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第十四話  レッスンその一(後)

「地球に生まれて、九歳まで月にいたのだからしかたがないのだが、カズマは、足の方向が下だという感覚に慣れすぎている」


 フィリスは、架空エアの眼鏡をくいっと持ち上げるパントマイムをする。

 先生か!?


「居住エリアの周縁部リムからドックのある轂部ハブへとエレベータで移動すると、どんどん遠心力がよわくなって、上下の区別がなくなるだろ? でも、カズマの心と身体は、もともとあると信じている地面の方向をしつこく覚えている。だから、無重力状態のドックをへてこの宙港ロビーに入るときも、無意識のうちにいつもおなじ身体の向きで飛びこんでくる。そして、なんの疑問もなく床だと思ったほうの座席につく――」


 それは、フィリスのいうとおりだった。

 僕はいつも、ドックにくるたびに、自分が着ている重い鎧を脱ぎすて、完全に自由になって飛んでいるつもりだった。

 けれど、実際は、あるはずのない上下という感覚にとらわれていたのだ。


「でも、これは、カズマだけのことじゃない。ニュートン04の市民たちは、無重量状態を経験することが多いが、しかし、普段は、遠心力による重力環境に住んでいるから、じつは、それほどにカズマと条件がちがうわけではない」

「そ、そうなのか?」

「そうだ。地球を離れても、人は、その生存環境を大きく変化させることに消極的だから。いいえ、生命いのちというものは、そういうものだ――」


 フィリスの瑠璃色の瞳は、僕を通してさらになにか大きなものをみつめているようだった。


「でも、それと同時に、生命というものは、異なる環境に積極的に適応しようとするものでもある。だからこそ、水が育んだ生命は、陸へ、そして、宇宙へと旅立つことができたのだ――」

「フィリス、ちょっと、いや、かなり、話が飛躍してる気がするけどな」

「そうだろうか? ……かもしれない」


 僕の指摘に、彼女は素直にうなずいた。


「とにかく、これでわかったろう? カズマが無意識に苦手にしていたものの正体が」

「それは、わかったけれど……」


 フィリスのいうことは正論だ。けれど、上下の感覚を引きずるのがもともと重力下で暮らしていた人間の本能的なものだとしたら、そんなに簡単に解決することなのだろうか?

 その僕の疑問について、フィリスは、いたずらっぽく笑うと、椅子の手すりをつかんで宙に浮かびあがってみせる。


「おい、フィリス!?」


 ゆっくりと上昇する彼女に、その背中のケーブルのことを思いだした僕は、バックルを解除すると、あわてて腰をうかした。


「だいじょうぶだ。ほら、ケーブルを見て」

「えっ?」


 よく見ると、彼女と一緒に空中にのびていくケーブルは、前回とはちがいかなりの長さがあるようだ。


「技研に依頼して、十〇メートルのへその緒をつくってもらった。ジョイントも自由に動く……。これなら、カズマにコーチをすることができる」

「コーチって……」

「ほら!」


 そういうとフィリスは、僕の頭上一メートルぐらいのところで、手と足の反動を利用し、くるりと回転する。それは、どこにも無駄な力をつかわない見事な動きだった。身体の回転軸もまったくぶれていない。

 さらに彼女は、ゆっくりと回転しつづける身体に、ひねりをくわえる。これで、二軸の回転運動になった。

 さすがにこれは、と僕は彼女へむかって飛ぼうとする。

 その時、フィリスは、また手、足を大きくうごかし、身体をひねる。それは、緻密に計算された動きだった。そのたった一挙動で、二軸回転していた身体は、ぴたりと回転をとめる。彼女は、何事もなかったかのようにすずしい顔で、ゆっくりと上昇(これを上ると感じてしまうのがもう問題なのだけれど)しつづけながら、僕に手をふった。


「どうだい、カズマ?」

「……いや、すごい、すごい」


 僕は、率直に感嘆しつつ、手をたたく。フィリスが見せた動きは、プロの無重力ダンサーのそれに匹敵する。


「どうもありがとう」


 僕の拍手に、彼女は胸に手をあて、優雅に一礼してみせる。


「でも、いったいどうしてそんな動きをマスターしたんだ?」

「研究区画には、無重量のところが多いからな。自然にできるようになった」


 それで思いだした。フィリスは、生まれてからずっと、研究区画に閉じこもって生きてきたのだ。だから、彼女は――。

「さあ、おいで、カズマ」


 僕の想いを知ってか知らずか、フィリスは、笑顔で手をのばす。


「よし!」


 両手で座席を押して、僕は、宙に飛ぶ。空中でフィリスに追いつくと、その手をとる。華奢で小さな彼女の掌は、とても温かかった。

 慣性質量の大きな僕にひっぱられるようにして、フィリスは僕のかたわらへとよりそうようにならぶ。


 こんな小さな女の子相手に、ちょっとドキドキしてしまったことは、内緒だ。


 僕たちは、宙港ロビーの中間点をこえてゆく。


「落下でも上昇でもない。わたしたちは、泳いでいる――」

「泳いでいる?」

「そう、無重量の海を自由自在に――。思いだすんだ、生命いのちは豊穣の海から生まれいでたのだから……。だれもが、その身体のうちに水の星の一部をいだいている。だから、胸の鼓動は遠い潮騒の響き……。それをただ感じよう……」


 フィリスは、歌うようにそういった。僕は、かたわらによりそう少女のぬくもりと、鼓動を感じている。

 彼女の言葉の意味はよくわからない。けれど、僕には、自由に泳ぐというキーワードは、とても大事なことように感じられた。

 巨大な展望窓からさし込む地球光に、室内は淡い青の光に満ちている。それは、この宙港ロビー全体を、母なる星の海へと変貌させているかのようだ。


 その海の中で、僕はいつになくリラックスし、そして、幸せだった。

 大いなる海の中でたゆたう僕は、慈しみ、守られている自分を感じる。そこには、憎しみや哀しみは存在しない。

 あるいは、それは、人が生まれいでる前の、母の胎内での記憶なのかもしれなかった。

 無意識のうちに、僕は、空中でターンをすると、衝突しそうになっていた椅子の背をける。僕とフィリスは、ふたたび青い光の海へと泳ぎでる。


 僕は……、いや、僕たちは、自由だ。

 この海の中で、心のおもむくままに、どこまでもゆくことができる。

 星々の大海を泳ぐ二頭の小さなイルカたちのように――。


 つまりは、それが、レッスンその一だった。


 フィリスとわかれた帰路、作業用エレベータの中で僕は、自分の重さを取りもどしていく。

 それは、着けていたときには感じたことのないほどの重い鎧となって、身体の自由をうばう。

 鎧だけではない、頑丈な鎖で次々とがんじがらめに大地につなぎ止められていくかのようだ。


 ……いや、実際そうなのかもしれないな。


 僕は、ひとりごちる。

 いままで何回も宙港ロビーとの間を往復していたが、こんな風に感じるのははじめてのことだった。

 エレベータの中で、心と身体を押しつぶすような重力にたえていた僕は、ふと思いだした。

 僕が、地球生まれで、九歳まで月で暮らしていたことを、なぜフィリスは知っているのだろうか?

 もちろん、それは、ニュートン04の住人なら、ほとんどの人が知っていることだ。

 だとすると、彼女は、僕と会っていることをオムニメンバーの人間に話したのだろうか? いや、もしそうなら、父のIDを不正に使用している僕が、宙港ロビーへの侵入を放任されるはずがない。

 もしかしたら、父もおなじところにいるはずだから、そういう会話がでたのかもしれない。

 そう考えた僕は、笑いがこみ上げてくるのを感じた。

 いや、そんなこと、あるはずがない。

 あの人見知りのはげしい父が、子供とはいえフィリスみたいなきれいな女の子とまともに会話できるはずがない。もし話しかけられても、まっ赤な顔をしてしどろもどろになるにちがいがないのだ。

 そのことを考えると、なんだかとてもおかしくなる。

 笑いをかみ殺していた僕は、また思いだした。

 父のことで、こんなにほがらかな気持ちになったことなんてもうずいぶんと長い間なかったことに――。

 そう、思いだすかぎり、記憶の中にその情景はなかった。


 まったく――。


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