「お姉様が私の首飾りを盗んだの!」と義妹が叫んだのは、お母様の肖像画の真下でした
「……これを」
歌劇場に向かう馬車の中で閣下が私の膝に小さな箱を置いた。
黒い天鵞絨の箱。
開けると、銀の鎖の先に三日月の形の青玉が一つと、しずく形の真珠が三つ。
「え……うそ、うそでしょう!? これ、お母様の……!」
「宝石商の棚にあった。君が話していた形と同じだったから」
「ど、どうして……どこの宝石商ですの? いつ?」
「……探した」
探した。
探した、って。
王都に来てまだふた月足らずの北の辺境伯様が、私が一度だけ話した首飾りを?
アルノルト・ベルクマン辺境伯。
見上げるほど背が高くて黒髪で、左の頬に古い傷があり、社交界では「北の熊」と呼ばれている方である。
口数が少なくて、笑うと目尻にしわが寄る。まさに今みたいに!
かっこいい。
好き。
待って、今そんな場合じゃないのに好き。
「着けてもいいか?」
「は、はいっ……お願いします」
大きな手が私の首の後ろで小さな留め金と格闘を開始した。
不器用なくせに、指先の動きは驚くほど慎重。
「……留まらん」
「ふふっ。閣下、もう少し右ですわ」
「右……こうか」
「あっ、留まりました!」
閣下は箱の底に入っていた折り畳んだ紙を、黙って上着の内ポケットにしまった。
何の紙だろう? 聞こうとして、首元の重みに気を取られて忘れてしまった。
窓の外を白いものがちらちらと舞っている。初雪だ。
亡くなった母は、昔、王立歌劇場の歌姫だった。
名前はエルミナ。三十年前に『月の女王』を百回歌い、その百回目の夜に先代の王妃様からこの首飾りを賜ったのだと、私が小さい頃に何度も話してくれた。
母はそれを「月の雫」と呼んでいた。
母が亡くなったのが九年前。
父は八年前に後妻のドロテお義母様を迎え、お義母様は自分の娘のジゼルを連れてきた。
そして去年、父も亡くなった。
父の葬儀の翌日、お義母様は母の宝石箱を「預かって」いった。
「あなたにはまだ早いわ、セシル。わたくしがきちんと管理してあげますからね」
以来、その箱は一度も開けさせてもらっていない。
◇
そもそも閣下との縁談は、ジゼルに来た話である。
「北の熊なんて絶対いやーっ! 野蛮な辺境に嫁いで凍え死ねっていうの? お姉様が行けばいいじゃない!」
結果、その縁談は私に回ってきた。
お義母様は「子爵家の娘ならどちらでも同じでしょう」と言って、先方への返事を書き換えた。
どちらでも同じ?
私にとっては、全然違ったのだけれど。
ひと月前、初めてお会いした日の閣下は、応接間の小さすぎる椅子に窮屈そうに座っていた。
私の淹れたお茶を一口飲んでぼそりと一言。
「……うまい」
「お、お口に合ってよかったです」
「北の茶は渋い。これは、渋くない」
会話はそれで終わった。
ところが帰り際、玄関で転倒しかけた小さな従僕の子を、閣下は片手でひょいと受け止めた。そのまま膝をつき、目の高さを合わせて一言。
「怪我は」
「な、ないです!」
「そうか。走るなら、前を見ろ」
それで私は完全に陥落した。
ひと目惚れって実在するのね。知らなかった!
◇
王立歌劇場の大ロビーは、毛皮と宝石の光で目が眩むほど華やかである。
正面の大階段の途中の踊り場には、等身大より大きな肖像画が掛かっている。
銀の冠に月の色のドレス、胸元に青と白の光を下げた女性の絵。
額縁の下の金の札には『歌姫エルミナ 「月の女王」百回記念』と刻まれている。
お母様、来たわよ。
私は心の中でいつもの挨拶をした。
お義母様は家で母の話をすることを禁じたし、今の社交界で子爵家の先の奥方の話をわざわざ持ち出す人もいない。
誰も気づかない。
それで構わないと思っていた。
「……似ているな」
閣下が絵と私を見比べて、感心したように呟く。
「そ、そうですか?」
「ああ。目が同じだ」
待って。
今、私の目を見て言った? 言ったわよね?
心臓が口から飛び出しそう。
「あら、セシル。……え?」
背後で聞き慣れた声がした。
振り向くと深緑のドレスのお義母様と、黄色いドレスのジゼルが立っていた。
「ご、ごきげんよう、お義母様」
「まあ……そのドレスはどうしたの? わたくし、そんな空色のドレスを作ってあげた覚えはないけれど」
「閣下が、今夜のためにと」
「辺境伯様……? え、うそ。熊じゃない……」
ジゼルの目が閣下を見上げて、まん丸になっている。
聞こえているわよ、ジゼル。
閣下は聞こえないふりをして会釈した。大人。素敵。
その後、ジゼルの視線がすっと下がって私の胸元で止まった。
「……それ」
私も聞こえないふりをした。
閣下を見習って。
◇
私たちの桟敷は二階の左の五番。閣下が今夜のために手配してくださった。
真向かいの右の五番にはお義母様とジゼル。
開演前の明るい客席越しにジゼルが扇の陰からこちらを睨んでいるのがはっきり見える。
「閣下、あちらで義妹がものすごい顔を……」
「見なくていい」
「はい!」
中央奥の王家の桟敷に、金髪の王太子殿下と桃色のドレスのご令嬢が入ってくると、客席が少しざわついた。
殿下の婚約者って、あの方だったかしら?
まあ、どうでもいいわ。
今夜の私は、隣の人の横顔を観察するので手一杯なのだから。
開演のベルが鳴って灯りが落ちると、閣下が身を屈めて小声で尋ねた。
「君の母上も、この舞台に立っていたのか?」
「はい。毎晩、寝る前に『月の女王』の子守歌を歌ってくれました。……下手な歌詞の替え歌で、ですけれど」
「替え歌?」
「『月の女王はお腹がすいた、蜂蜜パンを三つ食べた』って」
閣下が、ぐっと喉を鳴らした。
笑いをこらえている。こらえきれていない。
この人、こんな顔もするんだ。好きなところがまた一つ増えた。どうしよう、困る!
◇
第一の幕間、閣下は大ロビーで温かい葡萄酒を調達してきてくださった。
人の輪の真ん中では、朗らかな声の殿方が演説中だった。
「いやあ、皆さん。妻は病弱でね。屋敷から一歩も出られないんだ」
隣に紫のドレスと羽根の扇の女性を連れて、殿方は気難しそうなおじいさまに何かの書類を差し出している。
その時、大階段から黒いヴェールの女性が降りてきた。
灰青のドレスで、母の肖像画の前を通り過ぎ、一段ずつ。
賑やかだったロビーが、端から順に静まり返っていく。
「ごきげんよう、旦那様」
ヴェールが上がった瞬間、殿方の顔から血の気が引いた。
続いて支配人さんが大きな帳面を抱えて現れて、おじいさまが頁をめくり、難しい話が始まった。
桟敷がどうとか、紋章院がどうとか。
「閣下、あれは何のお話ですの?」
「……あの男が嘘をついていた、という話だ」
「まあ」
分かりやすい。
説明が短いところも好き。
閣下の横顔に見とれているうちに話はどんどん進んでいて、気がつくと周囲は失笑に包まれ、紫のドレスの女性が扇をばしんと閉じていた。
「冗談じゃないわ! 伯爵じゃないなら、何なのよ!」
女性が正面玄関から出ていき、殿方も慌ててそれを追った。
開いた扉から冷たい風と雪が吹き込む。
ヴェールの女性はまっすぐに立っていた。
涙も見せず、勝ち誇りもしない。
なのに私には、あの人の背中が妙に寂しげに見える。
どうしてだろう。あの人は勝ったのに、私まで切なくなるなんて。
「……嘘をついた人の顔って、明るい所に出るとああなるんですのね」
「そうだな」
ふと見ると、人垣の向こうでジゼルがこちらを凝視していた。
私の顔ではなく、首飾りを。
◇
第二幕が始まってしばらくすると、舞台の白薔薇姫の表情が遠くて見えず、私は目を細めた。
もったいない。せっかく閣下が取ってくださった席なのに。
「あ、あの……よ、よろしければ……?」
隣の左四番との仕切り板の上から、白い貝の柄のオペラグラスが差し出されている。
若草色のドレスの小柄な令嬢が、耳まで赤くして身を乗り出していた。
「まあ、いいんですの? ありがとうございます!」
覗くと白薔薇姫のまつ毛まで見えた。
すごい!
ついでに隣の閣下の方にもこっそり向けてみる。
「……何をしている」
「い、いえっ! 何も!」
近い。近すぎる。
閣下の耳が赤い? え、照れてる? 照れてるの!? オペラグラス、恐るべし。
隣の令嬢はといえば、舞台より指揮台に熱心な視線を注いでいる。
黒髪を後ろで束ねた若い指揮者さん。
歌手が歌い出す少し前に令嬢の唇が同じ言葉をなぞり、客席が沸くと両手で頬を押さえ、また指揮台の方を見る。
分かる。
分かるわ、その気持ち。
好きな人のお仕事を見ている時って、そういう顔になってしまうもの。
第二幕が終わり、私はオペラグラスを仕切り越しに返した。
「ありがとう! すっごくよく見えたわ」
「そ、それは……よかったです……」
令嬢はまた赤くなった。
どうかお幸せに、と心の中で唱えておく。
◇
第二の幕間。
閣下と大階段を降りて踊り場に差しかかった時、行く手を塞がれた。
いやな予感しかしない。
「お姉様が私の首飾りを盗んだの!」
ジゼルの甲高い声が、吹き抜けの大ロビーに反響した。
周りの視線が一瞬でこちらに集中する。
「ジゼル……?」
「それ、お母様の宝石箱にあったものでしょう!? 私、見たことあるもの! お姉様が盗んで、辺境伯様に取り入るために着けてきたのよ!」
ジゼルの後ろでお義母様が扇を口元に当てた。
「まあ、セシル。なんてことを。……ええ、皆様。それは確かにわたくしの宝石箱にあったものですわ。亡き夫がわたくしに遺したものです」
野次馬がわらわらと集まり始めた。
大階段の上から、第一の幕間のヴェールの女性が、畳んだヴェールを手に支配人さんと降りてくる。助けてほしい、と図々しいことを一瞬考えた。でもあの方は支配人さんに促されて、ロビーの奥に行ってしまう。
若草色の令嬢も、使い走りらしい小さな男の子に袖を引っ張られ、何か言いたそうな顔で人垣の向こうに消えた。
ジゼルが閣下の腕に手を伸ばす。
やめて。その人にだけは触らないで。
「ねえ辺境伯様、こんな泥棒の姉なんて捨てて、やっぱり私と婚約し直して――」
「触るな」
閣下の声は低かった。
ジゼルの手が宙で止まる。
怖い。
こんなに大勢の人に泥棒だと思われるのも、閣下にこれ以上迷惑をかけるのも。
いっそ首飾りを外して渡してしまえば、この場は収まる?
でも、それをしたら。
お母様の首飾りをまた手放すことになる。
いやだ。
今夜だけは絶対にいや。
私は息を吸い、踊り場の壁の高い所に手を伸ばした。
お母様、お願い。今だけ、力を貸して。
「皆様。……あちらを、ご覧になってくださいますか?」
ジゼルの立っている場所は踊り場の真ん中。
母の肖像画の、真下である。
全員の顔が上を向いた。
銀の冠。月の色のドレス。
そして胸元に、銀の鎖と、三日月の青玉と、しずく形の真珠が三つ。
「あれ……同じ首飾りじゃないか?」
「歌姫エルミナ……そういえば、モンフォール子爵の先の奥方はエルミナだったな」
「ねえ見て、あのお嬢さんの顔! 絵にそっくりよ」
ジゼルが口をぱくぱくさせている。
自分の立ち位置に、ようやく気づいたらしい。
「失礼いたします」
人垣を分けて、さっきロビーの奥に消えた支配人さんが一人で戻ってきた。
肖像画と私の胸元を見比べて、静かに頷く。
「『月の雫』でございます。先代の王妃陛下が、百回目の『月の女王』の夜にエルミナ様に賜ったもの。……お嬢様に遺されると、父からも聞いておりました」
父から? 支配人さんのお父様と母は、どういうお知り合いだったのだろう。
今度、ゆっくり伺ってみたい。
お義母様の顔が引きつった。
しかし彼女は、なおも食い下がった。
「え、ええ、ですから、夫の遺品として、わたくしが娘のためにお預かりして――」
「では」
閣下が上着の内ポケットから一枚の紙を取り出し、静かに提示した。
「先月、これを宝石商に売ったのはどなたです」
宝石商の売買証書。
売り主の欄には、ドロテ・モンフォールの署名があった。
馬車で閣下が内ポケットにしまったのは、これだったのだ。首飾りを買い戻した時に、宝石商から受け取っていたらしい。
大ロビーが、しんと静まり返る。
「母君の形見は、遺言が無くとも実の娘のものだ。それを継母が売れば横領になる。……法廷でお話ししましょうか、子爵夫人」
「そ、それは、その……」
お義母様の扇がかたかたと震えている。
ところが先に悲鳴を上げたのはジゼルだった。
「う、売ったの!? お母様、あれ売ったの!? だって先月、私に新しいドレスを作ってくれたじゃない、まさか……このドレス……」
ジゼルは自分の黄色いドレスを見下ろして、みるみる真っ赤になった。
ああ、この子は本当に知らなかったのね。
どこかで誰かがぷっと噴き出し、失笑がさざ波のように広がっていく。
「ジゼル、帰るわよ!」
お義母様はジゼルの手を引いて、大階段を逃げるように降りていった。
階段の下で一度だけ、ジゼルが肖像画の方を振り返ったように見えた。
ざまあみろ! と思った。
思ったのに胸の奥がしくしく痛む。
小さい頃のジゼルは私の後ろをついて回って、「お姉様のお歌、もう一回!」とせがむ子だったのに。
安堵した途端、膝が今になって震え出した。
「セシル」
閣下が初めて、私の名前を呼んだ。
「……よく、言った」
◇
第三幕のベルが鳴っても、私は客席に戻れなかった。
今あの明るい客席に座ったら、たぶん声を上げて泣いてしまう。そんな顔をジゼルに見られたら、一生の不覚だ。
閣下は何も聞かずに二階回廊の端のガラス扉から露台に連れ出してくださった。
雪が降っていた。
広場の街灯の下を、白いものがくるくる回りながら落ちてくる。
閣下は自分の外套を私の肩にかけて、隣に立った。大きい。外套も、閣下も。
「寒くないか」
「は、はい。あったかいです……閣下の匂いがします」
言ってから気づく。今の、口に出してた?
穴があったら入りたい。いや、掘ってでも入りたい。
何を口走っているの、私!?
「……そうか」
閣下の耳がまた赤くなった。熊なのに、かわいい。
オペラグラスが無くても分かるくらいに。
「……さっきの、蜂蜜パンの歌」
「え?」
「聞いてみたい」
「い、今ですか!? こんな所で?」
「誰も聞いていない」
広場の御者さんたちは馬車の中で丸くなっている。
私は小声で母の替え歌を一節だけ披露した。
月の女王はお腹がすいた。蜂蜜パンを三つ食べた。
白い息が雪の中に溶けて消える。
お母様、聞こえた?
「……いい声だ」
「母の方がずっと上手でした」
「俺は、こっちがいい」
俺、と言った。
今、初めて「俺」って言った!
「あの縁談は、押し付けられたものだろう」
「え?」
「君の義妹が嫌がって、君に回ってきたと聞いた。……嫌なら、今からでも断っていい。首飾りは、それとは関係なく君のものだ」
閣下は前を向いて雪を眺めている。
本当に、なんて不器用な人なんだろう。
私の目が潤んでいるのに気づいて、わざと視線を外してくれている。
ずるい。そういう所が本当にずるいのよ。
嫌なわけがないでしょう?
ひと目惚れして、このひと月は毎日惚れ直しているのに!
「嫌じゃありません! す、好きですっ!」
言っちゃった。
声が大きすぎて、広場で待っている御者さんがこちらを見上げた。
閣下は目を丸くし、やがて目尻にしわを寄せた。
私の一番好きな顔。
「なら、春を待たずに北に来てくれるか、セシル」
「……はい。アルノルト様」
名前を呼ぶと、大きな手が私の手を包んだ。
うそ。待って。手が、大きい……もう何も考えられない。
手袋越しなのに熱い。
どれくらいそうしていたのだろう。広場の時計の針は、いつの間にか十時を回っていた。
その時、背中のガラス扉の向こうで、劇場が揺れるほどの拍手と歓声が湧き起こった。
続いて、若い男の人の裏返った叫び声。王家の桟敷の方からだったような……?
「な……なんだと!?」
何事かしら。
アルノルト様が首を傾げて、私も首を傾げた。
さっぱり見当がつかない。でも今夜は、きっとそういう夜なのだ。
隣の桟敷の令嬢もあの指揮者さんに会えているといい。
母の首飾りに指先で触れてから、私はアルノルト様の手を握り返した。
雪はまだ降っている。
北の冬はもっと寒いと聞く。だが心配は無用。この人の外套は、とても大きいから。
【連作短編】同じ夜、同じ劇場、三人のあいだを行き来する一つのオペラグラス。
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【番外編】「劇場の決まり」(支配人テオドール視点。劇場の内側から見た同じ一夜)
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