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(朝が来てしまった……)
三樹は布団の中で絶望した。こんなに睡眠不足になったのは、いつ以来だろうか。浅い眠りが訪れては、悲しい夢をしっかりと見てしまい目が覚める。洗面台の鏡を見て(ひどい顔……)と思った。とにかく、支度をして、うちを出なくちゃいけない。洗顔フォームと間違えて歯磨き粉のチューブから絞り出し、さすがに匂いで気が付いたものの、軽めに言って(終わってるな)と自虐的になった。
朝食を食べたい気持ちは、これっぽっちも沸いてこなかった。でも、これから会社に行って働かなければいけない。否、戦わなければいけない。心はまだ完全に復活していないけれど、仕事も待ってはくれないのだ。だから、戦うための栄養をつけなくてはいけない。そんなわけで、冷凍しておいたご飯を電子レンジで温め、インスタントのスープでおじやのようなものをこしらえて食べた。お気に入りのスープのはずなのに、ほとんど味がしなかった。
何を着ても、心は弾みそうになかった。洗ってハンガーにかけっぱなしにしていたシャツに袖を通す。化粧もほとんど惰性でおこなった。誰かのために可愛くいたいと思ってメイクをした日があったなんて。マスカラをつけようとして涙がにじんだ。
とぼとぼと駅まで歩き、ぼんやりと電車を待ち、開かれたドアに何も考えずに吸い込まれていく。電車はいい。とりあえず乗ってさえいれば、勝手に運んでくれるから。睡眠不足のおかげで、頭がよく働いてくれないのが、むしろ幸いかもしれない。考え事なんかしたところで、楽しいアイデアが沸き出てくるはずもない。それなのに、ふいに寂しくなって、涙がにじんできたりなどする。脳がバグっているみたいだった。
やがて車内アナウンスが、間もなく新百合ヶ丘であることを伝える。三樹は完全に固まってしまった。駅が近づいてくるにしたがって、鼓動が早くなり、頭の中が真っ白になり、周囲の音が遠ざかっていくような錯覚におちいった。
(桐生さんが乗ってきたらどうしよう)
電車はやがて止まり、ドアが開く。三樹は顔をあげることができない。
そんな時、急に思い出したのは、人気のある男性タレントが結婚を発表した後、「〇〇ロス」などといって騒ぐ女性がいたことだった。彼女たちは嘆き悲しみ、仕事にいく気にすらならないと言って、ほんとうに休みをとってしまう人もいたらしい。三樹も、そのぐらいの気持ちだった。休んじゃってもいいかもなと、投げやりな気持ちも沸いてくる。
(もう次の駅で降りちゃおうかな……。で、逆方向の電車に乗るのもありかもしれない)
なんと言っても小田急小田原線なのだ。小田原といえば、かまぼこも有名な温泉地……。温泉。いけない、今の三樹にとって、このキーワードは桐生のことを思い出させてしまう。涙をこらえて、鼻水をすすりあげる羽目になる。では、小田原はいったんスルーして、その先には箱根湯本が……こちらも地名に「湯」が入ってしまうレベルの温泉地だった。別の方向にいけば片瀬江ノ島もある。しかし海はカップルがいる危険性が高い、気がする。仲睦まじいカップルほど、今の三樹の心を乱す存在もないだろう。
仕方なく、心を無にして最初の目的地である会社に向かう。身体が覚えてしまった通勤ルート。頭をいっさい使わなくても、渡り鳥がそうするように正しい方角へ進んで電車を乗り換えることができてしまった。そうして、会社に着いてしまった。三樹は、就職活動の時と同じく、オフィスビルの入り口で深呼吸をした。
桐生は、すでに出勤していた。楽し気に笑いながら、水沢と何かを話している。こちらに気付いてくれるなと三樹は祈ったが、こういう時に限って「あ、町田主任、おはようございますぅ」と水沢が声をかけてくるのだ。どういう指向性のアンテナを持っているのだろう。
「おはよう」と、無理やりに笑顔をつくったせいで、三樹は顔面の筋肉がつりそうになった。桐生も振り返って「おはよう」と言ってきた。その声が、いつも以上に他人行儀に聞こえてしまって、三樹の弱っているハートは大きなダメージを受けた。「おはようございます」と、こちらにも笑顔で応えながら、三樹はこのまま消えても良いかなという気持ちになった。
「あ、町田主任おはようございます!」と、ヒガシくんがいつもの元気さで声をかけてきた。
「おはよう」と、三樹は応える。
「これ見て下さいよ!」と、ヒガシくんが三樹のデスクに置いたのは、なにやら動物のイラストが入ったボールペンだった。
「久しぶりに動物園にいってきたんですよ!思わず買っちゃいました!かわいくないですか?」
「そうだね……」
「ですよね!」
ヒガシくんは満足したようにボールペンをポケットにしまった。それと引き換えるように、細長い紙の袋を三樹のデスクに置いた。
「これ、お土産です。よかったら使ってください」
「え?」
「じゃ、僕もどりますね!」
ヒガシくんは颯爽と自分のデスクに戻っていった。三樹は、ぼんやりと紙袋を眺めた。形からして、おそらくボールペンだろう。
「ヒガシさん、あたしには!?」と水沢がねだりに行く声が聞こえてくる。
「クッキー買ってきたじゃん、文句あるなら食べなくていいよ」とヒガシ君が答えている。
三樹は、紙袋をそっと引き出しにしまった。そして、ヒガシくんにお礼を言うのを忘れていたことに気が付いたのだった。
桐生から、プライベートの電話やメールなどは一切、来なくなった。あの出来事は、やはり嘘ではなかった。
オフィスにいるうちは仕事に専念した。でも、ふと気を抜いた瞬間に、なんともやり場のない思いがあふれ出してきた。急に涙が出そうになることもあった。こんなんじゃいけないと自分に言い聞かせ、気合いを入れ直しては消耗していった。
一方、桐生の様子に、変化はないように見える。誰にでも笑顔で快活に接している。自分に向ける笑顔も、特別なものではないと思おうとして胸が痛む。なんともない顔をするのに気力を消耗した。自分ばかりが傷ついているみたいで、三樹はやるせなかった。
そして、やっとの思いで迎えた金曜日、三樹はすっかり疲れ切って、とぼとぼと会社から出ていくところだった。こんなに一週間が長いのは、初めてのことだったかもしれない。
どうしても、桐生の顔を見るたびに、複雑な気持ちになり、平静を装うので余計にくたびれてしまう一週間だった。
水沢は、相変わらず桐生に対して愛想を振りまいている。桐生も楽しそうに応じている。そんなふたりのやり取りを、三樹はなるべく見ないようにする。声を聞かないようにする。ふたりでゴルフでも何でも行けば良いのだ。お前も遊ばれて終わればいい。などと考える自分に嫌気がさしたりして疲労。
桐生に振られて以来、三樹のファッションもメイクも元に戻ってしまった。キレイになって、私を振った相手を見返してやる、みたいな気概などない。ただ、前回に行った美容室で、髪がキレイになる気持ちよさに味をしめ、調子に乗って次回の予約をしたので、それは几帳面に行かなくてはいけないと思っていた。手帳にしるしをしてある。ただ、髪がキレイになったところでな……と、ふてくされた気持ちを持て余していた。
今、その肩を、ポンと叩く人がいた。ドキッとして振り返ると、宿さんだった。ショルダーバッグを持ち、笑顔だった。
「もう上がったの?」
三樹は、ぽかんとして宿さんを見た。桐生が肩をポンと叩いてくる可能性がゼロなのは分かっていた。でも、もしかしたら、などと一瞬でも期待してしまった。そんな期待をしてしまう自分がイヤになった。ほんの数秒の間に、そういった脳内処理がされて、三樹はぽかんとなってしまった。
「何よぉ、あたしじゃ不満?」
宿さんが、さも心外だといった顔で、両手を腰に当てた。昔と変わらない、宿さんらしいリアクションだった。そういう姿を見せられると、なぜかホッとしてしまう。三樹は何も言わず、ただため息をついた。この一週間の、なんとも言えない張りつめた気持ちが、少し緩んだせいもあった。
「え?どうしたの。具合でも悪いの?」
宿さんが、三樹の額に手をあてる。手のひらが温かい。
「違いますよ」
素っ気ないふうに言いながらも、三樹は今にも泣きそうである。ふいに、人のぬくもりを感じたせいだ。張りつめていたものが、心のダムが、今にも決壊しそうになる。必死で唇を噛みしめる。でもムリだった。どうしようもなくて、三樹は俯いた。
「あららら……」
宿さんが、三樹の異変に素早く気が付いた。小さくため息をつくと、三樹の肩にそっと手をかけた。
「とりあえず、行こう。ね、ほら!」
宿さんに引っ張られて三樹は歩き出した。自分の足音がなんだか遠くに聞こえる感じがする。ふわふわとして、夢の中を歩いているような気分になる。何もかも終わらない夢だったら良かった。夢が終わってしまったのだと気が付いた時の絶望感はたまらないものがある。つくづく、惨酷だ。
引っ張られるままに歩いて、人気もまばらな公園にやって来た。春には満開の桜で、たくさんの花見客が訪れるが、今は静かなものである。
宿さんが三樹をベンチに座らせ、自分もその隣に座った。桐生と並んでベンチに座った時のことを思い出さずにいられない。あの時の、すきま風が吹くような感じ。
でも、今は違う。宿さんの温かみが感じられた。
「大丈夫?少しは落ち着いた?」
宿さんが三樹の肩に手を置いて言った。その温かさが沁みてくる。そういえば、学生の頃、付き合っていた男から突然の別れを切り出されたときも、こうやって宿さんがそばにいてくれた。三樹の愚痴をさんざん聞いたうえ、一緒に男の悪口を言ってくれた。
「あんたは何も悪くないよ」と、繰り返し言ってくれた。
「何があったか話せる?」
三樹は首を横に振った。桐生とのことは、誰にも言えない。例え絶大な信頼をよせている宿さんとはいえ、秘密を共有させるわけにはいかなかった。でも、首を振ったはしから、涙がぼろぼろ溢れてくる。
「そっか……。分かった。話さなくて良いわ」
それだけ静かに言うと、宿さんは口を閉ざした。宿さんの、こういう男前な気遣いが、今の三樹にはありがたかった。三樹は涙が流れるに任せた。頭の中に、いろいろな場面が思い出される。胸が痛む。あれほど泣いたというのに、涙はとめどなく溢れてきて止まらなかった。
宿さんもまた、三樹がこんなふうに泣くのはいつ以来だろうと考えていた。仕事で泣くような女ではない。
たしかに、新入社員の初々しい頃なら、涙を見せるようなこともあったが、今はそんなキャラクターではない。仕事に対して、酔った勢いで腹を立てることはあるものの。
だから、なんとなく、察しはついた。
(ほんとうに不器用な子ね……)
と、ひそかに思いながら、木々を眺め、空を眺めていた。その空の片隅を、カラスが一羽、横切って行った。
(恋ってつらいわ……)
しばらくすると、泣いていた三樹が静かになった。かと思うと、ごそごそとバッグをあさっている。何をするのかと見ていると、バッグの中からティッシュを取り出し、次の瞬間に鼻をかんだ。周りのことなど気にもしていない。
その様子を見て、宿さんが小さく笑った。三樹は何回か鼻を噛み、涙をぬぐうと、深呼吸をしてから顔を上げた。
「あらー」
と、三樹の顔を覗き込んで、宿さんが言った。
「やだ、大変~。上野公園から迷い出てきたのかしら、このパンダは」
「え?」
三樹がぽかんとする。その両目の回りは、マスカラやアイラインがにじんでひどいことになっていた。ぐっちゃぐちゃである。
「違うわ。そんなに可愛くなかった。パンダじゃなくって、キョンシーよね」
宿さんが、ティッシュを取り出して三樹の目の下を拭いた。三樹はくすぐったくて、ちょっと笑いながら言い返した。
「キョンシーって古いですよ。いまどきの子は分かりません」
「あら、言ったわね?」
宿さんが呆れたように言い、それから「クスッ」と笑った。三樹も少しだけ頬が緩んだ。その表情を見て、宿さんも少し、安心した。そうこなくっちゃ、と思った。
「あ、そうだ」
と、急に思い出したように宿さんが言った。
「あたし、今日、旦那がいないのよ。会社の付き合いだかなんだかで、帰りが遅くなるんだってさ。だから、あんた、あたしに付き合ってくれない?あたしってほら、ひとりで外食とかできない子じゃない?」
「は?ちょっと、仰っている意味が分からないんですけど」
「良いから!付き合いなさいよ!しょうがないわねー。今日はあたしが奢ってあげるから!」
「え?ほんとですか?」
「あ!呆れた!あんたって現金ね!良いわ、言っちゃったものはしょうがない!今夜は美味しいものを食べるわよ!肉よ、肉!ガッツリ行くわよ!」
「はい!」
ふたりは、束の間、大学時代の先輩と後輩に戻って歩き出した。
失恋の傷は深いけれど、宿さんのおかげで、ようやくハナキンの夜を迎えられそうな三樹なのだった……。




