!」

「正義か……」

 恒誠はつぶやいて、尋ねた。

「一つ答えてくれ。君はもし、恵国軍の将軍が内部対立の結果、作戦に関する重要な情報をもってこちらの陣に逃げ込んできたら、どうする」

 秀起は戸惑ったが、すぐに答えた。

「もちろん、迎え入れて保護します。その情報を使えば味方は勝てるでしょう。攻撃が成功したら、その将軍にはそれなりの褒美が与えられるべきです」

「追放するか殺すのではないのか。その将軍は恵国軍から見て裏切り者だ。売国奴だ。処刑すべきではないか」

「ですが、敵を離反し、我が国の役に立ったのですよ。売国奴と呼ぶべきではありません。正しい方に味方した勇気ある人物と評価すべきです」

「それならば、同じ裏切りや利敵行為でも、自国に損をさせることをした者は売国奴、得をさせることをした者は功労者となるわけだ。君は味方に損な行動をした華姫殿を正義の名で非難しているだけだな。もし華姫殿が恵国軍の内部で我々に通じて彼等を裏切りだまし敗北させたら、それは称讃される行動となるわけだ」

「いや、しかし……」

「ならば、華姫殿は生かすべきだ。問題は損得なのだろう。華姫殿の才幹は皆認めていると思う。そういう人物が恵国との友好と貿易の振興に尽力してくれるのだ。しかも、華姫殿には贖罪(しょくざい)の意志があり、光姫殿や泰太郎殿という太い絆があって連携も取りやすい。吼狼国に大きな利益をもたらす人物を処刑しろと言うのか。君は自分の振りかざす正義に酔って、国のためと言いながら、国に大きな損をさせようとしている。これは大いなる矛盾ではないか」

「いや、ですが……」

「戦とは結局、利害の対立だ。どちらが利を得、相手に損を呑ませるか、それを力で決めるのが戦なのだ。折角戦に勝ったのに、大きな利を得られる可能性を自ら放棄しては意味がないではないか」

 秀起は反論したいが言葉が出てこないらしい。

「それに、我が国への侵攻は恵国の宮廷が正式に決定したことだ。その上、皇子まで殺したら、恵国と友好関係を再構築するのは相当困難になる。それは我が国の安全のためにも、貿易の振興のためにも大きな損だ。貿易によらないのなら、どうやって我が国の経済を立て直すのだ。反対するなら対案を出して欲しい」

 墨浦奉行と商工奉行も同感らしかった。

「裏切りは許せない。これは理解できる。集団や組織を作って生きる人間にとって、それを守ることは自分を守ることだ。壊そうとする者を憎むのは当然だ。だが、感情に逆らうことであっても、それが利益につながると思えば我慢して受け入れるのも人間だろう。戦狼の世にも、激しく戦った相手を許して傘下に加えることはよくあった。自分の親を殺した敵と、必要だからと同盟を結んで助け合うこともあった。自家を裏切って敵に走った元家臣を、許して帰参(きさん)させることもあった。(まつりごと)とはそういうものではないか。必要ならば憎い者を許し、敵とも手を結ぶ。そうやって利益を守り、自国を発展させていくのが統治者の仕事ではないか。あいつは憎い、あいつは嫌いだで判断していては、政はできない」

「しかし……」

「俺も、始めは華姫殿の処刑は避けられないと思っていた。だが、恵国の使者の話を聞いて考えが変わった。我々は戦乱で傷付いたこの国を立て直し、停滞している経済を活性化しなければならない。そのためには、貿易相手である恵国の宮廷が友好的で信頼できることが重要だ。そのために、華姫殿は必要なのだ。これで禎傑氏が恵国を統一して新皇帝になれば、我々は大きな恩を売ることができる。この機会を逃すのは、吼狼国にとって大いなる損だ」

 恒誠は人々を見渡した。

「華姫殿を処刑することによって世に示せる正義はある。それも一つの利益だ。だが、生かすことにも利益はある。俺は今回は、華姫殿の場合に関しては、助命する方が得が大きいと思う。我々は国と民と統国府のために、華姫殿を許すという決断をするべきではないか」

 評定の間はしんと静まり返った。華姫と三人の恵国人は固唾(かたず)を呑んで結論を待っている。

 やがて、泉代成保が言った。

「織藤公の考えを支持する」

 人々の目が一斉に集まった。

「私は都を守り、民を安んずるのが仕事だ。だから、華姫殿が都を攻めたことは許せない。罰せられるべきだと思う。だが、同じ基準で、都の人々のためになることを華姫殿がするというのなら、させるべきだと判断する。百家商連もそれを支持するだろう」

 萩矢頼統が大きく頷いた。

「そうだな。戦はもう終わった。我々は今後のことを考えねばならん。その時、恵国との貿易はとても重要だ。そこに益のあることならば、一時(いっとき)民に反発を受けようと、決断するのが御前衆の責任というものだろう」

 楠島運昌は大きな溜め息を吐いた。

「俺個人としては華姫殿のしたことは許せない。が、楠島家は多くの商人に船を提供している。彼等と当家の利益を考えれば、禎傑殿に恵国を統一してもらう方がよいに決まっている」

 楠島家の水軍衆は、普段は船員の訓練もかねて商船として玉都と墨浦などを結ぶ船便を運航しているのだ。

 豊梨実鏡がうれしそうに言った。

「華姫様は国外追放ということですね。罪は大きいですが、悪人のせいで漂流したのがそもそもの原因ですし」

 実鏡は華姫が結婚前に都見物に来た時に親しくなっていたので、どうなるか心配していたらしい。お牧は光姫に、どうやら初恋だったようですよと言っていた。

「ありがとうございます。心からお礼申し上げます」

 華姫は手を付いて深々とお辞儀をした。

「私は吼狼国人として、してはならないことをしました。それは重々承知しています。この人とこの先一緒に生きていくことを許して頂けるのでしたら、その御恩を忘れず、吼狼国のために力を尽くします。実は、吼狼国を征服したら恵国との貿易を振興しようと思っていたのです」

 そうして、考えを披露した。

「吼狼国には輸出品として可能性のある産物がたくさんあります。まず、お米です。恵国は近年人口が増加して食料が高騰しています。吼狼国のお米は歓迎されるでしょう。隆国との戦いのために硫黄も需要があります。禎傑皇子が好む吼狼国のお酒、扇、木工品なども高く売れると思います。扇は絵や字を描いて彩色した高級品もいいですが、庶民用に安く作って普及させれば、南海州で暑さ対策に喜ばれるでしょう。また、これをもっとたくさん作ってはどうでしょうか」

 と、左手を前に突き出した。

「この指輪は、銀の土台に宝玉をはめ込んであります。将軍達に尋ねましたが、指輪はあっても、こういうものはないそうです。これを作って輸出すれば大きな利益になるでしょう。ですが、問題が一つあります」

 光姫が言おうとしたことを、華姫は分かっている顔だった。

「金銀は吼狼国にありますが、宝玉がありません。水晶くらいでしょう。恵国にもあまりありません。そこで、暴波路国から輸入してはどうでしょうか」

 評定の間にどよめきが広がった。

「私は恵国から暴波路国人の兵士を連れてきました。彼等を国へ帰すという名目で使者を送って、交易を始めることをお勧めします。彼等の中に元船乗りがいて、暴波路国の位置を教えてくれました。それによると、田美国の南へまっすぐ行くと着くようです。暴波路国に吼狼国のお米や工芸品を持っていき、現地で採れる金剛石や紅玉(こうぎょく)や真珠を買い付けてくるのです。それを加工して恵国へ売れば、三国が潤う貿易ができるでしょう。他にも、例えば暴波路国にはよい香りのする木があります。恵国では香料にしていましたが、それを吼狼国で薄い板や骨にして扇を作って輸出したら、きっと売れるでしょう。暴波路国では恵国で高級品とされる黒くて丈夫な木や硬い(つる)もあります。家具などの材料になるでしょう」

 奉行達が必死に紙に書き留めている。

「一方、恵国から輸出するものもたくさんあります。まず、今後吼狼国で鉄砲や大砲が普及するのは確実ですから、硝石(しょうせき)があります。また、透景酒や鏡も売れることが分かりました。石鹸(せっけん)も重要な輸出品になるでしょう」

 華姫は微笑みを浮かべて恒誠を見た。

「先程、織藤公は兵糧を安価に譲って下さるとおっしゃいましたが、お願いがあります。お米を兵糧以上にもっとたくさん頂けないでしょうか」

 恒誠は一瞬考えたが、すぐに理解した顔をした。

「武器にするのだな」

 華姫は頷いた。

「今、恵国は飢饉(ききん)です。私達は吼狼国で余っている米を持っていき、民に配ります。禎傑皇子の名声を高め、地盤を固めるのです」

 なるほど、と運昌がつぶやいた。

「ですが、私達は代金をすぐには払えません。借財にしてもよいのですが、それよりも、石鹸の製法とお酒の蒸留の技術を引き換えにお教え致しましょう。怪我人の治療や病気の予防にも役立ちますので、吼狼国の民は喜ぶと思います。一方で、それらが普及すれば、恵国産の香り付きで形の面白い高級な石鹸や、本場の透景酒も売れるようになるはずです。お互いに得だと思いませんか」

「お姉様、すごい!」

 光姫は叫んだ。

「やっぱり、お姉様は許すべきだわ。それが吼狼国にとって絶対に得なのよ!」

 もう涙で顔がべとべとだった。そんな妹を見て、芳姫が断を下した。

「まだ、華子の助命に反対される方はいますか。織藤公のおっしゃる通り、処刑するより助命する方が国にとって得が多いようです」

 誰も異議を挟まなかった。

「では、梅枝華子は助命し、国外追放とします。よろしいですね、直孝様」

 元狼公も頷いた。恒誠が言った。

「すぐに華姫殿禎傑殿と詳細を詰めよう。その後、今の話をもう一度百家商連の代表の前でしてもらう。その噂が広まれば、助命に対する風当たりも(やわ)らぐだろう」

「では、本日の評定はここまでとする」

 頼統が宣言すると、人々はそろって頭を下げ、立ち上がってばらばらと広間を出て行った。孫手(まごて)秀起はまだ納得できない顔だったが、先輩の奉行達になだめられて、何かを話し合いながら去っていった。

 光姫はうずうずしながら座ったまま待っていたが、部屋に人が少なくなると、華姫の前に移動した恒誠に後ろから抱き付いた。

「ありがとう!」

 恒誠は座ったまま振り向いて、懐から手拭き布を取り出した。

「顔を拭け。べとべとだぞ」

「だって……!」

 言いながら、受け取って体を離し、顔をぬぐった。二人の様子に華姫は微笑み、深々と頭を下げた。

「恒誠殿、心よりお礼を申し上げます。光子、いい人を見付けたわね」

「はい、お姉様!」

 光姫が大きく頷くと、禎傑が珍しそうな顔をした。

「武勇に秀でた光姫殿はこんなに泣き虫で甘えん坊だったのだな」

「そうなのよ」

 華姫が笑って手を伸ばし、光姫の髪を整えてくれた。

「またあなたとこうして会える時が来るとは思わなかったわ」

「お姉様……」

 光姫はまた泣きそうになったが、無理にこらえて言った。

「では、話を始めて下さい」

 恒誠・実鏡・渉務裁事、商工と墨浦の両奉行が目配せをし合い、墨浦奉行が数枚の紙を禎傑の前に置いた。

「では、こちらが締結する盟約の原案です。吼狼国語と恵国語の両方で書いてあります」

 禎傑達は真剣にそれを眺め、話に耳を傾けた。華姫は何度も文面に目を走らせ、考え込んでいる。そんな姉を眺めて、光姫は心から安堵を覚えていた。

 恒誠の顔もいつになく引き締まって見えた。その横顔と背中に、急に感謝と愛情が湧き起こって我慢できなくなり、袖の端をつかんだ。

 恒誠は顔を向けて小さく微笑んだ。光姫も笑い返した。そんな二人を、華姫はうれしそうに、寂しそうに眺めていた。芳姫は妹達の邪魔をせぬように、息子を連れてそっと広間を後にし、奥向きへ帰っていった。


 それから、禎傑や華姫との交渉と並行して、論功(ろんこう)行賞(こうしょう)が行われた。

 後世、寛大(かんだい)な処分だったと称讃(しょうさん)されたように、死罪を申し付けられた者はいなかった。巍山は既に死んでいたし、華姫が許されたことで、他の者にも厳しい罰は与えにくかったのだ。

 そのため、都攻めに参加した巍山軍の諸侯は、最後に禎傑軍との合戦で働いたこともあって処罰されなかった。必死で戦って恵国軍に屈した手の国の諸侯にも罰はなかった。城を落とされ当主が討ち死にした年苗国(としなえのくに)槙辺(まきべ)家は、幼い息子の家督継承が認められ、首の国へ加増移封された。後明国の屈谷(かがみや)晴豊(はるとよ)も、独岩(ひとりいわ)城を奪われたものの、手輪(たわ)峠を封鎖して恵国軍と対峙(たいじ)し続けたことを評価され、背の国で早雪国(さゆきのくに)二十万貫の国主になった。蔦茂国(つたしげのくに)篩田(ふるいだ)家にも加増の内示があったが、転封(てんぽう)を断ったので報奨金が出た。

 一方、戦わずに屈した折懸国(おりかけのくに)八万貫の柿淵(かきぶち)家や後明国の耳振(みみふり)家は領地を没収された。大翼巍山の下で三柱老になった雉田・非木・弐杣(ふたそま)の三家と裁事になった殿軍(しんがり)(すわり)の二家も取り(つぶ)された。

 また、都の守備を任されながら、国母と元狼公の元を去って巍山軍に合流した七家は領地を半分に削られ、とりわけ首謀者と見なされた楡本(にれもと)家は三十三万貫から五万貫に減らされた。取り潰せという意見も多かったが、貞亮公(ていりょうこう)五輔臣(ごほしん)の一家で先代の功績が大きかったので残されたのだ。他に、当主が死んだ杏葉家、海国丸事件の責任を問われた菅塚家と鳴沼家も取り潰された。

 鷲松家は広芽国など五ヶ国を取り上げられたが、夕影国(ゆうかげのくに)一国十九万貫で存続することになった。御前評定でも随分と議論になり、元狼公様と国母様に無礼を働いたことは許せないとか、公然と統国府に反旗を翻した者には厳罰を与えるべきだとか、恵国と手を結んだ巍山も売国奴だとかいろいろ非難の声はあったが、それは隠居である巍山のやったことで、当主の勝弼(かつすけ)は自分達に好意的だったと芳姫が証言したので、家名を保つことができたのだ。

 勝弼は道久の蜂起後都を脱出して尾の国へ逃げていたが、呼び出されて望天城に登り、国母と元狼公に平身低頭(へいしんていとう)して謝罪して、自分は剃髪(ていはつ)して隠居し、十三歳の息子の勝慰(かつやす)に後を継がせたいと申し出て許された。一百六十四万貫から八分の一になったわけだが、梅枝家と共に二つだけ残っていた旧探題家の名家は続いていくことになった。

 一方、都に留まって戦った萩矢・槻岡・泉代家は十五万貫の加増を受けた。巍山軍を離れて都へ入った笹町家も同じく十五万貫を加増されて、首の国の風巻国(しまきのくに)二十一万貫の国主になった。楠島家は合戦では戦わなかったが貢献が考慮され、双島国(ふたじまのくに)一国一万貫に加えて、玉都港と煙野(けぶりの)運河の利用料がただになるという特権を手に入れた。ユルップ衆は忠誠と勇戦を称讃され、報奨金が出た上に、武守家の庇護(ひご)を受けつつ、二万貫の独立した封主家として認められることになった。

 蓮山家も影岡城の救援や藍生原と虎落国(もがりのくに)の合戦での働きが評価されて十五万貫を加増され、広芽国で四十万貫となって国主の格式を与えられた。蕨里(わらびさと)家と新芹(にいぜり)家は十万貫の加増、禎傑巍山同盟を影岡軍に知らせた鷹名(たかな)家は五万貫、柳上(やながみ)家は三万貫を加増された。影岡城に若様が駆け付けた他の十二家も、それぞれ二万貫から三万貫の加増だった。

 別格だったのは豊梨家と織藤家だった。実鏡は都を守った忠臣だと恒誠や光姫と共に宗皇(じき)(じき)に褒章の名刀を賜った上、雲居国を没収されて、かわりに後明国と殻相国合わせて四十三万貫を与えられた。織藤家は再興を正式に認められ、首の国の見伏国(みぶせのくに)三十一万貫をもらった。

 一方、梅枝家は減封(げんぽう)された。光姫は三十万貫加増の内示を断ったので、田美衆が華姫と共に戦った罰だけが科されたのだ。梅枝家は三国全てを没収され、首の国に片籠国(かたかごのくに)二十万貫、(かかと)の国に磯触国(いそふりのくに)十七万貫を与えられて三十七万貫となった。貫高を半分以下に減らされた上に、南北に遠く離れた場所に分けられたのだ。これは、鷲松家の造反(ぞうはん)()りた統国府が、外様の梅枝家の力を弱めようとしたからだ。光姫と芳姫はこの件には遠慮して発言せず、五十万貫を削られるという厳しい処分を受け入れた。

 この他、狐ヶ原で活躍した諸侯や、文島の戦いで武功を立てた封主家などが加増され、桜舘家も諸家をまとめて墨浦を守り切った功績を評価されて、天糸国(あまいとのくに)九万貫を新たに与えられた。

 諸侯の移封先の調整など更に二十日ほど話し合いは続き、梅月二日にようやく最終案ができ上がった。

「やれやれ、なんとかまとまりましたな」

 一仕事終えたと御前衆が喜んでいると、不意に、段上の芳姫が発言を求めた。

「皆に話があります」

 国母はほとんど話し合いに口を出さず見守るだけだったので、何事かと人々は驚き、光姫も姉の真面目な口調に居住まいを正した。

「藍生原の合戦の時から考えていたのですが、私は国母を下りようと思います」

「えっ!」

 光姫は驚いたが、周囲の人々はやはりという反応だった。

「私は桑宮道久殿と深い関係にありました。決していい加減な気持ちではなく、短い期間のことでもありましたが、諸侯や民の手本となり導く立場の国母としては、非難されても仕方のない振る舞いでした。戦は終わり論功行賞も済みましたので、国母の地位を退き、髪を下ろして尼寺で隠棲(いんせい)します。これからの新しい時代は新しい人々に委ねます」

 芳姫は妹を見た。

「皆様の承認が頂けましたら、国母の地位は光子に譲りたいと思います」

「お姉様!」

 光姫は驚いた。これから姉を助けて統国府を盛り立てていくつもりだったのだ。

「人生を諦めるには早過ぎます。お姉様はまだ二十七ではありませんか。再婚なさればよいのです。国母なんて、私には荷が重過ぎます」

「もう疲れました」

 芳姫は本当にくたびれた顔をしていた。

「私は(まつりごと)に向いていません。直孝様のために仕方なくやっていたのです。ですが、私よりずっと適任で有能で信頼のおける方が今このお城にはたくさんいます。その方々に任せた方がよいのです」

「ですけれど! それに、私がなんて……」

「織藤公の承認は得ています」

 光姫が振り向くと、恒誠は頷いた。

「今後の統国府の中心は光姫殿がよいと思う。大きな改革を行い、国を新しい時代に導くには、民に信頼され人気の高い人物が(おさ)の方が都合がよい。芳姫様は、粟津公が失脚し巍山が権力を握った時、諸侯に大きな失望を与えてしまった。その後の戦でも大した役割は果たしていない。実際に先頭に立って戦い数々の武勲(ぶくん)を上げた光姫殿の方が、諸侯の支持を得やすく、言葉に重みがある」

「ですが……」

「これは民のため、国のためなのだ。国が大きく変わろうとする時に、御前衆の(おさ)がお飾りでは駄目だ。固い意志と行動力を持ち、強い求心力のある人物が率いるべきなのだ。それに、姉君はもう政に関わりたくないようだ。大役を下りて休むことを許して差し上げるべきだろう」

 光姫は姉を見上げた。芳姫の頬は以前よりやつれていた。息子や光姫と共に戦いに関わりながら、心の中では道久を失った悲しみに苦しみ続けていたのだ。藍生原の合戦の前にも姉が国母を下りると言い出したことを思い出し、ずっと考えていたことなのだと理解した。

「分かりました。お姉様が辞めたいとおっしゃるのでしたら、もう止めはしません」

 光姫は遂に受け入れた。

「ですが、私が国母でいいのですか」

 姉に尋ねると、芳姫は微笑んだ。

「皆の様子を御覧なさい」

 振り向くと、評定の参加者達は全員温かいまなざしを光姫に向けていた。恒誠が言った。

「宗皇陛下には既に内諾を頂いている。ここにいる者達には異論はない。後は光姫殿が決心するだけだ」

 光姫はためらった。恒誠を見ると、軍師は大きく頷いた。

「俺達が支える。光姫殿が失脚すれば、俺達も同じ運命だからな」

 実鏡が励ました。

「光姫様ならできます!」

 運昌が好意的な口ぶりで言った。

「というよりも、他の方にはできませんし、任せられません」

「新しい統国府の看板は光姫殿以外に考えられん」

 萩矢頼統が言い、槻岡良門、泉代成保、笹町則友達も同じ意見のようだった。

「我々もお手伝いします」

 光姫の背後に控えて追掘親子や餅切具総が言った。

「あなたに任せたいのです」

 姉に言われて、光姫は覚悟を決めた。

「分かりました。国母を引き受けます」

 光姫は姉に言った。

「吼狼国の新しい時代を開いてみせます!」

 おおう、と人々から声が漏れた。光姫はそちらに微笑み、姉に向かって平伏した。

「これまでお疲れ様でした」

 皆それにならった。

「やっと楽になれます。これからは尼寺で夫と道久殿の天上界での幸福を祈って暮らします」

 芳姫が言うと、それまで黙っていた直孝が尋ねた。

「母上はお城を出て行くのですか」

「そうです。でも、あなたには近習や光子達がいますから、心配はいりません」

 母が答えると、幼い元狼公は大きく(かぶり)を振った。

「そんなの駄目です。母上はお城にいて下さい。寂しいです」

「まあ」

 芳姫は驚いたが、なだめようとした。

「国母を退いた以上、私はこのお城にいない方がよいのです。私も寂しいのは同じですが、仕方のないことなのですよ」

 だが、元狼公は「そばにいてくれなくては駄目です」と言い張った。

「困りましたね」

 芳姫がどうしたものかと人々を見回すと、光姫が言った。

「直孝様はまだ九歳で、母親が必要です。お城を出なくてもよいのではないかしら」

 期待して恒誠を見ると、軍師は少し考えて答えた。

「光姫殿が新しい国母になり、芳姫様が落飾なされば、御前衆の長が交代したことは示せる。問題は国母の姉に取り入ろうとする諸侯が現れる可能性だな」

 光姫はそう言われて芳姫が尼寺に入ると言った理由を悟った。確かに、光姫は姉に頼み事をされたら断れないかも知れない。

「お姉様を利用しようとする人達を近付けないためには、どうしたらよいのかしら」

「やはり、どうしてもお立場は微妙になりますな」

 運昌も考える顔だった。妹の光姫から見ても、芳姫は押しに弱い。高価な贈り物を押し付けられて懇願されたら、妹に頼んでくれという要求を断り切れないかも知れない。

「では、城内に尼寺を作ってはどうだろうか」

 恒誠が言った。

「はっ? どういうことですか」

 運昌が思わず聞き返した。

「元狼公様は母君と会えなくなるのは寂しいとおっしゃる。芳姫様は尼寺に入ることをご希望だ。ならば、望天城の中に法花寺(ほっけじ)の別院を開いてもらって、そこへ入られたらどうだ。尼寺なら男の客は入れない。けじめを付けるために、造る場所は奥向きではなく、本郭の端がよかろう」

「直孝様、どうですか。お城の中ならいつでも会いに行けますよ」

 光姫に言われて、元狼公は母と恒誠を見比べて考えていたが、頷いた。

「分かりました。本当は奥向きにいて欲しいですけど、それはやめた方がいいのですね」

「はい。あそこは出ようと思います」

 奥向きには道久との思い出が多いので、芳姫はいたくないのだろう。

「これで難問が片付きましたな」

 槻岡良門が言い、泉代成保がまとめた。

「では、国母の交代は次の桜祭と総馬揃えで発表しよう」

 同意の声があちらこちらから起こったが、恒誠がそこに割り込んだ。

「待ってくれ。総馬揃えは廃止にしよう」

「なんですと!」

 運昌が驚き、人々は目をむいたが、光姫は恒誠と頷き合って発言した。

「それについて、私達から提案があります」

 その内容に御前衆は皆驚愕し、終わったと思った評定は、更に十日ほどに渡って熱い議論が続くことになった。


 桃月(ももづき)の三十日、一年の終わりの日に、光姫と恒誠は玉都港にやってきた。出発する姉夫婦を見送るためだ。

 十万人の兵士と田美国の米を積み込んで恵国へ戻る大船団は、現在双島(ふたじま)の沖にいる。都へ近付けると民が恐れるだろうというので、数隻だけが禎傑と華姫を迎えに来たのだ。頑烈と涼霊は先に穂雲へ戻り、鍾霆や高卓など生き残った将軍達と共に船旅と戦いの準備をし、船中で司令官殿下の乗船を待っている。帰国後の作戦は御前衆に通告されていて、恒誠はいくつか助言をしていた。

 華姫が帰国を許されたことは噂になっているようだが、正式な発表はまだなので見物人は少ない。今、港のこの大桟橋周辺にいるのは、見送りの者達だけだった。

 少し離れたところで、帆室治業が華姫と話している。主君が助命されたことで治業も処刑を免れたが、責任を取って梅枝家を去り、帰農するそうだ。華姫にこれまでの礼を言われて涙を流して頭を下げている。

 そのそばでは、華姫と共に恵国に渡ることになった八人の家臣が家族に別れを告げていた。田美国上陸時に政資に離縁を告げた妻や息子、塩をまいた景隣の母や兄弟も、今は周りの目を気にせずに涙を流したり抱き合ったりしている。彼等も梅枝家を去るそうだ。次席家老の内厩(うちまや)謙古(のりもと)夜橋(よのはし)幽月(ゆうげつ)も武家をやめるという。貫高が大幅に減った上に銀山を失った梅枝家は、同じ数の家臣を養えないのだ。殻相衆や天糸衆はほとんどが貫高の増えた織藤家や豊梨家に移り、田美衆も多数が両家に雇われたが、武家を続けられない者も少なくなかった。

 恒誠達と一緒に光姫が近付いていくと、治業が気付いて華姫から離れた。既に涙ぐんでいた光姫は、姉と目が合うとぼろぼろとあふれさせながら駆け寄り、抱き付いた。

「お姉様……!」

 それ以上何も言えない妹を華姫もしっかりと抱き締めた。

「ありがとう」

 華姫は妹の耳にささやいた。

「全てはあなたのおかげね」

 光姫は首を振った。

「私は何もできなかった。何も守れなかった」

 上の姉は落飾、下の姉は国外追放、梅枝家は大幅減封になり先祖伝来の地の田美国を失った。芳姫を嫁がせてまで父が守った銀山も没収された。光姫はそれらを全部守りたかったが、不可能だった。

「あなたのせいではないわ。私の責任よ」

「私の責任でもあります。光子は悪くありません」

 後ろから、一緒に来た芳姫が言った。既に落飾して頭巾(ずきん)を被っていた。

「光子にはいくら感謝しても足りないわ」

 華姫は妹に言った。

「殺されず、愛する人と共に生きていける。同じ目標に向かって歩んでいける。それだけで幸せだわ。全部あなたのおかげなのよ」

 華姫も涙を浮かべていた。

「あなたがいてくれてよかった。私は故国を滅ぼさずに済んだ。償いもできる。多くの人は私を許してくれないでしょうけれど、それでも吼狼国のためにできることは何でもするわ」

 華姫が妹を胸に抱いたまま、恒誠に言った。

「光子をよろしくお願いします。これからは盟友ね。とても心強いわ」

 恒誠は感情を見せずに言った。

「恵国に戻った後、上手く行くかどうかはあなた方の手腕にかかっている。俺は助けられない」

 恒誠の口調は義理の姉に対するにしては厳しく冷たかった。

「華姫殿は直利様に『あなたにしかできないこと、あなただからできることをせよ』と言ったと聞いた。恵国の皇帝の妻になって吼狼国と友好を築き貿易を振興することは、華姫殿にしかできない。そのためにあなたを生かした。華姫殿が恵国でしっかり働くことが、統国府や光姫殿のためにもなる」

「分かっているわ。光子や恩人であるあなたを絶対に裏切ったりしない」

 華姫はきっぱりと言った。

「私は誓うわ。吼狼国と恵国の平和と発展のために全力を尽くすことを。光子の姉、芳子お姉様の妹として、禎傑皇子の妻として、そして私自身の誇りにかけて、決して投げ出さず、命ある限り両国の人々のために働くわ」

「その言葉、覚えておく」

 恒誠が頷くと、華姫は表情をゆるめた。

「お父様も出航の時そうおっしゃったわ。私はお父様を殺してしまった。その償いもしなければいけないのに、こうしてあなた達をおいて海の向こうへ行かなくてはならない」

 華姫は光姫の体を離すと、深々と頭を下げた。

「お姉様、光子、散々迷惑をかけてごめんなさい。心から謝るわ」

「そんな……」

 光姫は違うと言おうとしたが、華姫は視線でさえぎった。

「あなた達の妹と姉として約束します。遠く離れてしまうけれど、いつも二人の幸福を願っています。そして、私自身も幸福になるために努力するわ」

 華姫は真剣な顔で言った。

「私を信じて欲しいの。海を隔ててしまうと、きっとお互いの意志の確認は難しくなり、対立したり、悪い噂を聞いたりすると思うわ。でも、私は決して二人を裏切らない。私のどんな行いも施策も、二人や吼狼国に害を与えようという気持からではないわ。そのことを分かっていて欲しい」

「お姉様……」

「私は光子のいる統国府を困らせるようなことは決してしない。もし、おかしいと思うことがあったら、すぐに連絡して。できるだけ早く返事をするわ。そのためにも、手紙はこまめに書くわね。恵国に幟屋の支店を作ることになっているから、届けてもらえると思うわ」

「その手配はしておきましょう」

 泰太郎が言った。遠慮して光姫達の後方にいたが、歩み寄ってきた。

「光姫様の貿易改革は私がお手伝いします。華姫様の考え方はよく知っていますので、誤解を解くように努力します」

「あなたがいるなら安心ね。恵国にも訪ねてきて頂戴。歓迎するから」

「はい」

 泰太郎は華姫の顔をじっと見つめてしっかりと頷いた。泰太郎はこの後別な船で千鳥島へ向かい、村長の娘を迎えに行くことになっている。手紙でこれまでの経緯を伝えて求婚したら、喜びの涙の跡のある承諾の返事が来たそうだ。

「僕も光姫様と一緒に戦っていきます。影岡城でそうしたように」

 実鏡も涙で頬を濡らしていたが、表情は凛々しかった。

「妹を頼みます」

 華姫は実鏡にきちんとお辞儀をした。光姫も政資や景隣達に言った。

「お姉様をお願いします」

「お任せ下さい」

 八人は力強く返事をした。故国を去ることに迷いはないようだった。姉が一人きりでないことは光姫を少し安心させたが、彼等が再び国を離れざるを得なかった理由を思うと喜ぶこともできなかった。

 華姫は芳姫に近付き、抱き合った。

「お姉様も、お元気で」

 芳姫も涙をこぼしている。

 二人が離れると、光姫はもう一度下の姉に抱き付いた。が、華姫はぎゅっと抱き締めるとすぐに体を離し、手から白い指輪を抜き取った。

「これをあなたにあげるわ」

「でも、これは……」

 戸惑う妹に華姫は無理に握らせた。

「新しい指輪は夫にもらうわ」

「……はい」

 光姫は指輪を固く握り締めた。華姫は自分で紅梅を刺繍した白い手拭き布を芳姫に渡した。

「お姉様にはこれを。牢の中で縫いました」

「ありがとう。私からもあります」

 芳姫の贈り物は白梅が描かれた紅い扇だった。

「大切にします」

 華姫が受け取ると、光姫も用意していたものを差し出した。

「似顔絵です」

 城下の絵師に頼んで三姉妹が並んだ姿を描いてもらったのだ。恵国で修業したとかで、人物をそっくりに描くと評判だった。三人を別々な場所で模写したものを一枚にまとめたものだが、三者三様の微笑み方や身振りまで見事に再現していた。

「素敵ね」

 華姫が喜ぶと、光姫はもう一つの袋を渡した。

「穂雲城の梅の実です。私達の」

 紅と白と八重の薄紅の梅の木の実だった。五つずつ別な袋に入れてある。

「ありがとう。大切に育てるわ」

 華姫はその袋を胸に抱き締めて声を震わせた。

「私はずっと華姉様の妹です」

「私もいつまでもあなたの姉で、お姉様の妹よ」

 華姫は約束すると、光姫を押しやった。

「さあ、夫のところへ行きなさい。あなたにはもうあの人がいる。あなたを慰め、支えるのは恒誠さんの役目になったのよ」

 押されて、光姫を恒誠と並んだ。

「そろそろ出航の時刻です」

 楠島運昌が近付いてきた。運昌は船団で華姫達を双島まで護衛し、彼等が東へ去ったのを見届けた後、高稲半島の先端の椎柴国へ行き、途中にある姉妹島を経由しつつ南下して、暴波路国へ向かうことになっている。華姫に同行することを選んだ三百人を除く六百人ほどを帰国させると共に、国母光姫と新大翼萩矢頼統からの書簡を渡して友好と通商を求めることになっている。

 離れて見ていた禎傑が華姫に歩み寄り、光姫と恒誠に何か言った。

「世話になった、これからも末永くよろしく頼む、ですって」

 華姫が通訳してくれて、二人そろって頭を下げた。光姫達もお辞儀を返した。

「では、元気でね」

 さようなら、と言いかけて、華姫は言い直した。そして、姉と妹に微笑み、近付いて愛しげに光姫の髪を整えると、銀炎丸の背中を撫でて、船の方へ歩いていった。

 出発の銅鑼が鳴った。兵士三百人が乗れる大船は、(はしけ)()かれて港を離れた。

 光姫達は桟橋の先端で手を振った。銀炎丸が何かを感じたのか大きく長く遠吠えした。欄干端で微笑んで手を振る華姫の姿は、やがて見えなくなくなり、船も水平線に消えていった。

 だが、光姫はいつまでもそこに立ち続けていた。背を向けて歩き出せば、姉との永遠の別離が現実のものになってしまうような気がしたのだ。まだお姉様はあの辺りにいるはず。船影が見えるかも知れない。未練がましいと感じながら、光姫はそう思いたかった。

「寂しいのか」

 恒誠が尋ねた。光姫は返事の代わりに涙を流した。

 恒誠は手抜き布を取り出して渡した。ぬぐってくれないのはらしいと思ったが、ありがたく受け取って頬を拭いた。

「いよいよ明日だな」

 恒誠がつぶやくように言った。

「そうね」

「とても楽しみだ」

「私もよ」

 二つのことのどちらの意味かと思ったら、両方らしい。光姫も同感だった。

 明日桜月一日は春始節(しゅんしせつ)、一年の始まる日だ。統国府では例年、この日に総馬揃えを行っていた。だが、今年は行わない。

 かわりに、全諸侯会議が開かれる。元狼公直孝の名で吼狼国の百四十の封主家の当主全てを望天城に集め、大評定を開くのだ。

 議題は、まず、光姫の国母就任と禎傑との同盟の正式な報告だ。次いで、今後統国府が目指す方向と貿易改革の詳細を説明し、今年一年の動きと諸侯に行ってもらう具体的な仕置きの内容を提案することになっている。それらの施策や法度は奉行や裁事が案を作り御前評定で承認されたものだが、諸侯の意見を取り入れて修正した上で、投票にかけて決定する。

 これを言い出したのは光姫だった。藍生原の合戦の前に恒誠に出された宿題をずっと考えていたが、これしかないと思ったのだ。

 新しい吼狼国をどうやって作っていこうかと考えた時、すぐに分かったのは、統国府だけではできないということだった。全ての封主家に光姫達のやりたいことを理解してもらい、協力を得なければ、改革は実現しないと思ったのだ。

 桑宮道久の失敗を見れば分かる。彼は目指した方向は間違っていなかったが、自分や統国府の都合ばかりを重視した。その結果、諸侯にそっぽを向かれ、援軍が来なかった。

 粟津広範も、諸侯は統国府の命令に従っていればよいという意識で和平を押し付けようとして失敗し、失脚した。巍山が支持を得たのも、文武応諮として諸侯の考えを御前評定で伝えていた実績があったことが大きい。

 諸侯は巍山に乗せられたとはいえ、集団で行動することで仕置総監をやめさせて気に入らない和平案をつぶすことに成功している。その経験を経た彼等は、もはや武公や直信の時代のように統国府の命令に恐れ入って従うばかりではなくなっていた。

 それに、恵国との戦に勝ったのは、統国府ではなく、自主的に集まって戦った諸侯だった。守国軍は巍山を盟主とする諸侯の連合体だったし、光姫達も統国府の支援を当てにせず自力で戦い、それが多くの賛同者を得て国の運命を変えた。

 光姫は影岡軍が強かったのは、みんなで作戦の目的や流れを事前に確認し、それぞれが全体や他の者の動きを理解していたためだと思っていた。だから、最も功績が大きいのは、そういう雰囲気を作った実鏡だろうと感じていた。

 光姫は都に帰ってきてから思案を重ね、華姫の助命が決まった夜、恒誠に会いに行って説明し、どう思うか尋ねた。恒誠はひどく驚いていたが、うれしそうな顔で賛成した。

「いかにも光姫殿らしい考えだ。ぜひ具体化して御前評定で提案しよう」

 思えば、この時に恒誠は光姫を国母にしようとはっきり決めたのかも知れない。恒誠はこう言ったのだ。

「あなたは真っ直ぐ進んでくれ。俺はそれを隣で支える。あなたが迷子にならぬよう、目的を見失わぬよう、手助けする。困ったこと、困難なことがあれば知恵を貸そう。天の与えた使命というものが存在するとすれば、それが俺の役目だな」

 そうして、何日も二人で検討し、追掘親子や具総や従寿やお牧にも意見を聞いて案を練って、御前評定で提案した。皆驚いて始めは反対意見が多かったが、諸侯の心を一つにしたいという光姫のねらいと願いを理解して、最後には賛成した。

 光姫は評定を見守っていた直孝に御前衆の結論を説明し、許可を求めた。

「五万貫までの諸侯は一票、六から十万貫までは二票、十一から十五万貫までは三票という風に票を割り振るつもりです。また、国持ち封主家にはそれとは別に国の数だけ票を与えます。大封主家に有利ですが、実力と格式を考えれば妥当ではないかと考えます」

 幼い元狼公は少し考えて承知し、こう言った。

「いい考えだと思います。でも、一つだけお願いがあります。その会議での議論は僕にも分かるようにやさしい言葉で話して下さい。そうでないと民にも伝わらないと思います。この改革は武家だけのことではありません。吼狼国の全員が理解できるものでなくてはならないと思うのです」

「直孝様……」

 光姫達は直孝の賢さと資質に改めて感銘を受け、それを是非諸侯の前でご自身でおっしゃって下さいと申し上げた。

 全諸侯会議の開催は既に先月の半ばに諸侯に通知してある。運昌などは御前衆の提案した施策に反対が多く出されたらどうしようなどと気を揉んでいるが、議論を重ねてみんなの理解を深めることが目的なので、それでもいいだろうと恒誠は言ったし、光姫もそう思っている。

「自分一人で戦はできないわ。私はそれがよく分かったの」

 新しい時代を切り開くのは一部の人の力だけではできない。皆の心を合わせて、協力することが不可欠だ。桑宮道久は新しい国の形を明示して武者達が動けるようにするのが統国府の仕事だと御前評定で演説したのに、結局自分と一部の奉行で考えた改革を上から押し付けようとして失敗した。

「きっと上手く行くわ。不安もあるけど、とても楽しみなの」

 光姫は恒誠の腕に自分の手を通して寄り添った。

「俺も楽しみだ。もう一つの方もな」

 明日、全諸侯会議で国母就任と一緒に二人の結婚を発表し、夜に桜祭の会場で婚儀を行うことになっている。

 光姫は恒誠と結婚すると決めた時、梅枝家を出る決心をした。恒誠は織藤家の当主だし、光姫も奥方と国母だけで手一杯で、梅枝家の当主を兼ねるのは無理だと思ったからだ。

 恒誠が首の国から帰ってきた後、光姫は家老達を呼んでそれを告げ、追堀輝隆に家督を継いでくれるように頼んだ。追堀家は梅枝家の分家だし、時繁の妹の子で光姫の従兄なので血はかなり濃い。他に適任者はいなかった。

 輝隆は遠慮し反対するのではないかと思ったが、意外にも頷いた。そう言われるのではないかと予想していたらしい。ただ、無条件ではなかった。

「当主を引き受けるかわりに、お願いがあります」

「何かしら」

 貫高が大きく減った上に、殻相衆の輝隆が田美衆ばかりになった梅枝家を引っ張っていくのは大変だろうから、その苦労に見合う要求をされるのではないかと身構えると、輝隆は一旦部屋から出て行って、楢間福子を連れてきた。

「この人との結婚をお許し願いたいのです」

「ええっ、いつの間に! もちろんお祝いするわ!」

 光姫はびっくりした。恒誠も意外そうな顔していたが、具総や従寿やお牧は知っていたようだった。

「福子に迫られて口説き落とされました」

 輝隆は照れ臭そうに言った。

「生真面目なところが可愛いんです」

 福子は頬を染めて断言した。

「姫様は恒誠様のことで頭がいっぱいでしたから、気付かなかったのも当然ですね」

 従寿が相変わらずの軽口を叩いてお牧ににらまれたが、光姫は言い返せなかった。

「だから、これもご存じないでしょう」

 と従寿はお牧に頷くと、二人で平伏した。

「俺達も結婚します。お許しを願います」

「この人は一人では心配ですから、私が付いていてあげないと」

 そう言いつつも、お牧はうれしそうだった。

「そうだったの! 当然反対なんてしないけれど、全く知らなかったわ!」

 光姫が驚くと、恒誠が言った。

「この二人のことは俺も気が付いていたぞ」

「ええっ、では、私だけなの? 鈍いのかしら……」

 光姫がうなだれると、恒誠が慰めた。

「俺のことしか見ていなかったということだから、俺はうれしいぞ」

「まあ、言うようになったわね!」

「姫様は一直線ですからな」

 具総が言って大笑いになった。

 明日の夜には、その二組も一緒に婚儀を挙げることになっている。だが、その場に華姫はいない。新しい国母の立場を考慮して、民に一緒のところを見せない方がよいだろうということになり、前日に国を去ったのだ。

 それで、昨日の夜、光姫と恒誠は、華姫夫婦と芳姫と五人で食事の席を設けた。誰も口にしなかったが、別れの宴だった。光姫は母の形見の花嫁衣裳を着て見せ、華姫は涙を浮かべてほめてくれた。

 その後、二人の妹が芳姫の髪を切った。腰まである長い髪を首の後ろで断つと、お絹がきれいに整えて、芳姫は頭巾を被った。一緒に出家するお絹の髪は芳姫が切ってやった。

 華姫は姉が国母と知っていながら追い詰めるようなことをしたことを謝ったが、芳姫は首を振った。

「あなたのせいではありません。いずれ道久殿は行動を起こしたでしょうし、結果は恐らく変わらなかったと思います。戦でそれが早まっただけです」

 そうして、三人は夜更けまで思い出を語り合い、久しぶりに一緒の部屋で寝た。

 それを思い出してまた涙が浮かびそうになった光姫を、恒誠が腰に手を回して引き寄せた。

「先程華姫殿と抱き合っていたのは異国の風習だそうだな」

 光姫は急いで目をぬぐって答えた。

「そうよ。海国丸の時もああして別れたのよ」

「聞いている」

 恒誠は言って、ささやいた。

「俺はもう一つ、異国の風習を知っているぞ」

「どんな……、えっ?」

 恒誠は言葉で答える代わりに光姫の唇を奪った。

「なっ、何をするの!」

 光姫もこの行為の名前は知っていたが、初めてだったし周囲に人がいるので、慌てて離れようとした。

「嫌か?」

 恒誠は光姫の腰を抱えたまま尋ねた。

「みんなが見ているわよ」

 ささやき返すと、恒誠は「そんなことが気になるのか」と悄気(しょげ)た様子だった。

「恥ずかしいけれど、どうしてもしたいのなら、いいわ」

 可哀想になって言うと、恒誠はにやりとした。

「ならば、続きだ」

 言うなり、光姫を抱き寄せた。

「意外と強引なのね」

 光姫は呆れたが、自分から夫の口に自分の唇を近付けた。

 具総の咳払いが聞こえ、「俺達も」と言う従寿にお牧が肘鉄(ひじてつ)を食わせたようだったが、光姫はもう気にしなかった。背中に手を回して恒誠をぎゅっと抱き締め、初めての口付けを味わいながら、涙を流して、心の中で誓っていたのだ。

 華姉様、芳姉様、お父様、おじいさま。私は自分にふさわしい夫を見付けました。もう、この人を決して離しません。そして、絶対に幸せになります。今よりもっともっと、華姉様よりも誰よりも、私らしく輝いてみせますから、見守っていて下さい!

 やがて体を離した光姫は、手をつないだままじっと海を見つめ、濡れた目を拭くと、恒誠と連れ立って桟橋を戻っていった。銀炎丸がすぐに従い、芳姫、実鏡、泰太郎、家老達、従寿やお牧が後に続いた。

 光姫はもう前だけを見て、海を振り返ることはしなかった。


 こうして、一年に渡る戦いは終わった。この大戦は、三姉妹が中心にいたことから、後世三花(さんか)の乱と呼ばれるようになる。

 年が改まった降臨暦三八七一年の春始節に、元狼公直孝によって国母光姫を長とする新たな御前衆が任命され、新時代が始まった。大翼に萩矢頼統、武者総監に槻岡良門、仕置総監に織藤恒誠が就任した。泉代成保や楠島運昌など他の武官は留任し、笹町則友は九国総探題の重職を任された。

 実鏡はまだ十五歳のためすぐには役職に就かなかったが、二十歳になった時に武者総監を引き継いだ。豊梨家は雲居国を引き払う際、影岡の町に出向いて戦いに協力してくれた民に感謝の言葉を伝え、皆のために使って欲しいと多額のお金を預けたので、良い領主だったと惜しまれた。

 桜舘直利はしばらく望天城で直孝と共に学んだ後、岸根国(きしねのくに)四十一万貫をもらった。友人かつ忠実な臣として直孝を長く支え、後に恒誠の後を継いで大翼を務めた。広芽の方は道久の蜂起時に捕らえられて法花寺(ほっけじ)に閉じ込められていたが、やがて息子の仲介で直孝に謝罪して許され、芳姫と和解して茶飲み友達になった。

 蓮山英綱は内宰に任じられた。兄が病気を理由に隠居したので当主となったのだ。御前衆入りの内示を受けた時、英綱は喜んで受けると言ったが、光姫に家臣達の説得を手伝って欲しいと頼んだ。英綱は鷲松家を下して恒誠達と都へ戻ってきた翌日、茶屋へ行ってお町に求婚したのだ。もちろん小柄な町娘は顔を真っ赤にして頷いたのだが、蓮山家では反対の声が大きかった。

 当主になるのではなおさら認められないとか、側室にして正室は別に置くべきだとか、家老達が実にやかましいと相談されて、光姫はとっておきの方法を教えた。それを聞いて大笑いした英綱は早速玉都屋敷に戻ると家老達を呼んで言った。

「お町殿との結婚を認めてくれぬのなら、私は武家をやめて茶屋で働く。家督も継がない」

 光姫達との関係からも、影岡城救援や合戦での活躍で得た名声からも、英綱は蓮山家の今後に必要だったので、家老達もこれには折れるしかなかった。

 内宰なので表舞台に立つことは少なかったが、国母と元狼公の信任厚く、光姫恒誠政権の重鎮として、諸侯の意見の取りまとめや直孝とその子供達の教育などに大きな功績を残した。お町は光姫と仲良くなり、諸侯の奥方や娘達を通じて情報を集める役目を務めつつ、民情に詳しいことから桜祭や貧民救済といった施策にも関わって、夫と共に政権を陰から支えた。

 蕨里(わらびさと)恒寛(つねひろ)鷹名(たかな)敏方(としかた)新芹(にいぜり)康竹(やすたけ)柳上(やながみ)家の当主も裁事を歴任し、長く御前衆を務めた。

 萩矢・槻岡・泉代・楠島・蓮山・豊梨・織藤・笹町家は藍生原八家と呼ばれ、御前衆の主要な役職を独占するようになる。やがて、それぞれに諸侯が味方して派閥争いをするようになり、政情は混乱していくが、それはずっと後の話である 

 パシクは父から家督を譲られ、二万貫の封主として認められた勇留夫家の初代当主として、望天城の警備役をその後も務めた。息子が直孝と同い年だったので近習として仕えさせ、親子で直孝の治世を助けた。

 勇留夫家は貫高が全封主家で最少だったが、内情は裕福だったと言われている。パシクが産物の販売に力を入れたからだ。

 ユルップ諸島には魚を特産のスグラシの木の実の汁に長く(ひた)して干した保存食がある。都に応援に駆け付けた時、食料としてタフリが大量に持っていき、合戦後に都の人々に配ったところ、独特の匂いを嫌う者も多かったが、味に惚れこんだ者もまた多かった。パシクは商売になると思い付き、都でそれを使った料理屋を開いて宣伝に努めた結果、ユルップ領一番の名産品になった。果物や工芸品も積極的に販売し、それらの利益は島の暮らしを豊かにした。だが、都に出た若者達は故郷に戻らなくなり、やがて玉都屋敷と国許(くにもと)が対立するようになる。

 皆馴憲之は侠兵会(きょうへいかい)の仲間や義勇民達と一緒に織藤家に仕官し、筆頭の撫倉安漣や伍助と並んで家老に任じられたが、武家の堅苦しい暮らしになじめず、三ヶ月ほどで職を辞して雲居国で酒造りを始めた。恒誠に飲ませてもらった大社酒が忘れられなかったのだ。

 憲之は仰雲大社で修行して作り方を覚えると、影岡城の厨房で働いた女衆を職人として雇い、苦心の末大量生産に成功した。そして、恒誠に頼んで揮毫(きごう)してもらった字を恵国から伝わったばかりだった印刷機で()って竹筒に貼り付けて、「軍師酒」と称して売り出した。

 澄酒(すみざけ)の珍しさに加え、人気の高い恒誠の好物という売り文句と、その配下で実際に戦った武将が作っているという事実が話題となって酒は飛ぶように売れた。更に、憲之は田美国から貴重な大社酒用の稲を取り寄せて栽培に挑戦し、それで酒を造って高級酒として売り出すと、これまた大評判となった。統国府も米の新しい使い道として酒に注目し、積極的に援助して重要な輸出品に育て上げた。

 富豪になった憲之は、その金で都の郊外に孤児院を作り、自立できるように学問と礼儀作法を教えた。子供達は憲之の酒蔵の職人や店員になったり都の商家に雇われたりして、出世した者も多かった。

 やがて、百家商連から子弟や新入りの店員の教育を頼まれるようになり、学校を併設して、大店(おおだな)の番頭や大商家の隠居などを招いて講義をしてもらった。この(まな)()は都の老舗の店員なら出ていて当然と言われるまでになり、商人達の学問や礼儀の程度を高め、同じところで学んだ者同士のつながりを作り、国内に隠然たる勢力を持つようになる。

 憲之はこの学校で農業技術を研究させ、日照りや冷害に強く収量の多い稲を作り出すなど、吼狼国の民の生活に大きな影響を与えた。これに刺激されて恒誠は都に武家のための学校を作り、武芸や学問を教える他に政策の研究もさせ、民の皆馴学校、武門の織藤学校と並称されて、吼狼国の発展を支える人材を次々に輩出していくことになる。

 学校は光姫も作った。直孝のために、人質として都にいる封主家の少年達を望天城へ集めて共に学ぶ場を設けたのだ。師範役には高名な武人や学者を招き、英才教育を施した。友達が増えて直孝は喜んだし、直利や実鏡を始めとする同世代の諸侯を団結させることになって改革の成功にも寄与した。封主家の子弟が家臣の気持ちを理解するのにも役立ち、利発で将来性ある人材を発掘することもできた。やがて、いじめの発生や諸侯の派閥の形成を加速させるといった弊害(へいがい)が現れて問題の温床(おんしょう)となっていくが、それは光姫達の時代よりずっと後の話だ。

 最後に三姉妹のことである。

 芳姫は城内の尼寺が完成するとそこに入った。毎朝奥向きへ行って直孝や光姫と朝食をとる他は外へ出ず、直信と道久と戦いで死んでいった者達の光園(こうえん)での幸福を大神様に祈って過ごした。部屋の神棚には、直信のくれた紅い扇と道久の贈り物の赤い数珠が置かれていた。小さな尼寺の庭には穂雲城の実から育てた三本の梅の木があって、毎年春先に妹と息子と一緒に眺めるのを楽しみにしていたという。

 光姫は諸侯の子女の教育にも力を入れたいと考えて姉とお町に相談し、芳姫の尼寺がその場所となった。芳姫は法花寺の高名な尼僧や徳の高い学者などを招いて一緒に学び、少女達の相談に乗ってやったので、晩年は多くの教え子に囲まれていたという。

 なお、芳姫は乱の翌年密かに男児を出産している。名目上は(ひろ)()とされたが、弟を欲しがっていた直孝は利発なこの子を可愛がり、一字を与えて梅枝孝陸(たかみち)と名乗らせ、側近に取り立てて重用した。彼は直孝の忠実な家臣として国政に重きをなし、やがて十万貫の封主にまでなる。

 桑宮家は息子が家督を継ぐことを許されたが、貫高は五千貫に減らされた。大翼として国母を危険にさらした罪を問われたためだが、身を(てい)して守ったことを考慮され、半減で許された。霞之介は主君を撃ってしまった後いずこかへ逃亡し、その後の行方は(よう)として知れない。隆国へ渡ったとも、吼狼国の片隅に隠棲(いんせい)して静かに余生を過ごしたとも言われている。

 華姫は禎傑と大陸で新たな戦いを始めた。

 吼狼国を離れた大船団は、第五皇子の支配する恵国中西部の半島へ向かった。その先端の青囲(せいい)突辺(とつへん)港にいきなり船を乗り入れて奇襲し周辺を制圧すると、禎傑軍は迎撃に来た太守の軍勢を華姫と涼霊の立てた作戦で撃破し、拠点を確保した。すぐさま頑烈に船団と兵士の半分を預けて南海州に派遣し、新任の太守を追い出して取り戻すと、南と北から第五皇子の領地へ侵攻を開始、連戦連勝で本拠の大都市を陥落させた。第五皇子は無能で政治に興味がなく、横暴な家臣の好き勝手にさせて恨まれていたので逃亡中に民に殺され、禎傑軍は歓呼の声に迎えられて入城した。華姫は田美国から運んできた米を民に配り、税も下げて仁愛厚い皇子という評判を得る一方、吼狼国との貿易に力を入れ、国を富ませた。

 こうして恵国西部の沿海地方に確かな足場を築くと、禎傑は北西部を治める第三皇子と同盟を結び、第八皇子が支配する南方へ進軍を開始した。まずは弱いところを叩いて支配地域を増やし、兵力と経済力を強化しようと考えたのだ。第八皇子は皇帝に殺された第二皇子の領地を併合して勢力を拡大していたが、南方では蛮族を平定した禎傑の人気が高く、二人の名軍師に支えられた常勝の皇子は次々に都市を落としていった。追い詰められた第八皇子は南方の勇猛な部族と手を組んだが、華姫の懐柔策と涼霊の内部攪乱策によって部族を分裂させて弱らせ、寝返らせることに成功した。焦った第八皇子は涼霊の扇動(せんどう)で反乱を起こした民を弾圧したため人心を失い、禎傑軍が中心都市に迫ると軍を置き()てて逃亡し行方不明となった。こうして、禎傑は南方を版図(はんと)に加え、恵国の四分の一を支配するに至った。

 その間に第三皇子が隆国と結んで永京を落とし、皇帝を殺して新帝を名乗った。禎傑は断交し、正面から大軍を向かわせると思わせて背後を頑烈に攻めさせ、南と西から領地に深く進攻して本拠を落とし、精強を(うた)われた大軍を瓦解(がかい)させた。北部にあった領地を占領されて捕虜になっていた第九皇子が隆国の野心家の将軍の傀儡(かいらい)として永京に入ると、彼と隆国軍の連合軍と決戦して勝利し、禎傑は都を制圧する。更に、第十皇子と第十二皇女の双子がこの戦いに援軍を送らず勝った方を叩こうとたくらんでいたことを知ると、彼等の治める東部に頑烈と涼霊を派遣して圧倒し、降伏させて恵国の統一を成し遂げた。

 華姫は兵法書を読みあさって知識を蓄え、禎傑を助けて共に戦った。涼霊は主要な遠征のほとんどを立案し、幾度も会戦や城攻めを勝利に導いた。頑烈は大将軍として、禎傑が出陣すれば本拠を守り、禎傑が留まれば自身が出陣すると言われるほどの働きをし、主君の覇業を支えた。

 華姫は政略や内政に、涼霊は謀略や戦術に特にすぐれていたが、それ以外にも高い能力を持っていた。後世の歴史家は、禎傑は決断力に富み将軍や総大将としては非常にすぐれていたが治政や策謀はさほど得意ではなく、二人の軍師がそこを補ったと評している。彼等の有能さを象徴するのが、禎傑軍に連敗して追い詰められた第十皇子と第十二皇女に、重臣が降伏を進言した時の言葉だ。

「華姫も涼霊も片方がいれば大陸を平定できると言われるほどの名軍師です。それを第七皇子は二人も抱えているのです。到底我々に勝ち目はありません」

 七年かけて恵国を平定し皇帝となった禎傑は、二年の休息の後、()皇后と呼ばれるようになった華姫や涼霊と共に隆国との戦いを始めた。自ら遠征すること五度(ごたび)、十三年の歳月をかけて隆国を滅ぼし、かつての大帝国が復活する。この功績から、禎傑は恵国中興(ちゅうこう)の祖と呼ばれることになる。

 華姫は光姫との約束を守って恵国内の吼狼国人を保護し、貿易の振興に取り組んだ。二人は終生手紙のやり取りを続け、その信頼関係が揺らぐことはなかった。華姫は荒廃した恵国を立て直し奴隷制度を廃止した偉大な政治家兼軍師として尊崇され、五人の子供の母になった。その血を引く子孫達も吼狼国と事を構えてはならぬという華姫の遺訓を守り、両国の友好関係は長く続いた。

 政資達は禎傑の親衛隊に配属され、それぞれ恵国人の妻を迎えた。景隣はラハナと結婚した。自分が華姫を命を懸けて守ろうとしてきただけに、身を盾にして助けようとしてくれた年下の侍女の本気を理解し、うれしく思ったのだ。恵国へ去る時、見送りに来た母に紹介し、渡ってから華姫の媒酌(ばいしゃく)で婚儀を挙げ、三人の子をもうけた。ラハナは長く華姫の侍女を務めた。

 彼等八人の子孫は皇帝を警護する一族として長く続いていく。サタルは暴波路国へ帰った六百人のまとめ役を務め、暴波路国王の顧問として吼狼国や恵国との貿易と外交に関わった。

 光姫は長く国母として御前衆の(おさ)を務め、六十を過ぎて夫と共に隠居するまで統国府の中心にいた。貿易改革と経済の活性化、統国府の財政の立て直しに取り組み、武守家と諸侯による吼狼国の支配体制の強化に成功したとされる。

 道久は大陸との貿易を統国府の管理下に置こうとしたが、光姫と恒誠は逆に自由にして諸侯に奨励した。譜代や外様といった制限をやめて全封主家に開放し、複数の封主家が共同して船を送ったり領内開発や名産品の研究をしたりすることを認めたのだ。

 生産物の割り当てもせず、こういうものがよいと情報を提供して呼びかけるにとどめ、同じ産物ばかりにならぬように、商工奉行の下に封主家同士の話し合いに立ち会って調整する役職を設けた。その方が各産地が品質を競い合い、よりすぐれたものが作られると考えたのだ。値崩れしないよう、必要に応じて統国府が一時的に買い上げ、商人を通じて売買することもした。

 また、船の積荷の三分の金額を納めさせるかわりに難破(なんぱ)した際に統国府が全額を補償(ほしょう)する仕組みも作った。これは泰太郎が考えたもので、百家商連の協力もあって損が出ないように運営された。華姫が恵国でもまねをして、貿易に乗り出す諸侯や商人が大幅に増えた。

 これらの施策によって恵国との貿易は年々盛んになったが、その最大の交易品は米だった。禎傑が統国府から買った米を民に安く売ったことで、小麦が主食だった恵国の中部や北部でも米食が広まったのだ。皇后の華姫が好んだこともあって、貧しい者達の食べ物とされていた米が見直され、新しい料理文化が花開いて、永京などの大都市には吼狼国風の料理屋が立ち並ぶようになった。華姫が行わせた大規模な開墾で恵国南部には広大な田園地帯がいくつもでき、主食が二つになったことで片方の実りが悪くても国全体が飢饉(ききん)に陥ることはなくなった。

 田美国では恵国軍から学んだ技術による鉄砲の生産が盛んになり、国内だけでなく恵国へも供給され、暴波路国にも輸出されるようになる。恵国からは硝石が輸入され、吼狼国の硫黄と合わせて火薬が作られ、鉱山などで使われた。その副産物として花火の技術が進み、桜祭以外にも大会が多く開かれるようになって、都の名物として定着していく。

 禎傑陣営から供与(きょうよ)された生産技術によって吼狼国では石鹸の値段が劇的に下がった。庶民も使えるようになったことで疫病(えきびょう)の流行が大幅に減り、暴波路国へも輸出された。

 蒸留酒造りも始まり、衛生状態の改善や医療の発達に役立った。高黍(たかきび)を原料とする恵国の透景酒に対して、米を原料に造られる吼狼国の蒸留酒は花酒(はなざけ)と呼ばれ、恵国と暴波路国にも売られた。

 この花酒造りで中心的な役割を果たしたのが白林宗明だった。宗明は影岡城を退去した後、伝手(つて)を頼って守国軍の小封主家に身を寄せていたが、藍生原の合戦で光姫達の夜襲を知って、「これは織藤公の作戦でしょう。恐らく必勝の策があるはずです。すぐに味方して巍山と戦いましょう」と進言した。小封主は迷ったが宗明は説得して寝返らせ、その結果若様達以外で最初に光姫達に味方した家として加増を受けた。

 小封主は喜び、宗明を召し抱えて家老にしたが、戦が終わり、影岡城を退去した事情が噂になって広まると、よそ者の抜擢に不満を持つ家臣達の非難を浴びて居づらくなった。小封主は引き留めたが宗明は浪人し、都で次の仕官の口を探した。しかし、どの家も光姫達の怒りを恐れて雇ってくれなかった。宗明はさすがに気落ちして、酒を飲む日が多くなった。

 そんな時、夜遅く料理屋を出て長屋に戻る途中、若い娘が五人の浪人にからまれているのを見かけて助けに入った。宗明の腕前に浪人達が逃げ去ると、救ってくれた男の美貌と強さに一目惚れした娘は家に連れて帰り、この人と結婚したいと両親に言った。百家商連の一員である老舗の酒屋の一人娘だったのだ。

 宗明は断ろうとしたが、恩人だからともてなされている内に悪くない話だと思うようになり、両親も噂に聞くような悪人ではない、娘が惚れているならと承知したので、武家をやめて商人になった。

 そこへ、統国府が蒸留技術を学びたい酒屋を探しているという話が舞い込んできた。宗明はこれだと思い、両親と妻を説得すると、光姫夫婦に面会を申し込んだ。二人は懐かしい人が来たと喜んで迎え、宗明に蒸留酒造りを任せた。宗明は苦心の末、米から吼狼国人の好みに合った酒を造ることに成功し、店は大繁盛した。

 泰太郎は幟屋に戻り、後に当主となった。何度も恵国に渡って貿易の振興に尽力する一方、完成した絞り吹きの技術や松葉灰の利用法を公開し、金銀の増産に力を入れた。三花(さんか)の乱の結果金山や銀山をいくつも手に入れた武守家は雲居国に大規模な作業場を作り、特産の硫黄を使って盛んに絞り吹きを行い、諸侯の派遣した職人に技術を教えた。影岡や穂雲では金や銀をまぶした料理まで登場し、名物となった。

 金銀を利用した装飾品や工芸品の生産も始まり、象嵌(ぞうがん)蒔絵(まきえ)螺鈿(らでん)などの技法が大きく進歩して、木工品などにも広まっていった。吼狼国の銀器は恵国を経由して世界中に売られ、とりわけ東大陸で珍重されて貴族階級の間で大流行した。

 これらの装飾に使う真珠や紅玉(こうぎょく)や金剛石といった宝玉は暴波路国から輸入された。吼狼国は主に上質な米を輸出し、(いも)が主食だった暴波路国で富裕な人々に歓迎された。泰太郎は異国の書物を参考に真珠の養殖法を発見し、暴波路国の主要産業に育てた。また、椰子(やし)の実から油が取れると知って大量生産する方法を研究させ、それも重要な輸出品となった。

 御料地となった穂雲や苫浜(とまはま)は、暴波路国貿易の玄関口として多くの船でにぎわった。更に、統国府は高稲半島の南の姉妹島(しまいじま)にも町や港を作った。これを任されたのは鷲松領内にいた半奴隷の人々だった。三百年以上前に首の国で暴れた封主家の家臣達が鷲松家に預けられたまま許されることなく、隠し鉱山などで働かされていたのだ。鷲松家の経済力を削る目的もあって統国府は彼等五万人を解放し、無人島だったこの二つの島に入植させた。

 暴波路国や南海州との交易が始まると、中継地点として牙伐魔族領の重要性が高まった。統国府、禎傑陣営、暴波路国はそれぞれ使者を送り、族長と協定を結んで嵐の海を渡る前の寄港地として整備を進めだ。

 ここで役立ったのが束子箒(たわしほうき)だった。椰子(やし)の実の繊維はたくさんあったので、住民に作り方を教え、立ち寄る船に売らせたのだ。航海中の栄養補給用に果物や野菜を育てさせたり、羊や豚や牛を飼わせて塩漬け肉を作らせたりして現地に産業が生まれると、やがて海賊被害はなくなっていった。

 貿易の発展に一生を(ささ)げた泰太郎は、百家商連の会頭を長く務め、その公正さや業績の大きさから吼狼国商人の(かがみ)と呼ばれた。千鳥島の村長の娘との間に四人の子に恵まれ、島の産業の発展にも力を注ぎ、常に民のことを考えた商売をせよという教えは幟屋の家訓として国中で知られるまでになった。

 光姫は結婚の翌年男女の双子を生んだ。男児は織藤家の跡継ぎとなり、女児は十五になった時に直孝に嫁いだ。幼い頃から共に育った二人は仲睦まじく、母と共に直孝の六十年に及ぶ治世を支えた。光姫の次男は輝隆の婿養子となり、梅枝家を継いだ。

 首の国と(かかと)の国に領地が分かれた梅枝家は、それぞれ追堀師隆と餅切具総が筆頭家老となって治めた。光姫や輝隆が存命の内はよかったが、やがて両者は対立を深めて二家に分裂した。

 銀炎丸は光姫夫婦と織藤家の玉都屋敷に住んで十九歳まで生きた。真澄大社で行われた葬儀で光姫は大泣きし、十万を超える民が全国から集まって、神獣として祭られることになった狼に祈りを捧げた。銀炎丸の子孫は望天城で飼われて城の守り神とされ、代々の元狼公に可愛がられた。

 光姫と恒誠の行った改革は、英傑夫婦の新政、おしどり賢治(けんち)の世と呼ばれた。乱を収めて武公が実現した平和を取り戻し、その後の長期に渡る安定と繁栄の(いしずえ)を築いたと評価される。光姫以後、国母の称号を得た人物はいない。

 全諸侯会議も毎年行われ、統国府の一年間の方針を決定し周知する場として機能した。大きな目標は御前衆が決め、諸侯や奉行達は自分の仕事に一生懸命働けばよいのではないかという批判もあったが、春の重要な行事として定着していった。少なくとも光姫の時代は、苦しい戦いを仲間と心を一つにして乗り切ったようにみんなで一緒に国を作っていきたいという理想に、多くの諸侯が賛同していたとされる。

 後世二人は狼神の加護を受けた救国の英雄と(あが)められることになるが、同時代の人々にも絶大な人気があり、その施政は高い支持を得ていた。ある文人がこう書き残している。

「あの二人が今回打ち出した施策には反対だ。国内を見渡せば上手く行っていない部分や不満に思うことはたくさんある。それでも、政権の座にある者達が、自分や仲間の利益のためでなく、心底国の繁栄と民の幸せを願って(まつりごと)を行っていると信じることができる今は、幸福な時代なのかも知れない」

 一方、華姫は恵国では尊敬されたが、吼狼国では売国奴として名を残した。恵国軍に占領された国々の民を守ったし、禎傑に惚れられたことで内紛の原因になるなど役に立ったと弁護する者もいたが、故郷と同朋を裏切り侵略者に加担したと罵って憎む者も多かった。果たして華姫の存在は吼狼国のためになったのか、はたまた稀代(きだい)の悪女か、世の意見は真っ二つに割れた。ただ、華姫がいたからこそ、戦った両国が再び手を取り合って友好を築き、共に発展することができたということは、誰も否定できなかった。

 芳姫についても、望まずに最高権力者に祭り上げられてしまった不幸な女人と見る人と、国難の時に無策で男に溺れ、巍山の台頭を許し都まで攻め込ませてしまった愚かな女と非難する人がいた。

 光姫はこれについては(もく)して語らなかった。晩年、その業績と才を(たた)えられるたびに首を振って、姉達にはとてもかないませんと答えたという。

 梅枝姉妹が両国の政治を安定させ友好関係の基礎を築いたことで、吼狼国は平和な時代が長く続いた。その平穏は数百年を()た後に再び破れ、新たな戦乱が巻き起こるのだが、それはまた別な物語である。


                                 終わり


『花の戦記』 戦後の吼狼国図

挿絵(By みてみん)


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