最終話 絶対強者の覚醒
「ええ。見れば分かるでしょう?」
黒薔薇の王笏を胸元に抱きながら、薫は艶然と微笑んだ。
同じ顔。同じ声。同じ、遠野薫。
だが、それは朝比奈悟の知っているネコでは、断じてなかった。
いつもなら、名前を呼ぶだけで可憐に肩を跳ねさせる。少し強く手首を掴めば、困ったように細い眉を下げてすがるような目を向けてくる。強引に抱き寄せれば、耳まで真っ赤にして視線を彷徨わせる。
そんな、自分の檻の中でしか生きられない、か弱きネコだったはずなのに。
今、目の前にいる圧倒的な支配者は、泥まみれで傷だらけの悟を、冷徹な双眸で見下ろしていた。
「……っ」
悟の喉が、ひどく乾く。
悔しい。腹が立つ。こんなありえない現実、認めるわけにはいかない。
なのに――どうしても、その冷たい瞳から目を離すことができなかった。
「試してやるよ」
じりざらつくような掠れた声が、悟の唇から漏れた。
薫の細い眉が、楽しげにわずかばかりピクリと動く。
「何をかしら?」
「その強気な女王様面が、どこまで保つかって話だよ」
悟は地面に片膝をついたまま、不敵に口の端を吊り上げた。
いつもの顔。いつもの不遜な挑発。いつもの、すべてを支配する側のタチの笑み。
「学校の体育倉庫の続き、ここでやってやるよ」
そう言って、悟はいつもの慣れた手つきで、薫の細い手首を強引に掴みにかかった。
その、瞬間だった。
「大丈夫?と聞いているのです。」
鈴を転がすような、あまりにも静かな声が降ってきた。
「なに――っ!?」
次の瞬間、悟の視界がぐらりと上下反転するように傾いた。
気付けば悟の身体は地面へとねじ伏せられ、両手首は容赦ない力で一本にまとめ上げられたまま、頭上へと軽々と押さえ込まれていた。
「うぉっ、……あ……!?」
軽い。
薫はまるで、散らかったリボンでも無造作にまとめるような退屈そうな顔で、絶対強者であったはずの悟の腕を完全に拘束していた。
「ほら、怪我をしているじゃない。」
「おい、待て、薫――」
「黙って」
たった一言。温度のない、平坦な拒絶。
それだけで、悟の身体がビクリと不随意に硬直した。自分でも信じられなかった。
今まで、薫に命令されることなど人生で一度もなかった。ましてや、その冷たい一言に、自分の身体が本能的な恐怖と快感で逆らえなくなるなど、ありえるはずがなかった。
薫は空いた方の手で、悟の頬へ細い指を伸ばした。
黒手袋に包まれた指先が、男たちに付けられた血の滲む傷口の輪郭を、愛おしそうに、そして残酷になぞっていく。
「痛かったでしょう?」
漆黒の王冠を戴いた薫の顔が、ゆっくりと至近距離まで近付いてくる。
悟は完全に息を呑んだ。
次の瞬間、傷の走る頬へ、熱く湿った感触が触れた。
「……っ、あ」
「あぁ、悟の血の味……悪くないわ……」
舐められた。
初めて、呼び捨てにされながら。
たったそれだけのことなのに、悟の背筋を、今まで経験したことのない奇妙で熱い戦慄が駆け抜けた。頭の芯が、カァッと沸騰するように熱くなる。
薫が、自分の血を、傷口を、舐めていく。
猫科の猛獣が獲物を検分するように、容赦なく……深く……。
「薫……っ、お前……っ、何をして――」
「あら、ずいぶんと声が震えていますよ、悟」
薫はゆっくりと顔を離し、三日月のように口元を吊り上げて薄く笑った。
「な……っ」
言い返そうとする。いつものように無理やり力でねじ伏せて、からかって、主導権を自分の手元に取り戻そうとする。
だが、頭上でまとめられた両手はピクリとも動かない。身体も重い鎖で縛られたかのように言うことを聞かない。視線だけが、上から見下ろす薫のガラス玉のような冷たい瞳に、完全に縫い止められていた。
「そんなに暴れてはダメよ。いつもの傲慢な余裕はどこへ行ってしまったのかしら、ふふ」
薫は小悪魔のように楽しげに首を傾げた。ドレスの裾から覗く黒タイツの脚が、悟の視界を狂わせる。
「体育倉庫では、ずいぶん偉そうに私を啼かせてくれましたのに……」
「う、うるせぇ……黙れ……」
「……」
薫の貌から愉悦の色がわずかに消える。
「口の利き方……」
黒薔薇の王笏の先端が、悟の顎の下へとあてがわれ、くいと強引に持ち上げられた。
「少し、改めた方がよろしいのではなくて?」
「……っ!」
悟は奥歯が軋むほど噛み締めた。
屈辱だ。間違いなく、人生最大の屈辱だった。
なのに――その屈辱に比例するように、胸の奥底で、悍ましいほどに未知の熱い快感がドロドロと膨れ上がっていく。腹立たしいほどに。絶対に認めたくないほどに、脳がこの支配に歓喜していた。
薫はそんな悟の陥落の兆しを鋭く察知し、さらに嗜虐的な笑みを深める。
「本当に傷だらけで……かわいそう……。いいわ、私が慰めてあげる」
「は?」
「ねぇ、悟。――キッス、『される』のはお嫌いかしら?」
ピタリと、周囲の空気が完全に静止した。
悟の瞳が、驚愕でこれ以上ないほど大きく見開かれる。
「な、何言って――」
「お・き・ら・い・か・し・ら?」
吐息が完全に触れ合うほどの至近距離。薫のまとう黒薔薇の妖艶な甘い香りが、容赦なく悟の鼻腔を支配する。ただ見つめられているだけなのに、心臓が頭の芯まで響くほど激しく波打っていた。低く、甘く、逆らうことを許さない絶対の女王の声。
悟の喉が、極限の緊張でゴクリと鳴った。
「き……」
言葉が喉に詰まる。薫の濡れた唇が、あと数ミリの距離まで迫る。
「きらい……」
いつもの意地で、そこで止めるはずだった。だが、薫の冷徹な瞳が、逃がさないと言わんばかりにさらに細められる。
「最後まで」
「……じゃねぇ」
「口の利き方」
「……です」
言わされた瞬間、悟自身の顔が一気に爆発したように熱くなった。
(は!?)
自分で自分の声に、凄まじい衝撃を受ける。
(俺、今……なんて言った……!?)
敬語。
なぜ、自分があいつに対して敬語を使った。なぜ従った。なぜ、そんな傲慢な顔で見下ろされて、1ミリも逆らうことができなかった。
沈黙。
悟は、自分の口が発した音の意味を、三秒かけてゆっくりと理解した。
――言わされた。敬語で。
それきり、何も言えなかった。
薫は、この日一番の満足そうな笑みを浮かべた。
「よくできました」
頭を撫でるようなその甘い一言で、悟の中の何かが完全に消し飛び、乱れきっていく。
「ちょ……ちょっと待て、待ってくれ……」
震え、情けなく裏返った声音。説得力ゼロの拒絶。
「待ちません」
薫の唇がさらに近付く。
あと、数ミリで触れ合う……その刹那だった。
――チリン、チリン。
あまりにも場違いな、ファンシーな電子通知音が静寂を切り裂いた。
【Magical Transfer】
活動限界に達しました。
安全プロトコルに基づき、Magical Transferを終了します。
「え?」
薫の瞳から、それまで場を支配していた冷徹な光がふっと霧散した。
直後、爆発するように紅蓮の光が弾ける。黒と深紅の荘厳なドレスが霧のように崩れ去り、漆黒の王冠も黒薔薇の王笏も、きらきらとした光の粒子となって大気へ溶けて消えていく。
そして。
そこに残されたのは――見慣れた紺色の制服姿に戻った、華奢な遠野薫の姿だった。
「あ、れ……?」
薫はぱちぱちと、腑抜けたように丸い目を瞬かせた。
おそるおそる自分の手元を見る。なぜか、地面に倒れ込んだ悟の両手首を、押さえつけている。だが、その力は、頼りないほど弱々しかった。
そして目の前には、耳まで真っ赤に染め上げ、信じられないほど荒い息を吐いている悟の顔がある。
数秒。
お互い動かない沈黙。
さらに数秒。
薫の顔から、音を立てるようにして一気に血の気が引いていった。
「あはは……ぼ、僕、今……なにして……たのかな……あはははは……」
悟はしばらくの間、呆然と天を仰いでいた。
そして、ゆっくりと、地を這うような深い息を吐き出す。
「……へぇ」
ドスの利いた、極限に低い声。
薫の華奢な肩が、びくりと激しく跳ね上がった。
「ずいぶん、好き勝手な真似をしてくれたよな、薫」
「あ、あの、違うの悟くん! これは、その、僕の意思じゃなくて……っ!」
「おまけに、最後の最後でお預けまで食らわせてくれるとは、いい度胸じゃねぇか」
悟はゆっくりと上体を起こした。
首を左右に傾ける。
コキ、コキ、と骨の鳴る乾いた音が不気味に響いた。
「たっぷり責任、取ってもらうぜ」
「ひぁっ!?」
薫は大パニックになりながら、狂ったようにスマホの画面をタップした。
「も、もう一回! 変身……っ!もう一回!もう一回!」
だが、画面に非情に表示されたのは、あまりにも無慈悲なシステムメッセージだった。
【Magical Transfer】
変身機能クールタイム:23時間57分
悟が、薫の背後からその画面を冷たく覗き込む。
「ほぉ」
薫の全身の細胞が、恐怖で完全に引きつった。
「それがそのおふざけ変身の秘密か。二十三時間五十七分、か」
「え、えっと、それはつまり……」
「お仕置きの時間、たっぷりあるってことだよなぁ?」
「う、うん……そうだね……あ、あの、じゃあ……また後でね……!」
薫は冷や汗を流しながら、そそくさと踵を返して逃亡を図ろうとした。
全力で。方向も確認せずに。
だが。
「あぁ…っ!」
ガシィッ、と細い手首を後ろから力強く掴まれた。
今度は、いつものように。絶対に逃がさない、凶悪な絶対強者の力で。
「逃がさねぇっ」
「ひぁ……っ!?」
薫の華奢な身体が、抗う術もなく悟の強靭な腕の中へと強引に引き戻される。
「さっきの体育倉庫の、本当の続きだ」
「ちょ、待って、ここ普通の公園! 誰か来るから……っ!」
「知るかよ。誰もいねぇよ」
「いる! 藤崎さんもまだそこにいるから……っ!」
その必死の指摘に、悟がようやく、面倒そうに視線を真横の植え込みへと向けた。
鬱蒼とした茂みの陰。
「はわわ❤」
学年次席の、藤崎玲奈は、両手でしっかりと自らの顔を覆っていた。
ただし――その細い指の隙間から覗く瞳は、限界まで開かれていた。網膜の全てにその光景を焼き付けようとするかのように。
「……いいじゃん、見せつけてやれ」
「あ…っ、ちょっと……悟くん…っ……あぁ…っ!」
薫の悲鳴が、夕暮れの公園に吸い込まれていった。
藤崎は、その様子を見て、感動のあまりカタカタと小刻みに震える声でぽつりと呟いた。
「はぁ……尊い……❤」
◇
悟と薫。
この日、二人の中で、何かが確かに修復不可能なくらいに壊れ、そして目覚めた。
それが二人の関係にとっての祝福なのか。
それとも、底なしの呪いなのか。
その答えを知る者は、まだ世界に誰もいない。
ただ一人。
藤崎玲奈は、スマホをそっと手元に引き寄せ、ロックを解除した。
現れた壁紙には、夕暮れの公園の茂みが映っている。
もちろん、ただの茂みではない。
さすがに待ち受け画面にする勇気はなかったらしい。
「……推します❤」
――第一章 か弱きネコが魔法少女に変身したら、
絶対強者のタチがリバに目覚めてしまった件 完




