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月曜日、そろそろランチの時間かな?というころ、三樹のスマートホンにメッセージが届いた。桐生からだった。彼の名前が表示されるだけで、三樹は浮足立ってしまう。けれど、そんな浮かれ切った顔をしていると、水沢あたりから何を突っ込まれるか分からない。三樹は、ひとつ咳ばらいをすると、大切な取引先とのやり取りです、という真剣な表情でメッセージを開いた。
「今日、仕事のあと会えないかな?」
(きたぁ!)
これこれ、これですよ、と思った。これぞオフィス・ラブです!「F」と「V」は、しっかりと下唇を噛んで、「オッフィス・ラヴ」!このあと、どんな約束があろうと、わたしは貴方を優先しますよ!と思いながら、震える指で返信を打つ。
「大丈夫です」
ハートマークをつけようか迷って、にっこり笑顔の顔文字にしておいた。
返信はすぐにあった。時間と場所だけのシンプルな内容だったが、きっと忙しい中、わざわざ送ってくれたんだろうと三樹は思って、嬉しかった。胸の中が甘くとろける感じがした。
ランチの時、もちろん桐生のことを考えて、その表情は緩みっぱなしだった。あれから追加の連絡はないけれど、急な呼び出しをしてくれただけで、もう特大の胸キュンなのだ。
そんな三樹の表情に気が付いた近所の会社員グループが、どやどやと連れ立って店に入ってきた。(今日のランチ、そんなとろける表情になるほど美味しいの?)と、思ったらしい。もちろん、三樹はそんなことを知る由もない。ただ、店のオーナーがそっと小さなデザートを置いて行った。「いつものお礼!」などと言って。
午後も、いつもの数倍イキイキと働くことができた。営業でいった先でも、もちろん、桐生のことを思い出してニヤついた。そして、「町田さん、これ、そんな美味しいの!?」と、取引先のバイヤーに聞かれ、「え?あ、はい、そうなんでしゅよ!もう……」と、誤魔化したけれど、絶妙に語尾が赤ちゃんになったりなどした。
営業が終わったら、オフィスに戻って、あれこれ整理などして、今日の仕事はおしまいだ。それにしても、急に呼び出すなんて……。
(あ、でも、これはチャンスかもしれない)
まだ、自分の気持ちを、はっきりと桐生に伝えていなかった。
(なんて言う?やっぱり、ここは王道で、好きです?どんな顔で?笑顔?うわー難しい!緊張しちゃう!どうしよう!)
考えただけで、顔が熱くなる。
(僕もだよ、とか言って、ギュっと抱きしめられたりして!)
三樹は両手で顔をおさえ、それでも抑えきれない気持ちが体の動きになって表れた。その場で小刻みにジャンプしてしまった。
「え?どうしたんですか?歯が痛いんですか?」
などと言う、水沢杏の声が聞こえて、そこがオフィスの女子トイレだったことを思い出した。
仕事中も、待ち合わせ場所への道すがらも、三樹は「好き」と「修一さん」を、繰り返し心の中で練習してきた。練習して、桐生との甘いひとときを想像しては、またジャンプしそうになった。そこは、なんとかセーブした、つもりだった。
待ち合わせは新宿駅の南口だった。ふたりとも小田急線ユーザーのため、なんだかんだ言って新宿は都合が良い。三樹としては、もっと手前の駅で待ち合わせをして、少しでも桐生と一緒にいられる時間を増やしたかったが、桐生も外回りがあるとのことで諦めた。
桐生の姿は、すぐに見つけることができた。雑踏の中でも、彼はひときわ輝いて見えたのだ。
(気持ち、伝えなくちゃ!)
三樹の胸は、ときめきと緊張で、どうしようもないぐらいに破裂しそうだった。桐生は、俯いてスマホをいじっている。こちらには気が付いていない。三樹は笑顔で駈け寄った。
「お待たせっ!」
桐生は、三樹に気が付くと、スマホをポケットにしまった。その表情が、少し疲れているように見えた。
「ちょっと、この先で座ろう」
桐生が言い、ふたりはベンチのある一角に向けて歩き出した。三樹は、桐生の歩く早さに合わせるため、ちょっと早歩きにならなければいけなかった。桐生は黙ったまま、三樹のことを振り返りもしない。
(どうしたんだろう)と、三樹は桐生の背中を見つめて思った。(何か、急いでるのかな?)
桐生の歩くスピードは緩まず、三樹との間にわずかに距離ができていた。やがて、ベンチの前で彼は立ち止まり、振り返って「座って」と言った。三樹が、やや緊張しながらベンチの中ほどに座ると、桐生はベンチの端ギリギリに座った。ふたりの間に微妙な隙間ができた。かと言って、自分からこの距離を詰めるような勇気は、三樹にはない。
桐生は、なかなか話し出さなかった。三樹は落ち着かない気持ちで座っていたが、沈黙に耐えられなくなった。
「あの……」
三樹が口を開くのと同時に、
「ごめん」
と、桐生が言った。
「え?」
三樹が桐生の顔を見る。桐生はズボンのポケットに手を突っ込んで、少し俯いていた。彼の横顔がいつになく硬い。
「なんで謝るの?」
桐生が謝る理由が、三樹にはまったく想像できなかった。てっきり、楽しく旅行の話などをすると思っていた。そこで、どさくさに紛れて下の名前で呼んでみようと。思い切って、気持ちも伝えようと。それなのに、この状況は、いったい何なんだろう。
なにか謝られるようなことがあっただろうか。頭の中でぐるぐると思い出そうとした。先日、なかなか連絡に応じてくれなかったことだったら、なんとか自分の中で消化したつもりでいた。それとも、まさか……。旅行の予定がキャンセルになってしまったのだろうか。だとしたら、残念なような、ちょっと安心もするような。まだ心の準備が完全に整っているとは言い難い状況だったし。でも、もしかしたら……。
「ごめん」と、もう一度、桐生が俯いたまま言った。いつもと違う、彼の固い横顔に、三樹はもどかしくて、黙っていられなくなる。
「え?なに?謝ってもらうことなんか、あったっけ?」
いつもの桐生らしい表情が見たくて、三樹はおどけて言った。
「この間のこと?なかなか連絡がつかなかくて、ちょっと心配しちゃったけど、あれはほら、あとから桐生さんの状況も分かったし……だから、謝ってもらわなくても、もう大丈夫っていうか……。いや、あの、私が勝手に心配しちゃって、こっちこそ、ごめんなさいっていうか……」
「そのことじゃない」
桐生は振り返りもしない。その横顔が苛立っているように見える。三樹はうろたえた。
「え?じゃあ何?もしかして、今度の温泉旅行に行けなくなっちゃったとか?それは、なんていうか、ちょっと残念だけど……その……まだ、ちょっと心の準備ができてないっていうか……なんの準備だよって感じだよね……その、変な意味じゃなくて……」
話せば話すほど、恥ずかしくなってくる。
桐生の浴衣姿が見られなくなるのは残念とか言いたいけれど、そんなことを言ったら変なやつと思われそうだし。そんな心配とは裏腹に、三樹の頭の中では妄想が繰り広げられていた。浴衣姿の三樹は、同じく浴衣姿の桐生にそっと抱きしめられ……そこまでしか想像ができない。ここから先を考えようとすると、むやみに恥ずかしくて、顔から火が噴きそうになった。
「そのことでもないんだ」
さっきより、桐生の言葉がきつくなった。三樹は、困り切って桐生の横顔を見つめた。そして、ありとあらゆる可能性を並べ立てた。それこそ、大きなことから小さなことまで、動かす力のヤンマーディーゼルにも引けを取らないレベルで。しかし、その都度、桐生が否定した。否定したのみか、どんどん苛立ちが募っていっている感じすらあった。
「だから、そうじゃないって言ってるだろ!」
桐生がついに声を荒げた。
「いい加減にしてくれよ!ずっと見当違いなことばっかり言ってるって分からないのか!?」
「分かるわけないでしょ!?」
三樹もつられる。
「違う違うってそればっかり、ちゃんと言ってくれなくちゃ分からない!」
すると、桐生が大きくため息をついた。
「君って、つくづく鈍感なんだな」
「え?」
三樹は、自分の耳を疑った。桐生はずっと優しくて、三樹をフォローしてくれてばかりだった。それはもう、包み込むような笑顔だった。今の彼は違う。笑顔は笑顔でも、なにか人をバカにしているみたいな、諦めているみたいな……。
「どういう……」
三樹のこの言葉を妨げるように、桐生は大きなため息をついた。そして、顔を上げると、三樹のことを振り返らずに言った。
「なんか、もう君といるのに疲れたんだよ」
「え?」
三樹はショックのあまり、頭の中が真っ白になった。
「もう、やめにしたい」
桐生が言い、三樹はこの言葉で現実に引き戻された。
「どうして……?」
「ほら、それだ」
桐生の言葉に、三樹はますます困惑した。ただ、自分の言動が、桐生を怒らせてしまったことだけは分かった。
「ごめんなさい。でも……」
自分に何かの落ち度があったのだろうか。たしかに、久しぶりの恋愛でトキメキすぎて、浮かれてしまっていたかもしれない。そのせいで、また、相手のことを、ちゃんと見れていなかった?過去のつらい恋愛がよみがえってくる。このままじゃ、あの頃の自分とまったく変わっていないことになってしまう。
「いやなところがあったら言ってほしい……がんばって、直すから」
三樹は、つとめて明るく言った。
「そういうの、やめてくれよ。重いんだ」
桐生が吐き捨てた。
「いいかい?君はまるで分かっていないようだから、僕の口から説明させてもらうよ。僕は、大人の付き合いのつもりだったんだ。大人の付き合いって、どういうことか分かる?これも言葉で説明しなくちゃ分からないかな?」
桐生がまくし立て、三樹の思考は完全にバグってしまった。大人の付き合い。おとなの、つきあい?
「まさか、本当に恋愛をしているとでも思ってた?」
桐生の言葉が、三樹の胸に突きささった。三樹にとっては、ほんとうに久しぶりの恋愛だった。心をときめかせるキラキラの少女漫画みたいな日々だった。だからこそ、ショックが大きすぎて、ふたたび頭の中が真っ白になった。
「いい年してバカバカしい……え?まさかとは思うけど、付き合って3週間は清いままでいようみたいな発想だったりしないよな?それって、いつの時代なんだよ」
桐生の言葉は、まるで無数の針のように、三樹のハートにちくちくと刺さり続けた。
「ひどい……」
「は?」
「ひどい……、どうして、そんなこと言えるの?」
「えっと……、もしかして、泣いてる?」
「泣いてません」
「いや、泣いてるだろ?だからさぁ、そういうところが重いんだって」
三樹はぐっと涙を飲み込んだ。でも、なにかを言おうとすると、涙があふれてしまいそうだった。今夜こそ、ちゃんと気持ちを伝えようと思って、予行練習もして、手に汗を握るぐらい緊張してきた……それなのに。
「ふたりで会うのは、これが最後だから。じゃ」
桐生が、パッと立ち上がった。
「あ、そうそう。会社で会った時に、ちゃんと大人の対応で、よろしく」
「何それ……」
「いきなり泣いたり、すがり付いたりとかしないでってこと。大人なんだから」
「するわけないでしょ?バカにしないで!」
勢いよく立ち上がった三樹の目から、涙がこぼれ落ちた。ただ、その涙を桐生は見ていなかった。彼はもう、三樹に背を向けて歩き出していたからだ。
「ヤバ……ケンカ?」
「ちょ……やめろって、聞こえるだろ?」
急に話し声がしたので、三樹が振り返ると、カップルが目をそらし、くすくすと笑いながら歩いて行くのが見えた。
三樹は、頭に血がのぼるのを感じた。赤の他人にバカにされたのは腹が立った。恥ずかしくもあった。みじめでもあった。でも、少しすると、そういった感情が薄らいでいき、桐生の言葉と、急に訪れた別れへのショックがぶり返してきた。
ショックがあまりにも大きいと、涙も出なくなるものらしい。悲しみとか、怒りとか、そういったいろいろな感情も、みんな消える。まるで、心のブレーカーが落ちたみたいに。一気にあたりが真っ暗になってしまう。
(桐生さんは、私のことを好きでもなんでもなかった?なに、大人の関係って……。大人になると、好きでもない相手と平気でできるの?好きだから、するんじゃないの?)
桐生の姿は、もう見えなくなっていた。彼は駅とは逆方向に歩いて行った。どこに行ったのだろう。気になったけれど、三樹には追いかけることはできなかった。
女性が何人か、大声で喋りながら通りかかった。ひとりで呆然と座っている女を、彼女たちが何事かとジロジロ見る。三樹は逃げるように駅に向かった。
新宿駅の南口で、三樹はJRの電光掲示板を見た。気持ちを伝えた後、ふたりで仲良く手をつないで乗るはずだった小田急線に、ひとりぼっちで乗るなんて耐えられたないと思った。
海がいいかもしれないと思った。湘南新宿ラインか……。でも、横浜や桜木町など、カップルがたくさんいそうなところになんか、死んだって行きたくない。
それなら、いっそ、それらを通り過ぎて東海道線で伊豆のほうまで。それはそれで、良いんじゃないだろうか。明日はもう有給にしてしまえばいい。ずっと頑張って来たんだから、たまに休んだって許されるだろう。
何気なく視線を横に向けると、たまらずに涙が出そうになった。これに乗れば、無条件に自分を受け入れてくれる人のもとに行ける。たったふたりで暮らしている、父と母の顔が浮かぶ。
電光掲示板に記されているのは、最終の特急あずさ、松本行きだった。出発までにはまだ時間がある。これから特急券を買ったって間に合うはずだ。そう思うのだが、三樹は動けなかった。今の自分には、それも違うような気がした。
彼女の脇を通り抜けていく、たくさんの人たち。ひとりでいる時より、たくさんの他人に囲まれている時のほうが孤独感が増すのは、気のせいなのだろうか。
やがて、三樹は歩き出した。手にしたピンク色のパスケースで、小田急線の改札を通り抜けた。自分の足で歩いているような気がしなかった。ふわふわして、ぼんやりとして、現実味がなかった。
電車は混んでいた。混み合った電車で、自分を守ってくれる人がもういないのだと実感すると、やるせなさがこみ上げてきた。
涙が出ないように、強く歯を食いしばっていなければいけなかった。我慢すると、涙は鼻のほうに流れてしまうらしい。三樹は小さく鼻をすすりあげた。
こんな辛いことになるなんて、悔しい気持ちになるなんて、思ってもいなかった。一緒に温泉に行く話などをしていたばかりなのだ。ふたりは恋人同士だと思っていたのに。
しかし、そう思っていたのは自分だけだったらしい。桐生の口から出た「重い」という言葉がショックだった。また言われた、と思った。烙印を押された気がした。
(お前は重たい女なんだ)と。
電車はゆっくりと走り出した。混み合った車内は静かだった。アナウンスだけが遠くから聞こえてくる。
つり革につかまってスマホをいじっている人、ヘッドホンで音楽を聴いている人、ぼんやりと遠くを見ている人。三樹に目を向ける人はいない。
やがて車内アナウンスが、新百合ヶ丘駅に到着したことを伝える。三樹は、自分の鼓動が急に重たくなったような気がした。
あの日、新百合ヶ丘駅のホームに桐生は立っていた。三樹の乗る小田原方面行の電車が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。それがもう、今はいない。
今の三樹は、こんな駅、通過してくれればいいのにという気持ちだった。しかし、そうもいかない小田急線は、予定通りにゆっくりと減速して止まった。
静かにドアが開いた。入り口付近に立っていた三樹も、下車する客たちの妨げにならないようにと、いったん車外に出た。ドアから出てくるたくさんの知らない人たち。桐生の姿はない。分かってはいても、現実を見ると辛いものだった。
下車する人が落ち着くと、三樹はまた車内に戻った。そして、早く発車してほしいと思った。もったいつけるように、ゆっくりとドアが閉まった。窓の外のホームが、静かに後方に流れ始める。新百合ヶ丘の看板が目の前を通り過ぎた。そしてホームが終わった。
この先、何度でもこの駅を通過しなくてはいけない。そのたびに、何度でも、悲しい気持ちを思い出さなくてはいけない。
(どうしてこんな……。私のせいなの?)
三樹は呆然としたまま町田駅で電車を降りると、ふらふらとマンションに戻った。何も食べる気が起きなかった。シャワーを浴びながら泣き、メイクを落としながら泣いた。泣き疲れて眠ってしまった。夜中に目が覚めると、いっそう寂しさが募って、また泣いた。泣いても泣いても、いくらでも涙が出た。
突然におとずれたのは、失恋だった……。
どうなる、三樹の明日!




